【談議1】水野氏と戦国談議(第三十六回)
[つづき]
歴史学は経験科学なのかという、ある意味挑発的な問いに答えるために、経験科学を「経験」と「科学」に分けて考えることにした。経験科学における観察や実験は、知覚体験の無謬性に依拠することでその客観性の足場を築くのであるが、過去の出来事を対象とする歴史学は、この知覚体験からはまったく切り離されている。この点でまずは、歴史学は経験(知覚)に基づく学問であるとは言えないと結論づけておこう。
歴史学は経験科学ではないとして、それでは科学なのかどうかを問うということは、それが科学的と同様の探求方法をとっているかを問うことである。経験科学における事実とは、知覚体験が直接にもたらすものであるが、当然ながらその事実を並べただけで科学が形成されるわけではない。知覚体験が現前させた事実、すなわち現象がどういったわけでそのようになったかを説明できること、これがなくては科学にはならない。それは事実のとらえ方は違ったとしても、歴史学においても同様のことである。
知られた歴史が単なる事実の凝集であり、従って歴史的知識の増大が何等歴史の認識でないことは既に何度も指摘されたところである。それら知られた歴史の本質を知りその意味を考えることが歴史学の究極の任務であることはいうまでもない。それらの間に法則を発見することも、又それらの事実を価値観点から個性的に理解することも、皆同一の要求から出たことであった。この法則性の認識と個別的認識とは歴史的に対する二つの、しばしば相反的な方法として別個に提出されてきた。しかしこの両者を関連せしめることなくしては、歴史学の問題は解かれることがない。
(林著『史学概論』)
ここで林氏が触れている、「法則性の認識と個別的認識とは歴史的に対する二つの、しばしば相反的な方法として別個に提出されてきた」という経緯について、ここで簡単にみておこう。
19世紀ヨーロッパには、R・v・ランケやJ・ミシュレ、A・de・トクヴィル、J・ブルクハルトなど、いわゆる「天才歴史家」が多く輩出し、学問的歴史学が誕生した「歴史の世紀」であった。とりわけランケは、「各時代は直接神に対している」と述べて、ヘーゲルの理性主義的進歩史観を激しく批判し、厳密な史料批判にもとづいて、「過去の事実があった、そのままに」記述する実証主義を歴史学の方法論とする。その結果、哲学者による体系的全体史への懐疑が支配的になるが、それと同時に、技術の影響が日常生活に顕著なった19世紀には、自然科学や数学を他の学問より優れた学問、ひいては学問そのものとみなすデカルト以来の傾向にますます拍車がかかり、さらに歴史学に関してその学問としての資格を問題とする「学問論」的傾向が哲学において浮上したのであった。ここで歴史学を、自然科学とは別な意味における学問とする立場と、自然科学と同種の学問であるとする立場と、二つの立場が生まれる。
前者の立場をとったのは「新カント派」と「解釈学」だった。自然科学を範とする立場からすれば、法則を見出しえない歴史学は学問ではないが、それに対して新カント派のヴィンデルバントは、学問としての目的や手法が、歴史学と自然科学とでは異なると主張する。「歴史家の任務はなんらかの過去の形象にそのまったき個性的特性を付与して新たな生命によみがえらせ、それを観念的に現前せしめる点にある。・・・自然科学の認識目的は理論である。・・・無時間的不変性をそなえて一切の世紀を支配する法則的必然性を認識しようとする」(ヴィンデルバント)。ヴィンデルバントやその僚友リッケルトにとっては、自然科学が、時と場所を選ばずあてはまる普遍的自然法則を一般化によって見出して、それをもとに理論を構築する「法則定立的学」であるのに対して、歴史学は、過去の個別的な出来事・人物を活写する「個性記述学」であった。
(『歴史の哲学』貫成人著 勁草書房)
林氏において、「法則性の認識と個別的認識とは歴史的に対する二つの、しばしば相反的な方法」とされていたことが、ここでは「歴史学を、自然科学とは別な意味における学問とする立場と、自然科学と同種の学問であるとする立場」の2分化として述べられている。19世紀になって史料考証を確立させた歴史学は、一見経験科学のような装いをまとったのであるが、その歴史的説明が方法論として自然科学と同種であるか、それとも別の特殊なるものであるかが問題になったということである。そして「この両者を関連せしめる」林氏の立場は、以下のように表明されている。
かくして、私は以上の考察から、すべての歴史事象をただ一つの法則によって説明することは不可能であるという結論に導かざるを得ない。人間社会はさまざまの要素の複合体であって、そこにはさまざまの力が作用し合い、それらの力はそれぞれに何等かの自己の法則を持っている。[中略]
しかしながらあくまで法則性を歴史学の要請としながらも、歴史の法則を自然法則と同一視することは何人にもなし得ることではない。ここにおいてはやはり歴史法則の特殊性というものが考えられなければならないのである。
(前掲書)
ここで林氏は、「法則性を歴史学の要請」とする点でそれは自然科学と同じであるが、その法則は「自然法則と同一視する」ことはできず、「歴史法則の特殊性というものが考えられなければならない」と述べている。しかしそうだとすると、歴史学に固有の法則性とは何であるかが問題になるのであるが、その前に「自然科学と同種の学問であるとする立場」、すなわち歴史学は自然法則と同型の法則によって出来事を説明しなければならない、とする立場についてみてみることにする。
歴史学を自然科学とは別種の学問としてとらえようとする新カント派や解釈学に対し、歴史学と自然科学とを同じモデルでとらえようとするのがウィーン学団(論理実証主義)のK・ヘンペルであった。ヘンペルによれば科学的説明とは、一定の普遍法則と初期条件から、説明されるべき現象を演繹するものである。かれが挙げる例によれば、早朝、車のエンジンがかからず、ラジエターが破裂していることに気づいたときなされるつぎのような推論がそれにあたる。「昨夜は冷え込んだのに、ラジエターの蓋を閉めたままだった。そのため、冷却液が凍結し、膨張してラジエターが破損した」。このとき、「前夜の気温低下」「ラジエター内の冷却液密閉」などという事実(K1、K2・・・)と、「液体は凍結すると膨張する」という一般法則(L)から、「凍結した冷却液が膨張しラジエターを破壊した」という事実(E)が「演繹」され、それによって問題の事実が説明されることになる。一般に、出来事Eが「なぜ起こったのか」という問いに対しては、他の出来事K1、K2・・・、ならびに一般法則L1、L2・・・を挙げることによって答えることができ、その両者からEが論理的に帰結すれば、出来事Eは説明されるが、このような考え方を「演繹的法則論理モデル」または、「被覆法則モデル」とよぶ。
ヘンペルによれば、自然現象に関するこのモデルは歴史的出来事にもあてはまり、フランス革命や明治維新も「貯水池の決壊」や「地質学的異変」と同じように説明しうる(リクール『時間と物語り』)ため、歴史学と自然科学が学問としてもつ性格に相違はない。ヘンペルの主張は、かれが属したウィーン学団の「統一科学の理念」に沿ったものであり、この理念からすれば、歴史学も「学問(科学)」を標榜する以上、自然科学と同様、法則定立的でなければならない。
(貫著『歴史の哲学』)
「歴史学は経験科学なのだ」と主張すれば、当然ながら「ならばそこに普遍法則と、そこからの演繹という厳密さを備えているのだな」と問い返される。それはまさに当の経験科学の側から、冷ややかな目をもって、あるいは自然科学に歴史学をも隷属させようという意図をもって発せられるのである。ここに登場するヘンペルは、ウィーン学団に属する論理実証主義者である。そして彼らの「統一科学の理念」とは「自然科学の方法、ひいては物理学の方法によって、あらゆる科学を方法的に統一しようと目論んだ」(野家『物語の哲学』)ものであった。ここに野家氏が「目論んだ」という表現をつかうのは、まさにそれは野望といってよいものだからである。この論理実証主義はその後衰退したが、その理念を推し進めれば、「革命や戦争と言った歴史的出来事を心理的・個人的行動に分解し、それを生理的現象に、さらには物理・化学的現象にまで還元することによって説明する」(野家)までに至るのである。「歴史学は経験科学なのだ」などというのは、思うにずいぶんと不用意で無用心な発言だと思うが、いかがであろうか。
さて、このヘンペルの主張は、歴史学というよりも歴史哲学に大きな波紋を拡げることになったのであるが、それに対する根本的な批判も生まれた。その批判は、貫氏の要約によると以下のようになる。
第一に、歴史的事実に関する因果的説明は実行できない。「ルイ十四世の不人気」を「外交政策の失敗」に求めたとしても、外交に失敗した君主がすべて人気を失うわけでないのだから、説明を完成するためにはルイ十四世に関する他の要因をあげなければならない。ところがいくら記述を増やしても、類似の状況で人気を保った統治者を見出すことはつねに可能であるため、「ルイ十四世の不人気」の説明には数限りない事実が含まれることとなり、結局、その説明は、ルイ十四世という個別事例の記述でしかなくなってしまう。
第二に、そもそも自然現象について普遍的一般法則を定立しうるのは、自然現象が反覆可能で規則性がみられるためだが、多くの論者にとって、歴史的出来事は反覆不可能は「唯一の出来事」であり、それゆえ、規則性や反覆可能性を語る余地はない。しかも、かりに歴史的事象について、一般命題を定立しても経験的確証は不可能である。一般法則が不可能なのだから、歴史において「予言」は不可能であり、「歴史決定論」は成り立たない。
(前掲書)
非常に的確な要約であり、ヘンペルにくわえられた批判がよくわかる。そしてある意味このような批判によって歴史学は、「統一科学の理念」という野望に蹂躙されることから救われたと言えるだろう。しかしそうなると、歴史学はやはり固有の歴史説明の方法論をもっていることになる。林氏もまた、「歴史法則の特殊性というものが考えられなければならない」と述べていたが、その特殊性とはどのようなものかについては、詳細を欠いている。
かくして、私は以上の考察から、すべての歴史事象をただ一つの法則によって説明することは不可能であるという結論に導かざるを得ない。人間社会はさまざまの要素の複合体であって、そこにはさまざまの力が作用し合い、それらの力はそれぞれに何等かの自己の法則を持っている。[中略]しかし実は条件が与えられたからといって、必ずしもその事柄が起こるとは限らない。それは可能性を与えることであってその実現を保証することではない。[中略]私はすべて歴史上の法則はこのような限定された意味における「制約性」の意味を持つものと解するのである。即ち主要な法則とは最も有力な条件を与える要因という意味であり、副次的な法則とはそれよりも小さな条件を与える要因という意味である。
(林著『史学概論』)
歴史上の法則には「制約性」が付随するというのであるが、それは歴史法則は確からしさが限定されるということに帰結する。
法則の妥当性は歴史の世界では自然の世界に比してはるかにより多く近似的であり、それ故に歴史の必然性は自然の必然性に比してはるかにより多く蓋然性の性質を持っているといえるのである。
(前掲書)
この林氏の見解を継承する遅塚氏もまた、「柔らかな実在論」とか「柔らかな客観性」といった奇妙な用語を繰り出すが、結局のところこの域を出ていない。そしてその主張は、遅塚氏が言うところの「構造史的事実」が拠りどころとなるのだが、その客観的な装いをして科学であると言えるのかどうか、ブローデルと物語り論の関わりについてこの先考察をくわえようと思う。いずれにしても、自然科学とは異なる歴史学固有の方法論とは、いったいどういったものであるか。そのことに対する明確な回答はどこにあるのだろうか。貫氏はこれに、「因果法則を用いないとするならば、歴史記述は過去をどのように説明できるのだろうか。この問いに答えるために提案されたのが物語り論にほかならない」と応答する。
その学の対象となる事象を説明するために、まず事象自体の確保が不可欠であるが、歴史学が過去の出来事を対象とするのであれば、それは科学的経験すなわち知覚することはできない。知覚に依存せずに、どうやって事実(過去の出来事)をとらえるのかについては、歴史叙述のネットワークに対する整合性が基準となることは示したが、このネットワークがどのようなメカニズムを持つものであるかには言及していない。そして事象を説明するための方法論であるが、これについては少なくとも自然科学のそれとは異なる特殊なものである、という結論をえるに至った。しかしそれでは、因果法則を用いずに、どうやって客観的な説明を歴史学はしているのであろうか。これらの問題は次回以降に持ち越しとなるが、前回と今回のテーマである「歴史学は経験科学か」の答えは出たはずである。そして、経験科学でなければ客観的な学問ではない、といった強迫観念は振り切るべきであることも、幾らかは示せたのではないかと思っている。しかしこのことを真に果たすためには、科学とはそもそもいかなるものか、という科学哲学の本丸に乗り込む必要がある。そして奇妙なことに、歴史学と科学哲学とは深い因縁で結ばれているのである。科学哲学と言語学を専門としながら、歴史物語り論で各方面の注目を浴びた野家啓一氏の次の言葉を、この「歴史学は経験科学か」の締めくくりとして以下に示しておこう。
しばしば問題になる「歴史は科学か?」という問いは、明らかに歴史哲学の問いであると同時に、科学哲学の問いでもあるのです。また認識論の場面では、「過去の実在」をめぐるやっかいな問題は、たとえば「電子の実在」をめぐる問題と、原理的に知覚不可能な対象の存在を論ずるという点では基本的に同じ構造をもっています。そうした理由から、僕の問題関心は、最近の科学哲学や分析哲学の成果を踏まえながら、その延長線上で歴史哲学に関わる諸問題を考察していこうというところにあります。
(『歴史を哲学する』)
だが、旧版の刊行から十年近くを閲した現在の時点から見直してみると、出発点の企図は別にして、本書が歴史学における「言語論的転回」の趨勢に掉さしていることは認めざるをえない。また、そのように位置づけられることを拒否しようとも思わない。私としては歴史学の論争に介入したつもりはまったくなかったものの、歴史学者の三宅正樹氏から思いがけず好意的な批評を賜ったことは、私にとって大きな支えとも励みともなった。ただ、私の目指す本丸が「科学のナラトロジー」にあり、「歴史のナラトロジー」はその前哨戦というべきものであったことは、ここで一言付け加えておきたい。
(『物語の歴史』岩波現代文庫)
by mizuno_clan | 2012-02-19 22:53 | ☆談義(自由討論)