<論評>『三河武士は忠義に薄く』についての考察 »»Web会員««
「【談議1】水野氏と戦国談議(第八回)三河武士は忠義に薄く」についての考察
論評:巴々佐奈
1.タイトルについて
さて全体を表すタイトルとしての『三河武士は忠義に薄く』というタイトルはいわゆる一般にもたれている印象に対してあえて逆の事を仰せなのだと解しました。私も色々な本を読ませていただいて想像を膨らませるに、三河武士という存在は大久保彦左衛門が言うとおりの愚直に主君に対する義を貫く人々とは少し違うという印象を持っております。ただ、県民性としての律儀さを考えるに、決して忠義に薄いわけではなく、忠義が松平家だけに向いていなかっただけなのではないかと考えております。それは江畑様の論を通しての重要なキーワード、リゾーム型権力構造で読み解けるものではないでしょうか。すなわち、彼らは単に松平氏にのみ従っていたわけではなく、他にも忠義を向ける対象をもっていたということです。それは本願寺教団であるかもしれませんし、伊勢湾、三河湾にまたがる通商圏の利害であるかもしれません。そもそも通商圏の利害というものは、歴史資料に残りにくいものですよね。 その理由の一端は地図にあるのではないか、そんな風に思っております。
2.境川の地形について
小河と刈谷が境川の両岸にある城で、境川は現在より川幅が遙かに広かったこと。これは、水野氏が水運を含む流通を押さえていたことを意味すると思います。このことは、現在の地図、地形を眺めているだけではわからないことです。
衣浦対岸の大浜のある、油ヶ淵も昔は湖沼ではなく、入江だったそうです。江戸期に矢作川の流路がかわり、入江の入り口が塞がって沼になりました。信長が初陣に大浜を襲いましたが、このような地形にあるということは、すなわち水運を握る同盟者である水野氏の支援によるものとして想像できるでしょう。
織田信秀が収入源とした津島も木曽三川の合流する河口に開けた港町でした。対岸には桑名があり、その間に長島や荷之上などの輪中群が犇めいていました。その他、大高も田原も吉田も湾に面した臨海の湊に開けた街なのですね。土砂の堆積や干拓が進んでしまった今とは随分と様相を異にしています。
これらの地勢が頭にはいっていないと、伊勢湾、三河湾にまたがる通商圏というものはなかなかイメージしにくいのではないかと思います。桶狭間合戦関連の書籍を読んでも、文章はともかく、地図は鳴海、大高近辺はきちんと海岸線が示されてますが、津島や荷之上、刈谷あたりの地形は現代のそれと変わらないような図が描かれております。
誰かクリエイティブ・コモンズで当時の海岸線地図を作ってくれないものかと、いつも思っている次第です。
3.永正の三河乱の原因について
私の戦国前期の西三河史の理解はその大半を平野明夫氏著『三河松平一族』に依るものであり、江畑様のご説明の趣旨に概ね異存はありません。
ただ、平野明夫氏著『三河松平一族』の中でも納得できない部分はいくつかあります。その一つが江畑様が引用される永正の三河乱の原因に関する平野氏の見解です。
>このとき幕府内は足利義澄・細川政元派と足利義材(よしき)派が抗争を繰り返しており、氏親はこの義材派となって三河守護の細川成之に協力していた松平氏を攻撃目標としたのである。
ます第一に、細川成之は応仁・文明乱以後、三河守護として動いた形跡はみられなかったと思います。第二に、松平家の主家は細川家ではなく、伊勢家で永正井田野合戦が行われた永正五年の段階で、時の伊勢家当主である伊勢貞宗は足利義材派に転じております。第三に、これが一番ひっかかるのですが、松平家が義澄派の場合、永正八年から十二年までに起こる大河内貞綱と斯波義達の遠江侵攻が説明しにくいのですね。尾張の斯波義達が遠江に出ようとすれば、三河国を通過しなければならない。そのためには吉良家の協力が必須です。大河内貞綱は斯波家と同時に吉良家の被官でした。その吉良の当主義信・義堯は足利義材の近臣だったのですね。松平家は大河内一族と姻戚関係を結んでいますので、大河内&斯波の遠江侵攻には支援者の立場にあったと思われます。すると、松平家が親義澄派であった目は消えるのです。このあたりは考察も生煮えで上手く解釈出来ないのですが、大河内氏が吉良氏の被官であり、吉良氏が足利義材に近しい関係であること。今川氏がこの後戦国大名化していることを考えると、一筋縄で解釈しきれない部分があると思います。
4.安城城陥落天文九年説の否定について
私も、平野明夫氏が提唱する安城城陥落天文十六年説は支持いたします。私が支持する理由は平野氏が『三河松平一族』で示された理由の他に、宗牧が記した『東国紀行』の天文十三年十一月あたりの記事に、岡崎に到着した宗牧は阿部大蔵にあえなかった、その理由が阿部大蔵が『おはりおもて』に出陣中だったことにあります。この時点で安城城が陥落していれば、岡崎から尾張方面へ出陣するにしても、西方向に進めば安城城で捕捉されると思います。また、天文九年説においては、上野城に酒井将監、桜井松平家次がこもっており、北にもすすめません。南に進んで知多郡に入るなら、成岩から大浜経由で岡崎に向かって北上する宗牧と遭遇しているはず。よって、阿部大蔵は尾張国に到達できるはずがないのですね。
但し、安城城陥落天文十六年説は定説として扱うには若干の抵抗があります。天文九年説に依拠した史料があまりにも多い。その多くが史料価値の落ちる家譜史料であり、話の出所は甫庵本『信長記』であると一蹴することもできなくはないのですが、十六年説にはもう少し補強材料が欲しい所です。
特に、本多忠豊の伝については個人的に注目してます。彼は天文九年説を前提に落城後の奪還戦の殿軍を努めて戦死したことになっています。世に言う清畷合戦です。これは寛政重修諸家譜にある話ですが、先行する官製系図資料である寛永諸家系図伝には載っていない話です。故に、清畷合戦は後世の付会のようにもみえるのですが、寛永諸家系図伝には本多忠豊について天文十四年の安祥縄手での戦死の記載そのものはあるのです。天文十四年に安城近くで合戦があったのは事実かもしれません。今後の課題としたいテーマです。
5.今川義元と織田信秀の関係について
当該の手紙の存在は存じており、横山氏や江畑様の解釈はとても面白いと思いました。しかし、これについては、疑問を呈したいと思います。第一に、信秀と義元の身分差と勢力の大きさの違いです。義元は足利家庶流の貴種であり、駿遠二カ国の太守で、三河国も手に入れようとしています。しかるに、信秀は尾張国下四郡守護代の奉行衆の一人です。確かに彼一代で大勢力を築きましたが、尾張国には守護の斯波義統がおり、織田伊勢守、大和守の両守護代がいて、因幡守家の信友が彼をライバル視しております。また、西尾張の沿岸には、荷之上の服部氏が伊勢長島の本願寺勢力をバックに織田家に服さぬ形勢でした。一国の代表ですらない信秀が、三河一国の仕置きを今川義元と話し合う土壌はたしてあるのでしょうか。第二にこの文書はあくまでも信秀が義元に相談なく安城を落としたことを言っているにすぎません。前年に今川義元は吉田(今橋)を攻めていますが、その戦いに松平広忠は今川方として参陣しています。ここに広忠が義元に奉公する関係が生じております。奉公の対価は御恩、即ち本領の安堵であり、義元は広忠の領地を守る義務を追うことになります。
そこに攻め込んできたのが信秀です。義元にしてみれば、味方の土地に勝手に攻め込まれた訳で、北条氏康も三河は今川家の保護下にあったと認識していたものと考えるのが妥当でしょう。織田家と松平家の仲が悪いとしても、安城を攻めるに当たっては義元に仁義を切るのが筋目だったと、北条氏康が考えていたと読む方が素直ではないかと私は思います。
6.松平信孝放逐の影響について
三河国に関する今川義元と織田信秀、そして水野信元を加えた相談関係は、上記書状の読み方が前提になっておりますので、そこの読み方が変われば考察の結果も変わってくるだろうと思います。
信孝放逐の年に水野忠政は死に、後継の水野信元が水野家の方針を転換しましたが、その時点ではそれぞれが逆の方面のベクトルを向いております。
即ち、織田信秀は美濃の斎藤道三・守護代織田信友との戦い、今川義元は北条氏康との戦い、そして水野信元は知多半島の南下を始めます。これらの武将達が松平広忠の動向を巡って対峙可能になるのは、それぞれの戦いが落ち着く早くとも天文十四年以降のことではないかと思います。その間信孝はかつての広忠と同じく浪人して復帰運動をしていたと思われます。但し、その受け皿が今川家にあったと考えるにはもう少し根拠が欲しい所です。
松平氏の崩壊過程が信孝追放をきっかけとのご指摘は興味深いものがありますが、私はこの争論に道閲が介在せず、今川義元が介在しているところに着目しております。松平広忠が岡崎復帰をした折には、桜井松平信定は道閲の仲介で赦されております。広忠の岡崎復帰に今川家の力が大きいとするならば、信定の処遇を巡って今川家の評定があってしかるべきですが、ここでは義元は介入しておりません。道閲は信孝追放の翌年に亡くなっています。信孝と岡崎家臣団との諍いにおいては、道閲は仲裁できないほど衰えていた。今川義元は松平家の内情もわからぬまま、裁定を委ねられ、最終的に『広忠の意』のある方を支持した。それが最終的に佐々木松平忠倫や桜井松平清定・家次の離反を招いてしまった。以上のことを考えると、松平氏の崩壊は道閲の死が大きかったのではないか、と考えております。
以上、色々勝手なことを書き連ねてしまいました。私自身は歴史解釈は多様であってかまわないと思っております。立場によってものの見方が異なるのは当然のことですから。ただ、異なる解釈を比べる場合基準となるのは正しい・間違っているではなく、妥当性の高さという相対評価なのだろうと思います。私のような素人が本稿のような内容を書くべきかどうかは迷ったのですが、御気に触られたなら、速攻削除させていただきます。本稿が自由討論の議論を盛り上げる一助となれば、これに勝る幸いはありません。
by mizuno_clan | 2009-02-08 03:30 | ☆談義(自由討論)