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【談義1】水野氏と戦国談義(第三十二回)

つづき

 駿河兵が山口教継によって笠寺砦に引き入れられたのは天文21年であったが、それから弘治元年までの3年間は、この地に今川の将兵が留まり続けた。そしてそれは後の桶狭間合戦まで続いたのであるが、この駿河兵の駐留費用はいったい誰が負担していたのであろうか。次の永禄2年8月21日付の書状は、朝比奈筑前守に対して今川義元が大高城在番を命じたものである。

今度召出大高在城之儀申付之条、下長尾一所之事一円永所宛行之也、於遂在城者連々可加扶助、彼郷之内前々之被官等無相違所還附也、守此旨用心已下無油断可勤之者也、仍如件、
  永禄弐未己年
    八月廿一日                 治部大輔(花押影)
    朝比奈筑前守殿

(今度召し出し大高在城の儀申し付けの条、下長尾一所の事、一円永く宛行う所也、在城を遂げるにおいては連々扶助を加えるべし、彼の郷の内、前々の被官等、相違無く還付する所也、此の旨を守り、用心已下<イカ>油断無く勤めるべきもの也、仍って如の件し)
(『愛知県史資料編10』 )注:()内筆者

 ここで義元は、大高城の在番を勤める朝比奈筑前守に、その費用の賄い分として知行地を宛ておこなっている。この場合、朝比奈にとって大高城は預り物で、この城に関わる収支に彼は直接関わることがないために、その収支を押さえる義元が別途在番に要する費用を拠出したものであると考えられる。このように特別選任によって発生するような費用は、それを命じた義元が負担するというのが当時の定法であったように思われる。そうであるならば、笠寺砦に駐留していた駿河衆の諸費用は、同様にそれを命じた義元が負担していたのであろうか。
 駿河衆は、山口教継が彼らを「引き入れ」たことで笠寺砦に楯籠もることになったのであるが、このことは教継が直接駿河衆に働きかけたのではなく、義元へ駿河兵の派遣を要請したことを示している。義元はこの要請を承諾して葛山・岡部・三浦・飯尾・浅井を鳴海に派遣したのであるから、この場合は派遣要請者が駿河衆の駐屯費用を負担したと考えるのが順当のように思う。そしてその派遣要請者とは、山口教継個人というのではなく、彼を中心とする対水野氏一揆の領主たちであり、駿河衆の駐屯費用を負担することが前提の派遣要請であったと考えられる。こうして大高城の水野氏を退去させるための対価を、鳴海・笠寺・星崎・根上などに根を張る在地領主たちは3年間負担し続けたのである。そしてその負担に耐えた一揆衆は、教継の調略によって水野氏が追い払われた時点で、役割を終えた駿河衆に立ち去ってもらうつもりだったはずである。しかしながら、駿河の将兵は笠寺砦から引き上げることはなかった。

去晦之状令披見候、廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由、神妙候、猶々堅固ニ可被相守也、謹言
  永禄元年
     三月三日               義元(花押)
  浅井小四郎殿 飯尾豊前守殿 三浦左馬助殿 葛山播磨守殿 笠寺城中

(去晦<ツゴモリ>の状披見せしめ候、廿八日の夜、織弾人数夜込めせしめ候処に早々追払われ、首少々討取り候由、神妙候、猶々堅固に相守らるべき也、謹言)
(『豊明市史資料編補二』 )注:()内筆者

 この義元の書状をみれば、永禄2年3月までの笠寺砦には、かつて山口教継に引き入れられた今川の面々が留まり続けていたことがわかる。このように大高城の水野氏が退去した後も、笠寺砦は以前と変わらず駿河衆が楯籠もっていたのだが、その駐留費用が依然として対水野氏の一揆衆に掛かっていたのであるならば、それを彼らが大きなマイナス要因とみなさないはずがない。そしてこのことを最も気にかける立場にいたのが、駿河衆を引き入れた山口教継だったのである。彼は駿河衆に、これ以上駐留費用を負担できないことを伝えたであろうし、義元にも彼らへの退去命令を出すように願い出たことであろう。しかしそれがどうなったかは、その後の展開が示すとおりである。この地の今川勢は引きあげることなく、むしろ「大高の城・沓懸の城、番手の人数、多太~と入れ置く」という経緯をたどることになったが、このことは一揆の中心人物である山口教継を追い詰めたにちがいない。
 大高城の水野氏が退去したことで、この水野氏に対抗していた鳴海・笠寺・星崎などの領主たちにおける、駿河兵駐屯の意義が一変することになった。天文21年から続く駐屯費用の負担は、それまでも重く彼らにのしかかっていただろうが、水野氏退去を契機として耐えがたい負担として意識されるようになったことであろう。そして星崎・根上の領主たちが今川方を離れる決断をして、弘治元年に信長に帰参してしまった。おそらくこの時点まで、山口教継は彼らを引き留めようとしたであろうし、一方で駐留の駿河衆、そして駿府の義元に何度も費用負担はできないと訴えたことだろう。しかしながら、ついに一揆が崩れて離反者が出てしまった。このことが「駿河へ左馬助、九郎二郎両人召し寄せられ」という義元の行動につながり、山口親子は義元に直談判すべく駿府へ向かったということではないだろうか。
 山口親子殺害事件については、信長による情報操作の謀略であったとする説がある。これは信長が仕掛けた虚偽の情報を義元が鵜呑みにして、無実の山口親子が殺害されたというものであるが、これを少しでも裏付ける史料は存在していないし、かつての暗愚に近い義元像を背景とすることから最近はあまり耳にしなくなった。これに対してこのところ目にするのが、義元の外様排除の深謀遠慮説である。橋場日月氏は『新説桶狭間合戦』において、「今川義元は、反覆絶えない旧織田方の寝返り国人たちを、逆にその転向を予防するという大義名分のもとに次々とあるいは殺しあるいは左遷して、その拠点に子飼いの武将と兵を配置していったのだ」と述べている。そしてそれは、「義元による一定の基本方針のもとにおこなわれた外様排除の深謀遠慮だった」というのであるが、これもまた根拠があるわけではない。
 山口親子は駿河(駿府)に「召し寄せられ」たわけであるが、義元が始めから殺害するつもりであったならば、なぜわざわざ親子を呼び寄せる必要があったのだろうか。鳴海方面には駿河の将兵が駐屯していたのだから、その兵力を背景に鳴海で親子に死を与えればよかったのではなかろうか。むざむざ駿府へ招きよせられるような山口親子であるのだから、鳴海であろうが駿府であろうが、義元が命を遂行するのに違いはなかったはずである。さらに義元が山口親子を殺害せんとした動機であるが、彼らが外様だから信用がおけず、子飼いで信頼のおける者と首をすげかえようとしたというが、次にこの点について検証してみよう。
 山口親子が排除された後に、その後釜として鳴海城に入ったのは岡部元信である。そしてその元信はそのまま桶狭間合戦を迎えて、最後まで鳴海城に留まって奮戦し、許しを得て城を退去したということで氏真から褒賞されている。

右、今度於尾州一戦之砌、大高・沓掛両城雖相捨、鳴海堅固爾持詰段、甚以粉骨至也、雖然依無通用、得下知、城中人数無相違引取之条、忠功無比類、剰苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、数多討捕、城内悉放火、粉骨所不準于他也、彼本知行有子細、数年雖令没収、為褒美所令還付、永不可相違、然者如前々可令所務、守此旨、弥可抽奉公状如件
  永禄三庚申年
    六月八日                氏真(花押)
    岡部五郎兵衛尉殿

(右、今度尾州一戦の砌<ミギリ>、大高・沓掛両城相捨てると雖も、鳴海堅固に持ちて詰めるの段、甚もって粉骨の至也、然ると雖も通用無きに依り、下知を得て、城中人数相違無く引取の条、忠功比類無し、剰<アマツサ>え苅屋城籌策<チュウサク>を以って、城主水野藤九郎其の外随分者、数多く討捕り、城内悉く放火、粉骨他に準于<ジュンコ>せざる所也、彼の本知行は子細有りて、数年没収せしむと雖も、褒美として還付為さしめる所、永く相い違うべらず、然らば前々の如く所務せしむべし、此旨を守り、弥<イヨイヨ>奉公抽<ヒ>くべきの状件の如し)
(『豊明市史資料編補二』 )注:()内筆者

 ここで氏真は岡部元信の働きを賞して、仔細があって数年前に没収していた彼の知行地を還付すると述べている。数年前というのがいつのことで、どのような罪過があって元信の知行地が没収されたのかはわからない。しかしこのような措置をとったのは生前の義元であり、岡部元信は領地を没収されるような罪を犯していたのである。そしてその罪が許されたのが、没収されていた知行地が還付された永禄3年6月ということなのである。このことからすれば、義元の生前はついに元信への叱責は解かれぬままであったことになるが、そのような元信に義元が信頼を寄せていたというのは如何にもおかしな話しである。このことによって、外様排除の深謀遠慮説は成り立たないことがわかるが、叱責を受けていた岡部元信が鳴海城主となったというのは、いったいどういうわけなのだろうか。
 永禄元年に「織弾」による夜襲を撃退した笠寺守備の武将は、かつて天文21年に山口教継が引き入れた面々であるが、ただ一人岡部元信の名前がこの砦から消えている。したがって永禄元年には元信が鳴海城主となっていたとわかるが、笠寺砦には葛山・三浦・浅井・飯尾の面々が詰めていながら、なぜ叱責を受けている者が鳴海城の城主に抜擢されたのだろうか。
 岡部元信が桶狭間合戦後になって没収地を回復したということは、彼がこの笠寺・鳴海に駐留するにあたって、義元がその負担を補填しなかったことを意味している。もし大高城在番となった朝比奈筑前守のように、義元が駐留経費を負担するのであれば、まっさきに元信に没収地を還付したことであろう。それがなされなかったということは、先ほど述べたように、この地への派遣要請をした対水野氏一揆衆が、その費用を負担することになっていたからである。そしてその駐留費を賄ってきた山口教継が殺害されると、叱責されているはずの岡部元信が鳴海城に入った。このことは、元信が鳴海城主となったのが義元の意向ではなく、現地が義元の統制をはずれて勝手に動いていることを示すものではないだろうか。
 天文21年に尾張東南部に派遣された駿河衆の駐留費用を、それを求めた在地領主たちが負担していたと考えると、次の2点に対する説明が明快なものになる。

① 星崎・根上の領主たちは、劣勢の信長になぜ帰参したのか。
② 今川方として貢献してきた山口親子はなぜ殺害されたのか。

 駿河衆の駐留費用の負担が、星崎・根上の領主と山口親子に重くのしかかっていたことが、彼らが今川方であることの大きなマイナス要因となっていた。そしてそれに耐え切れなくなった、星崎・根上の領主が今川を離反する。そのことが今川方への転向を主導した山口親子を追い詰め、親子と今川氏との間に亀裂と衝突が避けられなくなった。それが『信長公記』が記す「御褒美は聊かもこれなく、情なく無下~と生害させられ」という事態の真相のように思う。しかしながら、それをもって義元が山口親子を殺害したというのは、まだ結論を急ぎ過ぎていることになるだろう。駿河衆の駐留費負担の件で、山口親子と義元が決定的に対立してこそ、この殺害が現実のものとなるはずであるが、義元の側に本当に駿河衆を居座らせる理由があったのであろうか。もともとこの駿河衆の派遣は、山口教継の要請を義元が聞き届けて実現したものである。そのことからすれば、要請元が将兵の駐留は不要となったので引き揚げてもらいたいというのを、義元が拒む理由はないように思われる。
 この鳴海方面への駿河衆派遣の性質は、次のように整理することができる。

① 要請元が駐留費用を負担していた。
② 駐留部隊には守備的に留まることが求められ、積極的に交戦することはなかった。

 ①はそれを直接に示す史料があるわけではないが、先に述べたように、このことを前提とすることによって星崎・根上の領主が劣勢の信長に帰参したこと、そして山口親子が殺害されたことを無理なく説明することができるようになる。また②については、駿河衆が「引き入れ」られたことと、大高城・沓掛城が教継の調略によって今川方となったこと、そして笠寺砦の駿河衆には防衛的な戦闘記録はあるが進んで周囲を攻撃した記録が残されておらず、大高・沓掛以外に新たに今川方となった地域がないことから、それと結論付けることができるだろう。
 この上記に整理した①と②は、この駐留部隊派遣が地元の要請元主導で実現していたことを示すもので、義元が自領あるいは自勢力拡大を目的として実施してきたことを示唆するものではない。そしてこの地でその後に起こったことは、星崎・根上が離反し山口親子が殺害されるという、この派遣の前提となった枠組みが全面的に崩壊するという事態であった。先の義元の外様排除の深謀遠慮説では、この崩壊を義元が意図して引き起こしたという解釈をしていたが、外様という区別でみるならば、それに該当するのは特定の国人領主だけではない。これまでこの談義で論じてきたように、在地には独自の自律的なシステムが作動しているのであり、在地の土豪や国人は「村の成り立ち」の補完者としてそのシステムに組み込まれていた。したがって、そのような在地の土豪・国人が外様だというのであれば、その地域全体が外様なのであり、簡単に領主の首をすげ替えればよいというものではない。そうであれば、星崎・根上の離反と山口親子殺害は、この地域のシステムが今川に組み込まれることに重大な打撃を与えたはずである。つまりこの二つの事件は今川の統治における失策であり、少なくともそれを義元が意図して引き起こしたなどということは考えられないのである。
 天文18年に松平広忠が殺害された動揺を抑えるために、今川義元はすばやく岡崎城を接収し、次いで安城城から尾張勢を追い払った。このことで、東三河に加えて西三河の大半が今川に従うようになり、三河一国の統治は今川の手に委ねられるようになった。しかしこの今川による西三河統治には、次に述べられるような地域との協調が必要とされていた。

 今川氏は三河の支配に際し、松平一族をはじめとする西三河諸領主に対しては、竹千代への「忠節」も要請していた。すはわち今川氏は西三河諸領主へ政治的な両属関係を作り出さざるをえなかったということである。そして今川氏の三河支配はそれを前提としてはじめて成り立っていたことをあらためて強調しておきたい。(中略)今川氏がこうした政治的な両属関係を否定・払拭しようとするのは当然のことで、その最も有効な方法は義元の三河守任官であり、義元はそこで三河支配の正当たる途を開こうとしていたのである。その経緯はともかく、義元が三河守に補任されるのは永禄三年(一五六〇)五月八日であり、桶狭間合戦の一一日前のことであった。
(『戦国大名今川氏と領国支配』久保田昌希著)

 西三河に広く分布し、長年にわたってこの地の領主であり続けた松平諸氏は、長忠の代より安城家を惣領とするようになり、竹千代(元康)はその5代目に当たる。その竹千代は、幼少の身でかつ駿府で養育されていたにもかかわらず、今川の統治にとって欠かせないシンボルであったというわけだが、この西三河にとっては今川こそが外様であるということを、このことは示しているのである。松平惣領家の居城である岡崎城に、城代を送ればそれで今川が松平にとって代わるわけではない。このことと同様に、城主親子を殺害して鳴海城に城代を入れれば、それでこの地域が今川に馴染み従順になるというわけではないのである。
 先に鳴海城主となった岡部元信が領地没収の叱責を受けていたことから、山口親子殺害を義元の深謀遠慮だとする説は成り立たないと述べたが、より本質的にはこの時代の戦国大名における権力観に問題がある。被官を自身の都合で譜代・外様などと色分けし、その被官の生命と財産を随意に破壊できる権力を、この時代の戦国大名がもっていたという認識がなければ、先に紹介した深謀遠慮説など成り立たない。そしてこの権力観に立てば、鳴海方面の在来の枠組みを今川義元が自身の都合で意図的に崩壊させた、というシナリオも通るのであろうが、こうした権力観には安易に立たないというのがこの談義のモットーである。また派遣部隊に対して、義元がどの程度の統制を働かせていたのかにも、この問題は関わることになる。
 岡部元信は、領地を没収されるような行動をする男であるが、そのような元信が駿府から遥かに離れた尾張の地で、おとなしく義元の意向に沿うようにしていたとは思われない。そしてそれは岡部元信だからというのではなく、この時代の主従関係というものがそもそもそうした側面をもつものだ、ということから言えることなのである。この主従関係に対する理解のスタンスによって、義元の権力が尾張駐屯の駿河衆を厳格に統制したという見解に立つ場合もあるだろうし、ここで述べているように義元の統制は届かない、あるいは緩やかにしか統制しようとしない、という考え方にもなる。この時代の社会を強く規定していたとみられる主従関係が、果たしてどのようなものであったのか。それは次回以降に詳しく考察してみようと思うが、ここでは岡部元信が義元から叱責を受けていた身でありながら鳴海城主となった、という点に注目して考える必要がある。
 確認できる史実からすれば、天文21年に山口教継に引き入れられた駿河衆は、永禄元年に至るまで笠寺砦にずっと楯籠っていたことになる。しかしながらそれが義元の命令だったということで、彼らが素直に従っていたと考えるにしても、この6年もの間ずっとただ笠寺砦に籠って敵に備えていたというのは、何か間が抜けた話しのように思える。それにいったい、どの敵に備えていたというのであろうか。一般的には織田信長を今川方の変わらぬ敵対者とするのであるが、その信長は駿河衆が笠寺砦に籠っていた間に、清洲の守護代と争いこれを滅ぼし、兄信広・弟信勝と戦ってこれを退け、岩倉の守護代とも干戈を交えて戦いを優勢にすすめていた。『信長公記』が語る「ケ様に攻め、一仁に御成り候」というが信長の立場であったわけで、彼は尾張国内の敵対者と激しく争うのに手一杯であったのである。このように当時の尾張国内は内紛状態にあったのだから、笠寺砦の駿河衆に対信長あるいは対尾張衆ということで、厳重な守備が求められていたとは考えにくい。
 それでは、大高から水野氏が退去した後も、駿河衆が笠寺・鳴海に居座った理由とは何であったのだろうか。北条氏の有力被官である山角定勝には小窪六右衛門という寄子がついていたが、彼らの寄親・寄子関係の形成について、『戦国の群像』(集英社日本の歴史⑩)は次のように述べている。

 この五年間、小窪は北条から所領を宛行われることなく、参陣していた。一騎仕立てともなれば、一人前の武士で、従者の一人や二人は従えて従軍するのであるから、かれが村の有力な百姓すなわち地侍であったことはまちがいない。そしてこのとき、所領を宛行ってくれるよう目安を認<シタタ>めて、山角を取り次ぎとして北条に訴え、それが認められて萱方<カヤカタ>一〇貫文を給地として宛行われることになったのである。こうして正式に北条の家臣となった小窪は、今まで山角に「同心致」してきた関係をそのまま認められて、山角を寄親とする同心=寄子に正式に編入されたのである。
 さきの甲斐の恵林寺領でみた御家人はみんながそれぞれにちがう寄親の同心になっていた。それはかれらが、小窪と同じように、戦争の機会にそれぞれちがう有力者に結びついていったことを示すであろう。もちろん寄親の側からも、自己のもとに多くの兵を集めて戦功をあげようと、村に積極的に働きかけていったことはまちがいない。


 岡部元信は天文21年に笠寺砦に入り、永禄三年の桶狭間合戦後に鳴海城から退去するまで、8年間という月日を鳴海・笠寺の地に留まり続けた。浅井・三浦・葛山・飯尾については確かなことはわからないが、おそらく元信と同様であったろう。そして彼らは8年もの間、ただ敵地を睨んで砦に楯籠っていたわけではなく、この尾張東南部に自身の勢力を扶植することに努めていたものと思われる。それは今川のためというよりも、自身のために今川の仲介なしに寄子を募り、また彼らの頼りとなるよう努めていたことだろう。鳴海や笠寺の地侍層は、山口氏などのような在地の国人領主、知多半島に大きな力をもつ水野氏、そして新興の駿河衆の狭間にあって、真に頼りとなる寄親を求めて盛んに彼らに接触していたはずである。そして大高の水野氏が立ち去った後には、在地国人領主と東の一大勢力を背景とする駿河衆が、そうした地侍衆をめぐって競合関係に突入していたと考えられるのである。

つづく

by mizuno_clan | 2011-04-23 14:05 | ☆談義(自由討論)