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水野忠分と心月斎
                                           著者 mori-chan


 去る11月2日(日)、愛知県知多郡美浜町布土にある梨渓山心月斎という、曹洞宗の寺院の晋山式に行ってきた。

<晋山式が執り行われた心月斎>
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 それは、岩滑城主、中山勝時ご子孫のSさんから誘われたからであるが、この心月斎の先代、当代住職はSさんのご親戚である。晋山式とは、新しい住職にかわるお披露目の式のようなものであるが、新しい住職とは、先代住職の息子さんで、副住職をつとめてこられた人である。小生の家も曹洞宗であるが、菩提寺は現住所と遠く離れ、今まであまりこういう行事にでることもなかった。  

 当方、こういう式に参加するのも初めてなら、心月斎のお堂の中に入るのも今回が初めてである。もちろん、心月斎という寺については、知多に来てから知っているし、何度か来たことがある。この心月斎は、「花の寺」というだけに、季節の草花がいろいろ咲いている。お堂の前の鐘楼の東側に階段があって、裏山のような場所に上ることができる。そこは、公園のようになっていて、階段を上がったところに、蓮池があって、ぐるりとまわってあるくときに、いろいろな石造物や草花を見ることが出来る。以前来たときは、その裏山の植物がいろいろ植えられている公園のような場所を散策したりしたが、蓮池でハグロトンボを見かけて写真を撮った。

<ハグロトンボ>
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 この心月斎は、天文15年(1546)に、緒川水野氏一族の水野忠分が開基となって創建された。開山は、緒川から招かれたという大良喜歓大和尚。戦国時代、緒川水野氏は知多半島を制圧すべく、一族を知多半島の要所に配置したが、河和の戸田氏に対する備えとして、この布土に水野忠分を領主として配置したようである。 水野忠分は、水野忠政の六男、あるいは七男という。名前は「ただちか」と読むが、「ただわけ」と書いている本もある。水野忠分は、水野忠政の第何子か不明なのは、水野近守を忠政の子とするかどうか、説が分かれるためである。

 水野近守が拠ったとされる、刈谷古城は、文明8年(1476)頃には築かれたらしい。通説では、緒川水野氏の祖である水野貞守が刈谷に進出したことになっており、その貞守は長享元年(1487)になくなっている。万里集九が書いた『梅花無尽蔵』という詩文集にも、文明17年(1485)9月の記事として「出二刈谷城一三里余」とあり、水野貞守存命中に水野氏が刈谷に城を構えていたことが知られる。その刈谷古城の築城が文明8年(1476)頃という訳は、三河守護細川氏と前守護一色氏の戦いが、その当時あり、そのころ水野氏は一色氏について知多半島から刈谷に進出したというのである。


 その水野近守は、連歌を嗜んだ風流人であったようで、連歌師の柴屋軒宗長と親交があり、永正17年(1520)、宗長の師宗祇の句集「老葉」に注釈を加えた「老葉註」を与えられている。さらに、「宗長手記」から水野近守は「藤九郎」という通称であることや、大永2年(1522)の時点で和泉守の官途名を名乗っていたことが分かっている。

 一方、その当時、水野忠政自身は、緒川にいたはずで、天文2年(1533)に今の亀城公園のところに刈谷城を築いた後、刈谷に移ったという。水野近守が拠った刈谷古城の南400mほど行った場所に、楞厳寺(りょうごんじ)という曹洞宗の寺がある。これは水野忠政が刈谷城を築き、刈谷に移住した際、この寺に帰信し、水野家の菩提寺になった。その楞厳寺に、水野忠政が残した享禄元年(1528)の年月の入った文書があるが、署名は妙茂となっている。

水野右衛門大夫妙茂寄進状

為月江道光毎日霊供□・・・□ 江末代
 渡申田之事
 合弐貫六百文目此内
  壱貫文目坪上松御会下之前次郎四郎散田之内
  壱貫六百文目坪江口御会下之前治郎五郎散田之内
  此田石米弐石六斗ニ延米在之
右於下地者子々孫々違乱煩不可
申上候、為其居印判所末代渡
進上如件
  享禄元年戊子拾二月廿六日 右衛門大夫 妙茂(花押・朱印)
楞厳寺 
   永諗東堂様




<楞厳寺本堂>
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 水野近守は忠政の文書が発給される前に、大永5年(1525)に楞厳寺に土地の寄進状を出しているが、その文書の体裁と、3年後忠政が出した文書の体裁が同じであり、花押の上に朱印を押し、その印判が瓜二つである。ということは、水野近守は水野氏一族ではあるが、水野忠政の子ではなく、刈谷における水野氏統治の前任者というような人物であった。大永5年(1525)から享禄元年(1528)の間で、刈谷の統治権力が、水野近守から水野妙茂(忠政)に移ったとみることができる。さらに、水野忠政は、築城後は本拠地を緒川から刈谷に移しており、徳川家康生母於大は刈谷城から岡崎の松平広忠に嫁している。

 その水野忠政は、天文12年(1543)に刈谷でなくなっている。跡を継いだ水野信元は、今川との関係を断ち、織田方の旗幟を鮮明として、織田の勢力をバックにして知多半島を南進していった。それは、天文12年(1543)で、早くも阿久比町宮津の宮津城にいた新海淳尚を下し、その出城で榊原主殿が守る岩滑城を落とすと、中山勝時を城主としたのに始まり、時宗の僧といわれる榎本了圓がまもる成岩城を落とし、そのあとに梶川五左衛門を入れて城将とした。

 また、さらに南の現在の武豊町にあった長尾城を攻め、城主岩田安弘をくだしている。岩田氏は、『知多郡史』によれば、室町時代初期、枳豆志庄は醍醐三宝院領となり、岩田氏がその管理者となったといい、醍醐三宝院に関連した武士であって、その三宝院領の管理のために京から下り、やがて土着して三宝院領を押領したとも考えられる。また室町時代になると、大野庄に入った一色氏が勢力をふるうと、対抗上岩田氏も武雄神社の南、金下(かなげ)の地に城を築いた。さらに、富貴にある富貴城も戸田法雲が築城したようにいわれているが、もともと岩田氏が長尾城の支城として活用していた。戸田法雲は、その岩田氏が衰退したために、富貴に進出、城を改修したものである。

 もともと水野氏は、知多半島の要衝をおさえるべく、常滑、大高に一族を配していた。常滑水野氏しかり、大高水野氏しかりである。たとえば、常滑水野氏は緒川水野氏出身の水野忠綱を初代として、歴代当主が監物を名乗る家であったが、もともとは、大野や内海に勢力を張った佐治氏との対抗上配されたのであるが、伊勢との交易のために常滑に港を開き、経済力をつけていった。また、和歌などの風流をたしなみ、織田信長や徳川家康とも書状のやり取りを行う立場にあった。

 知多半島の要衝に一族を配していった水野氏であるが、水野忠分もまたその一人といえるであろう。この水野忠分については、天文6年(1537年)生まれで、天正6年12月8日(1579年1月14日)に織田信長の有岡城攻めに従軍して討死にしたこと以外、明確な事績が伝わっていない。しかし、さまざまな歴史的文書や『信長公記』の記述から、以下のことが分かっている。また、於大の方の弟であるから、徳川家康にとっては叔父にあたる。

(1)名前 :

通称は、藤二郎(藤次郎、藤治郎ともかく)、あるいは藤十郎。 忠分は「ただちか」と読む。法名は、盛龍院殿心得全了大居士。

(2)本貫地 :

 終生、緒川であった(刈谷を本貫とした信元とは違う)。

(3)家族関係 :

 忠政の子、信元の弟(六男、七男、八男の諸説あり)。妻は大野の佐治為貞の娘。子としては後に緒川高藪城主となった分長や心月斎第三世寛秀和尚がいる。

(4)居城: 

 布土城(愛知県知多郡美浜町大字布土字明山)

  参考:「∞ヘロン『水野氏ルーツ採訪記』」ここをクリックしてください 縄張図等あり

(5)武功:

 天文23年(1554年)の村木砦攻めを織田信長とともに行ったらしい。天正6年12月(1579年1月)有岡城攻めで先鋒。討死。



<心月斎本堂>
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 また、水野氏の勢力下には、曹洞宗の水野氏系の寺院を建立していったのであるが、この心月斎もその一つといえるだろう。たとえば、水野氏の本拠、緒川には水野忠政の墓のある乾坤院がある。その緒川の北の村木にも曹洞宗の寺院が、なくなった臨江寺も含めて五つもあった。常滑には常滑水野氏が創建した天澤院、大高には大高水野氏が開いた春江院があった。そういう寺院は、民衆の信仰の場であるとともに、同じ曹洞宗を信じる水野氏と、精神的に結合し、その統治を隅々までいきわたらせるためのものでもあった。

 河和の戸田氏が水野氏の勢いに屈して、水野信元との和議によって河和を残すことを図って、水野氏の姻戚、一族に収まると、布土の戦略的な価値はなくなったといえよう。布土に城を構えた水野忠分がなくなったあと、跡継ぎの分長は水野忠重に従ったが、小牧長久手の合戦など数々の武功をあげ、慶長6年(1601)緒川一万石、高藪城の城主となった。




 しかし、心月斎は徳川家康のいとこにあたる寛秀全廓和尚の代以降も、連綿として存続し、地域の大寺として今日に至っている。




<心月斎の山門>
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参考文献:

『戦国歴史年表』 木原克之編 美浜町教育委員会 (2002)

『刈谷市史』 刈谷市 (1989)

by mizuno_clan | 2008-12-14 10:15 | ★研究ノート