【談義1】水野氏と戦国談義(第三十二回)
<つづき>
太田牛一は、鳴海の山口教継が大高城と沓掛城を調略で落としたことを語ったすぐ後で、「推し並べ三金輪に三ケ所、何方へも間は一里づゝなり」とこの3城の地理関係に言及している。この地理関係はとくに重要とも思われないのであるが、なにか少々窮屈にこの箇所に差し込まれている。そして実際の3城の距離は、鳴海-大高が2.5キロメートル、鳴海-沓掛が7キロメートル、そして大高-沓掛が7キロメートルであり、これらを結ぶと実際は不等辺三角形となっている。しかし牛一の脳裏では、3城はそれぞれ等距離にあって鼎の脚のような関係にある。そしてこの脚の只中には、あの桶狭間が広がっているのである。思うに牛一は、この3城がこの地域を押さえる要であって、それがすべて今川方になったことを強調したかったのだろう。そしてこの地理関係の記述に続いて、「鳴海の城には駿河より岡部五郎兵衛城代として楯籠り」と、唯一鳴海城だけその城代の名を明記したのは、それが山口教継の居城であったからであり、この城主交替に強い思いがあったからではないかと思うのである。
さて最後に、今回の結論を述べることにしよう。殺害された山口親子の居城に、叱責を受けているはずの岡部元信が入ったということは、それが義元の命令ではなく元信の実力行使によるものであること示している。そしてこのような実力行使をもって鳴海城主となったからには、それが岡部元信の強い願望であり、その願望を叶えるために彼は必要なことを為したであろうと思われる。鳴海城主となるのに必要なこと、それは山口親子を亡き者にすることである。義元は尾張に派遣した岡部らの独走を掌握するために、訴えを起こしている山口親子を駿府に呼び寄せた。義元は直接に山口親子から実情を聴取しようとし、親子は面と向かって窮状を訴えようとした。しかし何らかの手段を講じて、岡部元信は山口親子が駿府に到着する前に彼らの命を奪ったのである。
ここに述べた結論を裏づける確証は、残念ながら存在してはいない。しかしながら、これまでの考察が獲得した状況証拠は、こうした結論を指し示していると言えるだろう。笠寺に楯籠った駿河衆は、在地の山口氏らの要請を受けた義元の命令によってやってきたのであるが、だからといって彼らが命令遂行にのみ忠実で、独自の利己的な活動を戒めていたなどということはまずないことである。また8年もの間、笠寺・鳴海にあって自勢力拡大のための活動をすることもなく、じっと「織弾」に対峙していたなどと考えることにも無理がある。それでも駿府にいる今川義元が、鳴海・笠寺の現地情勢を確実にコントロールできる権力をもっていたと主張するのであれば、その目線から村の当知行やそれを支える地侍の融通などという、磁力をもった底辺の活動が取りこぼされているのである。笠寺・鳴海の村々やそこに根を張る地侍は、彼ら自身のために主と頼む国人を選びとるのである。そしてこの求めに応じて山口教継や岡部元信が奔走しているのであり、それがこの地域を動かしているのであって、駿府の義元が指先で遥か離れた尾張の派遣者を操っているのではない。
山口教継は、義元に忠節を尽くしたのに「情なく無下~と生害させられ」たのだと太田牛一は語るが、教継は今川という大勢力に為す術もなく翻弄されたのではない。彼には、知多半島を北上して勢力を拡大する水野氏の脅威が迫っており、その脅威に対抗するために織田から今川へ転向するという決断をした。そしてその今川の力を利用して、ついには大高の水野氏を追い払うという念願を果たしたのであった。しかしながらその一方で、義元が派遣した駿河衆は役割を終えても笠寺・鳴海の地から去ることはなく、この地に彼ら自身の勢力を扶植すべく独自の活動を継続した。こうして虎の威を借りて狼を追った教継であったが、今度はその虎の子に脅かされ、ついには食われてしまうという皮肉な結果となったのである。
かつて織田信秀の懇望を聞き入れて「苅谷赦免」に踏み切った義元は、「味方筋の無事」を求めてこの地域の安定に力を注いでいた。しかしその義元によってこの地域に派遣された駿河衆は、今川方という枠組みに納まりきっていたわけではなく、自力富強を押して憚らない者たちでもあった。そしてそのことを主である義元が否定するというのは、当時の主従関係に対する矛盾行為として捉えられたのではないだろうか。つまり、領主たち個々の自力富強の延長にこそ、この時代の主従関係があるのだと考えるのであるが、先にも述べたようにこのことは次回以降に考えることにしよう。
太田牛一が、「浅猿敷<アサマシキ>仕合<シアワ>せ、因果歴然、善悪ニツの道理」と語るとき、その浅ましさや悪を義元にみているのであろうが、彼が知る以上に駿河の大大名はその意志の貫徹力が小さかった。そういう理解に立てば、浅ましさと悪はその運命の皮肉にこそあって、食ったものがまた食われる、あるいは食ったと思ったものが食い切れてなくて仇を為す、といったところにあるのかもしれない。鳴海の在所から山口親子の姿は消えたが、それで寄親たちの競合が消え去ったわけではなく、鳴海・大高・沓掛が形成する鼎の脚下の桶狭間は、ますますその情勢が流動化していったことであろう。そして尾張東南部で領主たちの浮沈が繰り返されている間に、信長は驚くべき急成長を遂げて、尾張の守護者を掲げて今川を討つべく立ち上がるのである。
山口教継は、念願としていた大高の水野氏を追い払ったが、その後彼は岡部元信に殺害され、またその元信は桶狭間の敗戦で鳴海城を追われて、報復としか思えない刈谷城襲撃を果たして水野信近を殺害する。山口教継にしろ岡部元信にしろ、なぜか鳴海城主となったものは、宿命的に水野氏と深い因縁を刻むのであろうか。そしてその後、不確かながら水野大膳が大高城に復帰したというが、この城については一巡して元に戻ったということになる。悪行はその当為者の滅亡に至るという廻り合わせを念頭において、太田牛一は「因果歴然」と言ったのだろうが、ここにみえてきたのは、興る者が時を経て滅するという流転、そして輪廻のように繰り返されて元に戻るという、ある種の調和であったように思う。しかしどちらも人智を超え出た結びつきであり、誰かの意図によるものだとか、合理的に説明できる成り行きだというわけではない。そしてこうした混迷を救おうとしていた今川義元は、この成り行きに彼の意図とは関わりなく運命的に結びつけられて、「山口左馬助が在所」に足を踏み入れたとたんに、絡んだ因縁にその足元をすくわれたのである。こうした義元が陥った状況を無理に説明することもできようが、様々な起こりうる可能性の中であの劇的な結末が用意されたのを思えば、それが「天道」であったとするのに、いつしか違和感は消えているのである。
by mizuno_clan | 2011-04-23 14:04 | ☆談義(自由討論)