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【談議1】水野氏と戦国談議(第三十七回)

歴史と過去③-過去観察と歴史-

談議:江畑英郷

 今回から始めて続く何回かは、「歴史物語り論」について考えをめぐらせてみようと思う。「歴史」が「物語」と結びつけられることに、違和感あるいは拒否感を抱く傾向は未だ少なくない。林健太郎氏の志しを継いで、『史学概論』を著した遅塚忠躬氏は、物語り論では「歴史は“よくできたお話”、つまり、筋の通ったお話なのだ、ということに帰着し、歴史学と文学の垣根は見事に取り払われる」と述べて歴史物語り論を退ける。「物語」という用語が、歴史学の専門家にフィクションを連想させることが、実証を掲げる、あるいはそれにこだわる立場を刺激するのであろうが、もとよりこれは誤解である。鹿島徹氏の提案で、「物語」ではなく「物語り」と用語をあらためても、実証の現場から踏み出そうとしない以上、歴史物語り論は敵だという認識に変わりはなく、歴史学が新たな視点を獲得する機会を自ら閉ざしているようにも見える。ただし、歴史物語り論を必要以上に「物語」に引き寄せて考えるべきではなく、むしろこの論の核心は認識の時間性にあるということを、ここで順次示していければと考えている。

 まずは歴史物語り論が、歴史学にどのような関わりを持っているのか。その当たりから始めることにするが、この点については簡潔にこれを説明している以下の文を引用することにしよう。

 歴史は現在を巻き込むが、そのあり方を掘り下げれば人類の過去と現在、未来を覆う「人類史」が問題となる。ヨーロッパにおいて人類史を問題にしたものといえば、まずあげられるのは、ヘーゲルやマルクスに代表される十九世紀の「歴史哲学」だ。ところが、二十世紀にはいると「歴史の哲学」は「歴史学の哲学」へと変貌した。歴史学に関する哲学的検討が必要となるのは、なにより、歴史学がそもそも学問として可能かどうか、かならずしも自明ではないからである。たとえば「赤穂浪士」事件において通常は悪役として描かれる吉良上野介はその領地では名君とされるが、このように、同じ事柄に関する記述も著者によって異なる場合がある。また、物理学などの自然科学、社会科学や経済学など社会科学においては研究対象を直接、観察・観測・実験できるのに、歴史学の場合、それは不可能である。このことは歴史学者にとっては不満の種であり、歴史学の「客観性」を疑う論者にとっては攻撃の的だった。
 この問題の解明・解決は哲学的にさまざまな立場から図られたが、そのひとつに「歴史の物語論」がある。物語論の代表者のひとりアーサー・C・ダントーは、直接観察不可能だからといって歴史学が不可能になるわけではないと述べた。むしろ、「過去に直接触れることができないからこそ、歴史というものがある。…それは歴史を不可能、不要にするのではなく、歴史を可能にする」とかれは言う。

(貫成人著『歴史の哲学』勁草書房)

 歴史学の紛れのない特質は、その研究対象である歴史が、直接観察することができないという点にある。貫氏は、そのことが20世紀になってあらためて学問上の問題となったとし、「“歴史の哲学”は“歴史学の哲学”へと変貌した」と述べる。ただしどちらも「の哲学」であって、そのことがどれほど歴史学自体と接点をもつのかは疑問だ。本談議の三十五回では、「日本の歴史学界においては、“認識論的懐疑論によって苦しんだという感覚は、とくに最近まではそれほど明確ではなかった”といわれるが、その後もさしたる変化はない」という鹿島氏の言葉を引用した。また二宮宏之氏が『歴史の作法』で述べた、「いわゆる“プラクティカルな歴史家”、古文書館に通い生の資料をひもとく作業をもっぱらの仕事と考えている歴史家にはすんなりとは入っていかない」という指摘も思い出される。こうした歴史学の基礎を問い質そうとする議論が、「すんなりとは入っていかない」という理由の一つには、「の哲学」とあるようにそれが哲学的議論であることが大きいように思う。さらに理由をあげれば、これはやはり実証史学という座り心地の良い立場に安住しているところに、このような疎通の悪さが出来しているのだろう。実証史学というものは、歴史研究における学問上の立場であるが、それは特定の認識論に依存している。これまで取り上げた林氏の著した『史学概論』、そして遅塚忠躬氏の『史学概論』に認識論の議論が繰り返し登場するのは、歴史学の足場を確かに記そうとすれば、必然的に哲学的議論にならざるをえないからである。
 林氏は、「“歴史とは何であるか”という問題が“いかにしてそれが認識出来るか”という問題につき当たらなければならないことは、哲学における実在論が認識論につき当たるのと同じく必然的なことである」として『史学概論』の筆をとった。それからおよそ50年後、遅塚氏は「近年、いわゆる“言語論的転回”以降、歴史の“物語り”論がにわかに学界で脚光を浴びていることは大方に周知のことであろうが、そこでは、歴史学と文学の間の垣根を取り払うことが提唱されている」と『史学概論』に記した。貫氏は、歴史学の客観性に関する「問題の解明・解決は哲学的にさまざまな立場から図られたが、そのひとつに“歴史の物語論”がある」とするが、遅塚氏は歴史物語り論が歴史学の客観性を脅かしていると反対の理解を示している。どちらにしても、「林先生の著作からすでに半世紀以上が経過し、その間に学会の動向も大きく変化した」(遅塚)わけで、その中心に歴史物語り論があるというわけである。
 歴史物語り論の登場が、これまでの実証史学に大きなインパクトを与えたことは間違いがない。しかしその一方で、それでも歴史学の実務家には「さしたる変化はない」、あるいは「すんなりとは入っていかない」という状況がある。そこには科学の確からしさと同じくらいに、実証史学は揺るぎないものだという確信、いやそうではなく無自覚がそこにあるのだろうか。本談議が三十五回以降、歴史学の哲学のような考察をしているのは、この無自覚な実証史学が歴史の探求を阻害しているように思われるからである。したがって、その実証史学に対する無自覚が、そのままでは先へ進むことを難しくしているのであり、これを自覚するには歴史物語り論を知っておく必要がある。ということで、今回から歴史物語り論について考えてみることになっている。

 鹿島徹氏は、『可能性としての歴史』の中で、歴史物語り論を「“物語り<ナラティブ>」をキーワードに歴史について考える、複数の潮流にほかならない」と述べている。その潮流の一つにダントーらの分析的歴史哲学があるのだが、先に掲げた貫氏の引用文の最後に、ダントーが主張する歴史物語り論の要諦が示されている。

 過去が直接観察できないからこそ、歴史は可能になる。

 このように要約されてしまうと、何か開き直ったような言葉のようでもあり、その逆説的な言い回しに深い意味があるようにも思える。しかもここには、「物語り」というキーワードが登場していない。それでもこれが歴史物語り論の要諦だと思うのであるが、そのことを順次考えていくことにしよう。まずはダントー自身が、このことをどのような文脈で語っているのかをみることにする。

 ベアードや一般に歴史的相対主義者は、科学者には歴史家がもつことのできないような利点があると不満を発する。ベアードによれば、たとえば歴史家は科学者とちがって、その主題となる事柄を観察できない。「歴史家は、科学者が試験管や化合物を見るように、客観的にそれを見ることはできない」。これはどこか奇妙な嘆きである。なるほど過去を観察することはできないが、それは歴史自体の欠陥ではなく、それを克服することがまさしく歴史の目的であるようなひとつの欠陥である。同時に人が病気になることが医学の欠陥なのではなく、むしろ病気の基体となる人間自身の欠陥のためにこそ、医学が存在するのである。私たちが常に健全であったなら、医学は必要なかろう。都市がある空間的な距離をおいて存在することは、輸送システムの欠点だとはみなされない。言うなればそれは、輸送システムがそれを克服すべく配備されるようなひとつの欠陥にほかならない。過去に直接触れることができないからこそ、そこに歴史が始まる。歴史は自らの存在をこの事実に負っているのである。それは歴史を不可能に、不要にならしめるというより、歴史を可能にする。
(アーサー・C・ダントー著、河本英夫訳『物語としての歴史』P119)

 人が病気になるからこそ医学が必要とされ、都市が離れているからこそ輸送システムが配備されるのと同様に、観察するという直接的な方法で過去を知ることができないからこそ、歴史学が備える学問的方法とそれを駆使した努力が必要となる。ダントーが述べていることは、このような意味であるようにも思える。しかしそうであるのならば、「過去が直接観察できないからこそ、歴史学が必要となる」という言葉になるはずである。貫氏においても河本氏においても、「歴史を可能にする」という訳であって、「歴史学を必要とする」ではない。
 「歴史学が必要となる」という理解は、「からこそ~可能にする」を、欠陥に対する対処法が示されていると考えるものである。反対に「歴史を可能にする」は、前文がそれの特質あるいは成立要件を示しているという理解になる。ダントーがあげる医学や輸送システムは、病気や都市間の距離という欠陥に対する対処法として示されているので、その流れからすれば「歴史学が必要となる」が正しい。しかしながらダントーは、先の文章に続けて次のように書き記す。

 だが科学者が原則として、直接的な観察によってその主題に接するのでないことは、労をまたずして自明のことである。なぜなら科学者が通常取り扱うものは観察不可能で、その結果彼らは精密な理論や技術に依存しているからであり、また科学者が直接観察できるものが主題とはなんら緊密な関係をもたないのは、歴史家の観察するもの-メダル、写本、陶片-がその主題と関係をもたないのと変わりがない。

 科学も歴史学もどちらも、「直接観察できるものが主題とはなんら緊密な関係をもたない」点では同じである、とダントーは述べている。先に「その主題となる事柄を観察できない」ことに対して、「これはどこか奇妙な嘆きである」と言っていたが、そもそも主題と観察に緊密な関係がないのだから嘆いてみせる必要などないのだ。そうであるのならば、過去に直接触れることができないことは欠陥などではなく、そもそも過去は観察の対象でもないということになろうか。したがって、欠陥の対処法として歴史学が必要となっているのでもないわけで、それはむしろ観察できないことが歴史の要件である、ということを指し示しているようである。
 ダントーが言うところの、「科学者が直接観察できるものが主題とはなんら緊密な関係をもたない」という主張は、科学哲学者であるハンソンが提唱した観察の理論負荷性テーゼを前提としている。この観察の理論負荷性については、次回に詳しく取り上げる予定である。したがって科学的観察のことはひとまず置いておき、歴史における観察に的を絞って考えることとなる。以降では、実在を観察することが客観性の要件であるという考え方を歴史学に持ち込み、直接観察の不可能性を史料批判によって克服するという立場、それは実証史学と呼ばれるものに相当すると考えるのであるが、その考えにダントーの「過去が直接観察できないからこそ、歴史は可能になる」をぶつけてみたいと思う。

 「歴史家は、科学者が試験管や化合物を見るように、客観的にそれを見ることはできない」とベアードが嘆くとき、「客観的」という用語は「直感的に知覚する」(ダントーはこれを脚注で指摘している)を意味する。観察とは対象を直接知覚するということであり、この知覚の対象であるということが実在の意味である。そして過去の知覚は、過去の観察記録として残される。この過去の観察記録、それを歴史家は史料と呼ぶのであるが、過去が直接観察できない以上その史料が歴史学の研究対象となる。

 過去の事実を認識するということは、人間の直接の感官によってはなし得ないことである。従って過去の事実と現在の我々の感官を媒介するものが必要である。この媒介物が即ち史料に外ならない。
(林健太郎著『史学概論』)
 われわれは、研究対象としての事実を、直接に見ているのではなく、過去の残した痕跡(遺物や文書)を通して間接的に見ているだけである。その痕跡は、ふつう史料と呼ばれている。したがって、われわれは、史料を通して事実を知るのである。
(遅塚忠躬著『史学概論』)

 上記のように、史料を過去との「媒介物」あるいは「過去の残した痕跡」と捉える考え方を、今後は史料痕跡論と呼ぶことにしよう。この史料痕跡論は、実在と知覚と歴史認識の関係を規定するものである。

 まず、史料の解釈という作業は、媒体たる史料の背後に客体たる事実が実在することを前提にしている。この前提はいわばアプリオリな前提であるが、史料に「痕跡」が記されているのなら、その痕跡のもとになる何らかの「事実」が実在すると想定するのは、当然の前提であろう。(その前提が成り立たなければ、「痕跡」は虚偽または無根拠の幽霊になってしまう。史料の記述が虚偽または無根拠である場合には、そのことは史料批判によってほぼ確実に看破されるのであり、そういうウソの史料は史料解釈の対象から排除される)。史料の解釈は、この前提のもとで、諸史料の批判や読解や照合によって、痕跡の背後の事実を認識しようとする行為である。他方で、事実の解釈は、こういう事実の認識を前提として、諸事実の織りなす関連を想定し、そういう関連の中でその事実のもつ意味を検討しようとする行為である。
(遅塚忠躬著『史学概論』、東京大学出版会)

 過去のある時点に事実が存在し、それが知覚(観察)されて記録される。記録は木片や紙に残され、これが後世に伝わることで史料と呼ばれるようになる。史料というものは、一つにはそこに文字あるいは図表が記載された記録物であり、それは今目の前にある物であるから知覚することができる。そしてこの史料に記載されている文字あるいは図表を読解することで、その内容が理解されるのであるが、この「読解する」とはどういうことなのであろうか。

 つまり読書に置いては、もしそう言ってよければ、私たちはことばを通してその「向こう」を見るのであり、事実、ことばを物理的対象としての身分、つまり乾いたインクの丸や鉤形として知覚することはまずありえない。一面に書かれたことばを前にして、それがしるしにしかみえない人というのは、大別して三種類あるだろう。すなわち文盲、ある表記法は読めるが他の表記法は読めない人、脳になんらかの損傷がある人である。石の積み重ねを見てノルマンの建造物だとわからないシシリアの農夫は、歴史的な意味で文盲である。彼は石がなにを語っているか知らないからだ。[中略]私たちはいま過去を見ているのではない。私たちは眼前にあるものを見ているだけだ。しかし読みとは解釈の行為なのであり、しるしをことばとみなすことは、既にそれらを解釈を要請するものとみなしているということである。
(『物語としての歴史』P114)

 痕跡であるということは、主題(認識の対象)が目の前には存在しないということであり、したがってその主題への至り方は、「指向する」という表現を用いるほかない。本を読むということも、目の前にないものを指向するという点において、痕跡を前にしていると言ってよいだろう。読書においては、目の前にある「乾いたインクの丸や鉤形」が知覚されているが、指向しているのはその意味である。林氏や遅塚氏は「媒介する」とか「通して」とそれを表現するが、空気が音を媒介するとか、ガラス官を通して液体が流れるといったことと、「指向する」は大きく異なる。音が伝搬するという現象は、発信源と受信先を空気の振動が物理的に仲立ちをするというものである。また液体の流出元と流出先の間にガラス官があって、その中を液体が流れるのであるが、これらにおいては起点-媒体-終点が物理的に接合している。したがって、同じ物理的次元にあるものの間の疎通であり、その媒体自身も同次元に属している。このことはその媒介や疎通を、物理的な因果関係で説明することを可能にする。これに対して、「乾いたインクの丸や鉤形」が事物や出来事を「指向する」という場合、知覚できているものが知覚できていないものを指し示していることになる。このように、知覚できていないものながら指し示しの対象となっているものを、ひとまずここでは「意味」であるとしておこう。この「意味」については、これもまた次回以降になるが、ソシュールの言語論に言及する中で踏み込んで考えてみたい。
 知覚物が目の前にない主題を指し示すこの「指向する」という用語は、「媒介する」や「通して」で置き換えられるものではない。知覚物とその指向対象は、その両者の間に指向に先立って関係が存在するのではない。このことはソシュール言語論に関わることであるが、ここではダントーの示した「シシリアの農夫」の例で簡単にこのことに触れておこう。シシリアの農夫たちは、何世紀にも渡ってそのシシリアの大地を耕してきたのであるが、その間いつも彼らの農作業を邪魔してきた点々とする岩群を呪ってきた。その動かすには重すぎる岩々は、彼らにとっては何の価値もないただの邪魔物に過ぎない。しかしこれを観察した歴史家は、一目でこれが古代ノルマンの遺跡であることに気づいた。この遺跡の観察の長さという点では、歴史家は当地の農夫にはるかに及ばない。そうであるのに、この岩を何とかしたいという長年の観察は、痕跡を痕跡として見れなかったのである。このことは「痕跡」という現れが、当然の前提ではないということを我々に教える。

 ここで私たちは、史料というスクリーンを透視して過去の出来事の全景を見定めようとする歴史家のイメージを捨ててしまおう。それよりむしろ、「記録としての歴史」を凝視することによって過去の出来事についての記述を試し、確認し、検討しようとする歴史家像を描くことにしよう。これによって、現実性としての歴史を暗黙に指示するのでなければ、記録としての歴史とみなしているものを見ることはできないという前述の私の考察に、さらなる意味が加わると思う。ひとは、ある過去についての記述が正しいかどうか知ろうとする。そこで彼は、正しく言えば歴史的観察と呼ばれるべきものを行う。平たく言うと、記録を調べるのである。だかちなみに、「記録である」は関係を指示する述語であることに注意して欲しい。私たちは、~の記録としてものごとについて語っているのである。したがって正しく記録され名指されるためには、それはすでになにか他のものとある関係を結んでいなければならない。
(『物語としての歴史』P125)

 ここでダントーは、「現実性としての歴史を暗黙に指示するのでなければ、記録としての歴史とみなしているものを見ることはできない」と述べている。これはシシリアの農夫が、ノルマンの遺跡(記録としての歴史)を、古代ノルマンの建造物(現実性としての歴史)として見れないのは、彼らが古代ノルマンの建造物がどのようなものであるかを知らないからだ。それが痕跡だと言えるのは、ただそこにそれがあるように在るものを超えてそこには無いものを指向する、がすでに踏み出されているからである。痕跡がまずあって、しかるのちにそれを媒介として痕跡を残した対象に至るのではなく、そこにない対象にすでに至っているところに痕跡は出現する。このことを別な観点で表現すれば、シシリアの農夫が見ていた岩は、歴史家が「透視」しているところの「主題」とは何の関わりもないのであり、それがダントーが言うところの「歴史家の観察するもの-メダル、写本、陶片-がその主題と関係をもたない」の真意なのである。
 ベアードが嘆いたように、チャンスを逃してしまった過去は二度と観察することはできない。林氏や遅塚氏もまた、このことを残念に思うところは同じであろうが、史料が過去の事実を媒介し、それを通して過去への通路が開かれるところに歴史は成立すると考える。そしてその通路を適切に保ち、正しく過去へ通じるために、史料批判という歴史学の方法が必要とされると主張するのである。「痕跡」「媒介」という用語は、こうした論理を動かすために持ち込まれたが、歴史認識の実態はダントーの使う「透視」こそふさわしい。透して見る側の能動がなければ、それはただ在るがままの物、邪魔なだけの岩に過ぎない。そしてその透視とは、奇妙なことに、どこに向かうかがあらかじめ決まっているのである。それは透けて見えるのではなく、透かして見ているのである。

つづく

by mizuno_clan | 2012-08-26 10:53 | ☆談義(自由討論)