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【談議1】水野氏と戦国談議(第四十一回)

(前文へ)

 ここで正当性と法について、橋爪大二郎氏がその著書『言語ゲームと社会理論』の中で述べていることを見ておこう。

 日常の社会生活もまた、ルール(法=規範)にしたがっているはずだ。しかしそのルール(一次ルール)は、ひとびとの遂行の前提になっているだけで、その姿を積極的には現さない。それが積極的な姿をとる-法として存在しはじめる-のは、法的言説を操る言語ゲームのなかでである。法的言説を操る言語ゲームは、日常の社会生活の成立を前提にして、そのルールへの言及関係を張りめぐらす。こうして、二種類の言語ゲームが、言及を通じて結びあうこと-これが、ハートのいう「一次ルールと二次ルールの結合」のいみするところにほかならない。[中略]
 ハートによると、すべてのルール(にもとづくゲーム)は、周辺部があいまいな「開かれた構造」をそなえている。すなわち、ルール(にもとづくゲーム)は、誰がみても明白で異論の余地のない確実な芯部のまわりに、疑わしい半影をしたがえている。この疑わしい半影の部分こそ、審判の出番であり、審判の権威がゲームの円滑な進行のために必要な場合である。

 20世紀を代表する法哲学者であるハートは、法というものを一次ルールと二次ルールの言及的結合であると考えた。一次ルールは「ひとびとの遂行の前提になっているだけで、その姿を積極的には現さない」規範であり、二次ルールは「法的言説を操る言語ゲーム」である。一次ルールは言及されるもので、「社会生活に規範的な構造を与えるルールである。ただしその規範性は、端的に遂行的なものであって、言及されなければ存在が明らかとはならない」(橋爪)ものである。したがって通常、目にして口にする法律は一次ルールへの言及であり、この言及にも「承認・変更・裁定」といったルールが存在しそれが二次ルールということになる。ここに「言語ゲーム」という概念が登場し、橋爪氏のハート理解はこの言語ゲーム理解を前提としている。先にも断ったようにそのことは次回以降に述べるとして、ここでは法律というものを言説として捉え、その遂行的な規範に対する言及としてこれを押さえておこう。たとえ法律がない社会においても生活が現に可能となっているということは、そこに何らかのルールが働いているということである。そこでは明示的なルールが可視的に存在していて、それに意識的に従っているのではなく、人が現実の状況を規範的に形成しているのである。
 このハートの主張するところのルールを説明するために、橋爪氏は野球における「審判のいるゲーム」を例として示す。野球のルールはそれがルールであるために従っているというよりは、ルールに従わないと野球そのものが成立しない。したがってこのゲームのプレイヤーたちは、野球をしているのであって、そのルールブックに行動を合わせているのではない。ピッチャーがボールを投げて、バッターがそれをバットで打つ。それはそのようなルールだからそのようにしているのではなく、野球とはそういうものであり、そこにあるのは規定ルールに則った行為なのではなく、野球というゲームの「プレイ」なのである。したがって、「誰がみても明白で異論の余地のない確実な芯部」というものは、このプレイ自体を構成するものであり、「端的に遂行的なもの」というのはそのことを示している。
 「審判のいるゲーム」と同様に、社会生活の営み自体に織り込まれそれを構成する一次ルールが存在する。社会生活が営まれているということは、すでに何らかのルールが始動しているということである。それはルールを決めてから社会生活が営まれたのではなく、営みという遂行が成立するために自身を律したものである。法の言説はこの始動している自己律に関する言及であり、自己律であったものの対象化であり可視化である。このようなハートの法哲学からすれば、貞成親王や経祐は、この社会生活の営み自体を構成する「誰がみても明白で異論の余地のない確実な芯部」として、自身の主張を確信したと考えられる。そしてその確信から、上意が離れないこともまた確信していたのであるが、それは上意が私人の意見でも考えでなく、また法的権限に基づく命令でもないからである。
 上意というものが法的権限に基づく命令であるならば、権限の剥奪に関する法が存在するのでなければならないが、「これこれの要件に該当したならば上意を禁止する」などという法があったはずもない。上意とは法的権限に支えられているのではないが、先に述べたように私的意向に基づくものでもない。これが私的意向であるのならば、「上意であったならば、このような不当な命令は出されない」と確信できなかったはずだからである。法的権限を根底で支え、私的意向を超えるものは、「誰がみても明白で異論の余地のない確実な芯部」としての一次ルールであり、この芯部のことを「正義」という概念で捉えることができるだろう。先に構成員の合意が正義を規定すると述べたが、そのような合意形成が可能なのは、その根底に「誰がみても明白で異論の余地のない確実な芯部」が存在するからである。しかしながら、この芯部は不可視の一次ルールであって、それへの言及としての形ある法ではない。したがって上意がこの一次ルールであるならば、それへの言及としての二次ルールがないところで働いていることになる。そして二次ルールがなければ「決定権者」といった規定はなく、「室町殿」も職位ではないことになる。

 「室町殿」という用語は、時の将軍個人を意味していたり、室町幕府体制の最高権力者の意味であったりする、と我々は理解する。しかしながらこれまでの考察で、「上意」は個人の意向でも権限に基づく命令でもないのだから、室町殿も個人でも幕府のトップでもないことになる。そうでありながら「上意」には、無条件に発せられ抗うことができないという意味が付与されている。そしてそのような上意は、社会において不可視の遂行的な規範を体現することで、社会正義に導くものであったのではないかと考えてみた。この想定、あるいは解釈でもって、そのような立場の室町殿がどのようにして出現するのかを考えてみたい。
 笠松氏の書いた『中央の儀』は、その終わりを意味ありげなイメージを読者へ投げかけることで閉じている。そのことに関する勝俣氏の解説文を、以下に引用する。

ここで著者は、「中央の儀」という言葉の用例をさがし求めるとともに、「中央」という当時使用された言葉を解析し、現代ではほとんど使用されていない時間的「中央」の語義が、「中央の儀」につながるものとし、この言葉の意味を「本来は決定権者の意向にまつべきところ、その途中の合議で……」と確定している。論文としては、これで立派に完結しているわけであるが、著者は、最後に、この時代最も一般的に使用され、節用集などの同時代の古辞書に共通して記されている中央=香台という中央の語義との関連が捨てきれないとして、次のような文章で結んでいる。

 ある夏の日の午後、デパートの最上階近く、壼やら茶器やらそんな道具類がならぶ一隅を歩いていた。短く太い四脚をふまえて、いかにも安定感のある黒塗りの香台、その上にこれはまたいかにも精巧で華著な香炉が、ちょこなんと載っている。強力な家臣団の支え(中央)がゆらげば、台上の公方(香炉)はひとたまりもない。しかし香炉(上意)のない卓(中央)も、無意味だ。

 私は、この文章こそ、著者が、この言葉を追う過程での「対話」で、正しいイメージであると実感しえたことであったと想像している。そして、この文章こそ、著者が最も書きたい文章で、このイメージを書きたいために、この作品が書かれたように思われるのである。著者自身が「正しい」と感じ確信したことがら、中世の人々があたりまえすぎるほどあたりまえであると考えていること、しかし現代に生きている人々に、近代の論理をもちいて証明してみせることがきわめて困難であること、それが著者をしてこのようなスタイルをとらせたのであり、文章力豊かな著者の腕のみせどころでもあったのである。


 ここで勝俣氏は、香炉と香台の「イメージを書きたいために、この作品が書かれたように思われる」と述べているが、これはどういうことだろうか。ここまで笠松氏は「中央の儀」という用語から、従者の協議決定の優先という時代のルール変更を読み取ってきた。それは「強力な家臣団の支え(中央)がゆらげば、台上の公方(香炉)はひとたまりもない」という表現に示されている。しかしながらそれに続く、「しかし香炉(上意)のない卓(中央)も、無意味だ」はこの読み取ったルール変更に逆行する。香炉の置かれていない香台が無意味であるのは確かだが、公方・上意のない協議決定は無意味ではなく時代の趨勢だったのではないだろうか。そしてこの文章こそ、笠松氏が書きたかったことであるとする勝俣氏の解説も、ここにきて意味不明となる。見方を変えれば、時代の趨勢でルール変更があったにも関わらず、「上意と号す」ことへの回答にも思えるが、上意のない中央も「無意味だ」では、これまでの笠松氏自身の主張も「無意味だ」となりかねない。勝俣氏は、「近代の論理をもちいて証明してみせることがきわめて困難であること、それが著者をしてこのようなスタイルをとらせた」と言うが、それならばやはり笠松氏の現代語による翻訳は無意味だったことになる。どうもこの両人の意図は測りかねるが、この香炉と香台のイメージを「“正しい”と感じ確信したこと」は、あながち的外れなことではないように思う。ここからは香炉と香台のイメージを糸口にして、そこに生まれる実感を私なりに詳述してみよう。

 香炉と香台は、どちらもそれ単独では香を焚くには不足がある。香を焚くにも趣があって、それがために香炉は「精巧で華奢」である。そして、それがためにがっしりとした香台を必要とする。また香台は香炉に合わせて設えてあり、香炉なくしては台とならない。香台が「中央」であるのは、香炉のために中を空けていることによるのだろう。例えば、砂を円形になるよう厚く敷き詰め、その真ん中から砂を四方によけると、中に円形の空きができる。そしてここに香炉を置けば、この砂の場が香台となる。ここでは周囲がよけられた中の空間が中央であり、それは「空ける」という行為によって成立する。
 周囲によって空けられ設えられた空間、それが「中央」の意味とも解釈できるが、この意味で「上意」を理解すると、中央という空けられた場のもつ力による行使という意味となる。この解釈のポイントは、トップやその従者といった実体にではなく、それらが共有する空間に力を認めることにある。そしてこの空間は、上位者と下位者どちらが欠けても成立しない。笠松氏の解釈では、中央は成就の途上という意味となる。この意味おいては、成就は上位者による命令の発動にあるのだから、本質的にはあくまで上意下達である。したがってその上意下達が、下位の一揆によって越えられるというストーリーを描き出していることになる。そしてこのストーリーの描き出しにおいては、上意は越えられるものとなり、それによって現代における組織内命令に同化されることになる。
 香炉と香台と同様に、上位者と下位者どちらが欠けても「中央」は成立しえない。これに対して、上位者がその力で下を押さえつける、あるいは関係者の合意がその力の均衡を生み出すとする捉え方は、どちらも上位と下位の共有・相互依存には至らない。したがって香炉-香台の関係によって出現する「中央」は、どちらにしても力の論理とは別の次元にあると言える。そしてその「中央」を「退き空いた」場とすることは、そこに「虚」を見てとることに進む。しかしながら、この「虚」は何もないということではなくて、突き合う力が引き退いたことで、事の芯部が露わになるといった場を意味するものである。そして退く行為が呼び覚ますのは、「敬う」という力の論理とは別の求心力である。
 退き空ける行為が生み出す場として、「神前」を考えるとこの視点について得心が得られるかもしれない。神前では誰もが頭を低くし、腰をかがめて進退する。この姿勢は身を小さくするものであるが、それは「畏まる」「謹む」と言われるもので、自ら身を緊縛することである。この自身の身を緊縛するというのは、「戒め」であり、私心を収め縛るを意味する。「出張る・誇示する・私欲に走る」に対して、「退く・謹む・戒める」という態度が「神前」を形づくる。こうして言葉を並べてみると、一方が力の発揮・行使であるのに対して、「神前」ではその力が自己解除されることが明らかになる。
 この「神前」では、そうした力の自己解除とともに、「神を敬う」という態度が示される。「退く・謹む・戒める」態度が自己自身に向かっていたのは違って、この「敬う」はその対象が存在する関係概念である。「敬う」と同義語扱いされる「尊敬」という言葉があるが、「神を敬う」という使い方をする場合は、「尊敬」がもっている「模範とする」という意味を除外する。この言葉はむしろ、「師を尊敬する」という使い方が中心で、その意味は「優れた相手を模範とする」である。この場合の「尊敬」では、相手が私的見方にせよ「優れている」ことが前提となる。これに対して「神を敬う」は、神が人間的尺度で優れていることを前提とはしない。欧米などの神はそこのところが違うのかもしれないが、少なくとも日本人にとっての「神」は、何かが優れていることを前提としない。このことは、『古事記』に登場する神々の描写にも示されていることであるが、それは汎神論の形態をとることと関係があるのかもしれない。
 相手が優れているのでもないのにそれを「敬う」となると、この態度は何に基づくのだろうか。これは一つの解釈であるが、やはりそれは「退く・謹む・戒める」ことの方が先行しているのではないだろうか。つまり自己緊縛、私心の解除という行為が先行し、その空いた場に「敬う」が宿るのである。人々が退き空いた場が出現したとき、そのような場が現れたこと事態が「尊い」のであり、そこに理由や前提を見て取ることに意味はない。この事態の現前は、人々の生きる営みの中に潜んでいた「社会」が姿を現したもので、おそらく生の芯部なのである。人はやはり単独の存在ではなく、「人々」として生きているという実が現前したものとして、このことを捉えておきたいと思う。
 それでは、この構図を先の「上意」の理解に適用するとどうなるであろうか。室町殿とは「敬う」対象であるが、それは彼の何かが優れている、あるいは他を圧する力があるからではなく、人々が退き空ける行為によって出現した「中央」に置かれたからである。そしてこの中央に置かれた室町殿は、「敬われる」のみでそれを超えて自らを示すことはない。力の大きさによって上に立つ者、あるいはその優れた器量によって先んずる者は、そのことを折りにつけて示さねばならない。そのことは同時に、その力と器量を行使することでもある。そしてそこにあるのは、模範としての尊敬あるいは追従であったとしても、相手に対する「敬い」ではない。退き空けた場に置かれた者は、力も器量も問われない「虚」に住まうのであって、そこでは不動でなければならない。そうでなければ、「中央」という「虚」が崩壊し、退き空ける行為も失われる。
 このような考察は、当時の人々の頭の中にあった観念を、これまた観念的にあれこれひねくり回した結果のように思えるかもしれない。しかしながら、当時の人々の脳裏にこういった観念があって、それによって謹みや敬いが行為として現れていたというのではない。それは思い込みなどではなく、遂行の中に現前するものである。このことの理解は、やはり「言語ゲーム」の考察を必要とするが、それはまたの話である。そして笠松氏の読解では、権限・トップ・命令・協議優先・ルール変更という用語の連鎖があった。そしてこの連鎖を引き継がない香炉-香台のイメージから、退き空ける・虚・謹む・敬う・不動という言葉の連鎖を引き出した。この連鎖には内的共働関係があり、それはそれぞれの体系を形作っている。そして前者が事実を表す連鎖で、後者が観念の連鎖であるといった偏見を振り払うために、あの言語論的転回が持ち込まれるのである。

 「上意」という言葉は、上位者の意見あるいは考えとして、もしくは命令として「わかった」つもりでいても、それは現代社会とは違う奇妙な社会における上下関係を現代的に理解し、そこから上位者と下位者の共働行為としてこの言葉の意味を捉えたものである。そうして把握された言葉の意味は、現代語への翻訳であり、現代においてのみ理解可能な意味を形成している。こうして④「現代語と異なる綴りで異質である意味の語彙」は、異音同義語の類へと同化される。「中央の儀」という用語は、笠松氏によって読解翻訳され、現代へと同化された。それは、この用語の意味として書き出された用語を見れば歴然である。

決定権者たる権力トップが除外された場における家臣たちの決定が、トップの意志として外部に表明される、これがこの時代「中央の儀」とよばれたことの中身であることは、今やほぼ疑いないところといえよう。

 ここに書き出された用語の中身は、読めば誰でもわかる。そこには、「権力者」「トップ」「決定」「意思表明」と現代語が並んでおり、この言葉に意味を吹き込む組織内上下関係は、現代人が日々その中に身を置いているものである。その組織内上下関係からすれば、ここで示されたことは紛れもない越権と詐称である。ところが史料には、この中央の儀が社会に平然と居座っていることが示されている。それは現代ではありえないことで、「中央の儀」という用語の解明の核心は、不当・違反が社会に居座る事態を説明することとなる。そしてその説明は、「平和と秩序の維持を保障する」ことを背景とした、決定プロセスのルール変更として提示された。そしてこの説明もまた、徹頭徹尾現代的なものである。
 実証的という態度は、現代における理解の枠組みに引き込んで、その枠組みの中で体系整合的であることを目論むものである。したがって「事実」であるとは、この体系に整合的にはめ込めるということであり、そのとき人はそれを「理解できた」というのである。歴史学は、進行形ではない過去を扱うが、その過去は現代語によって構築される。この「構築される」は、「現代語で説明される」と同義である。しかしながら、歴史に向き合う者は本質的にその社会、その言語から隔てられた者であり、その意味では過去を構築することしかできない。史料は翻訳され読解されるのであり、そうでなければ「理解した」とはならないのである。しかしながら、構築された過去と「歴史」は別物である。それが「歴史」であるためには、「理解できない」のでなければならない。現代語による疑似現代社会としての整合体系に引き込まねば、「これは事実である」といった理解と確定ができないのだから、その意味で「歴史」は理解も確定もできないのである。それならばそこにあるのは、歴史には到達できないという懐疑主義なのであろうか。
 現代の我々は、理解の足場を現代においている。この場合の「現代」は、丸山氏が言うところの「それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有な概念化・構造化」が生み出している言語である。しかしながら言語は、その社会において閉じきっているわけではない。人間として同質の経験を形成する次元もあるし、親から子へ受け継がれる同質性もある。それはハートの言う一次ルールのように、整然とした言及体系をもったものでも可視的なものでもないだろうが、社会における営みの深部で息づいている。そして「現代」と「歴史」を区分するのは、現代が再生産し続けている「経験の固有な概念化・構造化」そのものであり、「歴史」はその差異として浮かび上がる。ここでは現代語で説明され、現代固有の概念化・構造化に同化されてしまった過去と、その差異として立ち現れる「歴史」とを意図的に区別している。それはこの用語の一般的な使い方ではないが、そのように「歴史」を規定することは、言語論的転回を踏まえれば、あるべき姿だと言えるだろう。
 その意味の「歴史」において重要なことは、史料を現代語に翻訳して読解しないことである。「歴史」が過去の出来事に関するカタログを作ることではないのなら、現代との差異をこそ求めるべきであり、そのことは本質的な次元で現代を照らすのである。史料を現代に同質化して理解することを「読解」とするのであれば、「史料批判」とはそれに対峙する者の理解の足場を批判するものである。この「批判」という言葉には、辞書を引くと二つの意味が載せられている。

① 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を―する」「―力を養う」
②人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の―を受ける」「政府を―する」
③哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。


 この『大辞林』に書かれた意味は3つであるが、意味的に①②と③は大きく隔たっている。③の意味は、あの哲学者カントの大著『純粋理性批判』の「批判」の意味である。認識の基盤を省みること。この意味において歴史研究を捉えるならば、その足場である言語を省みることであり、それが「経験の固有な概念化・構造化」であるならば、それはすなわち自己批判となる。そしてこの自己とは現代社会に生きる自己であり、その自己を批判するとは現代社会を本質から批判することなのである。かくて歴史学は、現代社会の本源的な批判学として、その学としての意義を示すことになる。

「歴史と過去」完

by mizuno_clan | 2013-05-25 12:16 | ☆談義(自由討論)