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【談議1】水野氏と戦国談議(第三十九回)

(つづき)

 「事実」という用語には、世界をその総体として構成する事実という意味ではなく、もっとそれにふさわしい別の働きがある。それまで事実とされていたことが、ある日を境に事実ではなくなる、ということはよくあることである。そのとき昨日まで事実であった出来事は、今日は何になったのであろうか。事実ではないものなので、虚実になったのだろうか。しかしながらそれが虚実だったとして、それでは昨日までの事実は何であったのかと、ここで些か困惑気味に事実を眺めることになる。そしてここで必要になってくるのが、事実と事実認識の区別である。
 事実は些かも揺らぐものではないが、その事実の認識は時に誤ることがある。しかしそれを認めると、すべての事実認識は誤っている可能性があることになり、その誤る可能性の程度ということを問題にするようになる。遅塚氏は、「柔らかな実在論」という奇妙な用語でこのことを主張している。遅塚氏によれば、「消費税は5%である」は堅牢な事実である。しかしながら、これが言語による表明である限り、そこに文脈が介在してこの表明の意味を規定していることに変わりはない。次回以降、堅牢で揺るぎようのない事実と見えるものにも、この文脈の力が避けがたく働いていることに、踏み込んで言及することになるだろう。ここでは、事実と解釈の働きを見ることで、この両者を定義することに進もう。
 事実は、後になって事実ではなくなる可能性が、原理的につきまとっている。それは何故なのかを考えるために、以下に4つの記述文を用意した。

① 三角形の内角の和は180度である、というのは事実だ。
② 地球は太陽を中心とした円周上を動いている、というのは事実だ。
③ 雨が降っている、というのは事実だ。
④ 永録3年5月19日、桶狭間にて織田と今川が合戦に及んだ、というのは事実だ。

 「事実」という概念は、ある事態についてそれが成立しているかしていないか、いずれかの場合も取りうる中で使用される。したがって①の記述は、三角形の内角の和が180度でない事態はありえないので、事実という用語の誤用であると言える。②については、この事態が成立しているかどうかは、天文学上の理論に依存する。一般に地動説と言われる②の言明は、コペルニクスによって提唱され、それ以降定説として定着したものであるが、コペルニクス以前の天動説では、「太陽は地球を中心とした円周上を動いている」であった。②の記述は、「惑星は恒星を中心とした円周上を動く」という理論に、「地球は惑星である」「太陽は恒星である」という規定を適用したものだが、「地球は惑星である」「太陽は恒星である」という規定も地動説によるものである。したがって、地動説にしたがう限り「地球は太陽を中心とした円周上を動いている」が覆ることがないのだから、②は理論上の帰結であり科学的真理ではあっても事実ではない。これに対して③の「雨が降っている」かいないかは、まさに事実の問題である。そして④のそうした合戦があったかなかったかも、まさしく事実の範疇として検討される事柄である。そして事実の範疇にあるということは、その出来事が起こったか起こらなかったかどちらかであり、それはどちらの可能性も等しくあるということである。①は公理という不動の真理であり、②は科学理論上の真理である。それはその時々の知覚に依存するものではないが、③は成立・不成立の可能性が等しいため、完全に知覚に依存することになる。そして④は直接の知覚によるものではないが、これまた知覚抜きではその真偽はわかりようがない。
 「事実だ」の最も手堅い用法は、③のような直接に知覚される事態に対する適用である。しかしながらその知覚も、「雨が降っている」という実在が認識されているというわけではないことは、ハンソンの観察の理論負荷性テーゼが示すところである。「雨が降っている」といった日常的な言明であっても、「様々な関連事項すべてを読み取った上で」(ハンソン)の認識であり、だからこそ見間違えるということが起こる。実在の端的な認識であるならば、なぜ見間違えるといったことが起こるのか。実在がありのままに捉えられているのならば、それを間違えて認識するなどということは起こるはずもない。それなのにそこで間違えたのは、それが「様々な関連事項すべて」の読み取りだからであり、「認識を間違える」と言うのであれば、この読み取りこそ認識なのだと考えねばならなくなる。そして間違っていたと気づいたのであれば、そこには別の読み取り方が提示されているはずだし、そちらが事実だと思える何かがそこにあったのである。
 事実の定義は「実際に起こった出来事である」、とひとまず規定することができるだろう。そしてそれが「実際に起こった」とどうして言えるのかは、③のようにまずはこの眼で見たということが根拠となる。しかし見間違えや幻覚を見るということもあるので、それだけで実際に起こったと言い切れるわけではない。それでは多数の人々が目撃した場合は、文句なく事実であると言えるかというとそうでもない。ネス湖のネッシーやUFOは、多数の目撃証言があっても事実とは認められない。それは何故かと言うと、その目撃した出来事が、既に事実として認められている出来事と整合しないからである。したがって「実際に起こった」というのは、大多数の人々に事実として認められていることと整合的であり、多数の人々に知覚されてもいる、という意味となる。これが歴史上の事実の場合は、同一の出来事に関する史料が多数存在し、かつそれら記録された内容がこれまで確定している史実に整合的であることによって、その出来事を「実際に起こった」とするわけである。
 しかしながら、多数の目撃証言があり、なおかつ確定している事実と整合的であっても、後に事実でなかったことが判明する場合もある。事実は新たな事実によって覆るのだが、すると先ほどまで事実だと思っていたのは何だったのか。それは実際に起こってはいなかったのだが、実際に起こったとされていた。そこには少なくとも二つの理解の仕方があったはずで、そのうちこれだと思っていた方がハズレだったのである。しかしそのハズレの方も、これまでは事実であったのだから、事実としての資質は備わっていたはずである。そして事実だと思われ確定していたことが覆るということは、原理的にあらゆる事実は資質があるに留まるということになるはずだ。この覆りの可能性には程度があるだろうが、絶対に覆らないというのは事実ではなく真理であり、その点で事実は事実の資質があるに留まるのである。そうなると事実の意味は、「実際に起こった」ではなく、「実際に起こったと見なすことができる」出来事ということになる。しかしこの「見なすことができる」というのは、妙なことにどこか解釈を思わせるのである。
 次に解釈の定義について考えてみると、実際に起こりえないことは解釈とは言わないはずで、解釈とは起こり得ることでありながらそれと確定でないことかと思われる。なぜ確定できないのかと言うと、他に同等の資質がある別の起こりえる事態が挙がっているからである。この場合、具体的に挙がっていなくとも、他に幾らでも取りようがあるなどもこれに含まれる。そこから、目撃証言の多さとか記載史料の豊富さ、あるいは既定事実との整合性の強度などから、特定の解釈が事実に昇格する。始めからそれ単独で紛うかたなき事実などないのであって、言わばライバルの解釈に競り勝ってその座を射止めたのが事実である。したがって事実と解釈の差は位の差であって、より強力なライバルの出現によって位落ちすることもあるわけである。
 事実と解釈の違いは、その時点の資質における程度の差でしかない。そして事実は、自らを確実だとして踏ん張ろうとしたとき、足元から崩れ落ちてしまう。事実は、他の事実との整合性に支えられており、それは言わば事実どうしが互いに寄り添って、そのスクラムの力でその位を保っているという構図である。したがって、ある事実がその確実性をより確かにしようとすれば、それと整合的な関係にある事実も同じように確かさを求められることになる。それはAという事実が、Bという事実に整合することで確かであるなら、今度はBという事実はCという事実に整合することで確かであり、Cという事実は…、といった具合である。この整合性のネットワーク、あるいは根拠の連鎖は、どこまで行っても原理的に尽きることがない。それはこの整合性がネットワークであり連鎖である限りそうなのであって、第一事実あるいは根本事実なるものが存在しないのならば、この根拠への遡及は留まることを知らないことになる。そして「事実」がある起こりうる事態の一方である限り、第一事実や根本事実が存在するというのは背理となる。しかしながら、どこかでこの連鎖を、この根拠への遡及を止めなければ、事実群は事実として出発できない。
 ここで用語を改め、起こりうるのは事態であり、その整合的な事態群が複数考えられるとする。ただしその整合性に制約をかけなければ、一まとまりにみえる事態群も他の事態群と部分的に結びつき、重なり合うことになる。それはかなり複雑な関係・連鎖であり、特定の事態を取ってみるとそれは幾つもの事態群に結びついているのである。またその事態に相反する事態も存在し、その相反する事態と直接に結びつくことはないが、連鎖を経由して結びつく場合もある。これは矛盾であるが、この事態の複雑な連鎖にはそれを抑止する機能があるわけではない。この広大で複雑な事態の連鎖は、出来事の理解を可能にする前提であり地である。そしてこの事態の連鎖の中から、ある事態群を「事実として」捉えることになる。
 桶狭間合戦において、松平元康は丸根・鷲津砦を攻略すると、その後の戦いには参加せず大高城に入りその守備についた。もっともこれは『信長公記』によるものであるが、その後の元康がどうしたのかは、『三河物語』によると次のようである。

「義元は討死をなされ候由承り候、その儀においては、爰元<ココモト>を早々御引除<ハラワ>せ給ひて御尤<ゴモットモ>」の由各々申しければ、元康の仰せには、「たとえば義元討死有とても、その儀、何方<イズカタ>よりも聢<シカ>としたる事をも申し来たらざるに、城を明け退き、もし又は、その儀偽りにも有りならば、二度義元に面を向けられんや。それ故に、人のさざめき笑種<グサ>に成ならば、命ながらえて詮も無し。然らば、何方よりも碇<シカ>としたる事無うちは、兎角に退かせられまじく」と、仰せ除<ハラッ>て御座候処<トコロ>へ
(『豊明市史 資料編補二 桶狭間の戦い』収録)

 今川義元が討死したという情報が松平元康の下へ届けられたが、それが事実かどうか、この場合誰もが確信をもてなかった。むしろ当初は戦場につきものの虚報であると思ったに違いないのであるが、時間とともに情報が増えるにつれて、「これはもしや」ということになってきた。最初の第一報が信じられなかったのは、今川軍と織田軍の戦力差からみて、総大将の義元が討たれるなどありえないと判断したためである。ここでは寄せられる情報に対する解釈が幾つにも分かれ、その中で言わば常識で事実を判定しているわけである。そして義元敗死、今川軍総退却を告げる情報が増えるにつれて、松平首脳陣は常識での判定の修正を迫られるのである。そのとき元康は、「もし又は、その儀偽りにも有りならば、二度義元に面を向けられん」、さらに「人のさざめき笑種に成ならば」という懸念を述べて、今しばらく城に留まろうとする。ここでは事実の判断を誤った場合の二つの想定が念頭におかれ、織田軍中に孤立し苦境に立たされることよりも、軍務放棄の追及と対面を失うことの恐れを優先させている。このとき元康に事実はどちらなのだと問い詰めたならば、「やはり信じられない」と言ったことだろう。
 松平首脳陣にとって、このときの事実とは、大高城から退却するかどうかを決断するための切実な起点である。もちろん実際のところ義元戦死と今川軍敗走が事実かどうか、必死で探り考えたに違いない。報告は幾つもある。もしこの切実さが無ければ、「なるほど、そうか」と言ってすんなり報告を事実と認めたことであろう。だがこの場合の事実認識は、まさに身を切る思いでの決断なのである。客観性には限りがあって、彼らが求めるほどの確信を諸情報は与えてはくれない。それでも事実認識を保留することはできない。結局元康が「兎角に退かせられまじく」と言ったのは、「今川軍が敗れるなど信じられない」と言ったも同然のことであり、「事実だ」が「決心」に追い落とされている。
 事実認識と決心の関係は、事実認識がまずあって、その後にその事実認識に基づいて決心があるというものではないことが、この桶狭間合戦のおける松平元康のエピソード(事実かどうかは定かでない)から理解することができる。元康は、決心すると同時に、今川軍は敗れてはいないという事実認識を選択した。しかしながらこの場合の事実認識は、実際は解釈である。元康は大高城を守備する松平軍の次なる行動を指示しなければならず、そのために決断をして「今川軍は敗れてはいない」という解釈を事実だとしたのである。「事実」は多様な解釈の中から、行動するために選ばれているのである。行動するために、解釈は解釈のまま留めているわけにはいかなくなる。そしてこの「行動」とは、元康のような切実なものだと限ったわけではない。前に進むためには起点が必要であり、事実とはこの起点のことなのである。したがって、本来止めどないものを止めて、確かな足取りの起点を成すこと、これが事実なのである。そしてこの起点を単独で支えられる事態など存在しないのであり、それは整合的な事態全体で支持し、その支持がその整合的事態全体を事実にするのである。事実が確かで疑いようもないことなのではなくて、確かさを成して前に進ませること、この機能の発動が事実なのである。そしてこの機能の発動が必要であるから、解釈群の中から特定の解釈が事実として抜擢されるのである。

 歴史の探求において、事実と解釈という概念は、その捉え方によって探求のあり方を大きく左右するような基本概念である。言語論的転回を下地として提唱された歴史物語論は、この事実と解釈の概念に転換を迫るものであるが、それが歴史探求の足場として機能している概念であるだけに、歴史家にとってその転換は容易には受け入れがたいものだろう。見たところ遅塚氏は、言語論的転回にしろ歴史物語論にしろ、その要諦を取り違えてしまっており、その危機意識とその回避の努力は空回りしてしまっている。今回見たように、事実と解釈は何れも文脈依存的であり、相互依存的に歴史理解を支えている。その中で事実は、同じ解釈としての立場を一歩越え、確実な理解の出発点としての機能を果たす。事実と解釈は、何れも歴史理解を可能にする条件であるが、それが事実と解釈に分離するのは、理解を進め歴史を語るためである。事実を主旋律とし、解釈を伴奏とする歴史語りは、過去を固定するためにあるのではなく、縦横無尽に駆け抜けるためにこそある。

(次回に続く)

by mizuno_clan | 2013-01-01 19:00 | ☆談義(自由討論)