【寄稿5】水野氏における桶狭間参戦の背景2/2  »»Web会員««

水野氏における桶狭間参戦の背景
                                               著者:foxblade

 戦国期に伊勢湾や三河湾において、既に多数の港町が形作られ、それらを結ぶ航路を多数の船舶が行き来していたのである。そしてその海運の利点は、なんと言ってもその輸送コストの安さである。ものと人間の文化史シリーズの『船』に、海上輸送の能率と題して次のような記述がある。

—海上輸送というものは、その能率と経済性の点で陸上輸送とは段違いにすぐれていた。たとえば、一〇〇〇石の米を大坂から江戸へ運ぶ場合を考えてみよう。馬一頭に四斗俵二俵を積み、馬子一人が手綱をとるとすれば、一〇〇〇石では馬一二五〇頭・馬子一二五〇人を必要とし、順調にいって十五日はかかる。しかも実際には宿場での乗継をせねばならず、その手間や人馬の食料などは莫大なものとなる。ところが、一〇〇〇石積の船を使えば、わずか一艘、船頭以下の乗組は十五、六人ですみ、日程は天候に支配されるとしても、ふつう一〇日程度で走破できるのであるから、陸上輸送とは比較にならない高い能率と経済性をもっていたことがわかる—
 戦国の当時、既に一〇〇〇石を超える大船も建造され、交易船として回航していた。海路は天候に左右されやすいが、船の規模を大きくするだけで輸送力が格段に向上する。そして船の規模に乗組員の数は比例することなく、規模が大きいほど石積当りの乗組員が少なくて済むのである。伊勢湾内のような近海交易では、一〇石から二五石程度の小型船が使われていたようであるが、木曽川や天王川などで内陸の町とも連結された一大流通ネットワークが存在していたと考えられる。そしてその間を、短時間で大量の物資が行きかっていたのである。弘治二年(一五五六)に、山科言継が水野氏の常滑から伊勢湾を横断して長太(鈴鹿市)に向かったが、この時は七里を四時間で渡っている。陸路であれば二日はかかるであろう。
 海運は優れた交易手段であったために、信長と水野氏の経済基盤である港湾都市は、この高いコストパフォーマンスの海運を最大限利用して繁栄していた。熱田・津島と常滑・大高・小川は、互いに重要な交易相手であり、より遠隔交易への中継点としても相互に欠かせない存在であったに違いない。そして信長と水野氏の結びつきは、武士階級同士の軍事的な必要からである以上に、武士としての存立を支える経済基盤の分かちがたい関係から成り立っていたのである。そうであるが故に、軍事的な観点から見れば圧倒的に不利にあった信長を見捨てて、水野氏は今川方に走ることができなかったと考えることができる。

 信長と知多半島の経済関係を思わせる史料を、次に紹介したいと思う。

—智多郡并に篠嶋の諸商人の当所守山往反の事は、国質・郷質・所質に前々或は喧嘩、或は如何様の宿意の儀ありと雖も違乱あるべからず候、然らば敵味方を致すべからざるもの也、仍って状件の如し—

 天文二十一年(一五五二)に、信長が家臣の大森平右衛門に宛てた判物写である。この判物について、『織田信長文書の研究』では次のように解説されている。

—「智多郡」と篠嶋(知多湾上の島。面積七平方粁。漁業の島)の商人が守山(名古屋市守山区)に往来するについての自由を保証した判物である。国質・郷質・所質についてはまだ明確な解釈がついていないけれども、貸借関係で債権者が債務の弁済をもとめることができない場合には質物を取り上げるとの契約のことのようである。それらの違乱を禁じ、もちろん敵味方の戦いとしてはならないとした—

 天文二十一年といえば、信長の父信秀が死去した年である。家督を継いだ信長は、早くも水野氏の経済基盤である知多郡と篠嶋の商人たちに、守山への往来の自由を保証する行為を示した。そして守山は叔父の信光が領有地であり、周辺経済の中心地であった。おそらく信長は、自己の意思が貫徹するとは限らない守山の地であるからこそ、敢えてこのような往来自由保証を宣告したのではないだろうか。家督を継承したばかりで、信長の意に必ずしも従わない同族や家臣があることを承知で、弾正忠家の新当主としての施政を明確に打ち出したのである。
 自身の経済基盤に熱田と津島を抱える信長は、伊勢湾と三河湾、そして衣ヶ浦を含む海上交易圏の守護者たらんとした。『新修名古屋市史』では、「古くからの織田弾正忠家の勢力基盤である、津島を中心とした尾張西部地域についてみると、織田信長の家督継承は、抵抗なく受け入れられていったと思われる」と述べている。これは熱田も同じことで、家督継承後の相次ぐ同族や家臣との抗争が発生する中で、津島と熱田が変らぬ支持基盤であり続けたのは、信長の施政の基本に交易圏の擁護が貫き通っていたからと考えるのが妥当であろう。
 信長と水野氏は、その経済基盤である港湾都市が共に伊勢湾・三河湾交易圏に属していることから、歩調を合わせて協調する関係にあったのだと思われる。そして信長や水野氏という領主階級が、領内の港湾都市を一方的に支配していたというようりも、領主が都市の安全と自由を保証し発展を後押しする役割を果たす見返りに、都市は物資の調達や金銭提供をおこなっていたのではないだろうか。
 信長が敵対する同族や家臣を打ち破り織田家を掌握し、水野氏が佐治氏や戸部氏を屈服させ知多半島に覇権を得たのも、他を圧する経済力の裏づけがあってのことで、その経済力の源泉は領内の港湾都市から得ていたものと思われる。そうであれば、津島や熱田、そして小川や常滑、大高などは、彼ら進取の武士政権における生命線であったのである。
 村木砦の戦いに臨んだ信長が、本拠の那古野城を斉藤道三の一千の兵に預けて激浪の伊勢湾を渡ったのは、水野氏が今川に屈服しそうになったことで、伊勢湾・三河湾交易圏が危機に瀕したからである。また、永禄三年に圧倒的に優勢な今川軍が尾張に進攻した際に、味方と謀って矛先をかわし、桶狭間に至った義元を背後から攻めた水野氏も、信長の敗北が交易圏の崩壊をもたらすと考えたからに違いない。自身の経済基盤を支える交易圏の崩壊を食い止めようと、信長も水野氏も決死の行動に出たのである。

 今川氏の本拠である駿府は、居住人口が一万人を超えていたと言われ、戦国期における有数の大都市である。小和田哲夫氏は『今川義元』の中で、駿府を「今川氏親・義元は、『東の京』をめざして町造りを進めた」とし、商業の中心地であった本町とか今宿が「碁盤状市街となっていたのは、京都の町割りを模したもの」としている。町中には安倍川が流れ、東海道が通る陸上交通の要衝でもあった。また、この駿府の外港として清水港があり、『静岡県史』においては、「遠駿沿岸においても、陸上交通を補完する形で大小の船が往来し、人や物資の運搬が活発に行われていたことが窺える」としている。
 義元が居住する駿府は一大商業都市であり、「東の京」をめざした町造りをして、今川領国における経済の中心地として栄えていた。それならば、水野氏は信長支配下の熱田や津島との交易に拘らずに、三河までも手中にした今川の経済圏との関係を強化し、こちらに乗り換えてもよかったのではないだろうか。そうすれば、強国今川を敵に回す危険を冒さずに済むのである。
 「水野氏と桶狭間合戦」で考察したところでは、水野氏は偽装工作までして信長陣営に留まっている。そうまでして今川を拒絶したのは、、水野氏の経済基盤が伊勢湾・三河湾交易圏に組み込まれていたからだと考えるのであるが、今川もまた商業振興に力を入れており、軍事陣営と経済圏を同時に転換することも選択肢としてあり得たのではないだろうか。しかし水野氏はそれをせずに、信長と共に敗色濃厚な桶狭間合戦に臨んだのである。これはなぜであろうか。

 『今川義元のすべて』に収録されている『商業政策と駿府の豪商』の中で、長谷川弘道氏は次のように述べている。

—今川氏の商業政策は、「追加」第八条に見られるように、飽くまでも在来の座商人の旧権(特定商品販売の商売役の徴収権)を認めていくことが基本的な方針としてあり、台頭する新興商人等の役銭徴収権の要請を認めることはなかった。(中略)つまり、今川氏の商業政策は信長のように座を撤廃したり、新興商人を優遇するものではなかったのである。
 また、商人たちの領国外への荷物の移出についても統制し、重要物資の国外流出を防止した。さらに他国の商人の活動も制限し「かな目録」第二二条にみられるごとく、家臣との個人的な関係を結ぶことを禁止し、また、駿府を訪れた場合には今宿において監督下においた。これにより国内の商人を保護し、一方で、国内の情報が他国に流出することを防止した。つまり、今川氏は友野氏に対して旧権を安堵し、これを支配下に組み込み、商人頭に任じて商人の統制を行った。今川氏はこれらにより、商業を一元的に把握し、その利益の分散を防止し、間接的に収奪を達成したのである。—

 今川氏が友野氏や松木氏など駿府の豪商を優遇し、商人頭に任じて領国内の商業を統制下に置こうとしたことは良く知られている。今川氏の商業政策では、一部の特権商人が力を拡大する一方で、その統制下に入る商人たちには強い制約が課されることになる。自由闊達な商業活動が制限され、他国商人に対する排他性も伺えるようである。このことは水野氏の領内で商業活動を営む商人たちにとって、今川領国の経済圏に組み込まれたくない強い動機になるであろう。そして自領の商人たちの活力が失われることは、水野氏にとって経済基盤が弱体化することに繋がるのである。

 一方の信長はどうであろうか。ここで信長の第一号文書として知られる「尾張熱田八ケ村宛制札」を、『織田信長文書の研究』(奥野高廣著・吉川弘文館)から見てみよう。

一、当社御造営のために、宮中(神社の境内)に人別を収めらるべし、国次の棟別並に他所・他国の諸勧進は停止せしむるの事、
一、悪党現形に於ては、届けに及ばず成敗すべきの事、
一、宮中は先例にまかせて他国・当国の敵味方并に奉公人、足弱、同じく預ケ物等、改むべからざるの事、付り、宮中へ出入の者え路次に於て非儀を申かくるの事、
一、宮中え使事は三日以前 并にその村へ相届け、糾明をとげ、その上難渋につきては、譴責使を入るべき事、
一、俵物留の事、前々の判形の旨に任せて、宮中え相違なく往反すべき事、
右の条々違犯の輩に於ては、速に厳科に処すべきもの也、仍って執達件の如し、

 この文書は、天文十八年(一五四九)、信長十六歳の時に熱田八ケ村に宛てた制札の記載文である。確認されている信長の文書で最も古いものであるが、先の大戦時に焼失してしまって現存していない。
 この制札では「宮中」保護のための諸命令を掲げているが、この「宮中」を『織田信長文書の研究』では「神社の境内」と文字通りに解釈している。これに対して『新修名古屋市史』では、「熱田社も含めて、熱田周辺を指すときは、『宮中』と呼ばれていたらしい」と、より広義な意味で捉えている。このように、保護の対象が熱田社そのものであったのか、それとも熱田社を含む熱田の町全体であったのか、二通りの解釈が可能であるがどちらが妥当であろうか。また、父信秀が健在であるにもかかわらず、十六歳の信長が熱田社保護のためにこのような文書を発するというのも、何か腑に落ちない気がする。。いったいこの制札は何を目的として、織田弾正忠家嫡男の名によって出されたものなのだろうか。
 『新修名古屋市史』は、この点に触れて次のように指摘している。

—熱田八カ村に対して、熱田社造営のため課役を免除したり、人や物資の自由を保証した制札である。信長の初見文書として有名であるが、残念ながら原本の高札は太平洋戦争で焼失し、写真や写しでしか現在見ることはできない。この時期に尾張国内統治に関する信長の文書が初めて出現するのは、岡田正人・鳥居和之らが指摘するように、同月の三河安祥城失陥による信秀の威信低下に代わって、後継者信長を新たに登場させることで、織田弾正忠家の体制を補強しようとした政治目的があったためと推定される—

 この制札が出された天文十八年は、信秀が確保していた三河の安祥城が、太原雪斎率いる今川軍によって陥落させられた年であった。以降、信秀は三河より後退し、先に述べたように尾張東部にも今川の勢力が扶植されるようになっていく。そして信秀の死去は、この三年後である。こうした情況を踏まえて、信秀の安祥敗戦により低下した弾正忠家の威信を、嫡男を前面に出すことで回復させようとしたとするならば、この制札による保護の対象は、単に熱田社だけとするよりは、弾正忠家の経済を支える熱田町全体として考えた方がよさそうである。
 信長=織田弾正忠家は、熱田町に「自由」を保証した。「悪党現形」を届けずに「成敗」してよいとは、処罰権の承認とともに何が「悪」であるかも町方の規定に委ねるということだろう。また、「他国・当国の敵味方并に奉公人、足弱、同じく預ケ物等、改むべからざる」として、熱田町に治外法権を認めている。そこには、他国者、そして敵であってさえも、信長は介入しないと言っているのである。
 熱田が商業都市であることを想えば、他国の商人との交易、さらに尾張国内の敵対勢力下にある商人との売り買いを前提としているのであろう。経済活動に政治は介入しないという宣言が、この制札を掲げた者の意図であったことと思われる。それが、信秀に代わって表舞台に現れた信長によってなされたことに注目すべきだろう。弾正忠家凋落の刷新が、熱田の経済自由宣言であり、それを保証するのが信長なのである。このことは、単に威信の落ちた信秀でない人物というよりは、信秀以上に経済的自由に理解があり積極的であったのが信長である、という捉え方が妥当であると思われる。
 信長は弾正忠家の新政策を、より踏み込んだ経済活動の自由保障として打ち出した。その天文十八年は、三河における今川の領国化が始まった年である。つまり友野氏等、駿府の豪商による商業統制がいよいよ三河にも及ぼうとするその時に、尾張の新生織田弾正忠家では、熱田を経済自由都市として認定したのである。そしてこうした政策は、熱田だけに限られたことではなく、津島や守山などにも同様に適用されたものではないかと思われる。さらにそのことは、それら弾正忠家の有力商業都市と交易で結ばれる他領の都市へも波及効果を持ったことであろう。水野氏領地下の常滑や大高、小川や刈谷の商人たちは、今川の商業統制と信長の商業自由政策という対照的な事態が進展する様を目撃していたのである。

 桶狭間合戦で、水野氏が信長陣営に留まった理由を追ってきた。軍事的な力関係では今川が信長を圧倒しており、この点ではいかように考えても水野氏が信長の元を離れなかった理由は見出せない。その一方で、水野氏存立の基盤が知多半島沿岸の交易都市にあると考えると、津島・熱田の尾張における二大海運都市を領内に有する、信長との分かち難い関係が浮かび上がってくる。そして信長の記録として残る第一声が、熱田の自由商業都市宣言であり、対する今川義元の政策は、駿府豪商を介した商業統制にあった。
 水野氏は、今川の軍事的脅威は嫌と言うほど感じながら、自身を経済的・軍事的に支える領内の沿岸交易都市に根を張る商人勢力の選択を、受け入れざるを得なかったのである。そして駿府の商業統制ではなく、信長の自由交易を支持し、これに馳せ参じることを決断した下からの動きに乗せられたまま、信元や信近たち水野氏は桶狭間合戦に臨むことになったのである。
                                                      《了》
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by mizuno_clan | 2008-05-04 15:36 | ★研究論文