【談議1】水野氏と戦国談議(第三十九回)
歴史と過去⑤-事実と解釈-
談議:江畑英郷
前回は、出来事というものは実体的なものではなく、先回りによって全体を指向することで、その端緒から循環的なものである、ということを論じた。過去の出来事が史実であるならば、事実もまた実体的なものではなく、それが解釈とどのように区別されるのかが問題となろう。「出来事」「事実」「解釈」という概念は、歴史学においてはお馴染みのものであるが、身近であるということが自明とは限らず、ここにおいては返って灯台下暗しの例えが当てはまるように思われる。そして「出来事」は、この三つの概念の中で最も理解しがたいものである。そうしたことから、前回の出来事に関する考察は、具体的のようでいて捉えどころのないものであったかも知れない。そこで今回は、事実と解釈について踏み込んで考察し、「出来事」に再度近づいておくことにしよう。
『史学概論』の中で遅塚氏は、事実と解釈は明確に区別されうると強調する。これは実証史学の立場からすれば当然で、この区別が曖昧ということは事実が曖昧ということであり、それではこの学における実証性および客観性が揺らいでしまうことになるからである。したがって事実と解釈の峻別は、この『史学概論』における要の議論であると言っても過言ではない。その遅塚氏は、この事実と解釈の区別を次のように説明する。
史料にはさまざまな種類があるが、市場価格表や課税台帳のような数量的記録は別として、事件や状態を記述した報告書や議事録等の史料においては、事実がありのままに記述されていることはほとんどありえない。そのため、歴史家は、媒体としての各種の史料を批判し・照合し・解釈して、媒体の背後にある客体としての事実を認識しようとする。事実の「認識」という場合、事実を確認したり復元したりできればよいのだが、それが困難で、事実の推測にとどまる場合も多い。だが、その推測は、合理的な蓋然性を備えていることが必要である。以上が工程表の③であって、ふつう実証と呼ばれる作業であるが、私は、のちに第3章で触れるように、実証よりも考証がよいと思っているので、以下ではなるべく考証と記すことにしたい。この作業は、歴史学にとって不可欠の作業であるが、そこで歴史学の作業が終わるのではない。たとえば、1789年7月14日の事件について、参加者の身もとを入念に考証して、パリの民衆が主体だったことを明らかにすれば、それは歴史学の重要な成果である。だが、歴史学はさらに④に進む。
④の作業は、いまの例で言えば、バスティーユ占領という事件、ないし、その参加者の主体が民衆だったという事実が、革命という大きな動きの脈絡の中で、いかなる意味を有するかを問うことである。ある事件の意味は、その事件だけを見ていてもわからない。それに関連するさまざまな事件の関連(相互連関・因果連関)の中に位置づけられて、はじめて、その事実の意味が理解されるのだ。いまの例でいえば、バスティーユの占領は、その他の事実との関連において、フランス革命の発端だったと解釈される。その場合、諸事実の間の関連は、歴史家が主観的に想定するのだということに注意しよう。諸事実の関連を想定し、ある事実をその関連の中に位置づけて、その事実の意味を明らかにしようとする主観的な営み、そういう営みを一括して表現すれば、事実の「解釈」と言ってよいだろう。したがって、以上の③と④の作業は、単純化すれば、それぞれ、「事実の認識」と「事実の解釈」と言ってよいのである。
(遅塚忠躬著『史学概論』)
この説明は、遅塚氏が歴史学の「作業工程表」と呼ぶ5つのステップの3段階目と4段階目に対して与えたものである。以下にその「作業工程表」の③と④を引用しておく。
③諸種の史料の記述の検討(史料批判・照合・解釈)によって、史料の背後にある事実を認識(確認・復元・推測)する。(この工程は考証ないし実証と呼ばれる)
④考証によって認識された諸事実を素材として、さまざまな事実の間の関連(因果関係なり相互連関なり)を想定し、諸事実の意味(歴史的意義)を解釈する。
遅塚氏の挙げる「作業工程表」の③は、「事実の認識」だとされるが、そこに「史料批判・照合・解釈」とあることから、別に「史料の解釈」であるとも言っている。歴史学は史料から出発することになるが、それは単にそこにある事実を眺めるわけではなく、史料に基づいた操作が必要なのであって、その操作のことを「批判・照合・解釈」だとしているのである。この操作が必要であるということは、史料が不完全であり事実がありのままには記述されていないことを意味する。事実は「痕跡」であるという言い方がまさにこれを表わしているのであるが、それは史料が事実の断片であるということなのだ。そしてそうであるならば、その断片の元である事実は逆に完全であるということになる。しかしながら、史料という断片の背後にあって操作を必要としている事実が、完全なものであるとどうしてわかるのか不思議である。そもそも「断片」とか「背後」という用語が「完全」とか「本体」を前提にしているのだから、当然のことではあるが、この完全であったり背後にあったりする事実とは、何を意味しているのであろうか。
事実は完全であるという前提に立つと、史料を媒介としなければならない史実認識は常に不完全ということになる。そしてその不完全な史実認識は、どのように数を集めても完全にはならない。遅塚氏はこのことを、「推測にとどまる場合も多い」と言うが、推測を超えて事実そのものに到達することは、史料に基づく限り原理的に不可能なはずである。そしてこの推測は、具体的には「批判し・照合し・解釈し」という操作であり、その操作の結果である。ここに「解釈」が登場してくるが、これは④の「事実の意味を明らかにしようとする主観的な営み」としての解釈とは意味が異なる。もしこれが別ものでなければ、③と④は区別ができないことになるのだから、当然同じものではない。遅塚氏によれば、③は「史料の解釈」であり、それは「合理的な蓋然性を備えている」が、④は「事実の解釈」であり、「主観的な営み」である。このことで、③の合理性と④の主観性が対立しているようであるが、④が主観的であることによって非合理だということではないはずだ。また③は事実で、④は「その事実の意味」であると言うが、③も事実そのものではなく事実認識なのだから、④の「その事実の意味」と何かどう違うのかがいま一つはっきりしない。
こうした遅塚氏のような実証史学の事実・解釈観に対して、二宮宏之氏は次のような批判を加えている。
ところで、史料の厳密な検証作業と歴史記述としてまとめることのあいだにギャップがあることは多くの歴史家が認めるところで、そのズレを埋めるために好んで提起されるのが実証と解釈の二段階論である。まず第一段階として、史料の綿密な検討に基づく過去の出来事の実証という局面があり、ついで第二の段階として、こうして確定された過去の出来事をどう関連づけて説明するかという解釈の局面がくるというわけだ。[中略]ぼくらの手に遺されている痕跡は起こった出来事そのものなのではなく、文字史料の場合で言えば、その出来事を言語によって表象したものに他ならない。さらにまた、この痕跡から歴史を探り出そうとするいわゆる実証作業はと言えば、すでにしてそこには読み手の眼が介在しているのであって、それは歴史家による読解行為に他ならないのである。しかもこの史料読解の過程には、歴史家が過去を再構成する際のナラティヴの構図がはねかえってこざるをえない。このように見るとき、実証と解釈を二分してそれぞれを別個の相互に独立したオペレーションと捉える発想は成り立ちがたくなってくる。
(『二宮宏之著作集1』収録「歴史の作法」)
二宮氏は、実証と解釈の二段階論を否定する。そしてその否定の理由として、史料は「出来事を言語によって表象したもの」だからという点と、実証作業には「すでにしてそこには読み手の眼が介在している」からであるという二点を挙げる。理由の一点目は、「言動によって表象したもの」が何を意味するのかが分かりにくい。二点目については、二宮氏が別に事例をあげて説明している箇所があるので、次にそちらを見てみよう。
年表は、基本的とみなされる歴史事象を時間軸に沿って記載するかたちを採っている。それだからこそ日本では、大学を受験する者ならばせめてこれぐらいの日付は暗記しておくべきだといった話にもなるのだ。「八〇〇年一二月二五日、フランク王カール(シャルル)は教皇レオ三世より西ローマ皇帝の帝冠をうけた」とか、「一七八九年七月一四日、パリの民衆がバスチーユを襲撃した」という記述は、たしかに起こった出来事に照応している。しかし前者の場合、カールとドイツ式に表記するかシャルルとフランス式に表記するかでカロリング王国をどちらの側から見ているかを示すことになるし、後者の場合、襲撃した集団をパリの民衆と呼ぶのはすでにある解釈を含んでいることになるだろう。
(前掲書)
「基本的とみなされる歴史事象」とは、この場合事実のことであると見てよいだろう。そしてそうした事実の記述においても、記述する者の視点によって表記の仕方が違ってくる。また「民衆」のような基本的な用語が、「襲撃した」といった用語とともに使用される場合、特定の社会的立場を意図的に強調することになる。つまりそれは「人々が」では、やはり記述者の意図を適切に反映することにならないのだ。しかし襲撃したのが「民衆」であるならば、民衆に敵対的な人々が襲撃される側にいたことになる。そこには、民衆と彼らを抑圧する人々という対立する社会階層が前提されているわけだが、こうした前提がある以上、解釈抜きの事実認識であるとは言えないはずである、というのが二宮氏の主張である。
「事実」という用語は、認識された事実という意味と、事実そのものという意味の二通りに使用される。そして時にこれが曖昧となり、混同される。しかし歴史学において重要なのは、事実は認識されたものに限られる、という点である。認識されてもいない事実そのものは、どうやっても手が届かないからであるが、さらに重要なのは、認識は記述されねばならないという点である。
記述するということに着目する利点は、ひとまず文字という目に見える形で議論できるということであるが、そもそも学問としての歴史学が、記述されることで成り立っているという現実に沿うことになる。歴史学の成果は、実際に論文、著作、講義といった言語表明によって示される。頭の中にある認識こそが歴史学であり、記述されたものはその表現に過ぎないのではない。個々人の頭の中にある認識そのものでは議論することはできないのであって、議論するには言語を通さなくてはならない。二宮氏が言うところの「言語によって表象した」というのは、ひとまずこの意味であると考えておこう。この記述するということからすると、事実は人知れず客体として独立している事実ではなく、また形のないところで成立している事実認識でもなく、事実として記述された出来事ということになる。歴史学においては、超越的な事実が文字に写し取られているから事実記述なのではなく、「事実として」記述されているから事実なのである。このことは、事実と解釈の考察をもっと深めたところで、再度考えてみることにしよう。
この記述に考察の足場を置くことでまず見えてくるのは、記述されるものは文であり、そこでは必ず文脈というものが働く、ということである。先の例で言えば、「民衆」や「襲撃」という単語単体では、その意味を確定することができない。同様に、「パリの民衆がバスチーユを襲撃した」という一文単独では、その意味は「D地域の人々がB施設で活動した」以上を確定することはできない。このことは、以前行った高校生のタイムトラベルという思考実験を思い出してもらえれば、分かってもらえることだろう。見えるのは「民衆」ではなく人々であり、彼らの活動は分かるがそれが「襲撃」かどうかは俄かには判断し難い。そこには「見える」を超えた意味が付与されているのであって、この記述で「パリの民衆」を「パリの人々」にしないのは、その行為が特定階層の集団によって敢行されたこと、そしてそれが抑圧に対する反撃であったという意味が必要であったからである。同様に「襲撃」も、夜盗のように忍び込んで目的を果たし、それが済むとさっさと引き上げたというものではない。「民衆」と「襲撃」という語彙は、互いに引き合い意味を規定しあって、「革命」という次なる語彙を準備しているのである。そしてそれが「暴動」という語彙を準備するのではないのは、「パリの民衆がバスチーユを襲撃した」という文が置かれている文脈からくるのである。(ただしこの場合の「文脈」は、実際の論文や著作などの記述された文との関わりを意味するのではない。その文の意味を理解可能としている知識や了解など、理解の地としての全体のことを「文脈」と言っている)
「パリの民衆がバスチーユを襲撃した」という単文が、それだけで事実に対応しているなどということはない。この記述文が意味するところは、「民衆」と「襲撃」そして「バスティーユ」という、この3語からの組み合わせなのではない。「一七八九年七月」には、パリにおいて無数の出来事が起こっていた。人々は、様々な施設に足を踏み入れただろうし、その施設でこれまた様々な事が起こったであろう。それら無数の出来事の中から、「民衆」「襲撃」「バスティーユ」という語彙が立ち上がるとき、それは単に起こったことの写し取りではなく、抑圧への反撃として脳裏に残すべき出来事であることが、すでにそこでは知られているのである。
「バスチィーユ」は監獄であるが、これは社会秩序を維持するための機構をなす施設である。それを襲撃するのは、社会秩序の崩壊を意味することとなり、通常これは暴動である。その襲撃者が街の店員や工場労働者であったとしても、それは犯罪であり店員や労働者だからといって特別扱いはない。今日であれば、こうした施設の襲撃は「テロ行為」だと言われるだろう。これが革命的行為なのかテロ行為なのかは、「カロリング王国をどちらの側から見ているかを示す」のと同様の問題である。そしてどちらの側から見ることもそれは解釈であるのだが、それでも「パリの民衆がバスチーユを襲撃した」には何れの解釈も含まないと言うのであれば、そこには「パリの酒場で男たちが暴れた」と区別する特別な理由はないだろう。それならば、毎夜パリのどこかで起こる「パリの酒場で男たちが暴れた」がフランス史に記述されないのに、「パリの民衆がバスチーユを襲撃した」がそこに記載されるのは何故なのだろうか。
出来事から解釈を剥ぎ取ってゆくとどうなるかは、前回示したとおりで、それは人知を超えた有象無象に還元してしまうことになる。このことはより明確に示す必要があるだろうから、それは次回にソシュールの言語論的に言及することで果たそうと思っている。今ここで考えねばならなないのは、解釈は「歴史的意義」よりももっと基本的な認識のレベルで働いているのであり、どんな認識の場合でもそれが形成されるとき、解釈は地として動き出しているということである。遅塚氏が自身の作業工程表の③で、この「解釈」という用語を使ってしまった真の理由はここにある。
歴史家は出来事の渦中から遠ざかっているだけに、その出来事をリアルに把握することは難しい。したがって、歴史家の言うところの事実は、それだけに冷静で覚めた講釈となる。その事件の渦中にあって最も事実に近い人々は、これに反してこう言うかもしれない。「あの時はもう、誰もが熱くなっちまって、ほとんど無我夢中で自分が何をやらかしたのかもよく覚えてはいない」と。そして彼は次のように続ける。「だけど今は皆が言うように、貴族や金持ちの奴らに対するしっぺ返しだったんだと思っている」と、当然のように言うのである。だが本当のところ、彼のやらかしたことは、「こうだ」と言えるほど整然とはしていない。あの時彼は酒に酔っていたが、酒を飲んだ理由まで「しっぺ返し」だったはずがない。そして彼の女房は、そんな彼の言い分を言い訳だと思っている。
起こったことは有象無象で数限りなく、渦中においては誰であっても、後になって言うほどにそれが何であるかを理解してはいない。その渦中が過ぎた後になって、「民衆」と「襲撃」そして「バスティーユ」という語彙を、分別をもった者が当てるのであるが、二宮氏はこの分別を解釈と呼ぶ。そしてこの分別が成立するところには、あの先回りがあり、予見による全体像が先行しているのである。
遅塚氏の作業工程表の③と④に、「解釈」という用語が登場していたが、問題はやはりここにあるのだろう。遅塚氏は、③の工程に対して「事実の認識」と「史料の解釈」という二通りの言い方をし、④の工程については「事実の解釈」だと言う。こ③から④の認識構造を整理すると、「事実→史料→史料解釈=事実認識→事実認識の解釈」となる。そしてここで問題なのは、史料解釈=事実認識という箇所である。二宮氏はこの箇所を捉えて、「すでにしてそこには読み手の眼が介在している」と言っているのであるが、遅塚氏は「解釈」という用語を使っていながら、そこに主観性を認めない。それは何故かというと、③の解釈は「合理的な蓋然性を備えている」からであり、それは客観的であると考えるからである。しかしそこでは、③の解釈に使用される基本用語の意味という次元が、すっかり抜け落ちていて、そこの所を埋め合わせるために客体というものを持ち込んでいるようにみえる。「民衆」と「襲撃」そして「バスティーユ」は、解釈を含まない客体で、事実はこの客体を組み合わせたものだと考えているのであり、その組み合わせが「合理的な蓋然性を備えている」とするのである。これに対して作業工程の④では、「諸事実の意味(歴史的意義)を解釈する」と言っているので、この場合の「意味」は「意義」すなわち価値ということになるだろう。しかし二宮氏が言うところの、「言語によって表象したもの」という視点では、言葉の意味に照準が向けられているのであり、「民衆」「襲撃」「バスティーユ」は実体ではなく意味なのである。そして意味と言えば、例えば「カロリング王国をどちらの側から見ているか」という価値を抜きにしては、何が示されているか判然としないものなのである。
(つづく)
by mizuno_clan | 2013-01-01 19:10 | ☆談義(自由討論)