【談議1】水野氏と戦国談議(第四十一回)
歴史と過去⑦-歴史と言語Ⅱ:読解と批判-
談議:江畑英郷
文字史料は言語で記述されている。そしてこの「言語で」という箇所の理解によって、歴史学はどう変わるのだろうか。実証史学はこの「言語で」という箇所を、「過去に実在した出来事を復元可能な手段で」というように理解する。そこでの言語は復元手段なのであり、差し詰め復元するための指図書といったところである。これに対して言語論的転回を踏まえた視点に立つと、まず出来事はそれを捉える言語によって規定される。そして言語により捉えられ記述された史料は、それを読み取る言語によって規定される。この場合の「言語」は、ソシュールであれば「ランガージュ」と呼ぶであろうが、これは通常「言語能力」と訳される。ここではこの「ランガージュ」を、「理解能力」のことだとしておこう。言語は理解を表現する手段ではなく、理解能力そのものである。そして理解は、あるものをあるがままに受容することではなく、身に寄せて捉えることであり、身に寄せるというのは生活という遂行に組み込むことである。
実証史学は、言語を復元手段だと捉えることから、とにかく「事実に基づく」を第一とする。史料を媒体だと言い、そこでの言語の相違は同じ対象に対する発音や綴りの違いとしてしか意識されない。しかしながら歴史学者の中には、そうした実証史学から少しズレた人(適切な表現ではないが)もいる。その一人である笠松宏至氏は、そうした個性が伺える『法と言葉の中世史』という本を書いている。この本には同僚の勝俣鎮夫氏の解説がついているが、まずはこの解説の冒頭を引用しておこう。
著者の笠松宏至さんは、中世史家として、日本の中世に生きた人々との対話を求め、それを楽しんでいるように思われる。この対話は、中世の人々が現実の生活活動のなかで書き記した史料で、現在は「古文書」として眠り続けているものを、読む者が働きかけて目覚めさせなければ成立しない。この古文書の再生は、働きかける現代人が、近代的価値観から解き放たれて、中世の人々が生きていた世界に近づき、相互理解が成立したとき、はじめて可能となるのであるが、その相互理解のいとぐちのひとつは、いうまでもなく言葉である。中世の人々が使用した言葉の理解をとおして、中世の人々との対話ができたと著者が実感しえたことをまとめたものが、本書に収められた短編群であると思われる。
ここで勝俣氏は、「古文書の再生は、働きかける現代人が、近代的価値観から解き放たれて、中世の人々が生きていた世界に近づき、相互理解が成立したとき、はじめて可能となる」と述べているが、これをどのように理解したらよいのだろうか。勝俣氏は、この「対話」「相互理解」は、「働きかけ」によって実現できるように書いているが、この「働きかけ」が何を意味しているか、ここでは判然としない。しかし続けて、「その相互理解のいとぐちのひとつは、いうまでもなく言葉である」と書いている。「いうまでもなく」というのは、古文書が言語で書かれたものだからということなのか、「言葉は文化である」ということで、そこに中世独自の文化が現れているという意味なのか。答えはこの、『法と言葉の中世史』を読めばわかるということなのだろう。しかしながら、現代の我々と中世の人々の間に「相互理解」や「対話」が成り立つとは、どういうことなのだろうか。その間は「いうまでもなく」言語が介在しているが、言語が単なる媒体などではなく自制的に世界を構成するものであるならば、それは「相互理解」や「対話」を妨げるものであるかもしれない。今回の主題は、この勝俣氏の見解を批判的に検討することにある。「近代的価値観から解き放たれて、中世の人々が生きていた世界に近づき、相互理解が成立」するとは、どういうことでそれがどのように可能となるのか。それは今回で7回目となるこの「歴史と過去」で考えてきたことの、一つの区切りとなる考察となるはずである。
勝俣氏の解説は、「本書に収録されている"中央の儀"という作品は、このような著者の創作スタイルがよくうかがえる短編である」と続く。この作品は、笠松氏が「中央の儀」という見慣れない用語に出会って、その意味を明快に解き明かしたものであるが、中世の言葉の読解と批判について、今回はこの短編を元にして考察することにしよう。
この「中央の儀」は短編なので実際に読んでもらいたいが、笠松氏の結論からすると、この用語の意味は以下のようなものである。
(以降、引用元を示さない場合は、『法と言葉の中世史』より抜き出したものである)
決定権者たる権力トップが除外された場における家臣たちの決定が、トップの意志として外部に表明される、これがこの時代「中央の儀」とよばれたことの中身であることは、今やほぼ疑いないところといえよう。そしてもっとも肝心な点は、それが単なる「無法」や「越権」ではなく、なんらかの「合法性」、新しく生れつつあるルールの存在を暗示することにある。このような新たなる政治形態、もしくは政治思想を、外部者は多分に非難を込めて「中央の儀」と表現した。それは一種の新造語、ある一部に通用する流行語であったに違いない。
「中央の儀」という用語の意味を、笠松氏は別に以下のようにも整理している。
(1)本来の決定権者たる室町殿が、関与しない、というよりむしろ意識的に桟敷におかれ
(2)実際上は管領、侍所、所司代等々の優勢者が下した決定を
(3)「上意」の名において他に強制しようとする
「中央の儀」という用語の意味自体は、この上記3項目の内容に示されている。しかしながら、これだけのことであれば「従者による主人意志の単純な詐称、いつの時代でも珍しくない越権行為」に過ぎないことになる。ところが笠松氏は、史料から読み取った越権と詐称に、「新しく生れつつあるルールの存在」を認める。笠松氏が「もっとも肝心な点」だと言うように、この新ルールの創出を「中央の儀」という用語に見て取ることが、単なる不明な用語の意味を解明することを超えたこの短編の意義である。
「中央の儀」という用語の意味は上記3項目の内容なのであるが、それが新ルールの創出という時代理解にまで進むのはなぜだろうか。上記の(1)と(2)は、従者集団の越権行為を示し、(3)が詐称であることは明白である。そうであるのに、「それが単なる“無法”や“越権”ではなく」とされるのは、そうした違反に対する反撃がなく、その違反が黙認されているからである。
笠松氏がこの短編の中で検討する史料は、伏見宮貞成親王が書き記した『看聞御記』であり、その内容は応永24年に起こった事件の事後処理をめぐってのものである。貞成親王は侍所所司代の命令に不審を覚え、「室町殿へ内縁をもって尋ね申しいるるのところ、御存知なしと云々。中央の儀、謀言露顕比興なり」となった。この時点で越権と詐称の二重の違反が所司代の命令にあることを貞成親王は知るのであるが、「その数日後所司代の使節が来て、例の一件の起きたときどのような処置がとられてたのか、起請文にしてさし出せ」との命令が返ってきた。それに対して貞成親王は起請文を提出したのであるが、すでに中央の儀であることは承知の上であるのに、またもや命令に従っている。所司代の命令が越権行為であり、それが室町殿の名をかたっているだけだと承知しながらその命令に従う親王の対応をみて、笠松氏はこれを単なる越権と詐称としてかたづけられないと考えたのである。そして明らかな違反行為が黙認され居座るということを理解するためには、この場合の越権と詐称が違反行為とはならないルールを想定するしかなかったのである。そして佐藤進一氏の「室町幕府論」で提示されていた「従者の協議決定が優先する」に依拠して、これを「新たなる政治形態、もしくは政治思想」の出現としたのである。
笠松氏がここで「新たなる政治形態、もしくは政治思想」と言っていることが、具体的にはどういうことであるか。佐藤氏の「室町幕府論」からの引用に続けて笠松氏が述べている箇所があるので、そこからこのことを検討することにしよう。
一は将軍がかれの継嗣決定を重臣に委ねられており、他は御家人の継嗣を、かれの一族家人の意向によって、将軍が決めようという。事情は大きく違うけれど、継嗣について形式的な決定権をもつものの決定が、そのまま認められず、かれの従者の協議決定が優先するという考えに立っている点では一致する。これを単に、法に対する力の優先と片付けてしまってよいだろうか。つまり武家古来の通法に優先する価値があると考えられているのではないか。[中略] そして平和と秩序の維持を保障するものは、将軍にあっては有力大名、守護にあってはその一族家人の支持であるという認定に立てば、義持のケースも一貫した説明が与えられる。
(以上、佐藤進一著「室町幕府論」より笠松氏引用部分)
ここに「武家古来の通法」に優越するものとして新しく発生した政治思想の特徴は、単純な従者のカの優越ではなく、彼らの「協議決定」の優越であった点にあったと私は考える。いいかえれば、元来主人と個々に結ばれていた従者のある部分が、一種の横の連帯をとげ、その総体として主人と対応する関係が、社会的認知をうけたことを意味する。したがってそれは、たとえばあの「下克上」などでは同時代人にとっても表現し切れない、新しい通念であったのではないだろうか。
主人の決定に計らずに従者集団が決定を下すという事態を、笠松氏は「彼らの“協議決定”の優先」であるとする。佐藤氏は継嗣問題に関して将軍が示した決定の当事者主義を、「武家古来の通法」に対する「従者の協議決定」の優先としたのであるが、笠松氏はそれを「新たなる政治形態、もしくは政治思想」にまで進める。このことは佐藤氏が「平和と秩序の維持を保障する」ことが政治の責務であり、社会的な価値であるとする点に同調し、「従者のある部分が、一種の横の連帯をとげ、その総体として主人と対応する関係」となることで、時代が求める社会的価値を実現するという時代認識を、笠松氏が抱いていることを示している。したがって、従者の協議決定の優先が社会における「新しい通念」となっていたことで、貞成親王は従来で言えば越権と詐称である違反を、それとして告発できなかったという論理がここに構成されているのである。
「中央の儀」という用語の考察は、この語の通用の背後にある新しい社会通念の登場を導き出したことで、単なる用語の意味の解明に終わっていない。勝俣氏が中世との「相互理解のいとぐちのひとつは、いうまでもなく言葉である」と述べていたことは、このことかと思えるのであるが、ここに真の意味での「相互理解」があるとは思えない。それはなぜなのかに答える前に、まずは笠松氏が導き出した、新ルールとしての従者による協議決定の優先について考えてみよう。
「中央の儀」という用語に関わる背景も含めてこの用語の意味を整理すると、それは以下のようになるだろう。
①組織の決定権者は、その決定権に基づいて命令を下す。
②決定権者の命令は、その直接の下位者によって命令対象者に通達される。
③上記①が成立していない状態で、決定権者の直接下位者が複数集まり、その協議によって決定をおこない、それを決定権者の命令として通達する。
④上記③が命令対象者および決定権者に対して露見した場合でも、③の命令は無効とならない。
上記③の事態は①が前提である以上、越権行為であり詐称である。しかしながら④の事態が続くことで、③の越権と詐称は消去される。そして③が違反でないのならば、①の前提は成立しない。ここでは、③が④によって継続的に成立する以上、実質的に①は否定されていると考えるべきである。笠松氏は従者協議決定の「優先」だとするが、これは①の決定が従者協議決定と一致した場合①は成立し、不一致の場合は成立しないのであるから、①は従者協議決定に従属していることになる。したがって実質的には、上位者単独決定の否定と命令権の剥奪と同じ意味になる。そしてこの①が否定されていながら、上位者の名をもって命令が発せられている事態を、どう理解すべきかがここでの第一の問題となる。
この事態の理解として、命令形成の周辺で上位者の実質が失われていても、その外部である命令を受ける側では、依然として上位者の命令権限が有効性を保っている、という捉え方は可能である。ところが④においては、命令を受けた者が詐称であることを承知しているのである。史料の中では、貞成親王は室町殿の上意ではないことを明確に認識した後も、所司代の呼び出しに応じている。したがって命令を下される側にも、①の否定を目の前にしてそれを黙認する通念が存在したことになり、①の否定は命令形成の周辺だけに留まらないのである。したがって①の否定は世間周知のことでありながら、従者の協議決定は主人の名をもって下されているのである。
笠松氏は、「ほん物の“上意”なのか、“上意”を装う“中央の儀”なのか、それを“室町殿へ内縁をもって尋ね”なければわからない。こんなことが、少なくとも前の時代にはなかったことだけは確かであろう」と書いている。しかしながら、ルール変更があったのならば、「ほん物の“上意”なのか」は問題とはならないはずである。実際に内縁をもって尋ねて中央の儀であることを知った貞成親王は、結局為すことを知らなかった。越権と詐称が居座る事態を説明するために、笠松氏はルール変更を持ち出したのであるが、そこでなぜ「上意と号す」必要があったのか。笠松氏が言うところの、従者の協議決定の優先という理解では、このことを明確に説明できていないのである。
次に①の決定権者の「決定」という点について考えてみよう。何かを決定するには基準が必要で、その基準に基づいて決定がなされ、その決定を実施するために命令が下される。佐藤氏はその基準を「平和と秩序の維持を保障する」ことだと述べているが、上位者の決定が「そのまま認められず」ということならば、その決定がその基準に反しているということになる。そして上位者の決定が「平和と秩序の維持を保障する」ことに反するのであれば、それは上位者が判断ミスをしたか利己的に決定をしたかの何れかである。そしてもしそれが判断ミスなのであれば、従者の連帯はミスを指摘し上位者にミスのない決定に訂正してもらえばよい。そもそも上位者が「平和と秩序の維持を保障する」ことを基準に決定をするのであれば、独断を避けて関係当事者の意向を重視することになる。佐藤氏が挙げた例に即して言えば、幕府機構のトップの選出であれば重臣たちの意向を重視するだろうし、御家人の継嗣問題であれば一族家人の意向に基づこうとするだろう。そうであるのに上位者の決定が「そのまま認められず」、「平和と秩序の維持を保障する」ことに反しているというのであれば、その決定が私的で利己的なものだからであろう。
ここで①の決定は、何に基づいてなされるのかという問題が浮上した。「平和と秩序の維持を保障する」という時代の要請に答える形で、従者の協議決定の優先が社会の新ルールとなったというのであれば、その主人の決定はなぜ否定されたのか。笠松の考えに従えば、それは主人の私的で恣意的な意向によって決定がなされ、それが「平和と秩序の維持を保障する」に反するからであろう。佐藤氏の挙げた事例では、将軍足利義持と義教は私的恣意性を避けるために、自らの判断を抑制して当事者集団の協議決定を望んで優先させていた。両人は自ら私的で恣意的な決定とならぬよう、当事者主義をとったのであるが、それが進めば将軍は決定しないが常態化する。そこに中央の儀が成立しているとも考えられるが、従者協議が必ずしも「平和と秩序の維持を保障する」わけではない。そしてもしこれが当事者主義であるのならば、当事者はより広汎な下位層へと広がっているのであり、そのことによって中央の儀の連鎖が出現するはずである。この中央の儀の連鎖とは、上意層の決定を待たずに下位層協議が決定する事態が、下方に向かって止めどなく進行することである。そしてこの中央の儀の連鎖が起こり、底辺に拡大した当事者協議が紛糾した場合を想定するならば、社会の平和と秩序の維持は返って実現しがたいものとなる。
新たな政治形態として、従者協議決定の優先が出現していたのなら、なぜ「上意と号す」必要があったのか。また「平和と秩序の維持を保障する」ために、上位者単独決定を否定することが時代の趨勢であったのならば、下方に拡大する従者協議優先をどのように政治的な安定につなげたのだろうか。あるいは、上位者が平和と秩序の維持に反するようになっていた、というのは本当なのだろうか。笠松氏の打ち出した「中央の儀」の理解には、このような問題が解決されないまま残っていると思うのであるが、その根幹には上意の否定という事態が横たわっている。そしてこのような問題が生じるのは、この否定された「上意」の理解の仕方に何か不都合があるからなのではないだろうか。
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by mizuno_clan | 2013-05-25 13:37 | ☆談義(自由討論)