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【寄稿21】刈谷市文化財指定「水野氏関連古文書」の翻刻

刈谷市文化財指定「水野氏関連古文書」の翻刻

                              文責:水野青鷺

 刈谷城は、天文2年(1533) 、水野忠政(徳川家康の外祖)によってに築城され、その後、江戸時代に刈谷藩が設けられると、忠正9男忠重の世嗣・水野勝成が初代藩主となり、明治維新を迎えるまで、9家22人の譜代大名が藩主となった。
 平成25年(2013)は、本城築城480年記念にあたることから、本年度は「刈谷城築城480年記念事業」として、刈谷城に関する記念展覧会をメインイベントとし、そのほか様々な関係行事が実施されている。

 これに先立ち、平成25年1月24日、新たに水野氏に関連した「水野忠重」に係わる2件の古文書が刈谷市指定文化財に指定された。

詳細は、次のURLを閲覧いただきたい。
[Web]刈谷市公式サイト「新たに2件の文化財が指定されました」


【明細】
指定 区分 :刈谷市指定
区    分:古文書(*1)
指定年月日:平成25年1月24日
名   称:福谷定乗書状/津田宣久判物
所 在 地:刈谷市郷土資料館(愛知県刈谷市城町1-25-1)
所 有 者:刈谷市

(今回の指定により、刈谷市内の指定文化財は「国指定1、県指定11、市指定79」の計91となった。)


 上記のWeb記事には、これら二点の古文書内容の「解説」および「判物(*2)・書状の画像」は記載されているものの、本文の翻刻文(*3)は、掲載されていない。
 従って、当記事について、担当部署に問い合わせたところ、翻刻については『刈谷市史』に記載済との事であり、明確な返答は得られなかった。


】『刈谷市史』第六巻 資料(近世) を閲覧したところ、「第一章 水野氏の時代 第3節 織豊大名水野氏 忠重の所領支配(pp.138-139)」に、「福谷定乗書状」の解説が記されており、同書(p.269)のⅡ土地・年貢「四二 今岡村物成免究に付書状 文禄四年十月」に翻刻文が記載されていた。

以下に「刈谷市公式サイト」からの抜書を記す――
●福谷定乗書状(ふくたにさだのりしょじょう)
種別:有形文化財・古文書
所有者:刈谷市 刈谷市東陽町1丁目1番地
内容:
 文禄四年(1595)10月のもので、福谷藤介(ふくたにとうすけ)の代わりとして福谷伝左衛門定乗(ふくたにでんざえもんさだのり)が、同年の今岡村の年貢率を3割7分と決めたことを五郎右衛門以下今岡村の農民らに知らせたものです。福谷定乗は水野忠重の家臣と思われます。前年に水野忠重が刈谷に復帰していることを示す史料です。刈谷市に残る中世文書として希少なだけでなく、村の成立を示す史料として、また検地による年貢率の分かる史料です。


以下に『刈谷市史』からの抜書を記す――
[  ]内および「註」は、筆者による追補説明である。

忠重の所領支配
忠重が五〇〇〇石の加増をうけた直後、今岡村の文禄四年[1595]の免相(*4)が三割七分と定められ、村方に伝達された(今岡村文書、『近世資料編』268-269頁、図1-49)。
 先出のように今岡は天正拾八年[1590]以来吉田好寛(*5)の給地であった。しかし好寛は秀次事件のあとは豊臣秀康(徳川家康の次男お義伊、のちの結城秀康)に付けられているので、所領は他国に移されたとみられる。今岡が忠重領地になった確証はないが、返付された「本知」の内である可能性も考えられるので、福谷定乗は忠重家臣とみて、検見(*6)によってこの年の免相を定めたいのと[ママ]みておく。
今岡は新しい東海道筋の村であるが、荷物継送りといった宿駅的機能の遂行に関して、池鯉鮒[ちりふ → 知立(ちりゅう)]と対立したようである。詳しい事情はわからないが、上様(秀吉であろう)の鷹や荷物の運送について、今岡は絶対に渡さないとする慶長二年[1597]の池鯉鮒村役人の文書が今岡に残されている(『近世資料編』2669頁、図1-50)[知立村年寄証状]。近世的宿駅制成立の前段階であり、池鯉鮒村は宿駅として発展をはかるため、領主側と対立してもでも権益を確保しようとしたのであろう。
 なお野田村の元禄十五年(1702)の明細帳に、「百六年以前慶長二酉年、水野和泉守様御検知水帳(*7)所持仕候」とあって(『近世資料編』379頁)、この年に忠重が領地検地を行い、その検地帳を所持していると書き留められている。これが残されていれば大変面白いが、それらしきものが野田村文書中に見当たらないので、真偽未定として今後の調査に期待したい。 
(『刈谷市史』第六巻 資料(近世)pp.138-139)


[古文書の翻刻文]
 四二 今岡村物成(*8)免究(*9)に付書状 文禄四年[1595]十月

   以上

 今岡村当物
 成之義、三ツ七分ニ
 相究申候、
 少も如意仕候て者
 くせ事可為候、
 為其ニ 一筆如此候、
 恐々謹言
  
    文禄四年
     拾月廿八日
                   福谷藤介代      
                        同伝左衛門
                            定 乗(花押)

    五郎右衛門尉
    弥一郎
    百姓中ヱ
                      (「今岡村文書」今岡明神社所蔵)


[釈文]
 今岡村の本年貢率の件は、年貢率3割7分と定める、
少なくも身勝手なことをすれば、誠にけしからぬことである、
そのため、この様に文章に記す、 恐れながら謹んで申し上る、
   端書きは無い(参考資料Ⅲ)、

    文禄四年[1595年]
     拾月廿八日
                   福谷藤介の代理人      
                        福谷伝左衛門
                            定 乗(花押)

    五郎右衛門尉
    弥一郎
    百姓連中へ




】その後、残りの「津田宣久判物」の翻刻に取り組み始めたが、浅学のため文字が読み取れず、無為徒食して四月余りを過ごす。しかし8月には、刈谷城築城480年記念事業の一環として、水野氏に関連したイベントが開催される予定であることから、それ以前にはなんとか翻刻したいと意を決し、古文書に明るい会員の方に相談したところ、『愛知県史』資料編12 織豊2 「天正18年(159)」に、七七 津田宣久判物 刈谷市教育委員会所蔵文書 が収録されているとご教示いただいた。これにより、二点共に、翻刻された文書の収録先が判明するに至った。ここに記して謝意を表します。

以下に「刈谷市公式サイト」からの抜書を記す――
●津田宣久判物(つだのぶひさはんもつ)
種別:有形文化財・古文書
所有者:刈谷市(愛知県刈谷市東陽町1丁目1番地)
内容:
 天正十八年(1590)のもので、同年8月頃に水野忠重(みずのただしげ)が伊勢国神戸(かんべ)に移されたあと豊臣秀次の家臣である津田四郎兵衛尉宣久(つだしろうべえのじょうのぶひさ)が泉田村百姓に対して出したものです。したがって水野忠重の転封(てんぽう)後、豊臣秀次の支配を受けていたことを示しています。刈谷市に残る中世文書として希少なだけでなく、現在のところ史料に泉田(いずみだ)という地名が現れる最初のものであり、村の成立を示す史料として、また豊臣家臣の検地奉行名や検地による年貢率の分かる史料です。


以下に『愛知県史』資料編12 織豊2 (pp.89-90)からの抜書を記す――
[ ]内および「註」は、筆者による追補説明である。

[古文書の翻刻文]
十月十三日 豊臣秀次の臣津田宣久、三河国和泉田村の年貢率を定める。

 七七 津田宣久判物 刈谷市教育委員会所蔵文書

   以上
 (碧海郡)和泉田村之
 免あい(相)之事、
 田畠おしこめて
 三つ七分ニ定置
 うへ相替義有
 之間敷者也、
                     津田四郎兵衛尉
   天正拾八年               
            十月十三日     宣久(花押)

      いつミ田村
            惣百姓中



[釈文]
 和泉田村の免相のこと、田や畠の成物を全て入れて、
年貢率3割7分と定めるので、これを替えることは、あってはならない、
   端書きは無い(参考資料Ⅲ)、

天正拾八年(1590年)     津田四郎兵衛尉
      十月十三日            宣久(花押)

    和泉田村
    統べての百姓連中へ


[地図]
【寄稿21】刈谷市文化財指定「水野氏関連古文書」の翻刻_e0144936_20202766.png



[註]
*1=古文書(こもんじょ)=特定の相手に意志を伝えるために作成された書類のうち、江戸時代以前のもの。
*2=判物(はんもつ)=室町時代以降、将軍・大名などが所領安堵(あんど)などを行う際に花押を署して下達した文書。
*3=翻刻文(ほんこくぶん)=和紙に毛筆で記載された文字を「活字」に直したもの。
*4=免相(めんあい)=元は石高から貢租としての納付分を差し引いて、残りの農民による自由な処分を免(ゆる)した分を指したが、江戸時代前期以後には貢租の占める割合を指すようになった。たとえば、免四つ(四公六民)、免五つ(五公五民)などと呼ばれている。免合とも。
*5=吉田好寛(よしだよしひろ ?-1615 修理、亮)=美濃の出身、家康の臣であったが、去って秀吉に仕え、尋(つ)いで、秀次に転任。大坂夏の陣の元和元年五月七日、軍律違反の責任で、天満川に投身自殺とも、敗敵を追撃して天満川に陥り溺死したともいう。
(『戦国人名辞典』)
*6=検見/毛見(けみ)=中世・近世の徴税法の一。米の収穫前に、幕府または領主が役人を派遣して稲のできを調べ、その年の年貢高を決めること。けんみ。
*7=<「水帳(みずちょう)」は「御図帳」の当て字> 1 検地帳のこと。 2 人別帳のこと。
*8=物成(もりなり)=1 田畑からの収穫。 2 江戸時代の年貢。本途物成(ほんとものなり=年貢米)と小物成(こものなり=山野・湖沼の用益などに課した雑税)があったが、特に本途物成をさす。 3 禄高の基礎となる年貢米の収入高。
*9=免究(めんぎめ)=江戸時代の年貢の賦課率。免定(めんさだめ)。


[参考資料]
Ⅰ.刈谷市トップページ>観光・文化・スポーツ>歴史・文化>歴史・文化のお知らせ
    >新たに2件の文化財が指定されました
Ⅱ.C-1 >刈谷城跡
Ⅲ.【寄稿19】古文書の文法「已上」について 

update:2013.06.20
 本文中の二カ所が、免相が三割七分であるのに対し、釈文では、三公七民(納税30%、農民70%)と誤記しました。 正しくは、「年貢率3割7分」です。訂正してお詫びします。


[余滴]
 刈谷市公式サイトには、 福谷藤介(ふくたにとうすけ)および、福谷伝左衛門定乗(ふくたにでんざえもんさだのり)と、ルビが打たれているが、刈谷市の北東部にみよし市があり、同市地名に「福谷(うきがい)」という地名が存在する。現在も福谷町(うきがいちょう)、福谷城(うきがいじょう)などと称されており、地名や旧跡では、「うきがい」と呼ばれている。
 一方、愛知県出身者では、最近有名になった、中日ドラゴンズの投手「24福谷 浩司(ふくたに こうじ)」君がいるなど、人名においては、やはり「ふくたに」である。
しかしながら、水野氏の場合などの家名に見るように、出身地の地名から家名を採ったものが多いと思われる。
このことから元々は「福谷」も、熊谷「Kumagai」などのように「Fukugai」と発音されていたものが、頭の「F」が無声化し、ごく小さく発声されたり、またほとんど発声されなくなり、「Ukugai」と発声されるようになった。また「u」が、訛音化して「i」となり 「Ukigai」と なっていったのではないか、とも考えられる。
しかしながら、地元の人以外は、この「うきがい」は難読漢字であるため、何時しか一般の人たちが読める「ふくたに」と称されるようになったのであろうか。

by mizuno_clan | 2013-06-19 20:19 | ★史料紹介