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【寄稿3】「水野氏と桶狭間合戦」1/2  »»Web会員««

水野氏と桶狭間合戦

                                              著者:foxblade

 桶狭間の合戦における水野氏について、『刈谷市史』は次のように述べている。
―永禄三年(一五六〇)五月十二日、今川義元は駿府を出発し、四万と号する軍勢を率いて上洛の途についた。この出陣の目的は尾張平定であり、上洛までは考えていなかったとの説もあるが、ここでは通説に従っておく。義元の本隊は十六日岡崎に着き、十七日は池鯉鮒、十八日は尾張沓掛城(現豊明市)を本陣とした。すでに弘治年間(一五五五~五八)には今川の部将が鳴海,大高・沓掛に入城していたから、ここまでの進軍は容易であった。しかし翌十九日、天候急変にも援けられた織田信長の奇襲作戦の成功により、義元は討死し、大軍は瓦解した。この折、信元以下の水野一族がどのように織田方に動員されていたかは知られない―

 通説では、桶狭間合戦当時の織田家と水野家は同盟関係にあったとされている。にもかかわらず、この織田家存亡の危機ともいえる合戦において、同盟者水野一族の消息が不明であるというのは、一体どうしたことだろうか。
 また、当時今川方の最前線の居城の一つに大高城があったが、この城は元は水野一族が城主であったとされている。さらに桶狭間一帯には、水野氏の勢力が広範に扶植されていたとも言われており、水野氏の庭先で戦いが勃発したと考えてもおかしくない有様なのである。
 桶狭間合戦は、四万五千を率いる今川義元と迎え撃つ織田信長という構図で語られるが、この両者の間には、西三河の松平氏やそれに隣接する知多郡の水野氏の存在がある。岡崎松平家の当主である松平元康は、今川方として参陣し、先陣として大高城を囲む丸根・鷲津砦を攻略してそのまま大高城に入った。そして義元が討死して今川軍が壊走した後に、大高城を脱出して岡崎に帰還する。
 この合戦における松平元康の動向は『信長公記』に記録されている一方で、水野氏に関する同書の記述は、水野帯刀が丹下砦の守備についていたというばかりである。この帯刀は戸部水野氏とされ、大高もしくは常滑水野氏から分立した(『新修名古屋市史』)家に関わる人物とされている。戸部が信長の重要基盤である熱田に近いことから、水野帯刀の織田方参陣は、織田家と戸部水野家の直接的関係から発生したものと考えた方がよさそうである。したがって、帯刀のこのわずかな記述すら、小川惣領家のこの合戦への関わりを示すものとは言えないのである。
 この論考では、小川を中心とする水野一族が、三河と尾張のその後を決定付けた桶狭間の合戦において、どのような立場をとり、どのような役割を果たしていたのかを追ってみたいと思う。そして、この合戦での水野氏の動向が明らかになることによって、桶狭間合戦に新たな切り口が見つかるのかも知れない。

 まずは、水野氏の立場として織田家との同盟関係があるが、この点を検証してみようと思う。
 『刈谷市史』に、織田・水野同盟についての次のような記載がある。

―ところが信元は家を継ぐとすぐに外交方針を大転換し、従来の親松平政策を捨てて織田信秀と結ぶことにした。その理由は判然としないが、この前年八月十日の第一次小豆坂合戦における織田方の勝利、同年秋以後激化した広忠やその老臣衆と叔父信孝との争いと信孝の追放、その結果としての信孝の織田信秀との同盟などによって、尾三国境地域における織田方の圧倒的優位が確実になったためであろう―

 ここで述べられている織田家と水野家が同盟に至る経緯は、一般に広く受け入れられているものである。しかし忠政から信元へ家督が移ったとたんに、松平と絶縁し織田信秀と結んだというのは、何か唐突に感じないでもない。これに関して、刈谷市教育委員会が刊行した『刈谷水野氏の一研究』では、次のような異論を述べている。

―この頃の水野氏の所領は、三河は刈谷近辺のみであり、その大部分は尾張に属する知多半島北部にあった。ゆえに織田氏が三河進出を企てれば両氏は必ず激突する状態にあった。守護家をしのいで尾張支配の実権を手に入れた織田信秀に対して、この時期の忠政は有力ではあるが一国人領主にすぎないから、織田氏との衝突は避けようとしたにちがいない。むしろ織田氏と結ぶことにより領土保全をはかろうと考え、織田氏の東進政策に協力したとみられる。反松平清康派の信定と血縁関係を結んだこともこのような情勢を考慮してのことではないだろうか。したがって忠政に松平と結ぶ意志はなかったものとみられる。それはその後の水野氏の動向からも明らかである―

 忠政の時代においても、水野氏は織田信秀と結んでいたという見解であるが、いささか根拠に欠けているように思える。しかし、水野家が知多半島と刈谷に領地を持ち、織田と松平に挟まれて去就に悩んだであろうことは十分想像できる。忠政の時代において、水野家は織田方であったか、松平方であったか、状況的にはどちらもあり得ることで、むしろどっちつかずが一番良かったのではないだろうか。そもそも、織田対松平という対立の構図自体は正しいのだろうか。『刈谷市史』や『刈谷水野氏の一研究』の双方が指摘していることになるが、松平家には常に内部対立が存在している。特に岡崎松平と桜井松平、清康系と信定系の対立には根深いものがある。そして、得てして身内の争いは、他所との争いより激しくなるものである。そうであるならば、西三河というものは国外勢力によるものよりも、この松平家内部の抗争が中心となって動いていたと考えるべきではないだろうか。
 三河の周辺勢力と松平氏の関係をみると、織田信秀は松平信定と縁を結んでおり、今川義元は清康の嫡男の広忠を支援する立場である。ここでは、松平氏の分裂の構図と外部勢力の対立の構図が重なり合っている。そして水野忠政は、『刈谷水野氏の一研究』が述べるように、嫡男信元に反松平清康派の信定の娘を正室として迎えさせ、その一方で娘の於大を松平広忠に嫁がせて元康(家康)を生ませてもいる。どちらも松平ではあるが、岡崎と桜井は長らく対立しており、広忠は一時信定によって国を追われたことさえあったのである。
 このように水野忠政は、敵対する双方の松平家と縁を結んでいるのであり、単純に松平氏と親密であったと片付けるべきではないだろう。むしろ水野氏は、三河では中立的な足場を築いて深入りを避けて、知多半島での自領拡大を狙っていたとするべきであり、史実ではそのように水野家の領地は拡大したのである。
 忠政の後を継いだ信元も、岡崎の松平広忠とは距離を置いたかもしれないが、松平一族と手を切って織田信秀に乗り換えたということではないであろう。松平定信との婚姻関係は維持されているのであるから、桜井松平=織田信秀の陣営にシフトしたものとして受け取るのが妥当ではないだろうか。

 水野氏の対外政策を考える際に、松平氏内部の抗争に着目するのとは別に、水野氏内部の系統の問題にも目を配るべきである。『刈谷市史』に次のような記載がある。

―十六世紀中葉の水野氏には、①刈谷城主藤九郎・和泉守系と②緒川城主藤七郎・下野守系の二系統があったのではないかという推論が立てられる―

 この二系統説は、従来の史料批判を経ていない一系統説に比べて、それなりに確かな説得力がある。そして、信元が家督を継いでから桶狭間の合戦に至るまでの、水野氏と織田・今川・松平との関わりを追いかけると、この説であるとうまく説明できる部分が数多くあるのである。どのあたりがそうであるのかは、以降、順を追って述べていきたいと思う。
 まずは注目すべき史料、二点を引用する。

―今度、山口左馬助、別可馳走之由祝着候、雖然、織備懇望子細候之間、苅谷令赦免候、此上、味方筋之無事無異儀山左申調候様両人可令異見候、謹言―

 これは『妙源寺文書』として、『豊明市史・資料編補二』に掲載されている義元の書状である。ここで義元は、山口左馬助の忠節に満足を示し、次いで織田信秀が懇望するので刈谷を赦免すると言っている。この刈谷の赦免とは、どういうことであろうか。この点は、次に掲載する『今川氏真判物写』で明らかになる。

―苅屋入城之砌、尾州衆出張、雖覆通路取切之処、直馳入、其以降度々及一戦、同心・親類・被官随分之者、数多討死粉骨之事―

 義元死後に家督を継いだ今川氏真が、桶狭間合戦で討死した松井宗信の遺族宛てに、宗信の功績を賞したものである。この文面では、刈谷入城の際に尾張衆が攻勢に出てきたが、宗信とその一党の粉骨の働きによって撃退したことが述べられている。この「苅屋入城之砌」によって、刈谷城がこの時期今川方の城となっていたこたとが知られ、「苅谷令赦免候」とは、刈谷城を返還することであったことがわかるのである。
 刈谷城が一時期今川方の城となっていたとは、意外な事実であるが、この点に触れて、『新修名古屋市史』では次のように述べている。

―その山口左馬助の熱心な仲介で、信秀と今川氏は和睦し、信秀の要求によって今川氏が攻略した刈谷城も水野氏に返還されることになった。義元書状の年次は、天文十九年冬の後奈良天皇の和平工作以降、織田信秀の死去までの期間で、天文十九年か二〇のいずれかであろう―

 同書では、山口左馬助の「馳走」を和平仲介と解釈し、義元がそれに対して「祝着」と満足を示し、織田信秀の懇望を聞き届けていることから、両者が和睦したと結論付けているわけである。そして刈谷城が占拠された経緯を、次のように説明している。

―同年九月今川勢は織田方の吉良氏と戦い、一一月には雪斎の率いる大軍は安祥城を攻略し、城将織田三郎五郎信広を捕らえた。今川氏は、信秀と交渉して信広と交換に竹千代をとりもどし、駿府に送った。さらに、今川勢は、信秀の同盟者水野氏の三河刈谷城も攻略して、軍事的に優位に立った―

 通説では、松平氏の安祥城を織田信秀が攻略したのは、天文九年(一五四〇)とされている。(ただし天文十六年(一五四七)とする説もある)その後天文十八年(一五四九)に松平広忠が家臣に殺され、これに危機感を抱いた今川方が岡崎城に入城する。ついで織田に占領されていた安祥城を奪還し、守将であった信秀の長男信広を捕らえて、織田方の人質となっていた竹千代(元康)と交換したのである。この安祥城からみて、水野氏の刈谷城は北西十二キロほどの位置にあり、この一連の軍事行動において、今川方は三河にある水野領へも進攻して刈谷城を陥落させたとするのである。
 『刈谷市史』においても同様の見解が示されている。

―これらを考え合わせると「織備」すなわち織田備後守信秀と義元との間に一時的和議が成立し、義元が刈谷赦免すなわち占領した刈谷城を刈谷水野家の信近に返還したのは、十八年十一月以後二十年春頃までの間となる。おそらく刈谷陥落は安城落城の直後の頃であったのだろう。「赦免」の条件は当然のことながら、水野一族とくに信元・信近の織田氏との断交と今川氏への服属であっただろう。これが水野氏関係史料に記録されなかったのは、敗戦は外へは極力知らせないという当時の一般的慣行のほかに、永禄三年の刈谷水野家滅亡によって、それ以前の今川氏への屈服などは小事となってしまったからではなかろうか―

 『刈谷市史』では『新修名古屋市史』より踏み込んで、水野氏は今川に服属させられたとしている。しかしその水野氏が織田方として復帰する経緯に関しては、「水野氏の今川離反の過程は詳しくわからない」としているだけである。どうもどちらの市史も、この今川による刈谷城の占拠にやや戸惑っている観がある。実際、どうもわかりにくい事態で、水野氏はころころと手を結ぶ相手を代えていたように受け取れるのである。しかし相手もあることであるから、そう単純ではなかったはずである。
 『刈谷市史』の氏真書状の解釈で、一つ気になる点がある。それは「苅屋入城之砌」という文面から、「刈谷陥落」という事態を導き出している点である。刈谷城に松井宗信が「入城」したとはあるが、「攻略」したとか「陥落」したとかはどこにも記載が無い。刈谷城に今川軍が入城する前提は、刈谷城への攻撃・陥落だけではない。かの山口左馬助が織田から離反した際には、笠寺など山口方の城に今川の兵が引き入れられた。そして「入城」という表現からも、刈谷城が自主的に開城した可能性を排除することはできないのである。
 ここで先に確認した水野氏二系統説を適用すれば、この事態をうまく説明することができる。『刈谷市史』によれば、天文十九年春までは、刈谷城主は水野守忠であったことになるが、その時点で重病であったとされている。そして間もなく守忠は亡くなり、忠政の子である信近が刈谷城主となる。刈谷城の返還が「十八年十一月以後二十年春頃までの間」であることから、刈谷城返還と刈谷城城主交替の時期は、ほぼ一致していたことになる。このことから次の推定が可能になるのである。

①.刈谷和泉守系統は今川方に近い立場をとっており、今川勢が岡崎に入場し安祥城を攻略するに及んで、今川方であることを鮮明にし、自ら刈谷城を供与したのではないか。
②.「苅谷令赦免」とは、軍事的に占拠していた刈谷城を返還するという意味ではなく、守忠の家督を小川下野守系の信近が継承することを認めるということではないか。
③.刈谷は結果として親今川系から親織田系に転換するが、今川と織田の和睦が前提にあるため、これが許容されたのではないか。

 一度軍事的に攻略した城を水野氏に返還したとか、水野氏が今川に帰属することを前提に刈谷城を返還したといった解釈をするよりも、水野氏二系統説を適用して説明したほうが無理のない解釈が可能になる。前者は、三河において今川が優勢である中で、なぜ攻略した城を織田方に返還しなければならないかが問題となる。後者は、帰属した今川氏から、いかにして水野氏が織田に復帰したのかが説明できていない。水野氏については『刈谷市史』で「一族一揆」と規定しているが、この規定は、水野氏は一族としての一体性と多様性の両面を常に備えていたと理解することができる。そしてこの水野氏のあり方を、水野氏自身が意識的に活用していたのではないか、そう思わないではいられないものがある。
                                                 《つづく》

by mizuno_clan | 2008-03-25 04:00 | ★研究論文