【談義1】水野氏と戦国談義(第三十一回)
国人小河水野氏の困惑②-水野金吾構へ-
談義:江畑英郷
前回は、天文20年とみられる今川義元の書状に「苅谷赦免」という文言があることに注目して、そこから小河水野氏とその領地に隣接する三河碧海郡の領主たち、そして鳴海の山口左馬助教継の間に深刻な対立・紛争があったことを導き出してみた。そして、この尾張東南部から三河西南部にかけての地域紛争が、尾張の織田と駿河・遠江・東三河の今川という二大勢力の対立の構図に優先するのではないか、という視点を提示してもみた。このことは、戦国大名というものを一元的な組織として捉え、その頂点にある大名(それは必ずしも個人ではなく重臣を含めた合議体でもある)の、領地拡大志向を原動力とした組織運動であるという視点に対するアンチテーゼである。ただしアンチテーゼであるといっても、それを全面的に否定するものではない。今の時点では、地域のそれも地侍・国人といった階層の論理が独自性を帯びて存在しており、それと矛盾しないあり方で戦国大名は存在していたのではなかろうか、という主張にとどまる。そして今回もこの視点に軸足をおいて、「苅谷赦免」以降の小河水野氏とその周辺勢力の動向について考えてみようと思う。
鳴海城を居城とする山口左馬助教継は、前回示したように「苅谷赦免」を快く思わなかったのであるが、刈谷城が赦免された後にどのような行動を起こしたであろうか。『信長公記』には、その後になって今川方であることを鮮明にした教継の動向が、次のように記されている。
織田上総介信長公、十九の御年の事に候。鳴海<ナルミ>の城主山口左馬助、子息九郎二郎、廿年<ハタチノトシ>、父子、織田備後守殿御目を懸けられ候ところ、御遷化<センゲ>候へば、程なく謀叛<ムホン>を企て、駿河衆を引き入れ、尾州の内へ乱入。沙汰の限りの次第なり。
一、鳴海の城には子息山口九郎二郎を入れ置く。
一、笠寺に取出<トリデ>要害を構へ、かづら山、岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎五人在城なり。
一、中村の在所<ザイショ>を拵え、父山口左馬助楯籠<タテコモ>る。
(『信長公記』新人物往来社 桑田忠親校注)
ここに、「織田備後守殿御目を懸げられ候ところ、御遷化候へば、程なく謀叛を企て」とあることから、信秀の死去を契機として、山口教継は織田弾正忠家から離反したことが示されている。『新修名古屋市史』は、織田信秀の死去を天文21年3月としている。そしてこの「謀叛」が、「織田上総介信長公、十九の御年の事」だとあるが、信長は天文3年の生まれとみられることから、これもまた天文21年に、「駿河衆を引き入れ、尾州の内へ乱入」したのである。そしてここに、その具体的な引き入れ状況が記されている。
教継の本拠である鳴海城は息子の九郎二郎に守らせ、笠寺に砦を構築して加勢にやってきた駿河衆を入れた。そして教継自身は、「中村の在所を拵え」てそこに立て籠もったのである。笠寺に砦を築き中村に立て籠もったことからすれば、牛一が言うところの「謀叛を企て」たのは単に山口親子だけではなく、笠寺や中村など熱田東南部の国人や土豪が一斉に行動を起こしたものと考えられよう。そして「かづら山、岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎」など今川の錚々たる武将たちが、これを支援するために派遣されたのである。
太田牛一は、この山口教継など笠寺・鳴海方面の尾張衆の謀叛を語った後に、これに対する信長の反撃を描いている。
一、織田上総介信長公十九の御年、人数八百計りにて御発足、中根村をかけ通り小鳴海へ移られ、三の山へ御あがり候のところ、
一、御敵山口九郎二郎、廿の年、三の山の十五町東、なるみより北、赤塚の郷へは、なるみより十五、六町あり。九郎二郎人数千五百計りにて、赤塚へかけ出だし候。
(前掲書)
牛一はこの信長と山口九郎二郎の戦いを、「三の山赤塚合戦」と呼んでいるが、ここで信長は「人数八百計り」の兵を率いて小鳴海へ出撃した。そしてこれを迎え撃ったのが、鳴海城を守備していた教継の息子九郎二郎であった。この動きは、笠寺・鳴海方面の尾張衆の謀叛に対する信長の反応と考えられるが、これについて『新修名古屋市史』は次のように述べている。
戦いに先立って信長は、赤塚のすぐ西にある丘陵「三の山」(『信長公記』首巻)に陣を構え、山口氏の動きをうかがった。この三の山は現在の緑区鳴海町に所在する山王山である。現在、山王山は名古屋市によって公園化が進められている。
すでに山口氏は、天白川西側の笠寺(南区笠寺町)と中村(南区呼継町)に砦や要害を構築して、鳴海から熱田方面へ連絡した鎌倉街道を押さえていた。この戦いで信長が、現在の瑞穂区中根を抜け、天白区と緑区の境にあたる緑区古鳴海を経て、山王山に進軍するという東に迂回したルートを取ったのも、そうした理由からであった。
笠寺・鳴海方面における尾張衆の謀叛は、「鳴海から熱田方面へ連絡した鎌倉街道を押さえ」られるという事態を引き起こしていた。これに対して信長は、三の山・赤塚と兵を動かして山口方と戦ったのであるが、ここにいくつか気になる点がある。
①信長の兵力が「人数八百計り」で山口の兵力が「人数千五百計り」と、およそ倍の違いがあるが、なぜ信長の兵力はこのように少なかったのか。
②信長と戦ったのは山口九郎二郎など尾張衆だけであるが、なぜ加勢にきたはずの駿河衆の参戦がなかったのか。
③那古野城、あるいは信長の重要拠点である熱田からは、笠寺・中村が手前になるにもかかわらず、なぜ信長はその先の三の山へ向かったのか。
『信長公記』はこの戦いについて、「いづれも、みしりかへしの事なれば、互に、たるみはなかりけり」と記しており、戦ったのは相互に顔見知りの者たちだったとしている。このことからすれば、山口九郎二郎が率いた「人数千五百計り」はすべて尾張衆であったことになるが、わざわざ駿河衆を笠寺の砦に入れておきながら、彼らが参戦していないというのはどうしたことなのだろうか。山口教継らが信長に対して謀叛を起こし、その謀叛によって信長と戦闘に及ぶだろうということで、駿河兵を笠寺砦に配備したのではなかったのか。そうであるならば、当の信長が兵を動かし小鳴海に出動したからには、駿河兵の参戦は当然あってよいことである。
さらに、謀叛を起こした尾張衆だけで「人数千五百計り」の兵力を有し、これに葛山・岡部・三浦・飯尾・浅井などの有力武将が備えている敵地に、たった「人数八百計り」で挑み進んでくる信長の行動も不可解である。そしてこの「八百計り」という人数は、信長が率いた兵数を明記する際に必ず登場する。信長が斉藤道三と富田の正徳寺で会見するために引き連れたのは、「御伴衆七、八百、甍を並べ」た兵士たちであった。また弟信勝と対立し、柴田勝家・林美作守の軍勢と戦った際には、「信長の御人数七百には過ぐるべからず」と記されている。このことからすると、この「人数八百計り」というのは、弟信勝や重臣林秀貞、あるいは叔父の織田信光などが擁する兵数を加えていない、信長直率の兵力であったということになりはしないだろうか。
信秀死去を契機にして謀叛が起こったとなると、これは織田弾正忠家に対するものであったと考えるところであるが、なぜか信長が直属兵だけでこれに立ち向かい、謀叛側は頼りの駿河勢が加勢しないという奇妙な戦いがここに描かれている。はたして信長は、駿河勢が出てこないと知っていたのだろうか。鳴海城から出撃した山口九郎二郎が「人数千五百計り」で、信長が率いた「八百計り」の倍である。もしこれに駿河勢が加わっていたならば、その差はさらに開き、3倍4倍に達していたことだろう。そうであるのに信長は、この寡兵で三の山に上ってきたのである。

謀反の中心人物である山口教継は、中村に立て籠もっているはずで、その中村を素通りして鳴海に向かう理由がよくわからない。信長が那古野城あるいは熱田から出撃すれば、まず行き会うのは中村の砦のはずである。そしてそうであるから、山口教継が立て籠もったのではなかろうか。それなのに信長は、それを避けて東に迂回して、どういうわけか中村砦と笠寺砦、そして鳴海城のちょうど中間点になる三の山に上がったのである。山口方の3つの軍事拠点の兵力を合わせれば、このときの信長の3倍か4倍、あるいはそれ以上であろうというのに、自ら腹背に敵を抱えるような場所に進み出たというのは、どう考えても奇妙ではないだろうか。そしてさらに不思議なのは、鳴海城からこれを迎撃に出た山口九郎二郎である。味方の砦に押しつけるように北北西にぶつかって行くべきだと思うが、なぜか三の山の東方向にある赤塚へ向かったのである。
大田牛一が描くこの三の山赤塚合戦について、『新修名古屋市史』は「山口氏の動きをうかがった」とし、『豊明市史資料編』解説は、「信長は鳴海城攻撃のために出陣した」としている。この合戦は、離反して今川方となった山口教継を中心とする勢力に対する信長の反撃であると受け取って、通常それを疑わないのであるが、先にあげたように3つの解しかねる疑問がそこには厳然と存在するのである。しかしながら、三の山赤坂合戦に関する『信長公記』の記述には、さしあたりこの3つの疑問を解く鍵は見当たらない。したがって、三の山赤坂合戦の疑問に答えるためには、より空間的時間的視野を広げて考察してみる必要があるだろう。
三の山赤塚で信長と山口九郎次郎が戦ったのは、天文21年4月と考えられるが、これより後の信長は清洲の守護代と争うようになる。そしてそれは、叔父の織田信光の計略によって清洲城が陥落する天文23年まで続くのであるが、その間に鳴海より南の知多半島では、今川勢の新たな攻勢の動きがあった。
さる程に、駿河衆岡崎に在陣候て、鴫原<シギハラ>の山岡構へ攻め干<ホ>し、乗取り、岡崎より持ちつゞけ、是れを根城にして、小河の水野金吾構<カマエ>へ差し向かひ、村木と云ふ所、駿河より丈夫に取出<トリデ>を相構へ、駿河衆楯籠<タテコモ>り候。並びに、寺本の城も人質出だし、駿河へ荷担<カタン>仕り、御敵に罷りなり、小河への通路を取切り候。御後巻<ウシロマキ>として、織田上総介信長御発足たるべきの旨候。
(前掲書)
このころ岡崎城は今川義元に接収されており、当主竹千代(後の松平元康)は駿府で義元に養育されていた。したがって岡崎城には駿河の将兵が駐屯しており、その駿河勢と松平勢が共同して「鴫原の山岡構へ」を攻め落としたのである。そして今川方は、この軍事拠点を「根城にして」村木に堅固な砦を構築する。そしてそれより西の伊勢湾に臨む寺本城からも人質を出させて、今川方は「小河への通路を取切」るラインを構築したのである。しかしながら、『信長公記』は単に「小河への通路を取切り候」と述べるだけで、小河と結ぶどの地点への通行が遮断されたかを記していない。また、この封鎖あるいは遮断を実行した今川方の意図についても示されていないが、この点について、『新修名古屋市史』は次のように述べている。
しかし、織田信長は、清須方との戦いに専念することはできなかった。岡崎在城の今川勢が、小川城(城主水野信元)に対抗して、村木に砦を構えて守兵を置き、さらに近くの寺本城も今川方に荷担したのである。村木砦が信長と同盟者水野信元との連絡を絶つことになるため、信長は出陣を企図した。
ここでは、今川方が構築したラインが、「信長と同盟者水野信元との連絡を絶つことになる」と述べられている。同書はこの「通路を取切り」が、「御後巻として、織田上総介信長御発足」という結果をもたらしたのだから、信長と小河城主水野信元の連携が扼されたという理解をしているのだろう。ただし、「連絡を絶つ」という曖昧な表現をとり、今川方の意図についてそれ以上踏み込んだ見解は示していない。「連絡を絶つ」のは第一のステップであるはずで、その後どうしようとしていたのかが明確に示されてはいない。これについては、『刈谷市史』の記載のほうが要をえている。
しかし地理的にみると重原城は、鎌倉街道(中世東海道) の八橋宿(現知立市)から知立を経て刈谷城にいたる道筋を抑える位置にある。したがって今川方が水野氏の軍事行動を抑制するためには、どうしても確保せねばならない。それ故、水野氏の反今川の姿勢が明らかになった時点で重原攻めが行われ、水野方の山岡氏は敗退したのが二十三年正月なのであろう。刈谷水野の信近がこの時どう動いたか定かではない。
重原と連携した村木砦は、小河城攻撃のための前進拠点であった。小河水野氏が今川氏に服属するならば、鳴海山口氏と相まって知多郡や愛知郡南部は完全に今川領国化する。それをくい止めるため信長の作戦が、二十三年一月二十四日の村木砦強攻であった。
『新修名古屋市史』そして『刈谷市史』も、この村木砦合戦における今川方の意図の説明がやや中途半端であるが、両者を足して合わせると、次のようになるだろう。
①今川方の当方面における最終目的は、知多郡や愛知郡南部を「完全に今川領国化」することにあった。
②そのために、小河城攻撃が企てられた。
③そして小河城を攻撃するためには、重原城-村木砦-寺本城を連携させる必要があった。
④上記3拠点の連携は、「信長と同盟者水野信元との連絡を絶つ」ことになる。
そして『新修名古屋市史』や『刈谷市史』は明確には述べていないが、次の⑤が村木砦構築の直接的な意義であると考えられる。
⑤信長が那古野城から小河城へ救援に向かう道筋を、重原城-村木砦-寺元城の連携で封鎖しこれを阻む必要があった。
『新修名古屋市史』が言うところの「連絡を絶つ」は、「通路を取切り候」に対応しているのだと思うが、内容が曖昧である。一方で『刈谷市史』は、「重原と連携した村木砦は、小河城攻撃のための前進拠点であった」としており、「通路を取切り候」に直接に触れていない。大田牛一は、「並びに、寺本の城も人質出だし、駿河へ荷担仕り、御敵に罷りなり」と書いているのだから、重原城-村木砦-寺本城の連携で「通路を取切り候」ということなのだと思う。したがって、今川方の小河城攻撃に対する信長の援軍を、この3拠点の連携が阻むという意図を今川方がもっていたことになる。
このような上記①~⑤のような理解は、三河を領国化した今川がさらに西へ勢力を拡大しようとし、尾張の中心的な勢力が信長であったとするならば、ごく当たり前にそう考えるところのものである。しかしそうした前提に立ってものをみると、史料に存在しているちょっとした表現、おやっと思うような記述に鈍感になってしまう。先に三の山赤塚合戦においては、決して軽視できない3つの疑問が取り出されたが、この村木合戦においても『新修名古屋市史』や『刈谷市史』が語るように事は単純ではないように思う。どこが単純ではないのか、『信長公記』の記述を詳細に検討してみよう。
まず、重原城-村木砦-寺本城という軍事ラインを構築し、小河城を攻撃した段階で救援に駆けつけるであろう信長の進軍を阻止するという見方であるが、『信長公記』には「御後巻として、織田上総介信長御発足たるべき」と書かれていた。この「後巻」という用語であるが、『日本戦陣作法辞典』には、「敵軍の後面にまわって背後から攻めることをいう」とある。したがって、信長が小河に向かおうとすると正面に敵がいるので、「後面にまわって背後から攻める」ことになるのだと、牛一はあっさりと書いているのである。そして実際に信長の援軍が進んだ経路は、熱田から海路を経て知多半島へと向かうものであった。
正月廿一日あつたに御泊り、廿二日以<モッテ>の外<ホカ>の大風に候。御渡海なるまじきと、主水<カコ>、楫取り<カジトリ>の者申し上げ候。昔の渡辺、福島にて逆櫓<サカロ>を争ふ時の風も、是れ程こそ候はめ。是非において御渡海あるべきの間、舟を出だし候へと、無理に廿里計りの所、只<タダ>半時計りに御着岸。
(『信長公記』)
今川方が、重原城-村木砦-寺本城という軍事ラインを構築して「小河への通路を取切り」したのであるならば、実にあっさりとこれが回避されている。また牛一の言い方も、ごく当然のように「御後巻として」援軍を発するとあり、このことからすれば、今川方の軍事ライン構築の努力は実に間が抜けていたことになる。さらに、信長の援軍を阻止しておいて小河城を攻略することに今川方の意図があるとするならば、今川方の行動はまた実に鈍重であったことにもなる。
併<シカ>しながら、御敵、清洲より定めて御留守に那古野へ取懸け、町を放火させ候ては如何<イカガ>とおぼしめし、信長の御舅<シュウト>にて候斎藤山城道三<ドウサン>かたへ、番手の人数を一勢乞ひに遣はされ候。道三かたより、正月十八日、那古野留守居として、安東伊賀守大将にて、人数千計り、田宮・甲山・安斎・熊沢、物取新五此等を相加へ、見及ぶ様体<ヨウテイ>日々注進候へと申し付け、同じ事に、正月廿日、尾州へ着き越し候ひし。
(前掲書)
このころ信長は清洲の守護代と敵対しており、信長が那古野城を空けて小河の援軍に赴けば、清洲方が那古野へ攻めてくるだろうことが予想された。このため信長は俄かには動けず、舅である斉藤道三に支援を依頼し、これを承諾した道三に命じられた安藤守就が、1月20日に1千の兵を引き連れて那古野に陣を構えたのである。信長はこの道三の支援をえてようやく出陣が可能となり、翌日21日には熱田に軍を進めたというわけである。こうした信長側の事情があったにもかかわらず、今川方の小河城攻撃はその間実行に移されずに時を過ごし、結局は信長の来援を許してしまったのである。
村木砦が完成して今川方の兵がそこに入ってから、信長が小河に来援するまでどれくらいの期間があったのかは定かではない。しかしながら、信長側のこうした動きからすれば、少なくとも半月ほどは準備にかかったであろうと思われる。その間村木砦に入った今川方は、何をまごまごしていたのであろうか。せっかくの信長の援軍阻止ラインも徒労となり、信長側に拘束されて動けない事情があってもそれを活かすことができなかった。このように『新修名古屋市史』や『刈谷市史』が説明する、村木砦構築に関する今川の狙いの説明が正しいのであれば、今川方はなんとも迂闊で愚鈍であったことになってしまう。しかしながら、今川方にそのような問題があったと考えるよりも、村木砦構築の狙いが別のところにあったとする方が正しいのかも知れない。したがって、小河城攻略のために信長の来援を阻止する必要があり、そのために村木砦が構築されたとする見解をひとまず置いておいて、もっと別の見方をすることができないか探ってみることにしよう。
(つづく)
by mizuno_clan | 2011-02-05 15:39 | ☆談義(自由討論)