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【談義1】水野氏と戦国談義(第三十一回)

つづき

 『信長公記』には、「小河の水野金吾構<カマエ>へ差し向かひ」と、村木砦の配置について記されていた。この「小河の水野金吾構へ」を、『新修名古屋市史』は「小川城(城主水野信元)」だとしているが、そうであると「水野金吾」は水野信元であるということになる。しかしながら、『信長公記』において水野信元は、水野下野守として描かれるのが通常である。

 其の日は野陣を懸けさせられ、直ちに小川へ御出で、水野下野守に御参会候て、爰許<ココモト>の様子、能々きかせられ、小川に御泊り。
(前掲書)

 同じ「村木の取出攻めらるるの事」という節で、同一人物を「水野金吾」としたり、あるいは「水野下野守」と書き記したというのはどうであろうか。この村木砦合戦が描かれた節には、「東大手<オオテ>の方は水野金吾攻め口なり」、「既に薄暮に及び侯の間、侘言<ワビゴト>の旨にまかせ、水野金吾に仰せ付けらる」という二箇所に「水野金吾」が登場する。これらの記述の仕方をみても、「水野金吾」と「水野下野守」が同じ人物であるとは思えず、「水野金吾」を水野信元とするには無理があるように思う。しかしそうであるならば、この「水野金吾」とは誰のことなのであろうか。
 これについては、水野青鷺さんのブログ「水野氏ルーツ採訪記」に、「村木砦址(水野金吾篇)≪考証≫」という記事が掲載されている。水野金吾に関してはこちらに詳しく考証されているので、是非一読されることをお勧めする。この水野青鷺さんの考証の結論は、「“水野忠分”が、父の死後、水野下野守右衛門大夫忠政の“衛門の唐名=金吾”を名乗っていた可能性は高いものと思われる」である。この水野忠分<タダチカ>については、『東浦町誌資料編3』に掲載されている「家忠日記」の解説に次のようにある。

 ここに登場する水野藤次(郎)は、『寛永譜』では、忠政の六男某、『寛政譜』では八男忠分とする人物である。尾張国愛知郡山崎(現名古屋市南区呼継元町付近)と緒川の二箇所の地名をつけて登場するので、両所に館をもっていたことがわかる。

 「村木砦址(水野金吾篇)≪考証≫」を読むと、「水野金吾」に一番近いのが忠分だとういうことであるが、少なくとも水野信元以外の小河水野一族の誰か、それも忠政の子息ということになるだろう。しかしそうなると、先に述べたように小河城の城主が水野信元であるという理解と、この「小河の水野金吾構へ」という表現が矛盾してしまう。なぜならば、「小河の水野金吾構へ」では、水野金吾が城主である小河城という意味になってしまうからである。もっともこの小河城(高薮城)の城主を、水野忠分だとする見解もある。木原克之氏は『郷土研究史みなみ第73号』で、「信元は水野棟梁といっても、どちらかと言えば刈谷衆頭に比重のかかった存在であった」とし、「緒川領地の三割は緒川衆頭の忠分が領知していた」と述べている。しかしながら、この点に関しては『刈谷市史』が示す、小河城主=水野信元、刈谷城主=水野信近という定説は動かないところであろう。
 このように「小河の水野金吾構へ」を小河城であるとすると、どうにも解釈の筋が通らないという問題が起こる。そこで「構へ」という用語に注目して、別の見方ができないかを考えてみよう。「村木の取出攻めらるるの事」には、拠点軍事施設に関する次のような記述がある。

1.鴫原の山岡構へ攻め干し
2.小河の水野金吾構へ差し向かひ
3.駿河より丈夫に取出を相構へ
4.寺本の城も人質出だし
5.あらこの前田与十郎城へ罷り退き
6.駿河衆楯籠り候村木の城へ取り懸け
7.寺本の城へ御手遣ひ

 「小河の金吾構へ」とは別に、「鴫原の山岡構へ」にも「構へ」が使われている。そして『信長公記』首巻では、拠点施設を「構へ」と表現するのはこの「村木の取出攻めらるるの事」に限られている。「城」「取出」という言い方もしているなかで、この2箇所だけ「構へ」と表現するのはなぜなのであろうか。まずはここで、戦国期の拠点施設用語を確認しておこう。『新修名古屋市史』には、戦国期の拠点施設用語について次のような解説がある。

 城あるいは城郭、城館は、館・砦などの施設の総称として用いる。細かく分類すれば軍事と政治・居住・文化の拠点といった諸機能を合わせもったものを城あるいは城郭と呼ぶ。これに対して、ある程度の防御施設は備えても、居住や政治や文化の拠点としての機能に比重があったものを館という。さらに軍事機能を最優先にして、政治や居住性といった機能性が低いものが、砦であった。

 上記の定義にしたがえば、「村木の城へ取り懸け」という表現があるが、村木の施設は砦ということになる。「小河の水野金吾構へ差し向か」うように構築され、すぐに「駿河衆楯籠<タテコモ>り侯」というのであるから、この施設の目的は軍事にあるからである。そしてこの村木砦の規模は、次のようであったとされている。

 村木砦は、低地に面した段丘の端部に立地しており、南側は「大堀霞むばかりかめ腹にほり上げ、丈夫に構へ」たとされ、『信長公記』首巻でも、特に厳重に構えられたようすが記されている。臨時の砦とはいえ、村木砦はきわめて堅固なものであったといえよう。
 奥田敏春の研究と終戦後に撮影された米軍の航空写真をもとに今川氏の村木砦を復元すると、東西一二〇メートル、南北二〇〇メートルのややいびつな四角い外郭のなかに、約五〇メートル四方の内郭を備えた砦であったと考えられる。
(『新修名古屋市史』第二巻)

 このように村木砦は大規模にして堅固なものであったのであるが、小河城を攻めるためにこのような砦がはたして必要だったのであろうか。今川方の狙いが、防衛することではなく金吾構へを攻め落とすことであったのならば、この村木砦の規模はどうにも解せない。深く大きな堀を備え、頑丈に構築されたということは、この砦が防御に優れているということである。それでいて「小河城攻撃のための前進拠点」であり、「臨時の砦」であったというのであるが、そうした拠点にこれほどの防御力が必要なのであろうか。
 この村木砦は、「鴫原の山岡構へ」を「根城にして」構築されたのであるが、こちらは通常『刈谷市史』のように重原城のことであると理解されている。そして村木砦合戦より後のことになるが、桶狭間合戦で今川軍が敗北すると、尾張やそれに隣接する三河の城から今川軍が退却する。『信長公記』には、「大高城・沓懸城・池鯉鮒の城・原、鴫原の城、五ケ所同事退散なり」との記載がある。ここに「鴫原の城」とあるが、ここでは「構へ」ではなく「城」となっている。このことからすると、牛一は「構へ」と「城」を特に区別してはいないのであろうか。
 この節の『信長公記』の記述の仕方をみると、「寺本の城」「村木の城」といった<地名+城>の形式と、「鴫原の山岡構へ」「小河の水野金吾構へ」「あらこの前田与十郎城」といった<地名+名+施設>という二つの型の違いが表れている。このような拠点施設の示し方の違いは、大田牛一の単なる気まぐれなのであろうか。この点を確認するために、ここで「あらこの前田与十郎城」という表現に注目してみよう。
 荒子の城というと我々はすぐに前田利家を連想するのであるが、この時期の城主は利家の父である利昌である。戦国人名事典(新人物往来社)に、利昌は「荒子城を築き城主となったといわれる」とあり、没年が1560(永禄3)年とある。そうするとこの前田利昌が与十郎かというと、どうもそうではないらしい。同族に前田種利という人物がいるが、彼が与十郎だという説が一般的らしい。そしてそういうことであると、「あらこの前田与十郎城」は荒子城ではないことになる。荒子城や前田氏について確かなことはわからないのであるが、大田牛一が「あらこの城」と書かずに、そこに城主名をわざわざ挿入したのは、前田利昌が城主である荒子城と混同させないためではないかと思えてくる。つまり単に気まぐれで「前田与十郎」を加えたというのではなく、そう書かないと識別が不確かになるため、そこに城主の名を入れてはっきりさせたというわけである。
 そこで次に「鴫原の山岡構へ」についてであるが、『刈谷市史』は次のように述べている。

 重原城については詳しい史料がなく、わずかに『三河国二葉松』に「一重原村古城 △山岡伝五郎、或河内守、天文二十三年正月、今川勢攻落」とあるものの、山岡氏の出自や刈谷城との関わりは明らかではない。ただ知立神社所蔵の「永見家家譜」に永見守重の娘は山岡河内守室とあるので、山岡氏は刈谷か小河の水野家臣であったとみてよい。

 つまり山岡氏が水野氏の家臣であったことは間違いないようだが、重原城との関わりは確かではないということである。したがって「鴫原の山岡構へ」がただちに重原城であるとはいえないのであるが、「あらこの前田与十郎城」「小河の水野金吾構へ」という表現とこの「鴫原の山岡構へ」には一つ違いがある。それは「山岡」とあるだけで、下の名前が記されていない点である。そしてこれはなぜかと考えれば、前田は利昌と種利(与十郎)、水野は信元と忠分(金吾)を識別する必要があったのに対して、山岡はそうした区別が不要だったからではなかろうか。つまり「鴫原の山岡構へ」は、「鴫原の構へ」だけでは区別がつかないが、そこに「山岡」と挿入すれば、水野方の拠点施設であることがはっきりとするというわけである。さらに進めて言えば、「鴫原の山岡城」でも具合が悪かったということではないだろうか。つまり「鴫原の山岡構へ」は重原城とは別物であり、その意を込めて「構へ」としたのではあるまいか、ということである。
 このように考えると、「小河の水野金吾構へ」についても同様で、「小河の構へ」でも「小河の水野構へ」でも識別が確かにならないということになる。しかしこの拠点施設が小河城であるならば、「小河の城」でよかったはずであるし、念を入れて「小河の水野城」でも問題はなかったはずではなかろうか。そうなると、「小河の水野金吾構へ」は小河城ではなく、水野金吾が守る別の拠点施設であったということになる。さらにオガワについては、以下のような記述の違いがある。

1.小河の水野金吾構へ
2.小河への通路を取切り候
3.直ちに小川へと御出で、水野下野守に御参会候て
4.小川に御泊り

 「水野金吾構へ」は「小河」と記されるが、水野下野守(信元)が登場する場所は「小川」と表記されている。これも気まぐれ書き損じなど言いようはあるだろうが、「水野金吾構へ」と小河城(小川城)が別物であるとするならば、それを意識した書き換えであるとも考えられる。そうなると上記2の「小河」は信元のいる「小川城」のことではなく、「水野金吾構へ」のことであり、この「構へ」と小河城や刈谷城、あるいは信長とむすぶ通路が遮断されたという意味になるだろう。

 これまで考察してきたように、『信長公記』の表記の仕方からすると、「鴫原の山岡構へ」は重原城ではなく、「小河の水野金吾構へ」は小河城ではない可能性が浮上してきた。しかしそうなると、村木砦を構築した今川の意図はそのことによってどのように描き変わるのか。この点を確認し、描き変わる全体像をみることで、独自拠点としての「構へ」の解釈が妥当かどうかを計ることにしよう。
【談義1】水野氏と戦国談義(第三十一回)_e0144936_15313233.jpg <図2>は、三の山赤塚合戦と村木砦合戦に登場する拠点を描き、それぞれの拠点を織田・水野方は青線、今川方は緑線で結んだものである。またこれに、両合戦における信長の進軍経路を灰色の線で描きこんだ。そしてこの地図に、想定としての「小河の水野金吾構へ」と「鴫原の山岡構へ」を書き込み、それもまた拠点間を線で結ぶが、敵方のラインによって分断されている箇所は赤線、かつてのラインが消滅している場合は赤の破線で描いてみた。
 この<図2>のポイントは、「水野金吾構へ」を小河城とは別の軍事施設として捉え、それを村木砦の北方に配置した点にある。このことによって、「小河への通路を取切り候」という箇所が、「水野金吾構へ」と小河城および刈谷城との間が分断されてしまったという意味で理解することが可能になる。そしてそれ以上に重要なのは、大高城-「水野金吾構へ」-「鴫原の山岡構へ」という水野方のラインが浮かび上がってくるということにある。このことが、村木に砦が構築される前には、このような水野方の拠点をつなぐラインが形成されており、それが前回指摘したこの地域の紛争に対処するものではないかという視点を導くのである。
 今川義元書状の「苅谷赦免」の解釈から、水野氏と山口氏など鳴海方面の領主たち、それに碧海郡の松平氏を中心とした領主たちの三つ巴の紛争が、天文20年から22年くらいにかけてあったであろうことを、前回の当談義で述べさせてもらった。そしてこの地域の紛争については、織田信秀と今川義元が協調して沈静化に努力していただろうとも書いた。しかし天文21年、織田信秀が死去してしまうと、鳴海の山口教継とその周辺領主たちは今川方にその身を投じてしまう。そうなると、鳴海方面尾張衆と碧海郡三河衆の対立は消滅し、以前に三つ巴であった紛争は、水野氏と今川方鳴海・笠寺方面領主の紛争と、水野氏と碧海郡領主の紛争に収束してしまうことになる。そしてこの事態に対して水野氏は、<図2>に描きこんだ、大高城-「水野金吾構へ」-「鴫原の山岡構へ」という拠点間をむすぶトライアングルを形成して対処していたのである。図中の黄色く塗った地域は、水野氏がこのトライアングルで対処していた紛争地であろうという想定箇所である。

 今川義元書状にあった「苅谷赦免」の解釈は、水野氏と鳴海方面の領主たち、そして碧海郡の領主が互いの生存圏をかけて争っていたという視点を示すことになった。そしてその紛争は天文20年以前から続いており、22年に記された大村家盛の「参詣道中日記」に「三河・尾張取相」として記録されていた。こうしてこの時期に、岡崎から鳴海までの鎌倉街道沿いに勃発していた地域紛争と、『信長公記』に記された三の山赤坂合戦、そして村木砦合戦とは、時間的空間的に重なり合うことになる。このことを念頭におくならば、<図2>に描いたように、「水野金吾構へ」と「鴫原の山岡構へ」はこの地域紛争の脈絡で解釈される必要があるだろう。
 <図2>に示した「水野金吾構へ」の重要な意義は、水野氏の本拠である小河・刈谷両城と大高城の連携を確保したことにある。天文21年に織田信秀が死去したことを契機として、水野氏と敵対してきた鳴海方面の領主たちが織田弾正忠家から離反した。そしてこのことによって、これに隣接する大高城が危機に陥っただろうことは容易に想像できることである。したがってこの時から、水野氏は孤立しかねない大高城と小河・刈谷両城の連携を強化する必要に迫られたであろう。<図2>において村木の北方に「水野金吾構へ」を配置したのは、この大高と小河城・刈谷城を中継させることを意図するならば、この辺りであろうと考えたからである。そしてこの位置であれば、村木砦が「小河の水野金吾構へ差し向かひ」であったこととも違わないであろうからである。
 『新修名古屋市史』や『刈谷市史』のように、那古野城の信長と小河城との連携を主張するのであれば、間にある大高城の存在は無視してよいはずはなく、那古野城-大高城-小河城の連携ラインでこれを捉えるべきである。そしてこの大高城へのラインが、山口教継ら笠寺・鳴海の領主たちの転退によって危機にさらされたことが、村木砦合戦の背後にあると考えるべきだろう。少なくともそれは、信長と小河城を直接むすぶよりも、当時の状況に合致していたに違いないと思われる。
 このようにして「水野金吾構へ」は、村木の北方に構築されたのではないかと思うのであるが、このことは水野氏と悶着のあった知立方面の領主たちを刺激したことであろう。そしてそれによって刈谷城の北東に緊張状態が生まれ、「鴫原の山岡構へ」が築かれることになったのではあるまいか。そうなると、「鴫原の山岡構へ」を攻略したのも、村木砦に籠もって「水野金吾構へ」と小河城・刈谷城の連携を断ったのも、知立を中心とした碧海郡の領主たちであったことになる。そしてこのことを前提とするならば、村木砦合戦の本質は、水野氏と碧海郡領主の地域的な武力衝突であり、信長と駿河兵はそれへの加勢であったということになるだろう。

 それでは、那古野城-大高城-小河城という連携ラインが、笠寺・鳴海の領主たちの「謀叛」で断ち切られたというこれまでの考察をもって、先に提示した三の山赤塚合戦の疑問に答えてみることにしよう。
 織田信秀の死去を契機とした尾張東南部の動揺は、根底に知多半島を北上して勢力を拡大する水野氏と、その拡大先である鳴海・笠寺方面の領主たちとの前々からの紛争を再燃させることになった。この紛争に対して生前の信秀は、今川義元と協調介入して事態の沈静化をはかったが、後を継いだ信長にそれだけの外交力と政治力はなかった。鳴海城主山口教継を中心とした勢力が、信秀死去を契機に今川を頼るようになったことで、信長は水野氏との連携を強化せざるをえない立場となるが、鳴海・笠寺の領主と敵対関係にあったというわけではない。同様に、今川氏との間に直接的な敵対関係が発生していたのでもない。あくまで対立軸は、水野氏と鳴海・笠寺方面の領主たちにあり、信長や義元は間接的な立場なのである。
 こうした情勢下における信長出兵の目的は、山口氏あるいは鳴海城への攻撃にあったのではなく、大高城への通行確保を確認することにあった。熱田方面から大高城への経路としては、干潮時であれば鳴海から南へ直接南下することができる。しかしこの場合、鳴海城と笠寺・中村の砦が阻止に動けばまったく望み薄である。一方で、鎌倉街道を使って東に迂回する経路がある。三の山(山王山)に上がったのは、こうした二つの経路を念頭において山口方の出方を窺うためではなかっただろうか。そして鳴海から出撃した山口九郎二郎が東の赤塚へ向かったのも、信長の東への迂回を見越しての動きだったと考えられる。そして赤塚で信長と山口方がぶつかったわけであるが、駿河勢が出てくるわけでなく、日が暮れると敵方に取られた人質や馬を双方で交換したというのも、そうした物見的な意味合いが背景にあったからだろう。また信長が率いる兵が少なかったというのも、今川勢との戦闘が念頭に置かれていたわけではなかったことによると思う。そして駿河勢が出撃しなかったのは、そもそも彼らが信長と戦うためにこの地にいるのではないからで、義元が引き続き鳴海方面の紛争鎮静化のために派兵したことを示しているように思えるのである。

 尾張において求心力をもっていた織田信秀が死去したことで、信秀・義元の協調によって鎮静化していた尾張・三河の南部にまたがる地域は、再び争いの火の手をあげた。そして信秀亡き後の織田弾正忠家は、かつての信秀のように義元と協調して公儀をまっとうする力がなく、尾張は混迷の時代に突入していったのである。この混迷に知多半島の水野氏もまた否応なく巻き込まれ、かつてより厳しくなった事態に、「水野金吾構へ」を築いて対処しようとしたのであったが、これを許さなかった今川方の碧海郡領主たちによって大高城-「水野金吾構へ」-「鴫原の山岡構へ」の体制は崩れてしまう。その後の信長の救援によって村木砦は陥落したのであるが、「水野金吾構へ」がどうなったのかは知る由もない。
 水野氏と山口教継を中心とする鳴海・笠寺方面との紛争は、その後どうなったのであろうか。最終局面は桶狭間合戦によってもたらされることになるのであるが、次回の「水野氏と戦国談義」は、山口教継の顛末を考えることで紛争の行方がどうなったかを示してみようと思う。

by mizuno_clan | 2011-02-05 15:35 | ☆談義(自由討論)