人気ブログランキング | 話題のタグを見る

【談議1】水野氏と戦国談議(第四十回)

(つづき)

 伊藤氏がこのような歴史事象と歴史認識における言語の写像関係を前提としたのは、歴史学が客観的な学問であるということを示す必要があったからである。客観的な歴史的知識は、単に「私は認識した。それは私の頭の中にある」では済まないわけで、歴史的知識は記述されねばならないという点から、伊藤氏は事象記述の構造について言及した。このことはもちろん適切なことで、林氏と遅塚氏の二つの『史学概論』では、正面から言及されなかったところのものである。事象、事実、あるいは客体でも実在でもよいが、それはどのようにして記述されるのか。歴史学の対象とそれを捉えた成果としての記述がどのような関係にあり、さらにはどうして捉えられたと言えるのか。歴史と言語の問題は、歴史学存立の根幹に関わることだと言えるだろう。
 歴史事象と歴史記述(歴史の要素命題)の構造が一致しているという見解の中心には、事象における対象と記述を構成する名前(用語)が、名指しによって直接に結びついているという前提がある。また伊藤氏は「用語を組み合わせ」たものが事象記述だと述べているが、このことは歴史家が主観的に用語を組み合わるということではないだろう。事象対象に対する適切な名指しが為されれば、必然的に適切な用語の組み合わせになるのであり、組み合わせそのものは事象側にあるはずである。したがって歴史事象の認識の根幹を支えているのは、この事象対象の適切な名指しであり、その作用の結果としての妥当な用語の使い方にあることになる。それでは、伊藤氏の挙げた事象記述の事象例は、そのような事象対象の適切な名指しとなっているのかをここで詳しくみることにしよう。

 伊藤氏によれば、「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」は事象記述である。そうであるならば、「文永11年」「元軍」「博多湾」は、この事象記述の構成要素であるということになる。「攻め込んできた」は名詞ではないが、これも事象記述を構成する要素である、と考えねばならない。そして事象記述は事象と写像関係にあり、「元軍」「博多湾」はその名に対応する対象を指し示している、ということになる。それではここでまず、「元軍」という用語が指し示す対象とは何であるかを考えてみることにしよう。
 「元軍」とは元の軍隊のことであるが、この「元の」というのは、中国の元王朝が編成維持しており、その元王朝の命令に従わせている、という意味であると理解される。したがって、「元の」というのは「軍」の所属を表す用語であり、「元軍」の本体的用語は「軍」ということになる。それでは「軍」とは何んであるかと言うと、辞書(大辞林)での「軍」は「軍隊」のこととされ、「一定の秩序をもって編制された軍人の集団」とある。ではその「軍人」とは何かと言えば「兵士」だと書かれている。そして「兵士」は「戦闘に従事する者」とある。つまり「軍」とは、戦闘行動を目的として編成された組織(一定の秩序をもった集団)ということになるが、この規定を箇条書きにすると以下のようになる。

①編成された集団である。
②秩序(決定と行動の統一性)が維持されている。
③戦闘を目的としている。

 この「軍」の定義の①と②は、「軍」の外部に主体を必要としており、「軍」を編成した主体と「軍」の行動を決定する主体が必要である。そして「元軍」は、このどちらの主体も「元」だということを示している。そして②の秩序であるが、この秩序が維持されているかどうかは、「元軍」という存在の根幹に関わる。なぜならば、この軍としての秩序が維持されていなければ、編成されていようと命じようと、それは軍として働かないからである。そして軍として働くということは戦闘することであるから、その秩序は厳格でなければならない。例えば元王朝によって動員編成された軍隊であれば、その時点でこの集団の目的は戦闘行為となる。ところが、どうしたことか元王朝の命令を聞かず勝手に動いているとしたら、これはもはや元軍ではない。つまり①と③は成立しているが、②が欠如してしまうとそれは軍隊とは言えず、無秩序で暴力的な集団である群盗とか暴徒ということになる。またその集団は秩序立ってはいるが元王朝の命令に従わない場合、それは反乱軍と呼ばれるようになる。このように②の秩序・統制については、特にその程度というものが実態を規定することになるが、文永の役における元軍はこの点どうであったかを確認することにしよう。

 文永十一年(一二七四)十月、日本遠征の準備は整い、遠征は決行された。元軍の第一次日本遠征すなわち文永の役である。その兵力は史料によってまちまちであるが、屯田軍・女真軍(もと金の領内の兵、漢軍ともいう)・水軍からなる元軍が二万人、高麗軍が六〇〇〇人で、計二万六〇〇〇人というのが、池内宏氏の説である。高麗軍は金方慶に率いられ、蒙漢軍(モンゴルと旧金の軍)は忻都<キント>が主将で、洪茶丘<コウサキュウ>・劉復亨<リュウフクコウ>がこれを補佐した。
(佐伯弘次著『日本の中世9 モンゴル来週の衝撃』)

 ここで佐伯氏は、「元軍の第一次日本遠征すなわち文永の役である」という表現をする一方で、「元軍が二万人、高麗軍が六〇〇〇人」とも書いている。同じく「元軍」と記しても前と後では意味が違うことになるが、これらの記述では用語と事象対象が一対一の関係とはなっていない。前者の「元軍」と後者の「元軍が二万人、高麗軍が六〇〇〇人」が等しいのであり、後者の記述の「元軍」の指し示す対象の方がより限定されている。この点について他の記載に当たってみると、講談社の『日本の歴史10 蒙古襲来と徳政令』では「モンゴル・高麗連合軍」と記され、海津一朗氏の『蒙古襲来』でも「蒙古・高麗連合軍三万数千人」と記載されている。このことからすれば、より適切には元王朝と高麗王朝の連合軍であり、前者の「元軍」というのはその総称ということになる。そしてそうした総称が可能なのは、高麗王朝が元王朝に臣従しているという前提があってのことである。
 しかしながら佐伯氏の記載をさらによく見ると、「屯田軍・女真軍(もと金の領内の兵、漢軍ともいう)・水軍からなる元軍」という表現がされている。つまり後者の意味での「元軍」がさらに細分化されており、ここでの「屯田軍」とは、高麗人の抵抗勢力である珍島政府や三別抄に対して派遣されたモンゴル人主体の戦力である。

 開城の元宗政府が頼りとするのは、モンゴル駐留軍であった。珍島掃討作戦は、海の戦いとなる。そのため忻都を指揮官とする五〇〇〇のモンゴル騎馬軍団は、半島南部沿岸の金州に進駐した。合わせて、高麗人コロニーの主人、洪茶丘(洪福源の子)は、自分の領民から成る私兵軍を率いて屯田した。時に、中国本土の中央部では裏陽戦のさなかであった。
 モンゴルの指令下で、元宗政府による造船作業が開始された。一二七一年、モンゴルの部将アカイ率いる第一次の珍島攻撃は、多くの損害を出して失敗した。陰暦五月、ヒンドゥ麾下のモンゴル・高麗連合軍は夏の海を渡り、珍島に猛襲を加え攻略した。捕獲された王温は、斬刑に処せられた。モンゴルとしては、ささやかであったとはいえ、事実上、最初の海戦の勝利であった。

(杉山正明著『モンゴル帝国の興亡<下>』)

 佐伯氏は、高麗軍と連合した「元軍」に対して、さらにモンゴル人主体の屯田軍と旧金軍というような識別を与えている。このように一口に「元軍」と言っても、それを単一で均質的な軍隊とみることはできない。特に高麗軍については、「クビライ王朝に最も忠実な附庸国」(杉山)であったのだが、高麗人内部の内乱に連合軍として対処するなど共同関係を続けており、両者の関係は軍事力を背景とした強圧的な力の前の服従として済まされるものではなかったのである。こうした事情が「元軍」には存在するのであるが、「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」における「元軍」は、このような連合あるいは混成の軍事的集団であったことを何ら示してはいない。むしろそれを示さないことで、一口に「元軍」と言ってしまえる単一の対象が存在する、と思わせる結果になっている。そうであるならばこの記述は、非常にシンプルであるために解釈を含まない記述であると思いがちではあるが、実際は「元軍」という単一の存在を喚起するという解釈を生んでしまっていることになる。それは「元軍」が「攻め込んできた」と結びつくことで、「攻め込まない」ことはなかったとしているわけで、攻め込むことに関しての単一性・均質性を示す結果となっている。しかし連合とか混成といった集団は、単に種別の違うものが組んでいるというだけでなく、目的や行動における不一致を孕んでいるということでもある。そうであるならば、「攻め込まない」ことを完全に排除することはできないはずで、具体的には旧金軍(漢人化した女真人と華北の漢人)がモンゴル人と同程度には忠実に攻撃していないとか、高麗人の中には隠れて攻撃の足を引っ張る者もいた、ということを排除できないだろうと言うことなのである。そうであるのに、「元軍」を「攻め込んできた」と結びつかせることで、そこに単一の意味しか示せなくなっているのである。この点からすれば、歴史的知識の基礎になるという事象記述は、その意に反して物事を単純化し粗略に記述したもの、ということになるだろう。

 次に「元軍」という中国の王朝軍が「攻め込んできた」場所である、「博多湾」について考えてみよう。この「博多湾」は、この場合単に自然地形の名前として機能しているのではない。この記述においては、「攻め込んできた」場所が博多湾なのではあるが、より正確には進入した場所が博多湾であり、攻め込んだのはそこの施設とかそこにいた敵対集団に対してである。そして博多湾にいたことを理由として、その施設や集団が攻められたのではなくて、そこが日本であり日本の施設や集団であったから攻め込まれたのである。つまり「博多湾」は、元軍の敵対者である「日本」の隠喩としても機能している、ということなのである。
 事象記述に隠喩が紛れ込んでいるというのは、かなり問題である。というのは隠喩である以上、それが何を指し示すのかを解釈しなければならないからである。そうなると、解釈を含まないことが事象記述の要件である以上、この伊藤氏が挙げた記述は事象記述ではないことになる。それならば、「博多湾」を事象要素としての「攻め込んだ」対象に変えればよいか、と言うとそうもいかない。「博多湾」は「日本」の自然地形だから、この用語を「日本」に変えたとする。しかしながら、「日本」に攻め込んできたというのも隠喩である。この場合の「日本」とは、日本人とか日本人の所有する施設という意味であって、特に「攻める」というのであれば、何らかの抵抗が想定されるのでなければならないだろう。つまりそこに戦闘が含まれているのであるから、元軍は敵対的日本人を対象として「攻め込んだ」のである。それならばこの場合の敵対的日本人とは、具体的にどのような人々を指すのだろうか。「対外戦争の社会史」という副題が付されている海津一朗氏の『蒙古襲来』には、文永の役が次のように説明されている。

 六度にわたる通好要求の無視によって、モンゴル帝国(一二七一年、国号を元とする)皇帝フビライによる日本征討は必至の情勢となった。一二七三年(文永一〇)に高麗の三別抄の乱(崔氏残党)を鎮圧すると、翌七四年(文永二)に蒙古・高麗連合軍三万数千人(戦闘員二万五六〇〇、水手・大工六七〇〇)を擁して、対馬・壱岐の両国を軍事占領し、一〇月二〇日未明に博多湾岸に上陸した。毒矢やてつはう(炸裂弾)などみなれぬ兵器と、統制のとれた集団戦法を駆使する元軍の前に、幕府に動員された御家人ら武士たちはたまらず大宰府まで没落した。だが、この夜、海上の船に引き上げた元軍は、夜半の暴風によって多くの被害をだして高麗に撤退した。第一次の蒙古襲来(後世「文永の役」と呼ばれる)の顛末である。
 この時の元軍敗退については、季節はずれの暴風の有無も含めて謎が多く、予定された撤退ではないかという説もある。けれども、暴風が吹いた事実は複数の一次史料で確認されるし、また元の正史が一万三五〇〇人の戦死者と捕虜を出したと被害を明記していることもあり、通説にしたがってよいとおもう。
 この戦闘では、御家人であっても戦場に行きながら戦闘を拒んだり、境を守ると称して動かないなど「不忠の科」が続出した。幕府は、このような者の名前を出させるなど厳罰を求め、御家人に対する当世は以降しだいに強化されていったのである。


 ここで元軍の対戦相手は、「幕府に動員された御家人や武士たち」と記載されている。そして彼らの実態については、「御家人であっても戦場に行きながら戦闘を拒んだり、境を守ると称して動かないなど“不忠の科”が続出した」とある。この海津氏の説明からすれば、この幕府によって動員された集団は、軍隊としての統制力に大きな問題があったことになる。そしてその後、「御家人に対する統制はしだいに強化されていった」ということなので、その7年後におこった弘安の役ではどうであったかをみてみよう。

 五月に高麗の合浦<ガッポ>を出帆した九百余艘の東路軍は、対馬・壱岐を占領し、三〇〇艘を長門に向かわせ(『勘仲紀』弘安四年六月一四日条)、主力は六月六日博多湾に到着した。ここで、幕府軍と海陸において交戦したが、頑強な抵抗にあって上陸を断念し壱岐に撤退した。
一方、江南軍の大船団三五〇〇艘は、予定より二週間遅れて七月に慶元(寧波)を出発し、平戸付近で東路軍と合流し、二六日伊万里湾の鷹島を占領した。三〇日夜半から閏七月一日にかけての台風接近により、海上の元軍は壊滅的な打撃をこうむり高麗に敗走した(後世「弘安の役」と呼ばれる)。この日は、ユリウス暦の八月一六日、台風シーズンの真っ最中であった。異民族の混成軍は世界各地でみられる元軍の特徴だし、最新鋭の巨大軍艦と、海戦に熟練した宋の指揮官に率いられた江南軍が壊滅したことは今もって謎となっている。

(前掲書)

 文永の役においては、総勢「三万数千人」に過ぎなかった元軍であったが、「たまらず大宰府まで没落した」幕府軍であった。一方の弘安の役での元軍は、「幕府軍と陸海において交戦したが、頑強な抵抗にあって上陸を断念し壱岐に撤退した」のであった。この時の元軍は、「東路軍四万」「江南軍一〇万」(海津)という大軍勢であったが、元軍は幕府軍の防衛線を突破できなかったのである。このように、二度の戦役における日本側の戦力には、大きな違いがあったのであるが、その一度目の事象記述が「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」ならば、二度目の事象記述は「弘安4年、元軍が博多湾に攻め込んできた」なのであろうか。
 事象記述は解釈を含まないと伊藤氏は言うのであるが、それは事象の記述だから解釈を含まないのではなくて、解釈を排除した残余の記述を事象記述と称しているからなのではなかろうか。そうなれば、文永の役と弘安の役の違いを年次だけで表わし、それ以降は「元軍が博多湾に攻め込んできた」とするのが無難である。どこまでが事象記述でどこからが解釈であるのかは、実に厄介な問題であるのだから、このような無難な選択も十分あると言える。「博多湾に攻め込んできた」は隠喩を含むので、「博多湾に進入し幕府軍に攻め込んだ」に変える必要があるだろうが、年次だけを異なるものとして、二つの蒙古襲来事象を記述することに不都合はない。しかしながらそうしてその二つを並べてみれば、これらの記述に陳腐さを感じないではいられない。
 攻め込んできたのはどちらの戦役も「元軍」であり、攻め込まれた場所はどちらも「博多湾」であるが、方や簡単に上陸を許し陸戦でも敗れて大宰府へ退却し、後の方は50日余りも上陸を阻止して暴風雨の到来を呼び込んだ日本側を、同じ「幕府軍」あるいは「鎮西御家人」とすることができるであろうか。この場合どう見ても、この二つの戦役を事象的に分けているのは、元軍の規模もさることながら博多湾で「元軍」を迎え撃った集団の戦力の違いにある。そしてそれが同じ「幕府軍」であるとしたならば、どうしてこのように軍の根幹をなす戦力に大きな違いができたのかを示す必要がある。「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」は、この戦役の根幹にある攻め込まれた側の実体を隠喩に逃げ込んで済ましているのであり、それは一口で「幕府軍」と言い表すことに躊躇したからではないかと思うのである。

 「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」が事象記述かどうかは、「これを事象記述として読みなさい」という指示に従っているかどうかによる。「元軍が」という箇所を海津氏が読めば、「蒙古・高麗連合軍三万数千人」が念頭に浮かぶのであり、さらには副元帥として参戦していた洪茶丘について、「高麗出身者でありながら完全なモンゴル人としてふるまい、高麗人将士の怒りと憎しみを一身にあつめた(高麗軍の大将軍金方慶は、茶丘のために誣告され、国王の面前で拷問を受けた経験をもつ)」(講談社『日本の歴史10』)といった事情から、軍内の統制に問題があったことを思い起こす場合もあるだろう。そうしたことのどこまでが事実でどこからが解釈であるかは線引きが難しいが、「文永11年、元軍が」にはそうしたことが重ね合わされる。したがって「文永11年、元軍が」と言うだけでは、その読み方は多様なのであり、「元に帰属する軍隊」の意味に限定して読まねばならないという理由はない。同様に、博多湾に攻め込まれた側を、その内容を顧みずに「幕府軍」や「鎮西御家人」で済ませるのかどうかは、読み手の見識・力量に依存するだろう。つまり「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」は、それを様々な解釈をともなって読むことができない、などということにはならないのである。そうではなくて、それを実証史学の命題という文脈で読む際には、そこから解釈部分を除いて読むのであり、またそれでも命題として崩れないということなのである。しかしながら、その分内容は極端に限定され、例えば文永の役でも弘安の役でも、年号だけが違うだけで後は同じということになりかねない。

 伊藤氏が挙げた一つ目の事象記述の事例についてここまで考察を加えたが、次にもう一つの例文、「1722年、上げ米の制が実施された」にも言及しておこう。ここでの「上げ米の制」は、その内容はわからずとも、用語の意味としては制度のことである、と理解することができる。それでは「制度」とは何であるか。この用語を辞書で引くと、以下のように記載されている。

社会における人間の行動や関係を規制するために確立されているきまり。また、国家・団体などを統治・運営するために定められたきまり。「封建―」「貨幣―」
(大辞林)

 簡素に過ぎる記述で却ってわかりにくいが、「社会における人間の行動や関係を規制するために」ということは、制度には社会的な目的があるということである。この目的が存在しない、あるいは不明確な場合は、それを制度だとどうして言えるのかがわからなくなる。単に「きまり」というだけなら約束や慣習などもそれに該当するが、約束や慣習と制度には大きな違いもある。それでは、「1722年、上げ米の制が実施された」という事象記述において、どうして「上げ米」が制度だと言えるのか。この事象記述は解釈を含まないと言うが、これを制度であると規定するためには、「江戸幕府の財政が窮乏したので、幕府は財政の立て直しを図って」といった目的が示されねばならない。また制度だと言うのであれば、それが施行され一定期間は継続したことが要件に含まれるだろう。「享保の改革を実施したが、立て直しは一時的なものに終わった」には、制度の実施とそれの継続が示されている。制度が施行されれば、一定の経過の後に成功と失敗のどちらかの結果が生まれるわけである。制度の中身はわからずとも、少なくともここまで示されて、「上げ米の制」は制度だと言えるのである。しかしながら、「江戸幕府の財政が窮乏したので、幕府は財政の立て直しを図って享保の改革を実施したが、立て直しは一時的なものに終わった」は、伊藤氏によれば事象解釈である。事象記述は解釈を含まないと言うが、この事象解釈を含まないと「上げ米の制」は制度とは言えないはずである。まさか「~の制」という呼び方をしているから、それは制度であると言うのではあるまい。それならばこの事象記述は、解釈を含まずしてどうやって制度であることを示しているのだろうか。

(つづく)

by mizuno_clan | 2013-03-31 13:40 | ☆談義(自由討論)