【談議1】水野氏と戦国談議(第二十一回)
闘う者たち(1)-地侍知行制の限界-
談議:江畑英郷
「戦国時代」と後世の我々が呼ぶ十六世紀の戦乱の時期に、その時代を生きていた人々は、その状況をどのようにみていたのであろうか。これについて小和田哲男氏は、『戦国の合戦』(学研新書)で次のように述べている。
平和な時代にくらべて異常ともいえる時代相については、当時のひとびとも意識していて、たとえば、甲斐の戦国大名武田信玄は自分が制定した戦国家法「甲州法度之次第」の中で「天下戦国之上」という言葉を使って武具の用意に力を入れるよう強調している。
それは、戦国を実際に戦っている武将たちばかりでなく、公家たちの日記にも散見する。その一つ、関白太政大臣をつとめた近衛尚通の日記「近衛尚通公記」には「世上の儀、いわゆる戦国の如し、何れの日にか安堵の思いを成さんや」とあり、中国の春秋戦国と、わが国のそのころの戦乱状況を重ねあわせていたことがわかる。
武田信玄や近衛尚通が、「戦国」という言葉を使って、今は戦乱の時代だという認識を表明していたというのであるが、この二人、一方は戦う者であり、他方は戦いに日常を脅かされる者である。この時代には、「戦国」に対して様々な距離をとる人々があった。そして、身分制度が未だ確立していない時代にあっては、武装する者は武士階級だけに限ったことではない。また戦いには、直接に暴力をぶつけ合うものばかりでなく、策略・知略を尽くして、威嚇や利益誘導で敵を取り込み、あるいは農業・商業の産業基盤に打撃を与えて力を弱体化させるなど、多様な争い方が存在する。その意味で「戦い」は、闘う者以外を多く関与させ巻き込んでいるものなのである。
「戦い」つまり戦争は、広範な関与者を取り込んだ社会現象であるが、それでも「合戦」は武力衝突を中核としており、その担い手は個々の戦闘者である。ここしばらくこの談議においては、この闘う者たちについて掘り下げて考えてみようと思っている。といっても戦闘そのものについてではなく、この闘う者たちとはどのうような存在であったのかというものであり、社会的存在として、そして合戦を構成する存在としての特質について考えてみようとするものである。
合戦は相対する戦闘集団間で発生するが、この戦闘集団を構成する闘う者は、まずどういった視点で分類されるべきであろうか。この時代の闘う者たちの特質の第一は、知行制を背景として戦闘への動機づけがなされている点にある。ただし村落間の相論合戦や、宗教を背景とした一揆闘争などは別である。まずここでは、武家権力間の闘いに焦点をしぼって考えていきたい。
知行とは「土地の用益権」のことであった。この時代、「権利」は自身の手によって守り維持する必要があったが、その手段のひとつとして上位武家権力と主従関係を結んで、その武家権力の庇護によって直接的間接的に土地に対する権利を守ることができた。そして武家権力がそうした庇護力を有するのは、彼らの力によるもので、その中心は闘争力である。闘争力によって庇護される用益権者は、必然的に上位武家の闘争力の担い手ともなる。したがってここで言う知行制とは、主による土地用益権の付与あるいは庇護と引き換えに、その被官が主の闘争力の一翼を担うことである。
この知行制の事情を少し詳しくみるために、『戦国の群像』(池上裕子著、集英社版日本の歴史シリーズ10)より該当箇所を引用することにする。
北条氏が一五五九(永禄二年)に作成した『小田原衆所領役帳』によって試算すると、寺社領を除いた約七万貫文の家臣所領から北条氏が動員できる兵士の数は、全部で約九〇〇〇人になる。このうち北条氏から直接所領を宛行なわれた給人は約五〇〇人で、六パーセントにも満たない。その残りは、かれらが自分の所領などから被官として編成し軍役として召し連れる従者なのである。しかも五百余人の給人の半数は、さきの八林(やつばやし)郷の給人のように五〇貫文未満の階層であり、かれらは村落に居住する農業経営者である。もちろん、五〇〇貫文以上の所領を持つ給人の被官には、大身で農業経営から離れた専業の武士もいたであろうが、それを除いてもなお、参陣する軍勢の九五パーセントほどは村落に屋敷をもち経済基盤をすえた人々であったといえる。
北条氏は、広範な検地を長年に渡って実施した成果として『小田原衆所領役帳』を作成した。これは「所領役帳」とあるように、北条氏の知行制に取り込んだ被官に対して、役を果たすべき所領を貫高表記で記載したものである。北条氏は田畠に等級を設けず、一律に田であれば5〇〇文、畠であれば165文と見積り、それを被官(給人)が徴収できる額として定めた。そして、北条氏の知行制度の中で認定され保障されることになった所領は、北条氏に対して果たすべき「役」の基準となるものである。
北条氏はこの『所領役帳』に基づいて、給人各人へ『着到定書』を与えている。この『着到定書』には、所領貫高に応じて、どのような装備の者を何人引き連れて参陣すべきかが規定されている。それによれば、「各家臣は七~八貫文に一人の割合で着到役を負担しなければならなかった」(『戦国の群像』)ことになる。このように北条氏は、自身が構築する知行制における給人の所領の大きさ(=徴収分)を一括して把握して文書に記録し、それに基づいて果たすべき軍役を規定し、各給人に対して文書によって通達していた。これは非常にシステマチックな軍事編成であり、この時期、どこの大名でも軍事編成はこうであったというものではない。例えば『所領役帳』が作成された翌年、織田信長と今川義元の間であの桶狭間合戦が勃発したのであるが、今川は別として当時の信長が同様の軍事動員システムを持っていたと考えるのは行き過ぎであろう。この時期では、戦国大名の先進的な一つの到達点として、こうした軍事動員システムが構築されつつあったということなのである。

さて、北条氏が構築しつつあった所領役システムであるが、このシステム下の人員構成はどうなっていたかが、先の引用文には簡単に示されていた。左の表は、この所領役システム下の人数構成を、池上氏が『戦国時代社会構造の研究』で掲載したものを少し加工したものである。
これによれば50貫未満の給人が288人で、全体に占める割合は52%である。そして、50貫以上100貫未満の人数が106人で全体の19%であり、100貫未満の給人は全体の71%を占めている。ところで、この人数比はあくまで北条氏からみた所領階層別のものであり、北条氏の直接被官の7割は100貫未満であったというものである。それぞれの給人は、その役高が大きくなるほど給人自身が自前の被官を持つようになり、池上氏は「参陣する軍勢の九五パーセントほどは村落に屋敷をもち経済基盤をすえた人々であった」と述べているのである。つまり大身の階層も、やはり50貫未満の被官を従えており、それの総体として大身に見合った人数を着到させているのである。これからすれば、北条氏の軍事構成の末端には50貫未満の給人がおり、村落に基盤をもつ「地侍」が北条軍を支えていたことになるのである。

池上氏は八林郷の給人を例に挙げているが、それは右図(出典:『戦国の群像』)のようなものである。そしてこの図にある道祖土図書助(さいどずしょのすけ)について、「自身が馬で出陣するほか、指物持と鑓持の二人の歩兵をつれて参陣する軍役義務があった」と述べ、彼の認定所領を「田畠合わせて七・五町歩ほどに相当する」としている。そして、「下人などの従属農民を使った手作(てづくり)経営と小作地をもつ村落の上層」であるとする。池上氏はこうした村落の上層民を「地侍」と呼んでいるが、ときに彼らを単に農民と呼ぶ場合がある。あるいは、地侍が引き連れる従者を指してそう呼んでいるのかもしれない。しかしこの大名軍を構成する末端にある「地侍」は、村落上層民を中核とした戦闘小集団である。この中核の馬上の侍を抜きにしては、この小集団が動くことはありえず、馬上の主のためにその従者は闘うのである。たとえそれが姓をもたない村落民であったとしても、彼が一人の農民として闘っているのではない。戦闘における「地侍」は、数人から十人程度の分かつことのできない小集団を意味する。この小集団としての「地侍」こそ、合戦における闘う者なのである。
北条氏にみられるように、その主従関係は知行制に基づいており、上位権力による知行の給付・保障と、その反対給付としての軍役が大名の軍事力を生み出している。つまり知行というリソースが軍事力の源泉であり、そこから生み出される戦闘力の素性、それが侍であるとか下人、農民であるとかいったことにはあまり意味がない。それはリソースに対応した戦闘力であり、実態としてのリソースの大きさは50貫未満である。この50貫未満のリソースが、7人未満の戦闘者を一体のものとして戦場へ供給しているのである。したがって戦国期における知行制とは、地侍知行制とも呼ぶべきもので、村落に基盤をもつ闘う者たちによって支えられているのである。
しかしこの地侍知行制に支えられた戦闘力は、地侍を基盤とするがゆえにある限界を必然的に内在させている。地侍が上位権力の戦闘を担うのは、知行の給付・保障があるからであるが、もともと彼らは保障されるべき知行、すなはち自立基盤を有した者たちである。したがって被官・給人となったにしても、それで彼らが上位権力に従属しきったと言えるわけではない。つまり地侍は自立的基盤に拠った従属者なのであり、軍役負担と知行保障を常に天秤にかける存在でもある。地侍の本分はどこまでも知行地経営にあるのであり、その経営を運役負担の犠牲とすることには強く抵抗する。彼らは知行地経営の安定と拡大のために上位権力に従属したが、それがために知行地に根を張り在地の論理で事を処す。そして戦国大名が、領域を拡大させ公権として大規模合戦に臨もうとするとき、そこに在地の論理が結びつくことはない。したがって、ここに「兵農分離」の問題が浮上し、地侍の自立性と従属性という両義性を乗り越えることなしには、大名はより過酷な戦場へと兵士を率いていくことはできないことになる。
さて次回は、戦国大名はどのようにしてこの地侍の両義性を乗り越えていったのか。そしてそこに現れる闘う者たちとは、いったいどのような者たちであったのかを考えることにしよう。
by mizuno_clan | 2009-12-05 18:34 | ☆談義(自由討論)
