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白銀師 水野源六

                                        筆者:水野青鷺

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 高百三十万石加賀藩は、藩政前期の豊富な資金力を背景に、文武の府を目指した歴代藩主が、金属工芸・漆芸・陶芸職人などを招聘した。この一環として中世末期の京都の名金工後藤家も金沢に招かれた。金沢における金工とは、鋳物・彫金・鍛金・象眼等をさす。
尚、本稿では加賀藩祖(初代藩主)は前田利長、開祖は前田利家としている。


●源次家
▶元祖源次好栄――豊臣秀吉家臣であったが、天下趨勢が徳川に代わる頃、武士を捨て白銀師(*1)を志し京都に移る。信長および秀吉から大判・分銅の二役を拝命する御用彫金家(*2)、後藤宗家四代後藤光乗に入門。光乗の次男長乗にも師事。後藤家が加賀藩前田家から高禄で召し抱えられるに伴い、加賀藩初代前田利長の御用を勤めるようになり、慶長十四年(1609)頃、後藤家の有能な実働先遣部隊として、家族共々金沢に送り込まれ、五人扶持を得る。幼少の子供達を厳しく仕込んで源七・源六の二人ともに御用職人に育て上げる。慶安二年(1649)没。好栄の通称「源次」は長男源七が継ぎ、次男「源六好房」は別に家を興す。

▶二代源次源七――父の没後源次継承、白銀師裁許(許可)を命じられる。寛文七年(1667)死去。

▶三代源次――元禄六年(1693)没。

▶四代源次――享保四年(1719)没。

▶五代源次――宝暦元年(1751)没。

▶六代源次――宝暦三年(1753)没。

▶七代源次――六代源次の弟を養嗣子。安永七年(1778)没。嗣子無く嫡統絶家。

▶八代源次――安永九年(1780)、源六光政の斡旋により、鞘師(*3)九蔵次男元房(源六光政
に師事)が、後藤東乘に学び、源次家を再興。天保三年(1832)没。

▶九代源次克弘――細工者に列す。嘉永五年(1852)没。

▶十代源次克正――克弘次男克正が家督相続。元治元年(1864)没。

▶十一代源次克則――廃藩(明治四年[1871])の際源次家廃業。明治十五年(1882)頃、金工職工は雇主から容易に馘首され、賃銀をカット・停止されることが多かったことから「銅器職工同盟」をつくって地位の保全にあたった。「銅器職工同盟規定名扣(控)」の加盟者名筆頭に「第壱号 枝町四拾四番地 水野克則」の名が見えることから、廃業後も金沢で銅器職工として生計を立てていたことがわかる。


●源六家
▶初代源六好房――源次好栄の二男。寛永元年(1624)、十八歳で分家独立。寛永年中、二代藩主前田利常より五人扶持を下され白銀職御用を任じられる。御差料(腰に差す刀)や御好み(趣味の注文品)の重要な仕事を多数受注。軍の武器などの定式(一定の形式)のものも毎年多数仰せつかる。正保三年(1646)、高岡町の武土地の一角に邸地を賜り別家を構える。後藤宗家の悦乗が加賀を去る際、水野本家筋である源次家三代源次にではなく業界最長老で元締め的存在の源六家初代に「白銀職頭取の職務代行」を命じられる。後、三代前田光高、四代綱紀と加賀藩三代の御用を六十四年間に渡り勤め上げ、利常隠居先の小松にも度々出向き御用を賜る。貞享四年(1687)、八十二歳で病死。

▶二代源六照喜――初代存命中に藩御用を仰せつかり、初代没後家督相続し、初代同様に町地諸役御免となり奥納戸御用など多数拝命。寛永元年(1704)、初代同様御細工所において兜の前立てなどの御用を勤め褒美を賜る。五代藩主前田吉徳の嫡子勝丸の弓初めに当たり、お弓土蔵役所の御用を勤め、この後幾度も拝命。この御用は「矢筒」の細工などであったろうか。また武器や軍の定式の仕事を数多く勤める。四代藩主綱紀、五代吉徳の御用を五十五年間勤めた。元文二年(1737)九月、七十四歳没。

▶三代源六多光(まさみつ)――通称源六郎、享保九年(1724)四月、先代同様、父存命中に御用を仰せつかる。元文二年(1737)、家名相続。先代同様各種御用を勤める。宝暦元年(1751)、表納戸の御用で、京都北野天満宮へ奉納の宝剣(*4)の金具制作に当たり、首尾良くできて金子拝領。同年、京都神護寺へ寄進された太刀の制作にも携わる。当御用に携わった内の一人、桑村源左衛門克久については、伝来の家風に自己の意匠を加えた斬新な形式と、鏨痕(ざんこん)の鮮麗は、当代に比肩するものなしと称せられたことから、多光らは大いに刺激を受けたものと考えられている。また多光は、良工(優れた技術を持つ彫刻家)と称せられる。五代藩主吉徳から九代重教までの五代にわたり三十七年間御用を勤める。宝暦十年(1760)二月、五十九歳没。

▶四代源六光政――旧姓「大川端」で多光門下、その技精妙(優れて巧み)で、あらゆる技術に精通。この代から十代まで養子となる。父没年三月に家名相続。明和三年(1766)、将軍家拝領の家宝御長巻(柄の部分の長い太刀)の焼損に伴い、願い出て長巻を再製。この金具師の仕事は、元締として七代源次に委託した模様。寛政元年(1789)、九代藩主重教(しげみち)霊堂の唐戸の金具仕事で、鉄地に御定紋(加賀梅鉢)、葉唐草の銀象眼に仕上げているが、白銀師といえども鉄地を扱い、建築建具の金具までをも扱った事が判る。さらには印章も依頼され制作した。また、絶家していた源次家再興を図り鞘師九蔵の次男を斡旋。寛政十二年(1800)六十一歳没。

▶五代源六光益(みつえき)――光政門人・鈴木光弘の次子を養嗣子。文化四年(1807)、長巻(*5)の受注に当たり、研師(*6)、鞘師、柄巻師(*7)など八名の名が記され、その内、四名は三代源六の時にも組んでおり、上述の鞘師九蔵も含まれている。このほか刀工(*8)、塗師(*9)などが居る。このように御用職人集団は結束が堅く、仕事の請負に当たっても共同受注を行っていたを窺わせる。十代藩主治脩(はるなが)、十一代斉廣(なりなが)の二代にわたり二十一年間の御用を勤め、文化十三年(1816)五十一歳で没。

▶六代源六光則――柄巻師北川長蔵の弟源蔵を養嗣子。歴代同様に奥納戸御用などを勤め、
十一代藩主斉廣が嫡子勝千代に持たせる衛府(京都護衛役)の金(こがね)作りの太刀(刀身は則光)の御用を賜り、褒美を頂戴。これまでは、こうした衛府の太刀制作は京都へ仰せつけられていたが、この度は各職それぞれが京都に入門し技術取得したことで、初めて当地で全て出来た。天保七年(1836)、再び豪華な衛府の太刀を制作し、褒美を頂戴した。
十一代斉廣、十二代斉泰(なりやす)の二代に仕え、天保九年(1838)十一月、五十二歳没。

▶七代源六光和――旧姓高尾源吾、初名光忠を養嗣子。歴代御用の三所物(みところもの)(*10)ほか、天保十二年(1841)四月、三池伝太光世(平安時代末期、筑後国の刀工)の刀身で野太刀の仕事を賜る。金作の定紋を彫り上げ、魚々子地(*11)、七宝流し螺鈿入りという豪華なものであった。嘉永元年(1848)八月、十二代斉泰の二男喬松丸(後の十一代鳥取藩主池田慶栄[よしたか])の入婿に伴い、奥納戸において御差料大小の仕事を急ぎ勤めた。また同年、御細工所に召し出され、具足金物を三ツ葵の御紋に、また甲州流真の鞭の金具を、銀無垢に牡丹唐草を彫り、見込には三ツ葵の御紋を彫り上げた。このほかにも武器の御用を多数勤めている。安政三年(1856)正月、軍御用増加に伴いご用聞き職人も増員したことで、白銀御用棟取役を仰せつかる。同役名は当家由緒書で初見。安政二年(1855)白銀職棟取。慶応二年(1866)七月、六十六歳没。

▶八代源六光春――旧姓谷源三を養嗣子。文久三年(1863)、十二代藩主斉泰が初めて上洛するにあたり、水野家ではこれまで代々こうした時の御差料や太刀などの御用を勤めてきていることから、現地で急用が発生した際の予備として先に上洛し待機していた。予測通り太刀の修繕の仕事があり、これを急ぎ仕上げたので、「厚き志之旨結構」の書立(書き付け)を以て金子を拝領。元治元年(1864)、藩主斉泰が金作りの太刀などの新調に際し、御用を承り金子拝領。家督相続の慶応二年(1866)、十三代慶寧(よしやす)の代替わりに際し、御差料、銀(しろがね)作りの野太刀用金具の御用、官服の金具修復まで仰せつかり、金子拝領。このほか歴代が勤めてきた御用の数々を承る。 当家由緒書は、明治三年(1870)五月で終わっている。明治五年(1872)、大蔵省から三千円の加賀象眼花瓶を受注。翌年ウィーンで開催された万国博覧会(1873.05.01-1873.10.31)では、光春は加賀象眼を出品して優勝牌を受けた模様。その後も宮内省から常にご用命を受ける。明治十年(1877)、金沢に銅器会社が創設されると、光春は頭取の一人として参画する。初代から定住してきた高岡町邸宅売却。明治二十八年(1895)五十八歳没。

▶九代源六光美――本名石王次三郎。石王家から一旦士族中村家へ養子に入り、同家を廃絶し水野家の養嗣子となる。明治十五年(1882)、金沢区費留学生に推挙され京都府の画学校(現京都市立芸術大学)に留学。同十九年(1886)卒業後、石川県専門学校等の教師を勤める。同二十一年(1888)、教職を辞して金属象眼に従事。同二十四年(1891)、海外に通用する新しいデザイン創作を目論み販路拡張を謀る。明治二十八年(1895)の家督相続後は、加賀象眼が最盛期を迎えたが、他地方の模造品に悩まされ、また戦乱により打撃を受けるなどし、やがて長期低落期に入っていった。同三十三年(1900)、皇太子(後大正天皇)成婚にあたり、金沢市は源六光美に制作を依頼し貴金属製鴛鴦(オシドリ)置物を献上した。この後宮内省に十数点の製品を納入。同三十六年(1903)、合金に関する研究を試み、朧銅(おぼろどう)を製し、また九谷陶器と銅器とを継ぎ合わせた花瓶を制作し好評を博した。同年嗣子朗のために銅像制作工場を築造し、同業の発展に尽力した。昭和十三年(1938)三月七十一歳没。

▶十代源六(光晶)朗――埼玉県出身、旧姓堀内、初名虎次郎、光朗。金沢工業学校に通うことを条件に養子嗣子となる。朗は平面図案より立体造形に優れていた模様で、工業学校では窯業科製陶部で陶磁塑像を学ぶ。明治三十八年(1905)、ベルギー万国博に出品し名誉賞を受ける。彫刻家を目指し、養父の反対を押し切って東京美術大学(現東京芸術大学)の彫刻科に進学。在学中の明治四十二年(1909)、文部省美術展覧会に彫刻作品を出品し入選。抜群の腕を持っていたが、諸事情により中退。その後も海外で数度受賞を果たし、大正四年(1915)八月、農商務省より二カ年間米国各地の金属工芸視察を命じられる。大正七年(1918)九月、金沢卯辰山日蓮宗善妙寺の日蓮上人銅像を建立。十代朗の絶頂期であった。その後大正末期から昭和の初めにかけて金沢市金属工芸協同組合長を勤め、職人集団の
一方の旗頭として、衰退する業界の指導に当たるとともに、町方職人系と御用職人・御細工職人系との内紛に巻き込まれ、以降不出品となる。嫡男旺に次第に望みを託すようになるが、長男は五十を過ぎてからの子であったことから焦りもあった模様。晩年は加賀象眼の資料を体系付けることや展覧会で世間を啓蒙することに熱心であった。昭和四十年(1965)全てを息子に託して七十九歳没。

▶十一代 旺(ひかる。現当主・水野源六は踏襲していない)
 =石川県工業試験場情報指導部勤務 漆器の高品質化に関する研究員


[註]
*1=白銀師(しろがねし)=ハバキは刀身の手元の部分に嵌める金具。刀身が鞘から容易に抜け落ちることを防ぎ、かつ、刀身を鞘に固定する機能がある。刀身は鞘の中で棟(むね)とハバキによって支えられ、他の部分は宙に浮いている状態で保持される。もし刀身が鞘に触れるとその部分が錆びやすくなる。古くは、刀匠が鉄で作っていたが、のちに専門の白銀師(しろがねし・ハバキ師)によって、素銅、赤銅、銀、金などで製作される。

*2=彫金師(ちょうきんし)=鍔や縁頭の彫刻や象嵌の専門家。金属を主に鏨(タガネ)で彫って作り上げる。刀身彫刻の目的は、大きく分けて三つあり、1.樋(ひ=日本刀の側面につけた細長いみぞ。血流し)などで刀身の強度をほとんど落とさずに軽量化を図る。2.神仏の名前や象徴を彫り込み、戦勝祈願や繁栄を祈願する信仰的なもの。3.装飾として彫られたもの。がある。非常に時間と手間が掛かるため、納期は半年から一年程度を必要とする。

*3=鞘師(さやし)=日本刀の鞘を制作する。拵(こしらえ)の鞘は、日本刀が本来の切れ味を出す為に刀身に着いた油を打ち粉で拭き取って鞘に収めることから、そのままにして置くと錆てくる。従って刀を使わない時は日本刀全体に丁字油を塗り、拵の鞘とは別の白鞘に入れて休ませる。元来、拵はよそ行きの着物で、白鞘は普段着であることから、昔は白鞘を「休め鞘」や「油鞘」といった。平素は普段着を着せておくことが理想であり、また白鞘は錆が出た場合は、直ちに割って中を掃除することが出来るよう、続飯(そくい=飯粒をへら状のもので押しつぶし練って作った糊)で付け、割れやすくしてある。

*4=北野天満宮には、当宮を崇敬した加賀藩主前田家から、御祭神菅原道真公薨去後五十年目毎の大萬燈祭に奉納された刀剣が宝物殿に伝存。元禄十五年(1702)二月二十五日(前大萬燈祭)の八百年大萬燈祭には、加賀四代藩主前田綱紀より、重要文化財太刀(銘 恒次、 附 糸巻太刀拵 刀身2尺4寸5分5厘(74.4cm)鎌倉時代)が当宮に奉納。作者恒次は、鎌倉時代中期に活躍した、備中国青江派の刀工。

*5=大太刀から発展した武具であり、大太刀を振るい易くすることを目的に発展した刀である。長大な刀身をもつことから、これらは「大太刀」「野太刀」と称されるようになったが、非常に重く扱い辛いため、それまでの太刀の拵えと同じ形状の柄では扱いにくいことから柄は次第に長くなった。

*6=研師(とぎし)=刀身の研ぎを行う。刀の切れ味は勿論のこと、刀本来の美しさ、および刀匠が鍛錬した刀の持ち味を引き出す為に時間を掛けて丁寧に磨き上げる伝統工芸。

*7=柄巻師(つかまきし)=柄部分に紐を巻く専門家。 柄下は柄に幾度も研磨した鮫革を張るまでをいい、柄前は絹糸や綿糸または革紐を柄に巻いて行く専門家。

*8=刀工(とうこう)=玉鋼を鍛えて刀身を作る。「刀匠」、「刀鍛冶」とも呼ばれる。

*9=塗師(ぬりし)=鞘に漆を塗る。蒔絵師(まきえし)は、漆で文様を描き、金・銀・スズ・色粉などを付着させる。漆を何度も塗り重ねていくことから納期は1~2ヶ月かかる。

*10=みところもの。刀剣外装金具のうち、小柄(こづか)、笄(こうがい)、目貫(めぬき)の三種を言い、小刀の柄であった小柄と、烏帽子からはみ出した髪を整える理髪用具の一種であった笄と、刀身を柄に留める目釘から発達した目貫との装飾性が増し、三所物を担っている。三所物は、同一の文様で揃えるのを常としたとされており、水野家が御用を命じられた物の多くの用途は、献上品及び諸公への進物だったといわれる。

*11=ななこじ。彫金技法の一つ。先端が小円になった鏨を打ちこみ、金属の表面に細かい粒が密に置かれたようにみせるもの。魚卵の粒がつながっている形に似ていることから名が付いた。


●参考文献
黒田威人「水野源六家と加賀金工(1)」(「金沢美術工芸大学紀要 第35号」P.23-36, 1991-03-01)

黒田威人「水野源六家と加賀金工(2)」(「金沢美術工芸大学紀要 第37号」P.51-60, 1993-03-01)

日置謙/編集『改訂増補 加能郷土辞彙』北国新聞社

石川県/編集『石川縣史』石川県図書館協会

田中喜男「金沢金工の系譜と変容」シリーズ名: 国際連合大学人間と社会の開発プログラム研究報告 1980年 ――日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所 デジタルアーカイブス 「日本の経験を伝える」―技術の移転・変容・開発 技術と都市社会 

update 2010/05/18
 金城大学短期大学部美術学科 教授 黒川威人先生から、新たに次の参考文献を御教示いただきましたので追補します。
1.『金沢金工師 水野源六家史料――江戸期金沢ご用職人の創造の原点』 黒川威人著 橋本清文堂(1996.4)(文部省の科学研究費、出版助成による出版)
2.『ホワットイズ・金沢――職人・作家・商人のルーツを探る』金沢学 黒川威人編 前田印刷株式会社出版部(1992.2) 「幻のデザイン都市」黒川威人著
3.『パースペクティブ・金沢――「金沢デザイン」のパースペクティブ』金沢学5 前田印刷株式会社出版部(1993)


●参考WEB
金沢美術工芸大学(藩政時代より加賀金工の中心的な存在であった水野源六家に伝わる鐔・目貫等の刀装具、図案や文書類などの収録品) ■ 水野家資料



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by mizuno_clan | 2010-05-15 13:34 | ★史料紹介