人気ブログランキング | 話題のタグを見る

【談議1】水野氏と戦国談議(第四十二回)

前からの続き

 小田中氏が『歴史学ってなんだ?』で述べた「みんなで考えれば、よりよい認識や解釈や歴史像に到達できる」は、一応クーンの議論を踏まえたものであり、素朴な表現ながら①の問いに対する回答となっている。しかしながらここで小田中氏は、「認識や解釈や歴史像」という言い方をしているが、これらはいづれも知的構築物であることが強調されねばならない。そして歴史学において、このことを果たすために「物語」という用語の導入が要請されたのである。
 歴史家としてこの「①歴史学は、歴史上の事実である“史実”にアクセスできるか」の問題に切り込んだ遅塚氏の胸の内には、「近年、いわゆる“言語論的転回”以降、歴史の“物語り”論がにわかに学界で脚光を浴びていることは大方に周知のところであろうが、そこでは、歴史学と文学の間の垣根を取り払うことが提唱されているのである」という危機感が充満していた。①の問題は言語論的転回、そして歴史物語論に触発されるかたちで、歴史学の悩みとなっていったのである。この言語論的転回、ことに歴史物語論は歴史哲学以外の多方面で議論を呼んだ経緯もあって、この用語で何を意味するかにもバラツキがある。その中で歴史学がそれとして受容すべき言語論的転回・歴史物語論は、例えば野家啓一氏が『物語の哲学』に記載した次の説明であろう。

 現実に物語り論は社会構成(構築)主義ともゆるやかな連携を保ちつつ、文学理論や歴史哲学のみならず、臨床心理学、医学、教育学などの諸領域において、人間科学の方法論ないしは文化の基礎理論として多様な展開を見せている。[中略]この機能概念としての物語りがしばしば実体概念としての物語(たとえば「国民の物語」)と取り違えられるところから、物語り論はあらぬ誤解や曲解を招き、不毛な応酬が繰り返されることになる。それゆえここでは、物語りが機能概念であることに加えて「方法概念」でもあることを強調しておきたい。つまり、「物語り」はわれわれの経験を時間的に分節化する言語行為であるとともに、その存立構造を解明する一つの分析装置でもあるのである。

 歴史物語論はとかく誤解を受けているのであるが、ここで野家氏は物語りを「機能概念である」として実体概念と区別している。歴史物語論は歴史記述=物語(作者の意図による創作物:実体)を主張するものではなく、「物語り」が歴史記述に不可避的に表れる構造であり働きであることを意味するものである。このことはアーサー・ダントーにおいては、「物語り構造が出来事に関するわれわれの意識に浸透している」(『物語の歴史』)と表現される。そしてこの出来事記述に不可避的に表れる構造というものを、野家氏は以下の具体例で説明している。

 このことは出来事の典型的事例である「行為」を考えてみれば明らかであろう。ピアノの演奏やピッチャーの投球動作が示すように、あらゆる行為は時間的出来事であり、それは「始め-中間-終わり」という時間的構造をもっている。「右手を上げる」というごく単純な行為ですら、その例外ではない。右手を上げ始め、上げ続け、やがて上げ終えるという時間的経過がそこには含まれている。しかも、右手を上げるという行為は、それだけで完結する出来事ではない。右手を上げ始めたのは、向こうからやってくるタクシーが見えたことの結果であろうし、右手を上げ終えたことが原因となって、タクシーは停止することであろう。また、ピッチャーが投球動作を開始するのはキャッチャーのサインに促されてのことであろうし、投げ終えた球は逆転満塁サヨナラホームランを帰結するかもしれない。その場合には、ピッチャーの投球動作を中間部分と見なし、この出来事を「キャッチャーのサイン・ミスが敗戦をもたらした」と記述することも可能であろう。このように、出来事は入れ子型の連鎖構造をなしてゆるやかな「原因-結果」のネットワークを形作っているのである。[中略]出来事は物理的事物のように路傍にころがっているものではなく、一つの出来事を同定しようとすれば、何かを原因とし何かを結果とするかをめぐって、それを確定する「視点」と「文脈」とが要求されるからである。この視点と文脈を与えるものこそ、われわれの言う「物語り(narative)」にほかならない。とりあえずここでは、簡単に「物語り」を複数の出来事を時間的に組織化する言語行為として特徴づけておこう。

 歴史物語論は、「歴史学と文学の間の垣根を取り払うこと」を目的としているものではないが、両者の記述構造の類似性は指摘する。そしてこの類似性は、歴史学の客観性に対する疑義に向かっているのではなく、両者の創造性(知の拡大という意味で)に向かっていると理解すべきである。「右手を上げ始め、上げ続け、やがて上げ終える」という行為は、この記述においては3つの動作の連続である。そしてその同じ行為が、やってきたタクシーを呼び止めるという一つの出来事で記述されたり、ピッチャーの投球という出来事として記述されもする。しかしながら3つの動作という出来事を集めることによって、タクシーを呼び止める、あるいはピッチャーの投球という出来事が生まれたわけではない。3つの動作を一つに編み上げる文脈が関与しなければ、それぞれの出来事は出現しない。出来事を記述するということは、それ自体にないところの意味を文脈的に構成するということであり、その働きを「物語り」と呼び、この働きが歴史記述を可能にしているという認識を示したものが歴史物語論である。
 出来事の粒度は様々に決めることができる。「右手を上げ始め」も出来事であるし、ピッチャーが直球を投げたも出来事である。そうした出来事によって歴史は描かれるのであり、動きようもない固定した事実の集積が歴史となることはできない。このことは例えばダヴィンチが描いた絵画を、後世の人々が見るということで考えるとわかりやすいかもしれない。ダヴィンチは筆を動かしてキャンバスに色を重ねた。そしてその行為をとおしてダヴィンチはダヴィンチの絵画を描いたのであるが、後世の我々が見るのはキャンバスに重ねられた色である。その色の重ね合わせから微笑する女性を見て取るとしても、それがダヴィンチが描いた絵画なのではない。人はそれぞれの眼をもっていて、その眼が色の重ね合わせから何かを受け取る。何を受けとるのかはそれぞれが行使していることであって、その受け取りの行使に隅々まで行き渡った決まりがあるのではない。それでも同じ絵画を見て、これは女性を描いたものだとは誰もが思うのであるから、その人たちに共通する受け取りの行使は存在する。それでも幼い子供が、「この女の人、怒っているね」と言うのを止めることはできない。大人が「少し笑っているのだよ」と訂正しても、その子供は「変なの」と子供なりの事情を返すだけである。人として共有しているものもあれば、その時代に生きる大人として共有しているものもあって、それが「同じ物」を見ているのだと人に思わせるが、そうではなくて「同じように」見ているのである。
 その著作のタイトルに惹かれて読んでいる『言語派社会学の原理』(橋爪大二郎著)に、次のような箇所がある。

 社会科学の樹てる理論モデルは、近代社会の人びとが自分たちの社会について抱くイメージをかたどったものだ。経済学者の資本主義社会論、政治学者の民主主義論、社会学者の現代社会論、…。どれも一応もっともらしく、何かを説明してくれるような気がする。だがそれは、その社会の人びとの常識をなぞっているので、そう思えるだけである。
 記述のための概念も、常識からの借り物である。権利、人格、自由、家族、…。社会を記述ためのもっとも基本的な概念を、その研究対象、近代社会を生きる人々から借用している。人類学では、ある社会の人びとが自分たちの社会について持っている知識を、「原住民の知識」というが、いまの社会科学は、そうしたものの一種だ。
 すると、どうなるか。記述概念や説明の枠組を、説明の対象(近代社会を生きる人びと)と共有しているのだから、一見説明力があるのは当り前。なるほど社会科学者の言うとおり、と人びとは容易に納得できる。そこで生じているのは、循環にほかならない。だからいまの社会学は、西欧近代社会だとうまく分析できるが、それと似ていない社会(たとえば、日本の現代社会)だとそれほどうまく説明できなくなり、もっと異質な社会だとほぼお手あげ。要するに社会一般を考察することができていないのだ。


 ここで橋爪氏は。「常識からの借り物」である基本概念を使っての説明は、西欧近代社会には妥当するが「もっと異質な社会だとほぼお手あげ」だと書いている。思うに現代社会と同じであるならば、それが時計時間においてどんなに過去であってもそれは現代社会である。時計時間で例えば「50年以前は現代ではない」と規定できない以上、時間の隔たりではなく社会の相違によって時代を区別するより他にない。そうであるならば、例えば中世社会は「もっと異質な社会」に当たるはずだが、歴史学は「ほぼお手あげ」とはなっていない。それでは歴史学においては社会学と事情が違って、常識からの借り物である基本概念を使っていないのだろうか。社会一般を考察しようとして奮闘している社会学にとって盲点となっている基本概念に、歴史学が依存していないなどということはまずない。なぜならば社会学は、社会一般を考察するために歴史社会も視野に入れているからである。そしてその歴史社会の知識を提供しているのは、他ならぬ歴史学以外にはないだろう。そして歴史学が提供する知識を社会学が理解しようとするとき、そこにはやはり常識からの借り物である基本概念が知識の橋渡しを果たしているのである。つまり社会学も歴史学もともに常識からの借り物である基本概念を共有することで、相互に知識の交換が可能となっているのである。したがって歴史学は「ほぼお手あげ」となるのではなく、社会学そして現代の常識と「同じように」過去をみることによって、「もっと異質な社会」の異質性を埋め合わせてしまうのである。そして現代の常識からなる借り物概念を使って説明された異質な社会(歴史社会)は、現代に取り込まれた擬似現代社会として理解され、その「異質」は同軸上の布置の差に過ぎなくなる。「異質」として現れることが「歴史」であるはずなのに、断絶のない過去から現代への進化モデルに包摂されてしまうのである。
 「歴史と過去」というタイトルは、時間同軸上の布置の差である「過去」から「歴史」という概念を救出する意図を込めている。「歴史」とはそれを捉えようとする者にとっての差異であり、その異邦性のゆえにまずは理解不能という言葉(呪術的とか未開など)を投げかけられるものである。そして現代に同化してしまうのではなくその異邦性を乗り越えようとすれば、否応なしに現代の盲点に到達し、現代の常識からなる借り物概念の使用を停止し、その底へと降りて行かねばばならないとき、「歴史」が開かれるのだと思う。
 「歴史を知ることは役に立つか」と問われて、「温故知新」と答えるとしよう。この答えは半ばは当たっているといえるが、もう半分は現実が追いついていない。なぜなら、史実を確定するルールが機能していることで「温故」は当たっているのだが、そこから未来を切り開く「知新」を生み出せていないだろうからである。しかしながら、理解が及ばないような異質を踏み分けて行こうとするなら、それは既知を打ち破らねば無理なわけで、そこに「温故知新」が成就するのではないだろうか。

 昨年8月に歴史学を専攻する大学院生たちに聞いてもらった内容を、加筆修正してこれまで記載してみた。話をした内容は、「歴史と過去」で考察したことをコンパクトにしてわかりやすくしたつもりであったが、聞いてもらった彼らに変化があったようすはない。参加のあった大学院生のほとんどが中世史学専攻であるが、このことは日本の中世史学におけるパラダイムが安定していることを示すものであろう。その一方で廃止学科リストのトップという小田中氏の不吉なフィクションが、社会一般の動向とのギャップを示すものであるようにも思われる。私自身は学生時代に哲学を専攻したことから、「知新」から入って「温故知新」へという推移を経ているが、「温故」から入って「温故知新」へと進むことはむしろハードルが高いように思える。哲学のような学問はある種の貪欲さのようなものがあって、何にでも考察の手を伸ばすのであるが、膨大な古文書を抱える日本の中世史学はともするとそこに埋没しがちであるのかもしれない。
 二宮氏は「史学科と哲学科が共同作業を行なうのはむずかしい仕組み」があるというが、「両者のあいだの対話はスムーズに進んでいるとは言えない」のは仕組み以前の問題によるのだと思われる。「温故」と「知新」は既存と革新に相当するのであり、「温故」に向かう中から革新がもたらされることはない。「温故知新」は相対するベクトルの働きを一つにしているところに意味があるのだが、それは「温故」と「知新」を分離した後に一つにするといったものでは成就しない。「温故」は過去に向かうものであっても、歴史は同じアプローチでは到達できないものである。それ一体として働く「温故知新」が歴史なのであり、現在を破りながら異邦へと降り下るものが歴史なのであって、そうであってこそ歴史は現代において渇望されるものとなるのである。

by mizuno_clan | 2014-01-12 11:36 | ☆談義(自由討論)