【談議1】水野氏と戦国談議(第七回)
怨は忠義に勝れり
談議:江畑英郷
前回「名も無き戦国の牙城」では、戦国期に強固な自治をもって自らの存立のためには合戦も厭わない小領主国家における牙城のような惣村について触れてみたが、大枠でその有り様を見たに過ぎない。しかしその惣村は、地下請から村請へとより集団的自己完結性を高めて、戦国期社会の地下茎たるリゾームの温床をなしていたように思われる。
前回談議に対するコメントで巴々佐奈さんは「表層的には支配領域が確定しているようですが、地下茎はより多くの領域に繋がっている」と、リゾームたる惣村を念頭に置いた戦国大名の支配についてそのイメージを膨らませ、「領域にある根っこを支配しようとすれば、地下茎の及ぶ範囲に影響を及ぼさねばならず、結果として竹林に張った縄張り領域を広げざるをえなくなる。それが戦国大名が戦いを仕掛ける」根本構造かと疑問を投げかけてきた。今回はその一端について、解答をせねばならないだろう。
『日本近世の起源』における渡辺京二氏は、歯切れのいい物言いで戦国のリゾームを多角的に語ってくれているが、その中で勝俣氏の一節を引用して次のように述べている。
勝俣鎮夫は日本の中世が「私的復讐が支配した時代」であり、「個人的死闘は、集団的私戦にすぐ転化する要因があった」ことを指摘する。中世の人々は「自己に加えられた侮辱に対する過敏さ、爆発的憤怒の感情、激しい闘争本能、死に対する絶望的なまでの感覚」において際立っており、喧嘩はどんなに些細な原因によるものであっても、ただちに血で血を洗う私戦に転化する。「喧嘩は、私の怒・私の怨より行動するのであって、忠と義により参加する合戦より、はるかに内からの勇気がわきおこる(『翁草』)といわれる如く、生命を賭して戦われたのである」。そして惣村はまさしく、このような流血沙汰にいたる喧嘩の担い手のひとつだったのだ。
ここで勝俣氏や渡辺氏が言わんとするところは、この時代の人々は血の気が多かったなどということではもちろんない。彼らの解釈では、「私」とは村集団のことなのである。「個人とその個人の属する集団は不可分であるという強い社会通念・社会構造」が存在していたと勝俣氏は語り、その背景に自力救済社会の厳然たる実態があると言う。
山林や用水の確保は村の生命にかかわる。したがって山林・用水をめぐる隣村との紛争は、提訴によって合理的解決を期待できる上級権力が不在である以上、村落の生存を賭けた深刻な武力抗争に帰着せざるをえない。いわゆる山論・水論はそういう自力救済の過酷な様相を示すものにほかならなかった。(『日本近世の起源』)
戦国乱世は、村の視点から見れば、自らの権益は自力で守るより他ない時代であり、その自力の多くは武力をもって相手を圧倒することであった。そうした時代に生きる人々の赤裸々な実態は、戦いを厭うというよりは、闘争本能によって支えられた野生の自立とでもいうような力による生存であったようだ。前回冒頭で紹介した近江国梅津西浜村から菅浦村に出された援軍うかがいの書状が、妙に戦慣れした感じを受けるのは、彼ら村の者が武力闘争を日常的に繰り返していたからなのであろう。村と村の争いの中にはかなり大規模な戦いもあったようで、『日本近代の起源』には次のような事例が記されている。
天正六(一五七八)年に始まる紀伊国荒川荘と田中庄間の「山公事」を見よう。このときの合戦では荒川方は橋口甚太郎を大将として二千五百、対する田中方は二千八百で、団九郎というつわものが甚太郎の首をとり、田中方優勢のうちに暮に及んで双方兵を引いた。翌日、荒川方は稲葉左内を大将として雪辱を期し、団九郎以下六名の頭取、十八名の雑兵を討ちとり、「凱歌を揚て」引上げた。田中方は壊走したのであろう。二十四名の死体は野中にうち棄てられ、哀れ至極のありさまだったと記録は伝える。荒川方の死者は三名、手負いは三百余名だった。大将がおり雑兵がいるといった具合で、まさに本格的な合戦だったことがわかる。
戦国大名顔負けの合戦でさえ為す村々の実力には思わず瞠目させられるが、黒田基樹氏はこうした惣村のあり様を見て、「まさに村というのは、他の集団との戦いのために創り出された、といっていい」(『百姓から見た戦国大名』)と述べるに至る。頼るべきもののない世界での自力とは、多分に武力の行使を含むものである。身近な生活空間における連携・結合としての一揆が村であると規定できるのであれば、その一揆は共同して生産し、生産に必要なものと生産の成果を共同して守ろうとする。戦国のライフライン、それが村であり、自力救済社会に生きる者たちの砦であったのである。
そうした自力救済社会に終止符を打つために登場したのが戦国大名であったというのは、前回引用した久留島氏の「解決不能となった問題を裁定することで、公権としての力を一層強めていった」という言葉に顕れていた。「提訴によって合理的解決を期待できる上級権力が不在である」ことが武力行使につながったのであるから、紛争調停者としての戦国大名が登場すれば、村々の戦いは抑止できることになる。藤木氏も「分国内のあらゆるモメゴトは大名が公に解決する。私の解決はいっさい認めない、と大名が宣言したのは、実力行使や戦争の惨禍をなくしたいという、中世の人々の切実な願いに答えるためだった」(『戦国史を見る目』)と述べている。先にみた『翁草』の言葉や近江国梅津西浜村からの助太刀うかがいの書状をみる限り、実力行使をなくしたいと中世の人々が切実に思っていたかどうかは疑問であるが、紛争に対して公正で妥当な解決をする調停者の出現を望んではいたと思われる。
勝俣鎮夫氏の『戦国時代論』によれば、村の人々は「“地下を安堵”させることが領主の義務であり、責任であると考えていた」のであり、「百姓がこのような領主の領民保護義務と地下の忠節・奉公を、あたかも主従制における“御恩”と“奉公”の関係のように相互交換的関係ととらえている」のである。そして、「その中心をなすものは、年貫・公事など課役の納入にあった」が、「領主が領主たりえないときは、これらを納入する義務はないという考え方が強くうちだされている」と言うのである。さらに進んで勝俣氏は、「戦国時代という戦乱の時代に強くあらわれた、このような観念にもとづく村の主張・行動が、荘園制の公的秩序を破壊し、このような村を基盤とする新しい体制、公の秩序を生みだす原動力となった」と主張する。まるで惣村が荘園制を内側から打ち破り、その欲するところの公の秩序の担い手としての戦国大名を生み出したと言わんがばかりである。
このように自力救済社会での私的闘争を抑止して地下を安堵する公権力に対する社会的な要求があり、それに答えることで戦国大名は自らの権力基盤を強化していったということであるが、その戦国大名が他の戦国大名と領土拡張戦をするというのはどういうことであろうか。大名領国に住まう人々の私戦を調停し、その弊害を社会から取り除く公権を自認するところに村々の上に立つ戦国大名の存在意義が見出されているというのに、その戦国大名がより大規模な大名戦争を引き起こすというのは、村々に対する裏切り行為なのではなかろうか。
勝俣氏の考えでは、戦国大名が大名としての責務を果たしている限りにおいて、領民は年貢を納め上位権力として認めるのである。領内には様々な確執もあり、訴訟や紛争が絶えなかったであろうし、時に起こる災害により疲弊した領民の救済、新たな耕地開拓の支援、商工業発展のための道路普請や港湾整備などのインフラ事業、そしてそれらを円滑に進めるための法制度の整備とその施工、さらに公平な徴税制度の確立とその基礎となる検地の実施など統治者としてやるべきことは山ほどある。このような公権としてやるべきことを果たさなければ大名権力は足下から揺らぐはずであるのに、そして領内における私戦を禁じる立場にある戦国大名が、私で他国の戦国大名と合戦を続けていたというのはどう考えてもおかしいと思うのである。
しかしながら、戦国大名どうしは間違いなく戦っていた。そうであるならば、戦国大名が戦っていたのは私戦ではなく、公戦であったことになるのではなかろうか。私戦でなかったということは、私利私欲や大名の都合による戦いではなかったということであり、公戦であったということは、大名の領国統治の中に合戦へと赴かせるメカニズムが組み込まれていたということになる。
そのメカニズムの一つとして注目されるのが、黒田基樹氏が述べている地下戦から領主戦へという争いの波及展開である。
村同士の戦争は、村々のレベルだけにとどまらなかった。村は、そうした戦争に、しばしば自らの領主にも加勢を要請していた。領主も、支配下の村の「成り立ち」が遂げられないと、年貢などの収入がなくなるから、これに加勢した。そうすると、村同士の用益をめぐる紛争が、ひいては領主同士の戦争にまで発展することになる。(中略)
中世を通じて、在地における合戦は、絶え間なく発生している。それはたいてい、領主同士の合戦とみられている。しかしこれまでみてきた事例をもとに考えれば、領主同士の合戦とみえるものの根底には、こうした村々同士の用益をめぐる紛争があった可能性が限りなく高い。中世という時代は、いたるところでこのような戦争が繰り広げられていた時代であった。中世が、戦争の時代であったゆえんである。(『百姓から見た戦国大名』)
戦国大名領国というが、その領国に明確な国境線があったわけではない。そもそも自力救済社会に生きる人々の安全保障を一つの原点として戦国大名権力が登場しているのであれば、公権を求める側が大名領国域を規定しているのである。村々がどの大名を頼りとするのかそれは村々に委ねられており、その安堵を求める村々の集合体が大名領国ということになるだろう。村々の安全保障先がまったく村の自由裁量であったとは言えないだろうが、大名と村の様々なつながりそのものが「相互交換的関係」であったわけで、大名権力がそれを強制したわけではないだろう。したがって、戦国大名領国は大名の拠点を中心として同心円状に広がり、その周縁部は他の大名の安全保障下と重なることになる。そこは大名領国の交差域であり、双方の安堵が錯綜していたであろうし、戦国の両属の世界が広がっていたのである。
こうした大名領国の交差域は決して狭いものではなく、時々の情勢によって常に流動的に揺れ動いていたものと思われる。そうした交差域で勃発する相論は、村から村へ波及し、戦国の熱い血と怨念によって武力闘争となり、戦いの当事者が次々に加勢を頼むことで、その地域全体の安全が危機的に脅かされることになる。そうなればこれを黙視できないのが、公権としての戦国大名の立場である。戦国大名は紛争の調停に努めるであろうが、同時に他国の大名も公権を掲げて乗り出してくる。地下は「内からの勇気」をわきおこして戦いにのめり込んで、収まりがつかなければ大名間の戦争に発展するのである。
自身の安全保障下にある村々の危機を救うのは戦国大名の義務であり、そのための戦争は公戦に他ならない。そうして始まった戦いは、やがて戦国大名どうしの全面戦争に発展する場合もあったことだろうが、大名の私利私欲や都合によって戦っているのではない。もちろん、純然たる公戦であるため、そこに大名やその家臣の私欲を差し挟む余地がまったく無いなどと言っているのではない。ここでは、公権として領内の安全と秩序の維持に責任をもつ戦国大名が、その安全や秩序を危機にさらしかねない他国との戦争に突き進むメカニズムを明らかにしようとしているのである。
前回「名も無き戦国の牙城」では、戦国期の底辺にあった自己完結的な惣村権力をリゾームの視点で考えてみたが、その惣村権力を抱える戦国大名がこのリゾーム構造の中でどうして他国との戦いに進むのかを今回考えてみた。その結論として、リゾーム型権力モデルの骨格となる考えをここで以下に示しておこうと思う。
戦国大名に私戦なし
戦国大名は公権として、持ち込まれた戦いを引き受けているのであり、自ら進んで戦争を起こし、領国を危険にさらしているわけではない。そして戦国大名の私戦を、リゾーム構造をなす社会が許しておかないものなのだという基本認識を、この言葉は示しているのである。
惣村は地域の安全保障を戦国大名に求める一方で、他国との相論、そして合戦には領主の加勢を要請するというまことにエゴイストな底辺権力である。先に引用した中に『翁草』の一節、「喧嘩は、私の怒・私の怨より行動するのであって、忠と義により参加する合戦より、はるかに内からの勇気がわきおこる」というのがあったが、この「忠」とは村にいた地侍の大名への軍役を指しているだろうか。また「義」とは、村どうしで一味同心した一揆への義理と受け取ればいいのだろうか。そしてこの「忠」「義」よりも、私=村の「怨」が勝るというのでは、戦国大名も知行を与えたり村のために戦ったりする甲斐がないというものである。上に立つものは、傍から思うほど楽ではないということであろうか。
藤木氏は、「村からみた戦国大名」という論文で戦国大名が村のために何をしたかを語った後で、戦国の村のようすを詳しく伝えることで有名な『政基公旅引付』を引用して次のように結んでいる。
そういえば、戦国の初めの和泉日根野庄(大阪府泉佐野市)近くの村でも、粉河寺軍の「猛勢」に襲われたとき、わたくしたちは、「草のなびく様なる御百姓」だから、けっして敵対する気はありませんと強調し、
①何れの御方なりといえども、ただ強き方へ随い申すべきなり、
(永正元年=一五〇四「政基公旅引付」)
といっていたのを思いだします。百姓というのは、風になびく草のようなもので、領主などだれだってかまわない。ただ強くて頼りになる方につくだけさ、というのです。(『戦国を見る目』収録)
求められて公権を掲げた戦国大名であったが、草のなびくような百姓は、頼りにならないと見れば大名でさえ捨ててしまいそうな勢いである。誰のために戦っていると思っているのだ、と怒りをあらわにする戦国大名の顔が浮かんできそうであるが、戦いはただ村の加勢のためにだけあったのではない。次回は、天文年間における西三河に焦点を当てて、村とは別のリゾーム権力について考えてみたいと思う。
by mizuno_clan | 2009-01-24 23:19 | ☆談義(自由討論)