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【談議1】水野氏と戦国談議(第五回1/2)

所領とは何か
                                               談議:江畑英郷
 群雄割拠型権力モデルにおける群雄とは、分国ごとに割拠し互いに隣接する他領を隙あらば奪い取ろうとする存在としてモデル化されている。こうした群雄の行動は、所領拡大の欲望によって突き動かされており、他領を奪い取る中心手段は武力の行使である。そうして戦国大名は、最後には天下でただ一人の存在となるまで戦いを続け、自らの領土拡張欲を満たそうとするのである。
 このモデルは、実際に戦国期に大名が分国を支配し、大名同士で激しく戦い、そして最後には豊臣・徳川の統一政権が樹立された史実と確かに重なることで、それと自覚することなく受け入れられて、我々のこの時代を見るバックボーンとなっている。しかし先に見たように、この時代史の教科書と言っても良い『戦国の群像』や『一揆と戦国大名』では、戦国大名も含めてこの時代の権力が相対化され、頂点が複数存在し、また頂点そのものが漠としてぼやけているリゾーム構造であったことが示されている。
 このリゾームという言葉、原語ではRhizome であり、根茎, 地下茎という意味の名詞である。「無数の網の目状態で広がる植物の根のイメージを借りて、現代の思想と文化の状態を特徴づけるドゥルーズとガタリの用語」と辞書には書いてある。ここでリゾーム型権力モデルと言うときは、哲学とは何の関係もなく、多軸・多層の権力構造を指している。これまでこの言葉自体の解説をしなかったので、遅ればせながらつけ加えておく。
 さて、群雄割拠型権力モデルが戦国期の動乱の原動力とする所領拡大の欲望であるが、そこでは頂点の戦国大名とそれに従う家臣達が、この所領を媒介にして結合していると捉えられている。この戦国大名の家臣達について、兵農分離をモチーフにして勝俣鎮夫氏は次のように述べている。

 一般に兵農分離という場合、地頭、国人領主などの在地領主の領主権や、農業経営者としての在地性を否定することに重点をおいて考えられているが、この段階ではこれら領主の在地性は失われつつあったのであり、戦国大名は彼らを城下町へ集住させはじめていた。その意味では、兵農分離は戦国大名のもとで進行していたといえるであろう。これに対し、軍役体制のもとで軍役を負担する兵と位置づけられ侍身分を獲得しながらなお地頭に年貫・公事を納入する百姓であるという地侍たちの兵農分離は、戦国大名のもとではほとんど進展しなかった。彼らは荘園公領制下の名主の系譜をひく地主で、郷村の指導者であり、領主の支配を下からきりくずしていたのであり、彼らこそ戦国時代の社会構造の転換、戦国の争乱をもたらした主体的階層であった。戦国大名の軍事力は彼らをいかに多く組織化するかにかかっていたのであり、また国の支配の成否は彼らをとおしていかに郷村を把握していくかにかかっていたのである。しかし彼らのなかには、積極的に大名と主従関係を結び軍役をつとめ侍への上昇を志すものも多かったが、百姓としてその地上経営をつづけていこうとするものも少なくはなかった。また彼らは軍役衆となっても、自己の地主としてのありかたを放棄して大名の給人となることは望んでいなかった。(『戦国時代論』1996年岩波書店)

 ここで勝俣氏は、国人と地侍の戦国期の実情を端的に語っている。
 国人については、もともと在地領主であったのだが、戦国期が進むにつれて「領主の在地性は失われつつあった」としている。このことは、勝俣氏によって次のように説明されている。

 この時代、在地領主は、領主権の中心をなす広義の勧農権を、新しく成立してきた惣村に吸収されつつあり、その在地性の根拠を失いつつあった。領内の豊作・安穏を祈る祭祀、災の発生を防ぐための検断、再生産費用の農民への貸与、用水の管理など本来領主が行なってきた仕事を、実質的には村落共同体がみずからの手で行ないつつあった。年貫・課役も、領主と村落がその額を一括して契約で定め、村落がこれを詰け負う村請が多くなった。在地においては、領主のいらない体制へ移行しつつあったのである。

 室町時代になって勃興してきた惣村が、国人領主から領主権を吸収したと述べているが、ここで領主権は勧農権と徴税権として捉えられている。前回「なぜ戦国大名は戦い続けたのか」で、「また“支配”するとは収奪することと同義に過ぎないのか」という疑問を投げかけたが、勝俣氏によれば答えは勧農と徴税の両面をもって支配とするである。「支配」と言うと何か一方的に押さえ付けられ収奪されるだけというイメージがあるが、祭祀、検断、貸与、用水管理などの勧農を抜きにしては成り立たないものなのである。今後も「支配」という言葉は使うことになるであろうが、勧農と徴税合わせた意味なので、お間違えのないように。
 勝俣氏はここで述べた村請制の提唱者であるが、領主に対する貢納を村が一括して請け負うことで、領主は村と関係を結ぶだけで個々の百姓たる村の構成員との関わりが失われる。そうして国人領主は、在地から切り離されてしまったということなのである。

 戦国大名の被官を構成する国人領主は村から離れてしまったが、もう一方の構成層である地侍については、「自己の地主としてのありかたを放棄して大名の給人となることは望んでいなかった」と述べている。つまり地侍はあくまで村に留まり、村の指導層として戦国大名と関係を取り結んだということであろうか。「軍役をつとめ侍への上昇を志す」地侍もいたが、そうした者達も給人であるよりも前に村の地主であり構成員であろうとしたと言うのである。
 こうした地侍の志向は、「戦国大名の軍事力は彼らをいかに多く組織化するかにかかっていた」ことと相反するように思われる。戦国大名がより多くの兵員を求めれば、領内に多数ある村々の有力者を彼らの軍に加えなければならない。名主層に相当する地侍は名字を持ち、村の軍事力の中核を担っていた武力を持った百姓である。したがって、戦には彼らの力が必要であるのは紛れもないことであろうが、当の地侍は戦国大名の戦いよりも村の維持と発展に目が向いているのである。
 このように見てくると、戦国大名軍の中には、単に他領を蚕食し領土を拡張するというスローガンでは、思うように動かない軍役衆(地侍)が多数いたように思える。この辺り、彼ら地侍の所領という観点から、もう少し詳しく確認してみたい。

 池上氏は『戦国の群雄』の中で、武田氏の庇護を受けた恵林寺の検地に触れて、地侍を戦国大名の家臣に編入していく事例を示している。

 一五六三年の検地帳には、御家人衆、勤軍役衆(勤軍役御家人衆とも)、惣百姓の三種類に大別される人々が登場する。図284を見ながら話を進めよう。まず御家人衆は、この検地よりずっと以前に武田の家臣となり、そのときから、寺領のなかにもっていた耕地の本年貢に相当する分を給恩(本御恩)として武田から宛行われていた。網野新五左衛門尉の場合は、それが一貫文であった。そして今回の検地によって一〇〇パーセント近い検地増分が踏出されたが、それも新しい給恩、すなわち加恩として宛行われることになった。かれらのなかには二倍以上の検地増分が踏出されたものもいるが、それもすべて加恩として宛行われている。かれらは吉田、甘利、跡部等々武田の有力家臣の同心として編成されている。

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 つぎに、軍役衆は御家人衆とちがって、これまでは寺に本年貢分を納めてきた。荻原豊前守の場合、本年貢は一貫文である。しかし武田の家臣として軍役衆となったために、今回の検地増分一貫六〇〇文は免除され、給恩となった。ただし、今まで百姓として納めてきた本年貢については、従来どおり寺に年貢を納める義務がある。
 これに対し、惣百姓には給恩がなく、本年貢と検地増分との合計高が年貢となるたてまえであった。しかし、それでは検地増分がきわめて大きいため、一挙に年貢負担が数倍にも増える百姓の抵抗が懸念された。そのために、信玄は本年貢と検地増分の合計高の四〇パーセントを免除することとした。網野新九郎の場合には、それまで七五〇文であった本年貢に検地増分一貫六四〇文をたした二貫三九〇文の六〇パーセントにあたる一貫四三四文を今後年貢として寺に納めることになった。結局、もとの本年貢の約二倍の負担となったのである。


 ここで池上氏は、恵林寺の検地帳にあらわれた三つのタイプの所領持ちについて言及している。ここの御家人衆、軍役衆、惣百姓は、いずれも有姓で村の名主層を形成した人々ではないかと思われる。惣百姓として登場する網野新九郎は、御家人の網野新五左衛門尉とは同姓であるから親族か同名衆ということになり、単なる耕作人ではない。したがってここに名を記された三名は、ともに村の指導層を形成する地侍でありながら、戦国大名に対して三者三様の対応をしている事例と考えられる。網野新五左衛門尉は武田の被官としてその軍事力を下から支えるが、同じ網野を名乗る網野新九郎は武田とは被官関係は存在しない。そしてその中間が、軍役衆とされる荻原豊前守である。
 この荻原豊前守に注目してみると、彼はもともと恵林寺に一貫文の本年貢を納めていたので、今回検地の対象となった耕地は恵林寺が領主となる。ちなみに、この「領主」という言葉がなかなか曲者で、荘園公領制下では荘園の持ち主である貴族や寺社が「領主」と呼ばれるが、時代が下ると在地にあってその地を知行する者が「領主」として認識されるようになる。
 ここで「知行」という言葉を『日本史辞典』(角川書店)で調べてみると、次のように記載されている。

 平安時代から鎌倉・室町時代にかけて行われた土地・財産の直接支配をいう。古代では土地の所有権とその権利の行使事実(用益)とが分化せず、土地の直接支配を占とか領とか呼んだが、平安中期ごろには土地の用益権が分離して、これらを領掌・領知するといい、平安末期に用益権を意味する職(しき)が成立すると、この職の行使事実を知行というようになった。職が分化してひとつの土地のうえに重層して設定されると、知行もまた重層して成立した。

 つまり「知行」とは土地の用益権の行使事実をいうのであり、戦国期にもなると「荘園制の崩壊・職の消滅により、土地の権利関係は、百姓の用益権・耕作権を軸とした占有権、大名の領主的支配権の二つに還元され」(同書)るようになったのである。恵林寺の検地の例でいえば、荻原豊前守は百姓で用益権と耕作権を得ており、戦国大名の武田氏は領主的支配権を有していたことになる。荻原は恵林寺に長年年貢を納めてきたのだから、本来領主は恵林寺である。だが用益権と耕作権の実態が荻原に占有されるようになると、自身の力では領主として年貢を正当に荻原に課すことが困難になった。そこで恵林寺は武田氏の領主的支配権を認めて検地の実現にこぎつけたが、武田氏はその領主的支配権をもって、地侍に自身の軍役を負担することと引き替えに検地増分を免除することとなったのである。
 ここでは実際に土地を耕す耕作者の余剰分は、荻原豊前守と恵林寺に分配され、その分配の差配をするのが戦国大名武田氏という図式である。武田氏の「領主的支配権」とは、地主とその地に用益や耕作権を有する者との間に立ち、その余剰収益を公正に分配することにあったと考えられる。
 さてここで、この恵林寺検地に関する池上氏の見解を次に見てみよう。

 かれらは領主(この場合は恵林寺)の支配に抵抗して年貢・公事等の負担を減らし、人身的な従属関係から脱し、さらに村落共同体、郷、地域社会のなかで主導権を掌握し、小作や従属的な農民の支配を強めたいと望んでいた。その二つを同時に実現する道が領主化の道、すはわち家臣となることであった。戦国大名の検地は、領主の年貢増徴の要求に合致したばかりでなく、こうした地侍層の志向するところにも合致するものであったのだ。

 池上氏は恵林寺の検地が、「地侍層の志向するところにも合致するものであった」と述べているが、それには些か疑問を感じる。御家人衆、軍役衆、惣百姓のいずれにおいても結構な検地増分があったが、これは検地によって収穫があがったわけでは当然なく、新たに余剰収穫分が把握されたということである。だが、この余剰分を新たに把握したのは地侍層ではなく、武田氏と恵林寺だったはずである。荻原豊前守と網野新九郎は恵林寺に年貢を納めていたのだから、耕作者の収穫を直接把握し、その中から領主たる恵林寺の「支配に抵抗して年貢・公事等の負担を減らし」て残った現在の年貢を納めていたのである。したがって、今回の検地で内徳を暴かれ、その分に対する新たな負担を背負い込んだのは地侍層なのである。
 惣百姓の網野新九郎は、戦国大名の武田氏の身分規定では百姓であったが、その実態は、御家人の網野新五左衛門尉や軍役衆の荻原豊前守と変らない名主層である。彼は「もとの本年貢の約二倍の負担となった」のであり、この点でみるかぎりその志向するところに合致しているとは思えないのである。荻原豊前守も年貢こそ増えなかったものの、これまで果たしていなかった軍役を新たに課せられ、武田の被官になれたと喜んだわけではないだろう。
 この恵林寺検地は、もとは勝俣氏が取り上げたものだが、勝俣氏の見解は次のようなものである。

 検地以前は軍役衆も非軍役衆もともに荘園制下の名主として存在していたものが、大名などと主従関係を結び軍役をつとめていたものはその名主得分を思給として与えられ、軍役衆=兵として制度的に位置づけられた。そして、主人をもたず軍役奉仕をしていない名主は、その得分を原則として否定され、そのうえでその何割かを再給付されるかたちで、百姓と位置づけられた。このような大名検地が施行されたところでは、軍役衆、またはその職能をつうじて大名に奉仕することにより軍役衆に準ずる特権を与えられた職人・商人などが給恩として与えられた名田を除いて、荘園制の基礎構造をささえた名主、名田は、制度的に消減した。名主であった兵は大名家の家中に包摂され、名主であった百姓は国の構成員となった。(『戦国時代論』)

 勝俣氏の見るところでは、恵林寺の検地によって「名主、名田は、制度的に消減し」、「軍役奉仕をしていない名主は、その得分を原則として否定」されたのである。つまり名主層であった地侍は、この検地によって大名権力によって取り込まれるか、あるいはその名主得分を奪われたのであり、彼らの所領に制約をかけられたのである。さらに勝俣氏は、一五七四(天正三)年豊前宇佐郡の地侍元重鎮頼(もとしげしげより)が作成した家訓を例にあげて、鎮頼が「郷村の指導者としての百姓の立場からは、領主の検見(検地)に対しては横山浦全体の百姓の意思として反対すること」を家人に説いていたとしている。ここで領主と言われているのは、戦国大名大友氏の被官である安心院(あじむ)氏である。地侍の元重氏もまた大友氏の被官であり、検地もまた錯綜した主従・利権関係の中で実施されていたことがうかがわれる。

 恵林寺検地の例では、御家人衆の網野新五左衛門尉と新たに軍役衆となった荻原豊前守が新知行を得ることになった。しかしこの知行は、もともと彼らが内得として懐に入れていたものであり、それが今回公式に認められたのだが、それがどれほどのご恩になったのかは不明である。久留島氏は、検地が地侍にとってもメリットとなる点について、次のように指摘している。

 各領地での紛争解決の裁定として行われる検地(公事検地)のあったことが注目される。この紛争とは、領主同士の境界争いや収取権をめぐる争いだけでなく、百姓と領主、百姓同士の年貢・公事納入額をめぐる争いなども含まれていた。(『一揆と戦国大名』)

 この公事検地ではなくとも、常に領地間の争いの火種が絶えない錯綜した利権関係に置かれる地侍層であるならば、たとえ大名の軍役衆として位置づけられるとしても、在地で消耗戦を続けるよりもメリットがあると考えるだろう。しかしながら、そうして課せられた軍役に対して、彼ら地侍衆がどれほど積極的であったかは大いに疑問の残るところである。
 さて今回は、所領とは何かをテーマとしているはずであるが、なかなかそこに行き着けないで話が長くなってしまった。しかし戦国大名との関係では知行地、すはわち給恩地が大名軍の中核を占める地侍層にとってどういうものであるかは、およそ理解していただけたのではないかと思う。
 だが、地侍層の所領は戦国大名から与えられた給御地ばかりではなく、むしろその中心は本領地であったことを思い出したい。荻原豊前守の田地年貢は、従来の一貫文と今回免除になった分を合わせて二貫六百文である。これを北条氏の一反五百文という貫高で計算すると、荻原の田地はおよそ五反ほどであったことになる。しかしながら、荻原という姓を名乗り、豊前守という自称をしているのであるから、たかだか五反の土地だけを所領としていたというのはいかにも少な過ぎる。すると恵林寺の検地帳に現れなかった彼の所領は、恵林寺領とは別の領地内にあったか、あるいは本領地であったかのいずれかであろう。
 本領地は先祖伝来の自前の領地であり、主従関係を結んだ主より給恩として与えられたものではない。この本領地は戦国大名によって安堵されることはあっても、もともと地侍が長年に渡って所有してきた土地であり、その限りでは戦国大名に返さねばならぬ恩があるわけではない。この本領地と給恩地は、全国大名の被官となった地侍層にとってどのような違いがあったのであろうか。この答えを得るために、主従関係における本領地と知行地の違いについて『戦国の群像』から池上氏の述べるところを引用しよう。

 室町期から戦国期にかけて、土地の売買・質入れがはげしい勢いで増大した。沢氏でも、一五三七年(天文六)に道寿は一反、二反、一所などの零細な二八筆の買得した田畠を春藤に譲っている。いかなる権力をもっても、売買を禁じたり、押しとどめることは不可能であった。沢氏や戦国大名の法は、かれらが宛行った給恩地の売買を自己の管理下に、寺庵領等は旦那の、百姓の名田は地頭の管理下に、それぞれおこうというもので、売買そのものを禁ずるものではない。しかも、沢氏も戦国大名も共通して本領を規制の対象からはずしている。主従関係によっても、従者の本領は干渉できないのが、戦国期の一般的状況であった。

 ここに登場する沢氏は大和国宇陀郡の国人領主であり、伊勢の北畠氏の被官となっていた。沢氏は山間の宇陀郡中においては戦国大名と同等の権力を持つほどの有力国人であり、「同名被官中、給恩の田畠山林等、私に売買すべからず」という法度を定めている。この沢氏の被官のみならず戦国期には田畠の売買が盛んに行われたが、その中には戦国大名や国人が給恩として与えた知行地が含まれていた。荻原豊前守が一貫六百文の給恩地を得る代わりに軍役衆を努めていたように、給恩地あっての主従関係である。したがって、その給恩地が売買されてしまえば主従関係は維持できなくなるため、沢氏も戦国大名も給恩地の売買に制限をかけることとなるのである。

2/2へ続く

by mizuno_clan | 2009-01-11 09:04 | ☆談義(自由討論)