【談議1】水野氏と戦国談議(第九回1/2)

竿と錘の戦国力学
                                                 談議:江畑英郷
 永禄三年五月十九日に尾張桶狭間で、その後の戦国史に大きな影響を与えることになった今川義元と織田信長の戦いがあったが、その前哨戦として三河小豆坂や三河安城城で、信長の父信秀と義元が激突をしていた。この織田信秀と今川義元の西三河における戦いは、両者の西三河への領土拡張指向が根底にあることがこれまで暗黙の前提とされていたが、そうした前提に立つと天文十七年に北条氏康から織田信秀に出された書状にあった「三河のことは駿河今川氏に相談せず」の一文が理解不能となる。この文面からすると北条氏康は、織田信秀と今川義元が三河の政治的・軍事的な事柄について協調し、相談をしながら事をすすめるような間柄であると認識していたことになる。三河の東西で勢力を拡張する織田と今川がその領土拡張指向ではなく、西三河の秩序回復に共同で尽力しようとしていたのだとするならば、横山住雄氏が「三河の中世史に問題を提起することになるだろう」と言ったように、これまでの前提・理解は修正されなければならないことになる。

 前回「三河武士は忠義に薄く」では、以上のような趣旨で考えを述べたが、その後当会員となられた巴々佐奈氏から貴重なご意見をいただいた。その意見は、巴々佐奈氏の「川の戦国史」-『三河武士は忠義に薄く』についての考察-に述べられている。(1) せっかくのご意見であるので、氏の疑義にいくらかお答えしたいと思う。

(1)その後、当ブログにも転載された。

1.『三河武士は忠義に薄く』という題目であるが、「県民性としての律儀さを考えるに、決して忠義に薄いわけではなく、忠義が松平家だけに向いていなかっただけなのではないか」とのご意見である。このタイトルもしかしてと思っていたが、三河という郷里を愛する方々に不快な思いをさせてしまったかも知れない。私が思うところは、決して三河武士だけを忠義に薄いとしたわけではなく、三河武士が格別に忠義者であるというイメージに異を唱えたものである。さらに言えば、戦国の世に忠義がそれほど重いと考えていた武士は少なく、三河武士もその例にもれなかったが、清康・広忠の二代に渡る悲劇とその結果としての苦渋の十年(今川支配)を経て、君臣一体の実を知り忠義に目覚めたのでないかと推量しているものである。

2.今川義元と伊勢宗瑞が永正五年(一五〇八)に西三河に攻め込んできた背景について異論を述べられているが、これについて私は巴々佐奈氏ほどの知識や見解は持ち合わせてはいない。平野明夫氏の『三河松平一族』に記載されていたことを引用させてもらったが、この戦いの背景を述べることが前回の趣旨ではないため、平野氏の見解を深く追求してもいない。ただ、リゾーム型の権力構造という観点からすると、権力が低下して内部抗争に明け暮れている中央政局に連動している段階というのは、守護大名の域を抜け出ていないようにも思われる。またそうした中央政局の趨勢に関連付けて地方の動向を解釈しようとする傾向が多いように思われるが、そうしたことが在地のリゾームを考察から追い出して、あたかも背景説明が完結したかのような向きを示すのは問題ではないかと思う。

3.北条氏康から織田信秀に出された書状にあった「三河のことは駿河今川氏に相談せず」については、「三河は今川家の保護下にあった」のだから、「安城を攻めるに当たっては義元に仁義を切るのが筋目だった」との意味で理解すべきとのご意見である。「仁義を切る」とは具体的にどういうことかわからないが、これから松平を攻めますぞと知らせるべきだったということだろうか。しかしそれで「筋目」が立つのであろうか。また「広忠が義元に奉公する関係が生じて」いたということであるが、そうであれば通告するしないではなく、三河を攻めること自体が敵対行為である。それで「相談せず」という表現になるとは、やはり思えないのである。
 北条氏康は、小豆坂で激突する前の織田信秀と今川義元の間に、「三河のことは駿河今川氏に相談せず」という間柄があると思っていた。しかしこう述べると、違和感を覚える方々も少なからずいるだろう。信秀と義元は小豆坂で激しく戦い、安城城をめぐって攻防した間柄であり、そして何よりも戦国大名なのである。その戦国大名が三河を攻めるでもなく、力で迫って傘下に組み敷くわけでもなく、内部抗争で混乱するこの地に秩序と安定を取り戻すために協力するなど、まったく「らしくない」と言えばそうなのかも知れない。だが、氏康は確かに「駿州ヘ無相談」と述べている。この事実を史実として受け入れるためには、権力とは何か、権力とはいかなる構造を持ちどのように働くのかを踏まえて、戦国大名権力のあり方を考える必要があるだろう。このことを今回のテーマとしたことで、「竿と錘の戦国力学」という題目がついたが、これについては本文の後段で詳しく述べる。

4.巴々佐奈氏は「信秀と義元の身分差と勢力の大きさの違い」を理由として、「三河一国の仕置きを今川義元と話し合う土壌はたしてある」かと問うている。『新修名古屋市史』は、織田信秀について「他の戦国大名に劣らぬ大名としての在り方をうかがわせる」(P608)と述べているが、義元と比べれば格が落ちるのは否めないところである。前回では私自身、義元を「桶狭間に沈むまでは、無敗にしてその統治も秀逸であった」と述べたのだから、両者の力が対等であったと述べるつもりはない。しかし、信秀が小豆坂で今川軍と互角に戦ったことも事実であり、美濃方面での戦いも考え合わせれば、義元が外交上の相手とするには不足であるとも言えないように思う。そしてより重要なのは、両者の相談が「三河一国の仕置き」であったかという点である。ことの発端が岡崎老衆による信孝排斥であると考える私は、西三河、それも松平氏内部の抗争にどう対処するかで、織田・今川双方が相談する間柄であったと述べている。西三河松平領は名古屋まで進出した信秀にとって隣接地帯であり、そこでの紛争に無関心ではいられないのはもちろんであるが、そこに兵を入れるまでの介入をしなければならなかった事情があった。織田・今川の「相談」と、その後に起こった軍事介入、ここには何らかのメカニズムが働いていたのであり、それをリゾームで解こうとするのが今回の予定であったが、上記3で示したようにその予定を変更して「竿と錘の戦国力学」について述べていきたいと思う。西三河の内部抗争と織田・今川の介入がなぜ起こったのかは、この第九回と第十回で明らかにしてきたいと思う。

5.松平氏が内部分裂するに至った理由として天文十二年(一五四七)の松平信孝排斥をあげたが、同氏は「松平氏の崩壊は道閲の死が大きかったのではないか」と述べている。その根拠としては、「織田信秀は美濃の斎藤道三・守護代織田信友との戦い、今川義元は北条氏康との戦い、そして水野信元は知多半島の南下を始めます。これらの武将達が松平広忠の動向を巡って対峙可能になるのは、それぞれの戦いが落ち着く早くとも天文十四年以降のこと」だとしている。これには見解の相違はなく、信孝への本格的な支援が排斥と同時に始まったとはもとより考えてはいない。一方、松平氏の内部抗争に関しては、道閲(松平長忠、広忠の曽祖父)の死去が発端となったという見解については、そうであったかも知れないと思う。ただ私としては、発端そのものが何であったにせよ、この時期に松平氏が内部抗争を起こし自滅するかのような状況に突き進んだことに注目しているのである。この動きは、信孝の排斥や道閲の死といったことよりも、もっと根本的な事情に基づいていると思うのである。その事情とは何であったかは、この後で説明することにする。

 ご理解いただいているとは思うが、第一回から第七回までリゾームをキーワードにして戦国期の権力モデルを考えてきた。またそのモデル考察の推進材として、戦国大名がなぜ戦い続けたのかを問い続けている。したがって第八回になって突然、それとは無関係に天文年間の三河の争乱について語りだしたわけではない。群雄割拠型の権力モデルであると、割拠する群雄は領土拡張をめざしているので、三河のような国人級の領主しかいない地域は織田や今川の草刈場となるのは当然のことであるという前提に立つ。実際に『岡崎市史』や『刈谷市史』、そして『新修名古屋市史』も第一次小豆坂合戦を認め、それに先立つ信秀の安城城攻略を記しながら、なぜ織田は三河を攻めたかについてには言及がないのである。
 前回「三河武士は忠義に薄く」で、松平信孝の排斥→信孝を支援しての織田の三河侵攻→安城城攻略→竹千代強奪事件→小豆坂合戦→今川による安城城の奪還として史実を組み立ててみた。そうすると、松平信孝の排斥を起点として織田の三河侵攻、そして竹千代強奪事件を契機にして今川との激突というストーリーが描けるのである。このストーリーのポイントは、織田も今川も持ち込まれた戦いを戦っていたという点にある。すなわち自己の内部に本質的に組み込まれていたかのような領土拡張の本能ではなく、故あって他人の紛争に介入することになった公権力として、天文年間後半に西三河で起こった織田と今川の激突を規定できるのである。したがって、第七回で提示した「戦国大名に私戦なし」の原則を具体的に適用した事例として、第八回を位置づけようとしたというのが私の意図である。そして、故あって他人の紛争に介入するという、その「故」を明らかにしようとするのが今後のテーマである。

 前回、天文年間後半に西三河が紛争地となった契機は、天文十二年に起こった岡崎老衆らによる松平信孝の排斥にあるとした。そしてこの信孝排斥は、「松平氏の権力構造が、一族の一揆を中心とする権力から、惣領家の家とそれを支える家臣によって動かされる権力へと移行」(『三河松平一族』)するという権力構造の転換を背景に起こったとされていた。
 松平氏は三代信光のときに、額田郡に広く一族を配するようになった。平野明夫氏は『三河松平一族』で「惣領(岩津)の親長・大給の乗元・長沢の親則・安城の親忠・岡崎の光重・五井の正則・岩津の家勝・竹谷の守家・形原の与副、以上の九人が信光の子であったといえる」と述べている。このように、信光の代に松平庶家が額田郡一帯に広く分布するようになったのである。この信光が没したのが長享二年(一四八八)、それから広忠までは、親忠・長忠・信忠・清康と四代を経ている。この時点での松平一族の結束はどれほどであったのか定かではないが、長忠の子の信定が桜井を拠点とし、信忠の子の信孝が三木を領しているなど、安城系の一族が一門として力をもっていたようである。
 『一揆と戦国大名』の中で久留島氏は、毛利氏において「惣領家を中心に一族庶子家が盟約を結ぶ一揆的結合段階から、毛利氏の家を中心とする新たな組織“家中”の形成へという構造変化がみられる」と述べている。毛利氏も松平氏と同様に、一族一揆からの「構造変化」というプロセスを経たわけであるが、その変化の先は「家中」と呼ばれるものであった。

 「家中」とは、一族の庶子家、惣領家の被官、さらには本拠地周辺の小在地領主らまでを含む領主層が、毛利氏家臣団として、主君たる元就の上意を仰ぐ形で結合する組織と考えられている。この「家中」が戦国期から近世初頭の時期にさらに拡大し、毛利氏から独立した存在であった他の領主たちも含み込んで、やがて近世大名の「家中」になるとされる。その過程で、主君の一元的支配権の強化とともに、一揆的結合としての性格は弱まっているが、変化しながらも、基本的に主君-家臣団という縦の関係と、家臣団相互の横の関係を併せ持つ点が特徴といえよう。(久留島典子著『一揆と戦国大名』)

 平野氏は松平氏の「権力構造の転換」を、「惣領家の家とそれを支える家臣によって動かされる権力」への移行といったが、これは久留島氏がいう「家中」と同じものと思われる。戦国期には社会のあらゆる階層で一揆が結ばれたが、領主階級でのそれは国人一揆と呼ばれた。一族一揆も惣領家から庶子が分出して庶家を立て、それが惣領家を中心に一揆結合するのであるから、実態は国人一揆と変わらないものだといえる。国人一揆と一族一揆は、一揆の構成メンバーが一族か一族以外であるかの違いに過ぎない。そして松平氏・毛利氏ともに、一揆結合を解消して家中へと転換する共通のベクトルを持っていたのである。
 久留島氏は、領主権力の構造が一揆結合から家中へと転換し、さらに家中が拡大して「やがて近世大名の“家中”になる」と述べている。また、「統合の過程が、領主たちにとっては“家中”から“国家”へという軌跡をたどった」とも言うのである。ここで言われている「国家」は、日本国という国家を意味するものではなく、「それは大名がつくりだした国家」であり、「大名の家と国が合体した概念」(勝俣鎮夫著『戦国時代論』)であるという。まさに家中が拡大することで「国家」を標榜し、それに責任を持つことによって戦国大名が確立するということである。
 そうなると岡崎老衆による松平排斥事件は、一族一揆から家中へと転進して、やがて戦国大名へとつながる大事な第一歩であったわけである。今川義元の説得にも耳を貸さなかったのは、果たして岡崎老衆がこのことを明確に認識していたことによるのか、それとも信孝の増長が疎ましかっただけなのかはわからない。しかしこの際、そうしたビジョンを岡崎の老衆が抱いていたかどうかは問題ではない。松平氏は天文十二年の時点で、そうした転換に迫られるまでにその権力が成長していたのである。
 ところで『岡崎市史』は、信孝排斥後に残された信孝の同心被官に誘降を働きかけ、そこで「恩賞給付まで老衆が行なっている当時の松平家の状況がうかがえよう」と述べている。ここに示されたのは、松平家は家中へと権力構造を転換させようとしているのに、恩賞給付という上位権力の役割を君主である広忠が行使できていないことをもって、広忠の権力が脆弱であったことを指摘しているのである。これは毛利氏において、「主君の一元的支配権の強化」と述べられたことと対照的なことのように思えるが、次の「中央の儀」に関する説明を読めば、松平氏に限ったことではないことがわかる。

 家政機関の決定を家の意思決定とする家の構造の背後には、家を構成するよりひろいメンバーの協議にもとづく意思を家の意思とするという社会観念が定着していた。十五世紀にあらわれる「中央の儀」という言葉は、将軍―大名、大名―家臣のいずれの場においても、決定権者である主人が除外された場における家臣たちの決定がトップの意思として外部に表明されることを意味する語であった。そしてそのことは、決してたんなる無法や越権ではなく、なんらかの合法性をもつ新しいルールとして成立したものであった。家を構成する家臣たちの意思こそ主人の意思であり、家の意思であるという観念が定着したのである。家は、家という形態をとりながら、その構成員である非血縁者を多く含む家臣の公共の場、家臣の共有物としての性格を強くもちつつあった。(『戦国時代論』)

 ここで「中央の儀」が、「決定権者である主人が除外された場における家臣たちの決定がトップの意思として外部に表明される」家中運営のあり方であると述べられているが、信孝排斥後の広忠と老衆の関係はまさしくこの状態であったのだろう。「中央の儀」という家中における意思決定のあり方からすれば、「主君の一元的支配権の強化」が主君単独の権限強化を意味するものではなく、主従の縦関係を一本化することを示しているのであろう。そしてこの一本化された権力は、「家臣の共有物」として家中全体の公共性を原則として行使されるのである。
 「家臣たちの決定がトップの意思として外部に表明される」としたならば、一見トップの権限が強いように見える場合でも、実は「中央の儀」のメカニズムで組織が動いているということも大いにありそうである。元就を君主とする毛利氏については、「中央の儀」を免れていたようにも思えるが、次の事例を考えるとそう単純でもなさそうである。

 毛利元就は天文十九年(一五五〇)に、有力家臣の井上元兼ら三十余名を誅伐した。これによって、久留島氏は「毛利氏“家中”も“上意”の完全な優位が確立したのである」と述べているが、この「上意」においても、「井上氏罪状書」を元就側が作成して家臣にそれを示すという手順を必要とした。

 井上氏誅罰直後、毛利氏家臣二百三十八名は連署起請文を提出したが、それには上意の「成敗」「下知」「裁判」に従う旨が種々の項目について誓約されている。前述した井上氏罪状書の内容はすでに家中に告知されているはずだから、この家臣連署起請文は、元就の合意要請に対する、一種の請文と解釈できよう。これによって元就は井上氏誅罰の合意取り付けに成功し、より広範な支配の正当性をも確認しえたのである。(久留島典子著『一揆と戦国大名』)

 元就による井上元兼らの誅伐は、これを契機に元就の君主権を強化させた一件として受けとめられるが、その過程では「誅罰の合意」が必要とされた。つまり家中ナンバーツーの井上氏を排除して、残った自身の突出した力を背景に家臣への支配を強化したというものではない。井上氏は「毛利氏家臣団の内部にいわば別の一揆を形作っていた」とされるが、これは家中の横関係が多元化し、さらに井上氏の一揆が元就を圧迫することで縦関係も歪んでしまう事態に至っていたということではないだろうか。つまり「家中」という権力構造があるべき姿から逸脱したために、これの軌道修正をはかったというのが井上氏誅罰事件の真相ではないかと思うのである。そして、上意の「成敗」「下知」「裁判」に従うことに家臣が誓約したというが、これは元就の恣意的な裁定を許容するということではなく、家中が共有するルールに従うことをあらためて確認したということだろう。

 こうしてみると、一族一揆から家中への権力構造の転換は、惣領や一門に比重があった権力を、整理された縦関係を通してより広い裾野である被官へまで拡大させたものだと言えそうである。そうした転換点を松平氏は迎えていたわけであるが、それが一門の信孝排斥として現れ、松平氏を二分する激しい内部抗争に発展していった。そして東西に隣接する織田と今川をこの紛争に巻き込んで、結局は転換を果たしえずして今川の傘下に組み入れられてしまった。
 ここで二つの疑問が沸いてくる。一つは、権力構造の転換がスムースに進むことは難しく、松平氏はそれに失敗した。それにもかかわらず、なぜ家中へと権力構造を転換させねばならないのだろうか。そこには何か必然性があるのだろうか。そして今一つは、西三河の紛争になぜ織田信秀と今川義元は関与し、そして兵を送り込んで戦うことまでしたのであろうか。先ほど故あって他人の紛争に介入すると言った、その「故」とは何かということである。この二つの疑問に答えを求めていきたいと思うが、今回のところは権力構造の転換がなぜ必要であったかについて考え、信秀や義元がなぜ西三河の紛争に介入したかは次回のテーマとしたい。

2/2へ続く
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by mizuno_clan | 2009-02-11 17:46 | ☆談義(自由討論)