山形豊烈神社の騎馬打毬

●山形豊烈神社の騎馬打毬
 ――『騎馬打毬』社団法人 霞会館[非売品]刊行紹介記事 ――
     監修 社団法人 霞会館様


◆『騎馬打毬』社団法人 霞会館【非売品・限定発行】発行:平成二十一年(2009)五月
 この度、皇室、山形豊烈神社、八戸市長者山新羅神社の打毬の歴史と行事などについてまとめた冊子(DVD、BD(Blu
-ray Disc)附録)が刊行された。冊子発刊を企画したのは、社団法人 霞会館(東京、北白川道久理事長)の「公家と武家文
化調査委員会」である。同委員会委員で水野忠邦公の直系ご子孫に当たる、山川・山形水野第十六代御当主水野忠俊氏が
製作を提案し、約三年の歳月を経て発刊された。冊子は、A4判148頁で、宮内庁、豊烈神社、新羅神社の打毬の迫力有
る様子を撮影した多数のカラー写真や、貴重な史料写真とともに、打毬の歴史と詳細が丁寧に記録され、実に巧くまとめ
られている。附録のDVD、BD(Blu-ray Disc)は、ともに本編57分として収録され、美しく臨場感溢れる映像は、打毬史
料の決定版といえるであろう。
 尚 本冊子は、騎馬打毬研究の貴重な史料として、後世に永く伝えることを目的に、立派な装丁とし、非売品・限定発
行と設定された。


◆本会では、本刊行を最近承知し、水野氏史研究活動の一環として、特に水野氏に関した「豊烈神社の歴史と騎馬打毬」を、
本会々員を始め、より多くの方々に周知することを目的に、本冊子の一部内容を「インターネット・ダイジェスト版」と
して、本会ブログに投稿することを企画しました。
 今般、霞会館様のご好意により、2009年10月29日(木)、本会委員3名が同館を訪れ、本刊行の内容および背景や目
的などを取材させていただく事が出来ました。また、霞会館様にはご多用の中、取材から小稿の監修に至るまで、多大な
ご協力・ご支援をいただいきましたことに、心より感謝の意を表します。
 尚 本稿を見読の諸賢におかれましては、本冊子が一般向けには販売されず、かつ閲覧困難であるという諸事情をご高
察いただき、よろしく御了解くださいますようお願いいたします。


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●『騎馬打毬』――インターネット・ダイジェスト版
◆騎馬打毬の歴史
 騎馬打毬とは、馬に乗った人達が、二組みに分かれ、馬上から毬杖(*1)で毬(*2)をすくい取って、毬門(*3)に投げ込む
競技である。
騎馬打毬が、現在定期的に行われているのは、宮内庁、および青森県八戸市長者山新羅(しんら)神社、山形県山形市豊
烈(ほうれつ)神社である。祭事に奉納される古式馬術であり、両神社ともに県無形民俗文化財に指定されている。

 騎馬打毬は、紀元前五世紀から六世紀にかけて、古代ペルシャ(イランの旧称)で発祥し、三世紀頃、シルクロードを東
行して中国に伝えられた。一方、インド経由で西行し、英国に伝わったものはポロとなった。中国では、唐、宋の時代に
盛んに行われ、日本には、遣唐使や渤海使の往来とともに、平安時代に伝えられ宮中の行事に採り入れられて、端午の節
会(*4)などの折に娯楽球技として行われたり、また舞楽の一つ、打毬楽(*5)として舞われた。
 武家社会の勃興に伴い、娯楽競技としての騎馬打毬は衰退し途絶えたが、江戸時代、第八代将軍徳川吉宗が、あるべき
武士像を鎌倉時代初期の武芸に求め、騎馬打毬を集団的実践的な武芸として復興し、各藩に奨励したため、幕末まで盛ん
に行われていた。

[註]
*1=毬杖(きゅうじょう)。木製の毬(まり)を打つ長い柄のついた槌(つち)。彩色の糸で飾ることがある。ぎちょう。
ぎっちょう。
*2=毬(まり)。元々はクリなどの果実を包んでいるとげのたくさん生えた外皮。マツやツガなどの実の殻などをいう。
後、一般的には、スポーツや遊びに用いる球を指すようになる。ゴム・皮・布などで作り、よく弾む。ボール、蹴鞠(け
まり)。
*3=毬門(きゅうもん)。打毬で、毬を打ち込む門。柱を二本立てるか、板に穴を穿(うが)ったものを用いる。
*4=節会(せちえ)。節日(せちにち)その他公事のある日に宮中で行われた宴会。この日には天皇が出御し、群臣に酒
饌(酒肴)を賜った。平安時代に盛んとなり、元日・白馬(あおうま)・踏歌(とうか)・端午・豊(とよ)の明かりは五節会と
して重視された。せつえ。せち。
*5=打毬楽。舞楽の一。左舞に属する舞楽で、太食(たいしき)調の中曲。毬杖を持ち、毬を打つさまを四人で舞う。舞
楽は、左方(さほう)の舞(左舞)・右方(うほう)の舞(右舞)二種に分けられ、唐楽・林邑楽(りんゆうらく)などを左舞、高
麗楽や渤海楽などは右舞と称し、楽器編成や楽曲の形式も異なっている。


◆豊烈神社の歴史と騎馬打毬
 豊烈神社(水野重弥宮司)の騎馬打毬は、文政四年(1821)、山川水野第十一代藩主水野忠邦公が、藩祖水野忠元公(豊烈
霊神)を祀るお社を、当時の領地であった遠江国浜松城内(静岡県)に創建し、十月六日の命日を例祭日として定め、神事
として打毬を奉納したことに始まる。以来、例祭の度に神事として奉納されてきたが、第十二代藩主水野忠精(ただきよ)
公の山形移封に伴い、弘化五年(1848)、豊烈神社も浜松から山形城内に遷座された。明治三年(1870)、忠精公の子息忠弘
公が、近江国朝日村に移封の際、豊烈神社を山川(*6))に遷座した。明治十三年(1880)、水野藩士が勧請して、豊烈霊神
の御分霊を戴き、現在地(山形県山形市桜町7番47号)に豊烈神社を建立し、香澄町(かすみちょう。旧三の丸地内)の氏
神とする。
明治十六年(1883)の祭礼から再び打毬が奉納されるようになった。大正二年(1913)、山川の本社をここに遷座併合する。
大正十年(1921)、水野藩中興の祖 水野忠邦公(英烈霊神)を合祀する。

豊烈神社の打毬は、その形式、方法ともに宮内庁のものとほぼ同一である。但し、本来は幅八間(約14m)、長さ四十
五間(約81m)の広さであるべきところを、現在は神社敷地の関係で、幅12.2m、長さ41.2mの馬場を設けて行われてい
る。そのため、正式には一組四頭立ての計八騎のところ、三頭立て計六騎の構成で行われている。また毬門板の的穴の大
きさが、大輪(だいわ、直径60cm)、中輪(ちゅうわ、40cm)、小輪(こわ、30cm)と、三種類あるのは豊烈神社の大きな特
徴である。的穴は、騎手の技量により使用される大きさが変わり、初心者は大輪、中上級者は中輪、小輪を使用している。
そのほか毬の数など宮内庁と異なるところもある。
打毬を継承してきたのは、代々の水野藩の士族とその子孫であるが、戦後には騎士のなり手が少なくなったことから、
昭和二十三年(1948)、豊烈神社打毬会を発足し、平成二年(1990)、名称を「山形豊烈神社打毬会」と変え、現在に至る。
平成四年(1992)、山形市の無形民俗文化財指定。平成十八年(2006)、山形県の無形民俗文化財指定。実際に打毬を行って
いるのは、打毬会会員で、平成十九年(2007)時点の騎士数は28名(内女性8名)である。

 打毬の馬場は、参道の左手にあり、入口に近い方に毬門が設けられている。毬門板は、幅が九尺(約2.7m)、地面から
的穴の中心までの高さが八尺(約2.5m)の木製白塗りで、さながら阪神甲子園球場のスコアボードのように、真ん中が一
段高く、丁度時計の下あたりの位置に的穴が穿たれている。騎士を的穴から隔てるため前には馬止(シュートライン)があ
り、その遙か対面に鞠止がある。毬門と馬止の間は九尺(約2.7m)あり、向かって左手に紅方の旒(赤幟)と鉦(半鐘)、右
手に白方の旒(白幟)と太鼓が馬止の柵越しに見え、馬止手前右手には桟敷が設けられている。毬が入るとそれぞれの組の
鉦や太鼓が打たれ、旒(りゅう)が立てられる。毬杖は、細竹の先に割竹を半月形に曲げて蔓を巻いたものをつけ、これに
網を張って杓子のようにしたもので、ラクロスの試合で使われる、先に網の付いたクロスと呼ばれるスティックを彷彿と
させる。毬はインゲン豆ほどの大きさの小石の周りに蔓を巻き付け、直径一寸四分(約4.3cm)程の大きさにし、和紙を貼
り紅白に色分けしている。揚毬(あげまり)は、勝敗を左右する毬で、通常の毬5個全てを的穴に入れても揚毬が入らない
限り勝とはならない。白方の揚毬には黒の十文字、赤方の揚毬には白の十文字の印が付けられている。鞠止は、エンドラ
インで、試合前に騎士が勢揃いする地点であり、目印に紅白吹き流しが立てられている。馬上の騎士は古式ゆかしい装束
で、水野家の定紋「水に沢瀉」の紋服の上に、白方は白地に赤の定紋、赤方は赤地に白の定紋を付けた肩先から腕を防御
する籠手(こて)を右片手に着て、黒の袴を穿き、白足袋にかせ(アッパー・甲)付草履を履き、紋付の藤蔓製陣笠を被る。
馬には和鞍を置いた武家風である。装束は黒地に紅白が鮮やかに映え、実に美麗な容貌で勇壮さに華を添えている。

[註]
*6=山川・山形水野氏の祖である水野忠元公は、小河城主水野忠守公の三男であり、当初は皆川領(栃木県栃木市皆川
城内町)の一部に七千石の所領を持つに過ぎなかった。その後、大阪冬の陣(1614年)・夏の陣(1615年)に参戦したが、特
に夏の陣での活躍がめざましかったことで、第二代将軍徳川秀忠から結城本郷一万石、下総山川領一万石(上山川村、武
井村、今宿村、茂呂村など)、下野鹿沼領一万石(栃木県鹿沼市)の合計三万石と下総山川城(茨城県結城市)を与えられ大
名に取り立てられた。これにより、この忠元公から始まる系統を山川・山形水野氏と称するようになった。
                                                    《了》




●委員水野忠俊氏へのインタビュー
水野忠俊(みずのただとし)氏 = 昭和十二年(1937)、東京都渋谷区生まれ。昭和三十七年(1962)、慶応大学工学部卒
後、小松製作所入社、建設機械設計等に携わる。平成十年(1998)、退職。現在、社団法人霞会館委員などを兼任。七十二歳。

 2009年10月29日午前10時30分、東京・霞会館において、水野氏史研究会委員3名が『騎馬打毬』について取材後、
水野忠俊氏に簡単なインタビューを行いました。

Q――『騎馬打毬』の発刊をご提案された経緯について――
A 社団法人霞会館「公家と武家文化調査委員会」では、三年に一度程度の割合で、毎回テーマを決めて新たな事業に
  取り組んでいます。今回は、本会委員で山川・山形水野第十六代当主である私が、取り纏めの担当をすることとなり、
  山形の豊烈神社と関係の深い「騎馬打毬」を採りあげることを提案しました。  

Q――騎馬打毬に参戦されたことは――
A 乗馬が出来ないので、残念ながら一度も参戦したことはありません。

Q――山形豊烈神社の騎馬打毬は、毎年観戦されますか――
A 毎年山形まで出向いて、観戦しております。   

Q――青森県八戸市長者山新羅(しんら)神社の騎馬打毬を観戦されたことは――
A 今般『騎馬打毬』の取材に際し、初めて現地を訪れ、観戦しました。    

Q――戊辰戦争の時、山形を戦火から救ったのは水野藩主席家老水野三郎右衛門元宣公と藩士達でしたが、これについて――
 参考:∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」に、その時の藩主のご様子が記されているので、その概略を――
 「江戸開城後、藩主は江戸を出立し京都に入り、水野忠精公が所司代であった時以上に朝廷に尽くしている。藩の意向
  で藩主の帰国を願い出るが許されなかったことや、また度々のお召や賜物などから朝廷からの信頼度が伺え、この混
  乱期にあり、藩主不在の国許を憂いながらも、弱冠十三歳の藩主補佐役として京に止まらざるを得なかった忠精公の
  苦境を垣間見ることができる。これらの状況から、なぜ藩主父子が上京していたのかという一端が判るであろう。」
A 色々と事情はありましたが、水野三郎右衛門元宣公と藩士達が山形を戦火から救ったことは、偉業であり顕彰されね
  ば成りません。従いまして、毎年山形の豊烈神社での参拝や、昨年は特に「水野三郎右衛門元宣公没後140周年」
  にあたったことから、豊烈神社においてその功績を偲ぶ慰霊祭(2008年9月7日 (日)) が行われましたので、私も
  出席いたしました。

Q――最後になりましたが、水野氏史研究会についてのお考えは――
A 先程のご説明から、水野氏史研究会が、水野氏の研究に、単なる興味本位ではなく、日々真面目に取り組んでいるこ
  とを知りました。私も興味があり、お誘いいただきましたので研究会に入会したいと思います。

[事務局から]
 ご入会のお申し込み、ありがとうございました。これを機会にご寄稿などいだけたら幸いです。

                                                        《了》


                                      文責:研究会事務局 世話人 水野青鷺
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by mizuno_clan | 2009-11-02 04:17 | File