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【会津本郷焼と水野家】
                                           著者:水野秀輝

 会津本郷焼とは福島県大沼郡旧会津本郷町(現会津美里町本郷)を中心として産し、本郷焼ともいわれ、 陶器から起こって磁器に進んだもの。開祖以来、約360年もの長い時代を伝えられ、平成5年にはこの実績と伝承が認められ、伝統的工芸品産地として当時の通商産業省(現経済産業省)より指定を受ける。

 その開祖(陶祖)が当家初代、源左衛門成治とされ大正末期まで代々窯業を営む。以下、当家系図を基に初代から記載するもの。

 伝1604年/美濃国(尾張国)瀬戸生まれの水野源左衛門成治が奥州岩代国長沼(福島県岩瀬郡長沼町)に来て窯業を営んでいたところ、1647年(正保4年)2月、当時の会津藩主、保科正之(3代将軍徳川家光の異母弟)より三人扶持を給せられて、当時の本郷村にて焼物御用を命ぜられた。 これが本郷村における陶器製造の始まりであり、また会津焼の端緒となる。製品は茶器を主としてわずかに実用品を交じえている。源左衛門の出自、奥州長沼へ流れてきた経緯は不明だが、瀬戸は尾張国に属し、水野氏が住んだ窯は現在の瀬戸市穴田窯で、後に赤津窯へ移ったと言い伝えられている。一方、美濃国とすれば水野姓の多いのは、現在の土岐市駄知となる。是非この機会に情報が得られればと願う。

 同年11月29日源左衛門没。 翌年(慶安元年)その実弟長兵衛成長が長沼にいたのを招いて兄の跡を相続させた。
 長兵衛は石灰焼成・耐寒赤瓦焼成などの功によって扶持を加増され、藩の石灰役を本職とし瀬戸方を兼ね、 代々瀬戸右衛門を称する恩命を蒙った。作品のうち最も有名なものは、青茶に薄墨少々を引いた色の釉を施した丸形の濃茶碗に巴紋を染付けたもので、 巴茶碗の称を得て珍賞され藩主から他家への贈進物となった。1660年(万治3年)3月3日没。
※参考資料:http://www.hongoyaki.or.jp/hongouyaki/index.htm

 三代目瀬戸右衛門成紀は1679年(延宝7年)江戸の高原平兵衛の工場、すなわち将軍家御用の高原焼で技術を伝習し、元禄2年には濃茶碗も焼けるまでになり、石州流の師範へも納めるようになる。1692年(元禄5)7月20日没。

 四代目瀬戸右衛門は1745年(延享2年)に8将軍吉宗より茶碗を作るよう命じられるまでになる。1747年(延享4年)4月18日没、78歳。五代目瀬戸岩衛門成房は1770年(明和7)2月16日没。五代目までの作は世間に古本郷の名で知られている。六代目瀬戸右衛門成正は1826年(文政9)8月20日没、77歳。会津焼磁器の端緒はこの代に当たる。

 七代目瀬戸右衛門成栄は1870年(明治3)帰農して隠居し名を瀬戸一と改めた。1877年(同10)旧7月12日没、76歳。

 八代目成時は、廃藩と共に瀬戸右衛門の通称を一旦中絶されて瀬戸次と改めたが、1878年(同11)若松県庁に請い改めて瀬戸右衛門の旧称に復した。1893年(同26)旧3月10日没、72歳。九代目はその子多門。以上を陶器の本系とする。八代目成時~九代目多門の頃に、会津藩が命運をかけて戦った戊辰戦争が起こり本郷村も戦火に巻き込まれる。尚、九代目多門は当時、白虎隊寄合二番組隊員として越後口の戦いに出陣、廃藩後は斗南藩には帰属せず、本郷村に残る。後に大沼郡郡議会議員。


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◆2010.01.13 update「陶家先祖覚書(水野家記録)」表紙
 本書は昭和46年に原本より写本したものですが、その主な内容としては「会津焼物出初作者先祖の覚」と題し、初代水野源左衛門(陶祖)から数え、歴代の瀬戸右衛門~10代目水野多門までの「陶租水野家に関する記録」が収められており、小寄稿の内容も本書に基づいて記載したものです。
毎年9月16日には当家菩提寺であり、源左衛門を祀った陶祖廟が境内にある常勝寺(福島県大沼郡会津美里町本郷上)にて陶祖祭が執り行われます。

by mizuno_clan | 2009-10-27 20:11 | ★史料紹介