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【談議1】水野氏と戦国談議(第三十九回)

(つづき)

 言葉の意味が、事実と解釈にどう関わっているのか。ここからは非常にシンプルな史実を、その典拠となっている史料を確認しながら、この点について考えてみることにしよう。
 まず、桶狭間合戦を歴史事典で引いてみると、そこには次のように記載されている。

 1560(永禄3)尾張桶狭間における今川義元と織田信長との戦い。義元は駿河・遠江・三河3か国の大軍を率いて信長の領内尾張にはいり、沓掛から進んで桶狭間に駐軍したところを信長に奇襲されて敗死。信長制覇の端緒となった。
(角川書店『日本史辞典』)

 この辞書で記載されているところの桶狭間合戦は、歴史上の事実とされているから、辞書にこのように記載されている。そしてこの桶狭間合戦が史実であると言えるのはなぜかと問えば、多少とも歴史学を学んだ者ならば、それを示す良質な史料が存在するからだと答えるだろう。

<史料①>
夏中進発せしむべく候条、其れ以前に尾州境取出の儀申し付け、人数を差し遣り候、然らば其の表の事、いよいよ馳走祝着たるべき候、尚朝比奈備中守へ申すべき候、恐々謹言
 四月十二日             義元
            水野十郎左衛門尉殿

<史料②>
今度不慮の儀出来、是非なく候、然らば当城の儀、堅固申し付けの由喜悦に候、やがて出馬すべく候、なお三浦内匠助申すべく候、謹言
 五月廿五日             氏真
               天野安芸守殿

<史料③>
今度合戦の儀について、早々御尋ね本望に存じ候、義元御討死の上候は、諸勢討捕候の事、際限これなく候、御推量あるべく候、其の立願の儀について、委細御使与三郎殿へ申し候、聊かの相違あるべからず候、恐々謹言
 六月十日          佐久間御書判
             福井勘右衛門尉殿

<史料④>
(略)
去る五月十九日、天沢寺殿尾州鳴海原の一戦において、味方勝利を失う処、父宗信は敵を度々追い払い、数十人手負し出し、これに相与むと雖も叶わず、誠に後代の亀鏡、比類無しの事
(略)
永禄三年 十二月二日         氏真
                松井八郎殿

(『豊明市史 資料編補二 桶狭間の戦い』収録)

 これらは皆、一次史料とか一級史料とか言われるもので、その時点における伝達・記録の必要性から記載されたものである。そうしたことから、桶狭間合戦の概要ですらここには示されておらず、永禄3年5月19日に尾張の「鳴海原」で今川方と尾張勢の間で合戦があったこと、この合戦で今川義元が討死にしたことがわかる程度である。これは、これらの史料の差出人と宛人が、起こった出来事を同時代人として共有しているために、出来事自体の説明を必要としないからである。これに対して、この合戦の基本骨格および詳細については、『信長公記』『松平記』『三河物語』などに頼る他ないが、これらが上記の4点の史料と同格というわけにはいかない。ここでは史実と解釈の原理的分離の是非について考察しているので、これら後年の記録は除外することにする。
 さて、上記4点の史料と歴史辞典の記載を比較してみると、合戦の勃発した日付については一致しているが、場所については「桶狭間」に対して「尾州鳴海原」の違いがある。しかしこれは、ほぼ同一場所に対する表現の違いであるとしてよいだろう。次に、「今川義元と織田信長との戦い。義元は駿河・遠江・三河3か国の大軍を率いて信長の領内尾張にはいり、沓掛から進んで桶狭間に駐軍したところを信長に奇襲されて敗死。信長制覇の端緒となった」は、4点の史料には存在しない記載である。これは歴史辞典が『信長公記』などに拠っていることによるのだろうが、史実に厳格な態度をとるとしてその部分を切り捨てたとしても、「今川義元と織田信長との戦い」の箇所を落とすことはできないであろう。
 桶狭間合戦が「今川義元と織田信長との戦い」であったことは当たり前で、それがもしそうでないなら、桶狭間合戦の定義が変わってしまう。しかしながら、上記4点の史料にしたがう限り、合戦当事者の一方に今川義元がいたことは確かであるが、もう一方の当事者が織田信長であったことは、これらの史料からでは確認できないのである。さらには、今川義元の当事者としてのポジションが、これら史料において明確であるとも思えない。この合戦における直接の当事者が、今川義元であったとどうして言えるのか。また、合戦を何らかの紛争解決の一手段だとして、これはいったい何の紛争であったのか。この合戦の事実を示す根拠となる史料には、これらのことが記載されていない。ましてや、もう一方の当事者とされる織田信長においては、この合戦にどのように関わったのかが、これら史料からはまったくわからないというのが実情である。
 厳格に事実に向き合おうとすると、実際のところこれら史料はかなり頼りない。もっとも厳格の意味をどう捉えるかで、取り扱う史料も変わってくるのであり、かつて織田信長の家臣であった太田牛一が、江戸時代になって書き上げた『信長公記』の記載内容を、この厳格な事実の中に加えようとする場合もある。最近公刊された『愛知県史』は、この『信長公記』の記載の一部をその資料編の中に加えている。ただし一定度の保留つきである。そしてこの『信長公記』においては、この合戦の当事者が織田信長であることは明らかである。そればかりか、信長個人の意志と行動で、この合戦が展開しているという描き方さえなされている。ここで信長はまさに戦いの最中に身を投じているのであるが、これらの記載が事実であったかどうかは、実際のところ定かではない。しかしながらこの『信長公記』は、この合戦の当事者の一方が織田信長であったことを、事実として印象づけるには絶大な効果があったように思う。それでも原点に返ってみれば、この合戦の当事者については不明な点が多いと言わざるをえない。こうして桶狭間合戦について厳格に事実を追求しようとすると、わかっているのは永禄3年に鳴海方面で、今川義元が関与した合戦があったこと。そしてその合戦で義元が死去したことに過ぎない。この他にも、今川氏真の書状から見て取れる岡部元信の鳴海城守備などあるが、合戦に直接関わることの事実は極めて少ない。そうであるのに、歴史事典にこの合戦があのように記載されるのはなぜなのだろうか。
 合戦があったとしたならば、少なくとも敵対する二つ以上の軍事的な集団が必要となる。そしてその合戦において(実際のところ義元の死とこの合戦がどのような関係にあるのかは定かでないが)、今川義元が死去しているということからすれば、小さな小競り合いということもないだろう。ただし小競り合いでないことを示す明確な根拠はないのであって、そうである以上これは解釈である。そして小競り合いの多くは、合戦とは言わない。したがって、合戦と規定した段階ですでに解釈なのであるが、そこから相応の当事者が必要となってくる。義元が鳴海で死去したならば、彼は前線に出ていたことになり、義元ほどの人物が前線に出る戦いであるのに、彼が総大将(戦闘集団の筆頭指揮者)でないというのは、従来の戦国軍事観ではありえないことである。こうして一方の総大将が今川義元であったという解釈が俄然優勢になる。一方で合戦が起こった地名として「鳴海原」が挙がっているが、この鳴海は尾張東南部の伊勢湾に面する地域である。そしてこの鳴海の西隣には熱田があるのだが、ここは織田信長との関わりが非常に深い場所である。そして永禄3年ともなると、尾張における信長の勢力が大きくなり、外部勢力との軍事的衝突に信長が関与していないとはかなり考えにくいことから、彼の参戦が事実同然とみなされる。そして佐久間信盛の書状から、信盛の参戦が事実とされ、その上位者であった信長がやはり総大将の位置にあったはずだと推測されるわけである。
 歴史事典に史実として記載されていることでも、事実という用語の厳格な意味においては、事実とみなされうる解釈であることの一例がここにある。ここで事実を厳格に扱おうとしているのは、歴史研究はそうあるべしということを言いたいがためではない。そうではなくて、通常史実とされていることも、事実という用語の厳格な適用においては解釈になってしまうということであり、さらに踏み込んで言えば、事実などなくてすべては解釈なのだと言いたいのである。このように主張すると、それは事実と事実認識を混同していると反論されるかも知れない。しかしながら、事実とその認識を分離すると、事実はどうしても実体であり実在であると主張せざるをえなくなる。認識の側が事実を完全には捉えられないのだという考えは、事実はそれ自体で完全で確実であるという前提に立っていることになるが、そうしたものを実体あるいは実在と言うのである。この実体論あるいは実在論に対する批判は、前回の出来事実在論で少なからず述べたところであるが、これがなかなか掴みづらいところだと思う。

 私の目指したのは、世界と意識、世界と私、という基本的構図をとりこわすことである。その構図は古くから哲学を呪縛してきただけではなく、われわれの日常生活の隅々にまで浸透している。そしてその日常の知識を発祥の地とする科学もまたその構図の中で成長してきたものであり、したがって現代の科学者はそれを殆んど自明のこととしてこの図の中で思考し、実験し、生きているのである。
 それにもかかわらず、この構図、世界と意識とをまず剥がしそしてダブらせるというこの構図は、錯覚であり誤解であると私には思われる。(中略)しかしこの堅固な積年の眩惑をはらうのは、自分自身でからでさえ容易ではない。それはこの構図の中で鋳こまれた言語、その言語による思考の習慣や感慨の表白、非難や賞賛、といったものから身をはがすことだからである。

(『流れとよどみ』大森荘蔵著)

 ここで大森氏が言うところの「世界」が、実在論的事実の総体に当たり、「意識」がその事実認識ということになるだろう。そして解釈はこの「意識」の側にあって、実在論的事実の不完全な写し取りの補完ということになる。しかしながら、日本史辞典における桶狭間合戦の記述に紛れ込んだ解釈は、その史料の不足にあるというのではない。どのようにしても、史料は解釈を免れないということにそれは起因しているのであり、それは歴史学が言語に浸透されているということなのである。しかし出来事実在論を振り払うことは、大森氏に「自分自身でからでさえ容易ではない」と言わしめるほど困難なことなのであり、それを平易に語る努力もなかなか成就しない。

 歴史辞書における辞項である「桶狭間合戦」あるいは「桶狭間の戦い」には、すでにそこに「合戦」あるいは「戦い」という用語が使われている。この「合戦」(「戦い」も「合戦」の意味)は、同じ歴史辞書には載っていない。国語辞典には辞項としてあるが、どれも簡素で、集英社の『国語辞典』では、「敵味方の軍勢が出会って戦うこと」と記載されていた。「出会って戦う」というのは直接の戦闘行為を指すのだろうが、そこに「軍勢が」とある。これは戦闘用に組織(といっても程度は様々であるが)された集団を意味するが、このことから直接の戦闘行為に及ぶことを想定して組織された集団間の、意図された戦闘行為を「合戦」は意味することになる。そうなるとこの戦闘集団は、あらかじめ戦う相手も想定しているわけで、どこでどの程度の規模の戦闘集団と戦うのかが、この集団編成に先行して組み込まれていることになる。戦う相手が想定できなければ、どれくらいの集団規模にすべきかが決まらないし、戦う場所の見当がなければ補給物資の量も定まらない。そんなことでは「合戦」はできないし、直接の戦闘ともなれば被害の想定もあることだろう。これは単にどれくらいの被害というだけではなく、どこに被害が出るかという想定でもある。これについて別の言い方をすれば、集団全体が均一にリスキーなのではなく、ハイリターンの者たちがハイリスクなのであり、それは軍勢という当事者の中にさらに真の当事者がいるということである。このことはまた、この戦いが何のための戦いなのかということに関わっている。このように「合戦」という用語は、単に出会って戦うという以上の多様な意味内容を包含しているのであり、その意味するところは一様ではない。
 先の歴史辞典は、「今川義元と織田信長との戦い」と記述した時点で、「戦い」を戦国大名級の意図的組織的戦闘と既定したことになる。後段の「義元は駿河・遠江・三河3か国の大軍を率いて信長の領内尾張にはいり、沓掛から進んで桶狭間に駐軍したところを信長に奇襲されて敗死」は、この「今川義元と織田信長との戦い」に折り込まれているからこそ、『信長公記』などによる記載から取り込めるのである。歴史事典では、個人名Aと個人名Bの戦いという記載の形式に、突出した軍勢の指揮者の存在と、その指揮者の意図による戦闘行為、そしてその指揮者による軍勢の召集という意味が内包されている。そして「1560(永禄3)」によって、戦国期の合戦であるという認識が加わることで、その戦闘集団の発起決定、召集方法と召集対象者、指揮命令系統、戦闘の展開と戦後処理に至るまでが、暗黙の内に「今川義元と織田信長との戦い」という記述に重ね合わされるのである。その点で後段の記述は、国名や地名、進軍経路や戦闘経緯など固有項は別にして、前段の記述に内包されていたことが展開されているだけのものであり、それだからこそ先の①から④の史料に存在しない記述を、歴史辞典に記載できるわけである。
 「戦い」という用語の用法は非常に多彩であり、直接戦闘などではない「嫁と姑の戦い」や、直接戦闘であっても「巌流島の戦い」などのように個人戦闘である場合など、その意味は用語が登場する文脈によって異なる。そして「今川義元と織田信長との戦い」は、「佐々木小次郎と宮本武蔵の戦い」と同じ「戦い」の用法ではないのは明らかであるが、そのような用法の違いを可能にしているのは、「今川義元と織田信長との」に個人名でありながら軍勢の意味を見て取る解釈が加わっているからである。この解釈には、個人名を軍勢の代わりに記述可能とするような組織モデルが適用されているのであり、そのような組織モデルを念頭におかない限り、「佐々木小次郎と宮本武蔵の戦い」と同じ「戦い」の用法になるはずなのである。
 遅塚氏のような理解では、「信長制覇の端緒となった」が事実の解釈で、「1560(永禄3)尾張桶狭間における今川義元と織田信長との戦い」は事実である。そして「義元は駿河・遠江・三河3か国の大軍を率いて信長の領内尾張にはいり、沓掛から進んで桶狭間に駐軍したところを信長に奇襲されて敗死」は、史料の解釈といったところであろうか。しかしすべては言語の内にある以上、言語の外の事実などというものは「錯覚であり誤解」なのである。文脈を離れては、どんな記述も意味を確定出来ないのであり、文脈に先んじて存在する事実などないのである。

(つづく)

by mizuno_clan | 2013-01-01 19:05 | ☆談義(自由討論)