【談義1】水野氏と戦国談義(第三十四回)

(つづき)
 このような「同心」理解を前提として「没収」を考えてみると、先に先取り的に表明した(没収-功績-還付)という一連のセットは、この同心が根底にあって成立しているのだと思われてくる。現代語の『没収』は、その意味内容にこのような一連性を含むことはなく、正当に取り上げるということで完結している。それに対して元信への処分としての「没収」は、それ単独で終始するものではなく、功績を経て還付へ接続されるべきものとして位置づけられるものである。「通法に任せて・・・同心すべし」という文言を、「これからは規則と命令の枠内で、これまで通り意を合わせていくように」と理解するならば、この「同心」を媒介として没収に功績と還付が接続していたと解釈されるべきだろう。このことからすれば、氏真文書に現れた「没収」という用語は、現代語の『没収』とはそれ単独での意味内容は同じようであっても、「没収」の実態が(没収-功績-還付)であるかぎり、その本質的な意味内容は大きく異なると言えるだろう。
 「欠所」や「没収」がある処分であることは間違いないが、そうであれば処分する側と処分される側、さらに処分対象となる知行などが、その処分を構成する要素である。そしてその処分が何であるかは、処分する側とされる側の関係によって規定され、また処分対象によっても規定される。現代語の『没収』においては、処分する側もされる側も共に同じ集団に所属しており、同じ集団ルールによって拘束されている。そしてそのルールにおいて、処分する側が指定されており、また処分対象などの処分内容も同時に規定されている。現代語の『没収』が単に「取り上げる」という意味ではなく、「正当性をもった」ものであるというのは、こうした処分を構成する要素の規定によって成立しているわけである。つまりそれが正当だと言えるのは、共に従っているルールに基づいているという一点に他ならないのである。
 このような現代語の『没収』に比べると、歴史用語である「欠所」や「没収」をそれと同義であるとする見解は、この処分を構成する要素に関する規定がだいぶルーズなように思われる。そしてそのようなルーズさは、そもそも『没収』という概念にはとても収まらないものを、「没収のことである」で終わらせてしまっていることに起因しているのだと思う。さてここまでは、「欠所」や「没収」をする側とされる側の関係に注目して、現代語の『没収』と同義であるかをみてきたが、この先は処分対象である知行が『没収』の対象として妥当であるのかを考えてみたい。

 「欠所」という用語が現代語の『没収』に相当するという場合、必ず前提としているのが、欠所の対象は取り上げることができるものであるという認識である。そしてこのことは、没収対象が「屋敷」であるとか「俵物」であるとか、あるいは「知行」であっても同じことである。しかし一方で、「知行」は「屋敷」や「俵物」のような物ではなく、土地に対する用益権であるとされている。そして対象が物であるならば、眼前のそれを取り上げて鍵のかかった蔵にでも入れておけば没収は成立するが、用益の権利といったものであれば、どうやって被没収者からそれを切り離すのであろうか。
 権利は行使するものであるから、被没収者の権利が行使されている間は没収したことにはならない。知行であれば、年貢を徴収している限り没収されたことにはならず、徴収できなくなって初めて没収成立となる。そしてそこには権利を行使される相手がいるのであるから、その相手が年貢を納めることを停止しなければ没収は成立しないということである。ここで没収を構成する関係者を整理すると、物の場合は没収者と被没収者に限定されるが、知行の場合はこれに加えて貢納者が登場してくる。そしてこの没収がスムースに進むかどうかは、貢納者の行動にかかっている。たとえ被没収者が没収処分を受け入れていても、貢納者が従前同様に被没収者に年貢を納めてしまったら没収は成立しない。反対に被没収者がどんなにそれを拒んでも、貢納者が年貢を納めなければ没収は成立してしまうのである。こうして知行の没収に関しては、貢納者が没収を了解していることが、それを構成する重要な要素であると考えられるのである。
 次に没収対象の現存在という観点で言うと、物に対する没収処分であればその物は今そこに存在しているが、それが権利となると、その行使対象が現にそこに存在するとは限らない。たとえば年貢徴収の権利であれば、それは一回限りの行使ではなく、永続的な行使を可能にするものでなければならない。そしてその権利の対象となる年貢は毎年生み出されるもので、権利行使の前に生産活動とその成果の回収が事実として成立していなければ、それが当然の行使であっても実態がともなわない。しかしだからといって、この事実としての成立に権利が左右されるというわけではない。例えば、相手にお金がないから債権が行使できないということはなく、その場合は行使が時間的に延長される。あるいは行使先があるルールによって、別に振り替えさせられるのである。このように権利というものは、「相手にお金がない」といった事情を無視し捨て去った次元で成立しているものである。
 年貢を徴収するという事態は、徴収権という次元で捉える場合と、徴収するという事実の次元で捉えるのでは、その意味する内容が大きく異なってくる。権利の次元であれば、どうであろうと行使は当然であって、それを妨げるものは存在しない、させないという前提が成立している。したがって貢納者の了解だの、その年の実りがどうであったかなどは、徴収権の行使には無関係である。しかし事実・現実の次元では、この当然の行使を妨げる事態は往々にして発生する。このように権利の行使と現実は少なからず対立するのであるが、それを調整するのが制度でありシステムである。そうであるならばこの制度・システムの熟成度によっては、権利が現実に引きづられることは避けがたいこととなる。
 歴史用語としての「欠所」や「没収」が、現代語の『没収』と同じ意味であるとするとき、現代社会と同等な制度やシステムの熟成度が前提されているのだろうか。あるいは『没収』という言葉を使うとき、そのような権利を支える制度やシステムの熟成度は、まったく度外視できるものなのだろうか。『新修名古屋市史』においては、「欠所」を『没収』の意味で受け取ることと、信長のような統治者に「唯一裁定権」を認めることが、相互補完的な働きをしていた。この相互補完的な関係においては、権利が権利として機能し、その諸権利の上に立ってそれを総覧する権利が存在することが、そこにおける『没収』の存在の確信につながってもいる。しかしこの相互補完において、権利は現代よりもはるかに現実に引きづられていたのではないか、という疑問はどのように解消されたのであろうか。
 信長はG文書において、「当知行に任せて自余に混せず、相違あるべからざるもの也」と言った。この「当知行」とは、権利としての知行に対する事実としての知行を表す歴史用語である、というのが一般的な理解である。「当」という語を付加することで、実際に知行しているという事実性を強調しているのであるが、これは「不知行」という、年貢徴収権があるのに徴収できていないという実態の対概念である。このような当知行理解を前提としてG文書のこの箇所に向かうならば、誰かによって「欠所の判形」が出されているとしても、実際に年貢を徴収している事実にしたがい間違いなく知行せよ、という解釈になるだろう。このようにG文書においては、宛人の当知行が「欠所の判形」を排除する根拠としての役割を果たしている、という解釈も可能となるのである。
 この時代、知行に対する当知行の優先という現実があったと理解されているのであるが、そうなると没収もこの当知行に向けられることになる。しかしながら当知行、すなはち知行事実を没収するとは、いったいどういうことなのだろうか。知行を用益権とするのであれば、権利は没収可能であるからよいでのであるが、当知行となると知行と同様に没収可能であると言いえるものであるかどうか、この点についても考察をむける必要があるだろう。

 「当知行」というものが、年貢徴収事実であるとして、その「事実」の意味をまずは考察してみよう。ここで「事実」だとされるのは、年貢徴収が実際にできているという事態なのであるが、年貢徴収ができているという事実性を構成するものは何であろうか。

a.生産物が存在する。
b.生産物を年貢に交換できている。
c.年貢が徴収されることを生産者が了解している。

 まずは、生産物が存在しなければ話にならない。しかし生産物が存在するためには、生産者による生産活動がおこなわれ、その成果が生産物として回収されているのでなければならない。そしてその生産物が年貢になるのであるが、そこには直接の生産物を求められる年貢の形態に変換する必要がある。それが米であれば備蓄可能な米俵にするとか、売って銭に替えるとかである。さらに生産物を年貢に変換することを、生産者が同意していなければならない。このように年貢を徴収するためには、生産活動から年貢への変換までに幾つものプロセスが必要であり、その間には多くの人が関わりを持つ。そしてこれらの事実が積み上がって、ようやく年貢を徴収するという事実にたどり着くのであって、事実性の観点からはこれら一つたりとも欠かすことができないのである。
 事実であるということは、その事態が在ったり無かったりするということである。したがって年貢徴収の事実においては、徴収するに至るプロセスのどこで躓く可能性があり、その場合は年貢が徴収できなくなる。このことからすれば、年貢を徴収「している」事実というのは、無事に徴収に至るプロセスがつながったという結果から徴収を捉えているに過ぎない。しかしながら当知行の「当」は「当てる」という能動性を含むもので、起こった結果をなぞっただけのものではない。それは年貢徴収が「できている」という成就の意味であり、そこに成就させようとする強い指向が存在するものである。このことは、権利としての知行が在ることと無いことを超え出て、何であろうと行使できるものであることと対照的である。
 このように当知行とは、年貢徴収の事実を知行者が創出しているという点で捉えてこそ、権利としての知行とその実を明確に分かつことが可能となる。そうでなければ、権利によって年貢が徴収していることも年貢徴収事実となってしまい、その場合には当知行と知行に区別がつけられない。知行とは権利の次元での年貢徴収であり、当知行と不知行は事実の次元で捉えた年貢徴収の在り様なのである。そしてこの当知行と不知行を分けているのは、年貢徴収を可能にさせる生産活動への参与がなされているか、そこから切り離されているかの違いに基づくのである。
 「当知行」とは、権利の次元を超えて知行者が生産活動に参与し、その参与によって知行者と知行が分かちがたく結びついている事態を言い表すものである。そしてこのことは、これまで何度も繰り返し確認してきたことであった。例えば第二十九回「所有の意味を探る②-融通と土地売買-」では、長谷川氏の以下のような指摘を引用していた。

 したがって、ここの百姓による土豪への売買契約としてみえるものも、じつは村内部で対処できない場合に行われた年貢未進補填方法であったと考えられよう。このような土豪の融通機能=年貢未進補填のシステムは、村の収納のシステムと、村としての立て替えのシステムの外縁部に存在していた。そして、村の機能と土豪の機能が一体となって、「村の成り立ち」が維持されていたのである。
(『中世・近世土地所有史の再構築』-「売買・貸借にみる土豪の融通と土地所有」長谷川裕子著)

 この時代「村の成り立ち」が維持されることは、当然ではあるが社会の成り立ちにとって不可欠である。そして村は自立性を高めて、自らの機能によって生産現場を維持していたが、「村内部で対処できない場合」には「外縁部」にいた土豪がこれを支えていたのである。そしてそうした「村の成り立ち」の維持は、土豪の参画に限られるわけではなく、より上位の知行者・領主も広く関与していたのであった。

 以上のことから、蔵に納められる収穫物は、各年貢請負人のほうから直接各貸し主に支払う借銭・借米や小作料と、自己の生活必要分を指し引いた分であったこと、さらに蔵に納入された収穫分は、まず借銭・借米や種貸分、そして村をつうじて払われる小作料の返済にあてられ、そこから残った分が領主の年貢分として算用されたことがわかる。つまり領主への年貢は各年貢請負人からの蔵入分から一番最後に支払われたことがうかがわれるのである。
(前掲書)

 ここに年貢請負人・貸し主・領主が登場しているが、その中で年貢請負人は「自己の生活必要分を指し引いた分」とあることから、耕作者であることがわかる。貸し主は村であったり土豪であったりするわけであるが、そこに領主が蔵入分の収納者として現れている。そして長谷川氏がここで指摘しているのは、「領主への年貢は各年貢請負人からの蔵入分から一番最後に支払われた」という、領主の年貢徴収のあり方である。この領主の年貢徴収権は、一般に上級所有権とされるものであり、派生的所有権の源泉だとされている。そしてこの時代、なおも領主であり続けた彼らには、その権利をまっとうできる実力も備わっている。このような実力を兼ね備えた年貢徴収権の最上位者が領主であるならば、通常その成果物の分配は領主から始まるはずである。しかしながらその分配の順序は、長谷川氏の指摘ではまったく逆になっているのである。
 しかし考えてみれば、耕作活動あっての年貢徴収には違いないのであり、そこで権利を振りかざしたところで、年貢徴収が確実になるわけでもなかったのであろう。そこで働いていたのは、特定のパイを奪い合うことではなく、ともすれば縮小してしまうパイを確実にするための協働だったのではなかろうか。そして経済的に最大の融通力をもつ領主が、時々の成果変動を吸収して、この協働体全体としての安定役を買っていたのであり、それが分配順序に現れていたというのが事の実態ではないかと思うのである。また貸し主の土豪や村にしても、借銭・借米や種貸分の単なる債権者ではなく、耕作現場の継続性を支えるための貸し手であろうとした者たちであったろう。こうしてここで押さえておかねばならないのは、権利云々で耕作活動とその回収という現実を、部分的に切り出して完結させるのではなく、その分かちがたい有機性を認識することなのである。
 ここに登場する領主を知行者であるとするならば、その知行を没収するということが何を意味するかを考えなくてはならない。長谷川氏は、生産現場の有機的関係性を「年貢未進補填のシステム」と呼ぶが、それは単に機能的なシステムということではないだろう。年貢請負人・貸し主・領主は、耕作活動が継続されるように相互に協働する関係にあるのであって、その土台として相互理解やそれに基づく信頼関係がそこにはあったはずである。そしてそれは年貢未進補填に限られるわけでもなく、生産活動が滞りなく継続してできるだけ多くの成果物を回収するという目標に向かった、自然的協働関係なのである。この自然的というのは、組織的という以前の関係ではあるが、それだけに自発性と相互理解がその基盤となっていることを示すものとなる。
 年貢徴収を権利として捉えるならば、その権利とともに知行者の交換は可能なのであるが、それは知行者が権利保有者として生産活動の外側に存在するからである。そして外側にいるということであれば、権利というフックで生産活動に引っかかっているだけなので、これの取り外しに支障はない。これに対して、生産活動に分かちがたく結びつけられている当知行は、分かちがたいがために切り離すべき境界線が確定できず、その交換は容易ではない。したがってこれを実施するとなれば、生産活動における関係性の組み替えが必要となるのである。取り上げることが可能であるためには、取り上げる当のものが周囲から区別できるのでなければならない。取り上げるものが単に権利であるのならば、それは付与したり剥奪したりが可能なようにもともと設<シツラ>えてあるのだが、生産活動に巻き込まれつつある当知行では、無理に引き剥がせば生産活動を傷つけかねないのである。しかしながら、だから没収はありえなかったと言いたいのではない。そうではなくて、この当知行のあり方に、もっと適合的な{没収}があったろうと思うのである。そしてそれを突き当てたとき、{没収}という用語は廃棄されて、それはもっと別な言葉で語られることになるだろうと言いたいのである。

 武士の経済的軍事的基盤である知行は、信長一人の意志によって宛行いそして没収する。これが、『新修名古屋市史』が言うところの「唯一裁定権」の中身となる。そして、信長の尾張在国時代に発給された文書に度々登場する「欠所」という処分は、この「唯一裁定権」の一方を構成するものとして理解されている。したがって、信長文書における「欠所」を没収の意味に解することと、信長が「唯一裁定権」を掌握していたこととは、この時期の尾張における軌を一にした解釈において成立しているのである。しかしながら永禄6年に発給されたG文書に、「誰々欠所の判形」と書かれていることは、自分以外の者による欠所処分がなされることを、当の信長自身が想定していることを示すものである。したがって、知行宛行いと没収を一手に握ることによる権力の集中という、この時代の戦国大名らによる権力拡大モデルが、このG文書においては端的に矛盾に陥ってしまうのである。
 また「欠所」という歴史用語が現代語の『没収』に相当するものだとする理解は、一方で同時代に「没収」という用語使用が存在することで、「没収」という用語が使用されている中でなぜ同意語の「欠所」が存在するのか、という疑問を呼び起こす。しかしそれは、若干のニュアンスの相違をもつ同意語であったとなれば、何か不都合があるというわけではない。それよりも重要なのは、それら用語を含む史料が抱えもっている奥行きを、どこまで掴まえようとするかではないだろうか。ニュアンスの違いは誤差やバラツキではなく、我々が見過ごしがちな現代的ではないものの暗示ではないか、とする感度がそこで問われているのである。
 この点において、今川氏真が永禄3年に発給した岡部元信没収地の還付に関する文書は、「没収」という用語を含みながらも、戦国大名今川の知行運用システムとして割切りがたい面をもっている。大名の知行運用システムとしてみるならば、岡部元信の知行が何らかの罪科によって没収された/その後になって元信の働きが功績と評価され/先の没収地が褒賞として還付された、という措置が運用システムの機能によって捉えられるだけのことになる。そしてそこにおいて、罪科の認定、罪科の重さに相応する処罰としての没収がおこなわれたが、それは没収処分というシステムに備わった手順の進行に過ぎない。そしてその没収処分は、その後になって岡部元信があげる功績とは無関係に単独で実施される。そして元信の働きが報告されると、運用システムが基準にしたがって評価を下す。さらにやはり基準にしたがって、評価に相応する褒賞が元信に与えられるのである。そこでは、過去に惜しくも没収された愛着の地などという思いなど無関係に、システムで定められた価値で褒賞が測られるのである。当時の今川の知行運用システムがこれほど無機質であったとは思わないが、しかしそれは程度問題であり、システムの性能が高くてその機能を余すことなく発揮したならば、かくあろうという描写である。
 本来、家臣統制を目的とした知行運用システムであれば、没収と還付は単なる偶然に過ぎない。功績に等価の知行を給付することがシステムの働きであり、それ以外の知行地の属性(元の知行地であるなど)は、等価を定めるにあたって障害になるだけなので、むしろ積極的に排除されることだろう。そしてさらに重要な点は、褒賞を受ける側も、そうしたシステムを備えた集団あるいは社会に属する以上は、過去に惜しくも没収された愛着の地などという価値観はもたないし、あったとしても単なる感傷として切り捨てられるのである。したがって没収と還付は結びつかないのであり、その観点に立ってみると、氏真と元信は何とも奇妙なことに拘っているように思えるのである。褒賞としての知行給付は重要であるが、それが「還付」である必要はない。そうであるのに、氏真は何度も「還付」という言葉を使っており、まるで没収地を戻したことに格別の意味があるかのようであるが、要はこのことをどう見るかである。
 こうしたニュアンスの奇異さを感知することに発して、先に(没収-功績-還付)という一体的解釈を提示した。そしてその根底にあるのは、システムの機能性ではなく、氏真と元信の関係性を根本で規定している「同心」である。この(没収-功績-還付)に示される「没収-」は、現代語の『没収』とその措置の現れ方は類似しているが、その措置の意味合いは同じではない。『没収』はシステム的な機能の枠組みで捉えられるため、「取り上げる」で完了する。これに対して「没収-」は、還付を期待しながら取り上げ、その行為を功績にトスするのである。このように「没収」という歴史用語を、同心を基盤とした「没収-」として捉えるとき、その対象である知行は、付与と剥奪を制御することで下位の者を統制するための、単なる手段ではないという考えに進むのである。
 知行を没収する側と没収される側が、システム機能下における単なるアクターであるという見解を離れると、知行者と貢納者の関係もまた、単に権利行使者と義務履行者というシステムの枠には収まらないとする考えに進む。当時、「知行」という用語では済まなくなっていた現実を、人々は「当知行」という言葉で表していた。そしてそこから見えてくるのは、権利と義務という関係を超えて協働する知行者と貢納者であった。その実態における知行とは、それが獲得しようとする当のものに巻き込まれつつ実現するという在り方をしており、そのような知行は権利であるかのような取り上げを阻むのである。

 さて、前回と当回の2回連続で、歴史用語の「欠所」と「没収」について、それを現代語の『没収』と同義とする見解に異を唱えてきた。そしてそれは何度も断ったように、単に歴史用語の解釈に留まるものではない。むしろここでの用語解釈は、その先にある歴史解釈の問題へと到る通路に過ぎないと思っている。「欠所」や「没収」が現代語の『没収』と同義だというのは、同義としてその語を通用させる社会的同質性があったということにつながる。そしてその同質性を前提として「欠所」と「没収」の意味を主張しているのであれば、少々の異を唱えたとしても例外や誤差に解消されてしまうだろう。『新修名古屋市史』が言うところの「唯一決裁権」に示されるような権力モデルは、極めて強固でありそのために個々の史料解釈では当然の如く前提とされおり、それが前提となっていることなど省みることなく解釈が進められていく。そしてその史料解釈は、その前提となった権力モデルをよりいっそう強固なものとするために貢献するのである。
 「解釈」、歴史探求にとって欠かせないこの言葉、この概念の意味するところを、ここらで正面から考えてみたい衝動に最近駆られるようになった。この間、「欠所という用語は・・・」と何度も考えをめぐらしたが、そのたびに用語と文と歴史認識が堂々巡りするようであった。そしてこのことは、言語と認識の関係というものが、歴史という特異な探求分野で鋭く問われざるをえないことを示しているのだと思う。そうしたわけで、「アナーキーと主従関係」を主題とする談義はひとまず置いておいて、次回からは歴史認識というものが如何にして成り立つものであるかについて考えてみようと思う。
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by mizuno_clan | 2011-11-03 11:24 | ☆談義(自由討論)