【談議1】水野氏と戦国談議(第一回)

水野氏と戦国談議

                                                談議:江畑英郷

リアルに戦国を談議しよう
 三年ほど前から桶狭間合戦に関していろいろと調べるようになったが、そうしてみると戦国時代の実像というものが、それまで抱いていた理解とはだいぶ違ったものであることに折に触れて思い当たるようになった。それまでは大河ドラマとかこの時代を扱った歴史小説などから漠然と戦国時代というものをイメージしていた、あるいは知ったつもりになっていたのだが、踏み込んで調べてみるとそれは表面的で脚色されたフィクションが少なからず混入しているものであった。そうした表層的な受け止めやフィクションを取り払って史実というものに迫ってみると、妙な言い方であるが、史実は実に「リアル」なのである。
 この「リアル」感は、現実というものが錯綜し物事の境界線が曖昧なように、掴み取った史実が同様の性格を帯びていたことから生まれてきたものかも知れない。そんなリアルな戦国史は、以前の割り切られていて明瞭な武士の領土争奪戦の時代という認識を覆し、それよりも魅力的で奥の深い広範な人々の生き様を垣間見させてくれる。
 そんなわけで、この戦国時代の「リアル」な史実に迫っていろいろと考えてみたいというのが、今回表題とさせてもらった「戦国談議」の意味である。「談議」なのでいろいろとご意見を寄せてもらいたいと思っている。そして表題に「水野氏」とあるのは、この談議の場が「水野氏史研究会」のブログだからであるが、決してそれだけではない。
 
 かの桶狭間合戦で奇跡的な勝利を得た織田信長の同盟相手に、知多半島の水野氏がいた。この水野氏は現在の東浦町の緒川に城を構えていた水野信元が惣領であったとされるが、衣ヶ浦の対岸の刈谷、伊勢湾に臨む常滑、そして桶狭間西端の大高に庶家を分立させ、桶狭間合戦の頃には有力国人領主としてこの戦いを迎えていた。桶狭間合戦における水野氏の動向については、さきに『水野氏と桶狭間合戦』に私の考えを述べさせてもらった。 織田信長は永禄十一年(1568)に足利義秋を奉じて上洛を果たし、以降天下の行方をリードする時代の中心人物となったが、その出発点は那古野城で独立し孤軍奮闘の後に尾張最大の勢力となり、桶狭間合戦に勝利したことにある。その間、知多の水野氏とは同盟関係を続け、お互いを必要として支え合いながら飛躍への足場を固めていったのである。この信長の原点というべきものが那古野・清洲時代であり、そこにおいて後の覇道に現出した彼の権力の源泉というべきものを養ったのであろう。そしてその関わり合いの中に水野氏がいて、信元の甥である徳川家康がいたのである。
 那古野、緒川、岡崎は極めて狭い範囲に含まれており、今の愛知県中南部という陸地と伊勢湾、衣ヶ浦、三河湾という公海が寄せ合い引き合っている海岸線の長い土地である。ここでは幾つかの陸のドラマと海のドラマがあって、それがやがて戦国の終局面に向かって動き出す序章のように、若い主人公達を歴史の舞台に送り出していった。彼らは戦国期後半を席巻し天下を掌中に収めたが、それがこの狭い地域に育まれた者達であったことは果たしてただの偶然だったのであろうか。
 那古野の西南西四キロメートルほどに中村村があったがここが豊臣秀吉の出身地、また那古屋の南東三十五キロメートルに徳川家康の岡崎城があった。そしてその那古野と岡崎の中間に、水野氏の領地が横たわっていたのである。このように天下人輩出の地の真ん中に水野氏の支配領域があったのであるが、これらの地域には戦国を終焉に導き新たな統一国家そして近世を出現させる何かがあったのではないだろうか。その何かを考える時、少なからず水野氏に言及することになるであろう。もしこの愛知県中南部という地域に次代の胎動があったならば、あるいは水野氏の天下、水野幕府の開設などが史実として現出していたのかも知れない。

図1
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戦国時代の権力モデル
 世間では、日本史というと戦国時代と幕末が突出した人気があるという。どちらも時代の大きな転換期であり、名の知れた英雄を多数輩出した。だがこの二つの激動期には大きな相違がある。それは幕末で有名な人物のほとんどが下級藩士とか郷士といった権力の下層にいた人物であったのに対して、戦国時代といえば武田信玄とか上杉謙信など皆戦国大名という当時の権力の頂点にいた者に焦点が当っている。
 この時代は下克上の時代であったというが、その代表である北条早雲や斉藤道三などは戦国大名となったことで注目されているのであって、下級御家人や油売りが出自であっても結局のところ権力者となったことが評価されているのである。もっとも最近の研究では、早雲こと伊勢新九郎は下級の御家人ではなかったとされ、道三も油売りの商人だったのは彼の父親であったとされている。織田信長にしても尾張半国の守護代家の奉行に過ぎなければ、歴史に埋もれてほとんど名を聞くこともなかったことだろう。
 この時代、統一権力であった室町幕府が衰退し、全国各地に戦国大名が割拠して鎬を削る戦いを続けた。京に集権的に存在していた権力が、応仁・文明の大乱を通じて地域分散したが、その権力は戦国大名によって掌握され、その権力同士が統一に向ってぶつかり合う構図として一般に広く理解されていることだろう。権力は一点集中から地域分散集中へと転化し、それが「群雄割拠」としてモデル化されているのである。それだから、戦国時代といえば戦国大名、ここで戦国とは大名同士が国単位で争ったことを意味する言葉なのである。
 一方で戦国とは、国中が争っていた時代として捉える見方もある。ここでは権力がより広範囲に分散されて理解され、民衆や下層領主達も日常的に争っていたとされる。そして戦国大名は、そうした下層権力の相克に強くその動向を左右された存在として捉えられる。そこでは権力がより一層広範に分散化されて、戦いは同一層間でも異層間でも絶え間なく続いているとされるのである。
 私はずっと素朴に権力の地域分散集中モデル、言わば「群雄割拠モデル」でこの時代を捉えていた。しかし先に述べた「リアル」な史実は、どうやらより広範な権力分散モデルを指向しているようである。
 つい先日、本郷和人氏が著した『武士から王へ』(ちくま新書)を読んだ。その中で二つの権力の型について言及しており、それを「ツリー」と「リゾーム」と呼んでいる。「ツリー」は一つの頂点から従属分岐しながら裾野を広げていくピラミッド構造であり、「リゾーム」は主従が錯綜して「主人側の階層と従属する者の階層が、辛うじてぼんやりと分別できる形状をとる」と述べれている(図2)。これはちょうど「ツリー」が戦国の群雄割拠モデル、そして「リゾーム」が広範な権力分散モデルに対応しているのである。
図2
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 戦国時代というと、何かと戦国大名の動向が注目されるのは、群雄割拠型の権力モデルが多くの人々の認識の根底に強く働いているためである。だが地道に積み重ねられてきている歴史学の成果は、そのシンプルであるが魅力的な群雄割拠モデルは架空の表層モデルに過ぎないことを明らかにしているのだと思う。つまり武田信玄や上杉謙信など戦国大名は過大評価され過ぎているのであり、彼ら個人あるいは個性が史実に占める割合はもっと小さいだろうということである。織田信長もその限りでは同様であるが、天下の覇業をすすめ、彼自身と彼の臣下や同盟者から戦国大名を超える存在が出現したことは、織田信長という代名詞で語られる権力母胎に格別な何かがあったことを思わせる。そしてその中に水野氏が存在し、その原初形態においては信長と水野氏に大きな優劣があったとも思われない。
 以降の戦国論議は、今ここに述べた広範な分散型権力モデル、「リゾーム」構造で戦国時代というものを多角的に論じていきたいと思う。水野氏研究において多くの知見をお持ちの会員の皆さんに、多くのご意見・ご指摘をいただき今後の論議が深まることを期待したい。
 
 
 
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by mizuno_clan | 2008-12-14 17:48 | ☆談義(自由討論)