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【談議1】水野氏と戦国談議(第八回1/2)

三河武士は忠義に薄く
                                                 談議:江畑英郷
 現在の愛知県は、かつて東の三河国と西の尾張国に分かれていた。それが明治の廃藩置県後の紆余曲折を経て、現在の愛知県へ統合された。この愛知県の愛知とは、「年魚市潟(あゆちがた)」に由来するという。年魚市潟とは、名古屋市南区の南西部一帯に広がる干潟をそう呼んでいたようだが、こうした県名の由来を知ると、この県は海、すなわち伊勢湾との関わりが深いことにあらためて思い至る。
 地図を見ると、愛知県は三重県・岐阜県との境界が木曽川によって形成されているが、東の静岡県とは浜名湖とその北東から南に伸びる山麓によって区切られているようにみえる。そうした自然条件が、かつての尾張と三河を他国と区別させる源だったように思うが、尾張と三河が別々の国となったのはなぜだったのだろうか。
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 左の図は、電子地図帳「プロアトラス」のジオラマ機能によって3D描画させて作成したものだが、尾張と三河の国境を流れる境川とそれが注ぐ衣ヶ浦を加工した。愛知県東浦町教育委員会が編纂した『改訂東浦町歴史散歩』によれば、「境川の上流でも、逢妻(あいづま)川の上流でも、名鉄名古屋本線がこれらの川を横切る辺りまで、当時は海であった」ということである。この記述に基づいて、衣ヶ浦の海域を北へ押し広げた地図をご覧いただいているわけであるが、こうしてみると、この衣ヶ浦が深く陸地に切りこんでいることが尾張と三河を分け隔てたように思えてくる。
 鎌倉時代に京から鎌倉へ向う鎌倉街道が整備されたが、当時この街道を尾張から三河に抜ける道は沓掛の東で境川を渡った。その行路は野並から旧鳴海村(現在の鳴海よりも北方にあった)から沓掛村に向うのであるが、その途中にこの二つの村にまたがる二村山があって、この山が名所であったらしい。そこで当時の都人がここまで下向してきて詠んだ歌に、

 玉くしげ二村山のほのぼのと
   明けゆく末は波路なりけり

というものがある。この「波路」とは衣ヶ浦のことで、それが二村山からよく見えたというのである。ちなみに衣ヶ浦というのは、矢作川と境川にはさまれた地域を「衣の里」と呼んだことから名付けられたのであるが、現在の挙母(ころも)の里と衣ヶ浦は二〇キロメートルも離れてしまった。(以上『改訂東浦町歴史散歩』に基づく)
 衣ヶ浦は尾張と三河を隔てる深く切りこんだ入海であったが、ここに住む人々にとっては、海上行路を通じて三河湾や伊勢湾に面する地域と交流するための大動脈であったはずである。そしてこの衣ヶ浦の海上交通を勢力化に入れて成長していったのが、知多半島の水野氏であった。その辺りの事情は、本会世話人の水野青鷺さんのブログに詳しく書いてあるので、例えば「村木砦址(海賊篇)」などを読んでいただきたい。
 知多半島の小河を本拠としていた水野氏であるが、中興の祖といわれる水野貞守という人物以前について『刈谷市史』は、「貞守以前は神話時代というべきもの」だとしている。水野氏の系図とされるものはいくつもあるが、「貞守以前の水野氏については系図の記事の真偽の確定は困難」だとして、「貞守以後を実在の人物として」その論をすすめているのである。この貞守は文明十九年(一四八七)に亡くなっているが、彼の生きた時代にはあの応仁・文明の大乱が勃発し、そのころ知多郡守護であった一色義直の被官となって三河に兵をくり出していたらしい。
 この知多郡守護というのは、尾張守護であった斯波氏の管轄から知多郡がはずされて、郡守護というかたちで一色氏が任命されていたものである。『刈谷市史』では、この知多郡守護を一色氏が獲得したのは、「嘉慶元年(一三八七)以降明徳二年(一三九一)以前のこと」としているので、一世紀以上にわたって郡守護が置かれていたことになる。後に尾張において織田信秀が台頭する中で、知多の水野氏が独自の勢力を維持しやがて信秀と同盟を結ぶようになる背景に、この知多郡が尾張国にあって尾張守護の支配下になかったことが強く影響しているように思える。
 水野貞守は郡守護の一色義直に従って三河で転戦していたが、その中で「刈谷近辺を征服して将軍家料所重原荘南部を入手」(『刈谷市史』)した。貞守は本拠地の小河に加え、衣ヶ浦の対岸に新たに領地を獲得したのである。ところで水野氏が本拠とした小河であるが、書き手によって「小川」あるいは「緒川」とも書かれる。『改訂東浦町歴史散歩』によれば、飛鳥井雅康が明応八年(一四九九)に小川城で詠んだ

 松の上に繰るてふ糸の幾結び
   玉の緒川の末かけて見む

から、後世「小川」が「緒川」になったとしている。この「オガワ」について書くとき、いつもどう表記するか迷ってしまうのであるが、「緒川」になった時期がはっきりしないので元の「小川」でいいかと思うが、『刈谷市史』と当会の世話人の水野青鷺さんが「小河」と書かれているのでこれに統一しようと思う。
 
 この飛鳥井雅康の和歌が作成された頃、水野氏の所領となった刈谷を含む西三河では松平氏の勢力が伸張していた。当時は松平氏第五代の長忠の時期にあたっていたが、緒川の和歌が詠まれた九年後、この長忠は滅亡の危機をむかえていた。永正五年(一五〇八)、駿河・遠江の守護である今川氏親とその叔父である伊勢宗瑞(北条早雲)が西三河へ侵攻してきたのである。
 この時の戦いで、惣領家である岩津松平は城を落とされ滅亡した。そしてこの岩津城の救援に、安城松平の長忠がわずか五百の兵で駆けつけたという。数倍の今川勢との間に激戦があったが、伊勢宗瑞が急遽兵を後方の吉田へ返したため九死に一生を得たということである。
 平野明夫氏は『三河松平一族』で、この時の氏親と宗瑞の目的は岩津松平への攻撃に絞られていたとし、岩津城が落ちたことで作戦が成就したことから兵を返したのだと述べている。長忠などは眼中になかったということであるが、こうした今川勢の動きは「室町幕府の政治的動向と連動するものであった」という。このとき幕府内は、足利義澄・細川政元派と足利義材(よしき)派が抗争を繰り返しており、氏親はこの義材派となって三河守護の細川成之に協力していた松平氏を攻撃目標としたのである。
 永正年間に松平長忠が命がけで守った西三河であったが、岩津の松平惣領家が滅んでしまったことで、安城松平の長忠が松平家の惣領の地位に就いた。その長忠の後を継いで第六代松平家惣領となったのが嫡男の信忠であったが、周囲から不満の声があがって三十四歳にしてその家督を息子の清康へ譲ることになった。このとき清康は弱冠十三歳であったが、この清康が傑物であったようで、まず敵対していた一門の岡崎松平を攻めて恭順を誓わせ、清康は岡崎城を新築してそこを拠点とする。それから三河中を転戦して、十年ほどで三河一国を平定するという快挙を成し遂げる。そして三河平定の余勢をかって尾張守山に進軍したが、ここで家臣に斬り殺され松平軍は撤退という一大変事が起こったのである。これを守山崩れと称するが、この直後に清康の伯父である信定が岡崎城から清康の嫡男である広忠を追放して松平家を掌握した。広忠はこのとき十歳に過ぎず、従うわずかな家臣とともに伊勢に渡ったとも、知多半島の南にある篠島へ流されたともいわれている。そして守山崩れの翌年、天文五年(一五三六)三月十七日に今川領国遠江掛塚に漂着する。ちょうどこの日、駿府の今川館では大事件が起きていた。
 岩津松平を滅亡させた今川氏親は、大永六年(一五二六)に病で世を去った。その後は嫡男の氏輝が相続したが、弱年・病弱であったということで、氏親の正室であった寿桂尼(じゅけいに)がしばらく政務を執っていた。やがて氏輝も成長して今川当主として始動し始めたが、松平広忠が今川領掛塚へ到着したその日に、弟彦五郎とともに駿府で急死したのである。原因は不明。しかも、小和田哲男氏の『今川義元』によれば、「氏輝・彦五郎に直接かかわっている今川氏の当事者の記述が残されていない」のである。残されているのは、京都から駿府にきていた公家や鎌倉の僧侶、そして武田氏家臣の日記などである。小和田氏は同書で、「『今川記』や『今川家譜』など、もっと詳細な叙述があってもいいと思われる史料に、全くこのことがふれられていないのは逆に不自然であり、奇異の念を覚える」と書いている。
 この後、氏輝の家督をめぐって氏親の三男と五男が争い(花倉の乱)を始めるが、勝ったのは五男の栴岳承芳(せんがくしょうほう)すなわち今川義元であった。この義元、勝った翌年にとんでもない行動に出た。それまで仇敵の間柄であった武田信虎の娘を正室に迎えたのである。驚き慌てたのが、それまで共同歩調をとって武田と戦ってきた北条氏綱である。北条家でも早雲すでに没し、次代の氏綱が着々と勢力を拡大させていたのだが、この義元の転向に対して富士川東部の河東といわれる地域へ軍事侵攻して今川軍と干戈を交えた。このように、義元の登場によって駿河・甲斐・相模の関係は一変したが、もうひとつ西での外交も新たな展開をみせるようになっていた。兄に勝利した花倉の乱の後に義元は、遠江掛塚に至った松平広忠に救援の手を差し伸べたのである。
 三十二年前、今川氏親は北条早雲とともに西三河に侵攻し、岩津の松平惣領家を滅ぼし、広忠の曽祖父長忠を死の直前まで追い詰めた。その氏親の子が長忠の曾孫を助けて、岡崎城への復帰を実現させたのである。『岡崎市史』は、「信定派の抵抗がさはど激しくなかったのは、『三河物語』や「夢物語」が記す広忠派の周到な多数派工作によるものであろうが、広忠を支援した今川氏の意向が大きな意味をもったからである」と、義元の支援を大きく評価している。今川家の新当主が後ろ盾となっていたために、広忠を追い出して惣領顔をしていた信定もあきらめるしかなかったのであろう。
 義元は今川家当主の地位を戦って勝ち取り、ついですぐさま東と西で外交上の大転換を実現した。それは「おはぐろ武将」として、その器量を侮られるような戦国大名ではなかったことを示している。広忠の遠江掛塚到着と、氏輝そして彦五郎の急死が同一日であったことが何やら妙にひっかかる。やがて盟友となった隣国の武田信虎は、嫡男晴信によって駿河に追放される。義元はいつも当事者としては顔を出さないで、自分に都合のよい状況を創り出す名人であったのであろうか。その後、武田との同盟で敵対した北条とは、河東地域で二度にわたって激突した。そして二度目の戦いは天文十四年(一五四九)八月に義元から動いて北条氏康軍と対峙したが、翌月になって関東管領上杉憲政が北条領へ向って大軍を発向させた。そして十月、管領の大軍は北条方の川越城を囲み、窮地に立った氏康は同月義元と和議を結び河東一帯から退去する。翌年には有名な川越夜戦があって、北条氏康は大勝利を収めるのであるが、駿河における拠点は全て失っていたのである。
 海を欲した武田信玄であったが、義元あるうちは東海の今川領を窺ったことはなかったようで、人によっては信玄が唯一怖れた男ともいわれる。確かに桶狭間に沈むまでは、無敗にしてその統治も秀逸であった。この義元は東の問題を片付けると、やがて本格的に西に向ってその本領を発揮するようになる。

 新たに今川家当主となった義元の後ろ盾によって、清康の嫡男である広忠が岡崎城主となり、松平氏は惣領に広忠を迎えて西三河に安定が戻ったかと思われたが、『岡崎市史』によれば「広忠が一五歳となった天文九(一五四〇)年より織田信秀の三河進出が激化」したとしている。

六月に入り信秀は大挙して三河に進出し、安城城を包囲した。清康の岡崎移転後の同城は親忠の子安城左馬助長家の城となっていたが、広忠は弟源次郎信康、藤井家の利長、五井家の忠次、矢田(西尾市)の康忠らを援兵に送っていた。しかし利あらず、六月にいたって安城は陥落して、長家・信康・康忠らをはじめ五〇人余が討死した。こののち天文一八年冬まで安城城は織田方の三河進攻の拠点となった。(『岡崎市史』)

 上記のように、三河西南部にあった安城城を織田信秀が手に入れたことで、西三河の安定は著しく損なわれ、広忠が再び今川義元に救援を頼んだことによって、西三河をめぐる織田・今川戦争に発展したことになっている。だがこれに異論をとなえる向きもあり、その一人である平野明夫氏は『三河松平一族』で次のように述べている。

 織田信秀による安城城攻略は、一般に天文九年のこととされている。ところが、(天文)十七年三月十一日付けで北条氏康から織田信秀へ出された書状(「古証文」)には、「三河のことは駿河今川氏に相談せず、去年(天文十六年)三河国に向けて軍を進められ、安城の要害を即時に破られたということを聞きました」という文がある。
 横山住雄氏は、「去年」を文字通り解釈すると天文十六年ながら、「去る年」と見れば過去のことで、先年というような意味であるから天文九年でも良いことになるとし、信秀も外交上の駆け引きで、去年という表現をあえて用いたかもしれないとする(『織田信長の系譜-信秀の生涯を追って-』<教育出版文化協会、平成五年>)。しかし、文字通り解釈するのが、最も素直なことはいうまでもない。したがって、この書状を信頼するかぎり、織田信秀による安城城攻略は、天文十六年のことになる。


 ここで争点となっているのが、安城城が織田信秀によって陥落させられたのが天文九年か、それとも天文十六年かということで、その差に七年の開きがある。この七年の差と書状の伝える内容の意味は非常に大きく、「去る年と見れば過去のことで、先年というような意味であるから天文九年でも良いことになる」とする横山住雄氏(当会会員でもある)をして、「この書状によれば、信秀は今川義元と合意の上で天文十六年に安祥を攻略し、西三河を占領支配したことになり、三河の中世史に問題を提起することになるだろう」(『織田信長の系譜』)と言わしめている。
 安城城攻略にあたって、横山氏と平野氏で、信秀と義元が「合意の上で」あったのか、「今川氏に相談せず」であったのかの理解に違いがあるが、原文は「駿州ヘ無相談」であるので、「今川氏に相談せず」が妥当であろう。しかしながら、信秀と義元が三河について相談する間柄であったとするならば、「三河の中世史に問題を提起することになるだろう」と言う横山氏の指摘は頷けるものとなる。
 天文九年になって織田信秀が安城城を攻めた理由について、『岡崎市史』は特に説明してはおらず、同様に天文九年とする『新修名古屋市史』も、「天文七年ごろの那古屋城攻略に引き続き西三河にまで勢力を拡大したことは、彼の勢威を大きく高めた」と述べるにとどまる。戦国大名は隙あらば他国に侵略して領地を拡大するものだという前提であれば、なぜ安城城を攻め落としたかなど気にもならないのであろうが、リゾーム型権力モデルではそうもいかない。このモデルでは前回示したように、「戦国大名に私戦なし」なのであり、織田信秀は何か公の理由があって西三河に兵を入れたはずなのである。
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 北条氏康の織田信秀に宛てた書状からすれば、素直に考えて安城城陥落は天文十六年である。横山氏は「去る年」とする解釈が可能だとするが、天文十七年に出された書状に七年も前の信秀の手柄をことさら書く必要などあったのだろうか。それに天文十年に水野氏の惣領である忠政の娘於大が松平広忠に嫁いでいるが、天文九年に信秀による安城城攻略があったとするならば、忠政はそのような時期に信秀と敵対する相手との関係を強化したことになる。そしてその忠政の死が契機となったと言われるが、水野氏は天文十二年か十三年に信秀との同盟に踏み切り、於大は広忠から離縁されている。こうしてみると水野氏は、西三河で信秀が優勢になってから劣勢に立たされた広忠と婚姻関係を結び、その二年後には方針を百八十度転換して信秀と同盟を結んだことになる。このような経緯の理解は、水野氏の外交政策に一貫性がなく支離滅裂な印象を与えるが、それというのも天文九年に安城城が攻略されたことを前提にしたからなのである。それと反対に、天文十六年になってから信秀による安城城攻略があったとするならば、こうした経緯の解釈はどのように変わるであろうか。
(2/2へ続く)

by mizuno_clan | 2009-02-01 22:25 | ☆談義(自由討論)