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【Event】レポート『刈谷城築城480年記念会』講演会&シンポジウム

【Event】レポート『刈谷城築城480年記念会』講演会&シンポジウム

                                文責:水野青鷺

 2013年8月10日(土曜)、朝から燦々と太陽の照りつける酷暑ではありましたが、会場には早々と大勢の方達が詰めかけ、たいへん賑わっておりました。
 会場の「刈谷市産業振興センター(7階)・小ホール」は、定員300名のところ、申込者が定員を超えたことから、残念ながら抽選に漏れた方達は、小ホールの1階下(6階)に設けられた会議室で、モニターによる聴講となりました。小生は幸運にも当選しましたので、会場の模様をレポートすることにいたしました。
 先ずは、既報の予告に引き続き、式次第を再掲します。


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「刈谷城築城480年記念会」
  ―― 德川宗家18代当主 德川恒孝氏、水野宗家20代当主 水野勝之氏による講演会及びシンポジウム ――


【式次第】
主催:刈谷市
共催:一般財団法人 刈谷頌和会
日時:2013年8月10日(土曜)午後1時30分開演(午後1時開場)~午後3時40分
会場:刈谷市産業振興センター(7階)・小ホール 
     愛知県刈谷市相生町1丁目1番地6
定員:300名

A.記念講演会
(A-1
演題:「德川家と水野家」―― 江戸時代に学ぶ現代 ――
講師:德川恒孝 氏(とくがわ つねなり)(德川宗家18代当主)
 プロフィール:
 1940年 東京にて誕生
 1964年 學習院大学政経学部卒業
 1964年 日本郵船(株)入社
 1994年 同社取締役就任
 1998年 米国日本郵船会長兼CEO就任
 2000年 日本郵船(株)代表取締役副社長就任
 2002年 同社顧問就任
 2003年(財)德川記念財団設立 理事長就任
 現在  (公財)德川記念財団理事長
      (公財) WWF世界自然保護基金ジャパン会長
     德川宗家十八代当主
 著書:『江戸の遺伝子』(PHP研究所)
    『The Edo Inheritance』(『江戸の遺伝子』英語版:(財)国際文化会館)

(A-2)
演題:「 刈谷と水野氏 」
講師:水野勝之 氏(みずの かつゆき)(水野宗家20代当主)
 プロフィール:
 1943年 東京にて誕生
 1965年 成蹊大学工学部 電気工学科卒業
 1965年 山武計装(株)入社(現在のazbil)
 1983年 スリーケー(株)設立 代表取締役就任
 2012年 同社相談役就任
 現在  霞会館評議員資料展示委員
      絲竹曾理事(雅楽)
      東京ゴルフ倶楽部 理事広報委員長
      水野宗家二十代当主
 著書: 加藤清正「妻子」の研究(本編、続編)(福田正秀氏と共同研究)


B.シンポジウム
テーマ:「德川家康出生の時代」

コーディネーター
水野勝之 氏(みずの かつゆき) (水野宗家・福山結城水野家20代当主)
パネリスト
德川恒孝 氏(とくがわ つねなり)(德川宗家18代当主)
水野忠俊 氏 (みずの ただとし) (山川山形水野家16代当主)
水野忠知 氏 (みずの ただとも) (松本沼津水野家18代当主水野忠和氏 名代)
水野静子 氏 (みずの しずこ) (鶴牧水野家)
土井貴正 氏 (どい たかまさ) (刈谷土井家16代当主土井正統(まさつな)氏 名代)
板倉敏和 氏 (いたくら としかず) (福島重原板倉家20代当主)

メッセージ
 水野慈子 氏 (みずの やすこ) (新宮水野家14代当主水野誠氏令嬢)
 モニカ 水野ベロイター 氏 (Monika Mizuno Bereuter) (水野慈子氏令嬢)Hambulg Germany                        ホームページ[http://www.dj-aktiv.de/

C.主催・共催者
 刈谷市長 竹中良則 氏
 一般財団法人刈谷頌和会会長 高野基弘 氏

D.来賓 (順不同)
 結城市長 前場文夫 氏
 福山市長 羽田 皓 氏 (代理 教育長 吉川 信政 氏)
 岡崎市長 内田康宏 氏
 大和郡山市長 上田 清 氏
 東浦町長 神谷明彦 氏
 新宮市長 田岡実千年 氏 (代理 教育長 楠本秀一 氏)

E.関連の会員
 福山市「水野勝成公報恩会」会員諸氏
      「福山城友の会」会員諸氏
 結城市「おもだか会」会員諸氏
 東京都「東京おもだか会」会員諸氏
 刈谷市「水野家関係者」諸氏

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【レポート】

1.司会者

  一般財団法人刈谷頌和会会長 高野基弘 氏

2.主催者挨拶
  刈谷市長 竹中良則 氏

3.記念講演会
(A-1)

 演題:「德川家と水野家」―― 江戸時代に学ぶ現代 ――
 講師:德川恒孝 氏(とくがわ つねなり)(德川宗家18代当主)
1.水野家は、忠政に始まり、信元の政策により於大は松平から離縁されたものの、後の徳川家康を生み、さらには家康の相談相手ともなり、後々幕政においても水野家は「徳川家の守り神」とも言える存在となり、徳川260年の基礎を築いた。
1.水野信元は、今川義元の戦死後は、織田信長と徳川家康の清須同盟の仲介の労を執るなど徳川家に尽力した。
1.水野勝成は、若い頃には戦に強く無謀さを揶揄されがちだが、壮年以降になっては政治に明るい名君であった。
1.江戸幕府は、260年以上も続く長期安定政権の基盤を確立し、戦争の無い将に「天下泰平」の世の中を日本にもたらした。この間、ヨーロッパにおいては、100年間に戦争が無かったのは僅か5年間しか無かった。
1.外国人から見た江戸幕府については、ジョーン・ブルック大尉、アレクサンダー・F・V・ヒューブナー、ラザフォード・オールコック等の名を挙げて、彼らは江戸時代の日本を好評している。これらのことから、江戸時代のイメージを改めて再評価されることを期待したい。
1.権力者に金が集まらない仕組みの日本。大名や旗本達は、町人からの借金が絶え間なく、貧しく質素な生活を送っていた。

4.記念講演会
(A-2)

 演題:「 刈谷と水野氏 」
 講師:水野勝之 氏(みずの かつゆき)(水野宗家20代当主)
1.『刈谷市史』の記述について、次の5点の修正を主張
 a. 刈谷城築城は、水野忠政であること。
 b. 水野信元は忠政を継承し、刈谷城主であったこと。
 c. 於大は刈谷から松平に嫁し、離縁されて刈谷に戻り椎の木屋敷に一時居住、そこから久松へ嫁したこと。
  d. 福山結城水野家の家紋は、丸に抱き沢瀉であること。(*1)
 e.結城水野家によって「作為と改竄」があったと論じている(これは東浦町誌にもある)が、これは水野一族にとって重大な問題であり、とても許容できない。「忠政、信元の復権」を切望する。
1. 人名の書き方と読み方
  a. 「於大」は「於太」とも表記されている。
  b.「忠分」は「ただちか」と呼び習わしているが、新宮水野家の系図には「ただわけ」と記されている。
     ※呼称は様々あるので、確定的では無い
1.水野氏の系図に記された人物の解説。

5.シンポジウム
 テーマ:「德川家康出生の時代」
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※この写真は筆者が撮影し、当局のおよび水野勝之氏のご許可をいただいて掲載しています。
写真説明:左から、水野勝之氏、德川恒孝氏、水野忠俊氏、水野忠知氏、水野静子氏、土井貴正氏、 板倉敏和氏



 コーディネーター・水野勝之氏の司会進行により始まる――

(1)三河西尾藩より転封され、刈谷藩で九代続いた刈谷藩最後の領主・土井家の土井貴正氏から、土井利勝の二男土井利長に始まる当家の経緯を説明。
水野勝之氏から「土井利勝は、水野信元の子息で、信元の死後、徳川家家臣・土井利昌の養嗣子となると水野家の系譜には書かれているが、土井家ではどのように伝承されているのか」との質問に対して「父親から、その様に聴いている」と返答。
公開の場で、このような史実が証明されたことは希であろうと推察される。

(2)福島重原板倉家の板倉敏和氏は、板倉氏は元禄15年(1702)、信濃坂木(坂城)より転封し3万石が封じられたが、最後の藩主板倉勝達(かつさと)は、奥羽列藩同盟に与したことで、明治2年1月24日、上総国山辺郡内・陸奥国信夫郡内の領地を陸奥国大沼郡内に移された。これにより、飛び地であった三河国重原(現在の刈谷市下重原町5丁目)に陣屋を移し三河国重原藩2万8,000石を立藩し、その後廃藩置県に至った。重原については、福島藩八代板倉勝長が、三河国1万石の所領を得て、下重原村に陣屋を築いたことによる。

(3)德川恒孝氏に、発言が求められ、講演会の内容に補足説明がなされた。

(4)水野忠俊氏は、当家は、結城市の山川を発祥の地とし、現在も萬松寺(廃寺)には、山川水野家歴代墓所がある。その後、寛永十九年(1642)三河吉田城へ転封、天保二年(1645)には、更に五千石加増され五万石で三河岡崎城へ移封。五代忠之の時六万石に加増、八代忠任まで百七年間続くが、宝暦十二年(1762)唐津藩へ移封され、十一代忠邦まで続く。唐津藩には長崎警固の任務があり老中にはなれなかったことから、文化四年(1817)七万石で浜松藩に転封し、ようやく老中筆頭となり天保の改革を行う。この改革については、異論を唱える諸氏もあるが、忠邦が改革に取り組んだ最大の理由は「阿片戦争」により、清がイギリスとの不平等条約を結ばされたことを知り、日本もこの外圧を阻止しなければならないと考え、兵力の備えなどの出費のため倹約令を発したものと語られた。
これは唐津時代に、長崎から外国の情報をいち早く入手し、的確に対処していた先見の明によるものと推察される。

(5)水野忠知氏は、松本藩改易から沼津藩への復権により、その後幕末まで多くの老中を輩出し、山川山形水野家とともに、水野家における幕閣の双璧を為した家柄である。
先祖の菩提寺は、於大の方を祀る文京小石川の「傳通院」に隣接する「真珠院」で、近年墓地が整備されたことから、ぜひ墓参してほしいと述べた。

(6)鶴牧水野家の水野静子氏は、ご高齢であり、物静かなご婦人であることから、コーディネーターの水野勝之氏が、代わって当家のことを語られた。
鶴牧水野家は、松本沼津水野家から分藩した家であり、房総半島南端の北条藩から、北上し市原に鶴牧藩を起こした。(*2)


メッセージ
 水野慈子 氏 (みずの やすこ) (新宮水野家14代当主水野誠氏令嬢)
  モニカ 水野ベロイター 氏 (Monika Mizuno Bereuter) (水野慈子氏令嬢)

  以上お二方のメッセージを、水野勝之氏のご令嬢が代読されました。


[註]
*1=小河氏系水野の中で、抱き沢潟の家紋は、宗家のみが用いているが、桓武平氏系水野である、影俊系水野氏(水野権兵衛家)は、「抱き沢瀉紋」、また影俊系水野氏(水野助蔵家)では、「丸に抱き沢瀉紋」が用いられている。
R-4>小河水野諸家家紋集
R-4 >桓武平氏水野諸家家紋集

*2=この鶴牧の名称については、江戸別邸が早稲田鶴巻町(現 東京都新宿区)にあった事に由来すると言われている。
C-5 >鶴牧藩



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 以上、簡単に纏めてみましたが、稚拙で意を尽くせていない箇所が目立ち、誠に汗顔の至りですが、せめてその雰囲気の一部でもお伝えできたら幸いです。

 尚 このシンポジウムを聴講しての感想ですが、「TVドラマ『JIN ― 仁 ― 』」のように、まるで江戸時代へタイムスリップしてしまったのではないかと思えるほど、とてもリアルに、江戸時代に引き込まれていきました。
 先ずは、掲載写真のように、水野宗家の司会に始まり、その直ぐ横には、徳川将軍と老中筆頭が同席し、隣のテーブルにも老中が分家の奥方と並び、更には老中の土井家、大名家の板倉家がずらりと居並び、その会話の内容は、ご先祖に成り代わってのご発言で、「歴史は今の今も脈々と生きている」という実感が、ひしひしと伝わってきました。

 また、末筆となりましたが、刈谷市長を始め、市の関係部署のみなさま方、そして各市町長・各会のみなみなさまのご盡力により、水野氏にとって、このような盛大な講演会およびシンポジウムが開催されましたことに、水野氏史研究会といたしましても、望外の幸せを感じます。誠に誠にありがとうございました。


 拙い文を最後までお読み下さり、感謝いたします。



※2013年8月13日「毎日新聞」朝刊に記事として掲載されましたので、併せてご紹介いたします。
尚 記事中「水野宗家23代」とありますが、正しくは「水野宗家20代」です。
【Event】レポート『刈谷城築城480年記念会』講演会&シンポジウム_e0144936_18214480.jpg

by mizuno_clan | 2013-08-13 21:25 | Event-2(シンポジウム)