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【談議1】水野氏と戦国談議(第十回1/2)

当知行・当事案(1)
――「現在の領地」と「現在の問題となっている事柄」―― 
                                                          談議:江畑英郷
 前回「竿と錘の戦国力学」では、二つの疑問を提示した。一つは、松平氏の一族一揆から家中への構造転換に必然性はあったのかというものであった。これに答えを得るためにヴェーバーや安能氏の語るところの権力の定義に目を向け、そこから竿に吊り下がった貫徹せんとする意志どおしの均衡をとるために錘を動かす秤を権力に見立てて、松平氏の権力構造の転換を考えてみた。ここで松平氏の被官たちは、台頭する村権力に対峙するためにより強固に結束する必要に迫られていた。しかし一族一揆に基づく権力では主従関係が一門で分有されており、一門間の対立で問題対処が常に立ち往生しかねない。そこに縦関係を一本化し、主君を中心点として家臣間の均衡を維持する家中への転換が必然的な要求となるのであった。
 そしてもう一つの疑問は、天文十二年の松平信孝排斥に端を発して勃発した松平家の内部抗争に、西の織田信秀と東の今川義元がそろって介入したのはなぜであったのかというものであった。しかもその介入は、結局織田と今川の大規模な軍事衝突を引き起こすこととなり、両者にとってこの西三河の動乱がのっぴきならないものであったことを示している。領域内の権力という秤の平衡作業に専念している戦国大名が、どうしたわけで隣国の紛争に軍事介入までするのであろうか。そのメカニズムを解き明かすのが今回のテーマである。

 『新修名古屋市史』は、小豆坂合戦を扱った箇所で太田牛一が著した『信長公記』の記述に触れて、「織田信秀の軍勢構成を考える上では貴重な資料といえる」として、次のように述べている。

 下方左近、佐々隼人正、孫介兄弟、中野又兵衛、山口左馬助は、尾張東部出身の武士で、天文七年の那古野城攻略後に信秀に付属した者と考えられる。東隣三河進攻には、尾張東部在住の武士が主力とならざるを得ないのであるが、信秀が彼らを三河進攻に動員可能としたことは、やはり注目される。

 さらに同書は、天文十三年に起こった信秀の美濃侵攻に触れて、これと同様の感想を述べている。

 信秀は守護斯波義統の支持を受け、かつての同輩であった織田因幡守や、岩倉方織田伊勢守の一族も指揮下に入れて、美濃に進攻したのであった。西三河小豆坂の戦い参加者と比較すると、岩倉方織田伊勢守の一族をはじめ、中島郡に所領を持っていた青山与三右衛門尉、同じく中島郡居住の武士と思われる毛利氏一族など、美濃に近い尾張北西部の関係者が多いのに注目される。

 『新修名古屋市史』は、上記二つの引用どちらも「注目される」と述べているが、どう注目しているのかは書かれていないので定かではない。しかし東と西での軍事進攻に、居住地が近い武士たちが中心となって動員されたというだけであったならば、「注目される」と繰り返すほどの内容ではないと思われる。どうして『新修名古屋市史』が、注目されると二度も言っておきながらその内容を語らないのかは分からないが、ここに潜んでいる注目点をここで探り出してみよう。

 織田信秀について『信長公記』は、「備後殿は国中憑(たの)み勢をなされ、一ヶ月は美濃国へ御働き、又翌月は三川(三河)の国へ御出勢」とその精力的な働きぶりを描いている。しかし「国中憑(たの)み勢」での軍事侵攻であったわけで、信秀の対外侵攻は「守護斯波氏や守護代織田達勝の支援に支えられたものであった」(『新修名古屋市史』)のである。つまり信秀は尾張随一の実力者ではあっても、旧権力である守護や守護代との協調関係を維持しなくては立ち行かない存在であったということである。その信秀が東の三河と西の美濃へと積極的に進攻したのであるが、『信長公記』の言うところにしたがえば、それも同時二正面作戦であったことになる。横山住雄氏の『織田信長の系譜』などをみれば、必ずしも同時に三河と美濃への進攻を企てていたわけでもないが、国人一揆の盟主的存在であった織田信秀が東西でこのように攻勢に出ていたのには、何か切迫した事情があったに違いないと思うのである。
 この点に関して、横山住雄氏は『織田信長の系譜』で次のように述べている。

 信秀は、国内においてはあくまでも斯波氏三奉行の一員としての家格を遵守して行動しなければならず、かつまた国人層(同僚たち)の所領を奪って自領の拡張をするわけにはいかない。信秀にはそうした制約があるから、自領の拡張は斯波・織田の支配圏以外の敵性的な土豪の所領を奪取するか、あるいは他国へ進出する他にないと考えたのである。

 ここで信秀が「三奉行の一員としての家格を遵守」しなければならなかったのは、信秀の権力・勢力が守護や守護代を駆逐するほどは大きくなかったからである。しかしそれにもかかわらず、その信秀に他国へ軍事侵攻する道が開けていたというのは、果たしていかがなものであろうか。信秀は単独では国外に兵を出せず、「国中憑(たの)み勢」をしなければならなかったが、その信秀の「自領の拡張」のために守護や守護代、そして尾張の国人領主が手助けをしたとは到底考えられない。「国中憑(たの)み勢」というのは、信秀個人の事情でなされたのではなく、頼まれた守護や守護代、そして国人領主たちにも深い関係があってのことであり、そうであるからこそ信秀の頼みに応じたと考えるべきであろう。果たしてそうであるならば、尾張の領主たちがこぞって関心を持ち、催促があれば兵を出すまで切迫した事情とはなんであったのだろうか。
 織田信秀と守護の斯波氏、そして守護代の織田大和守とは、常に協調し合っていたわけではない。守護代の織田達勝と織田信秀は天文二年に争ったことがあるが、その後再び両者は戦火を交えることとなった。

 守護斯波氏や守護代織田達勝の支援を得て国外での戦いを進めていた信秀にとって、守護代家との戦いは大きな打撃であったと考えられる。この戦いが天文十六、十七年にかけてのものとすれば、先に紹介した天文十七年三月の小豆坂の戦い(第二次小豆坂の戦い)は、その最中の出来事となり、信秀は独力で今川勢を引き受けねばならなかったと思われる。『信長公記』首巻における小豆坂の戦いの記事が、新説の提起するように天文十七年の戦いを述べたものとすれば、小豆坂の戦いの参加者の名を挙げる中で、戦死した那古野弥五郎一人が「清洲衆」とあるのは、大部分の清洲衆が、信秀とは敵対中であったためとも推測される。
(『新修名古屋市史』)

 第八回で小豆坂合戦は天文十七年の一回だけであったとしたが、その合戦と同時期に信秀と守護代が戦っていたというのは、「国中憑(たの)み勢」とは異なった状況を示している。同書は「信秀は独力で」としているが、先に尾張東部在住の武士を主力として信秀が彼らを三河進攻に動員していた。彼ら尾張東部の武士たちは、信秀が守護や守護代の権威を背景に「国中憑(たの)み勢」をする対象であり、信秀直属の家臣であるわけではない。そうした彼らが信秀と守護代の対立の最中、三河小豆坂合戦に出動していたことになる。また、那古野弥五郎は「清洲衆」とされているが、「大部分の清洲衆が、信秀とは敵対中であった」中で、なぜ彼は信秀とともに戦いに加わっていたのかが謎である。
 この小豆坂合戦の時期に信秀と守護代が対立していたならば、上位権力の支援を得るどころか、守護代の妨害などで満足に兵が集められなかったはずである。そうであるのに信秀は三河に兵を送り、尾張東部の武士はこの戦いに加わった。さらに守護代方であるはずの那古野弥五郎までもが、信秀に従軍していたというのをどう理解したらよいのだろうか。これに直接の答えは持ち合わせていないが、次の一文がこの謎を解く手がかりになると思うのである。これは『新修名古屋市史』が、織田信秀による安城城攻略後の西三河の動向を語ったところに記載されている。

 佐々木の松平三左衛門忠倫、桜井の松平清定(信定の子)らが、信秀に通じて、矢作川以西の大部分が織田方になったという。忠倫・清定ともに尾張国内に所領を持っており、織田方の優勢という状況の中で、その所領を保全したい思いもあってのことであろう。
(『新修名古屋市史』)

 松平忠倫(ただもと)と松平清定が信秀に味方したというのだが、その理由の一つに両者ともに尾張国内に所領を持っていたことが挙げられている。これは尾張、三河などとはいっても、所詮あまり実質のない国の線引きであり、領主たちの所領はそうした国にとらわれることなく拡大していたということなのである。
 この談議の第五回で「所領とは何か」を考えた際に、所領を四つに分類したのをご記憶であろうか。今一度述べると、

①先祖伝来、固有に維持してきた本領地。
②荘園領主と百姓の仲介の中から獲得していった加地子得分。
③戦国大名や有力国人から給された給恩地。
④加地子を中心とした買得地。

の四種類である。信秀に味方した忠倫は上和田城(岡崎市上和田町)、清定は桜井城(安城市桜井町)の城主であったが、どちらも尾張にごく近いというわけではない。忠倫の本拠地から尾張までは最短距離で十六キロメートルほど、清定の桜井からでも最短距離で十キロメートルは離れているのである。したがって、『新修名古屋市史』が言うところの「所領」は①や②ではないであろうし、③の給恩地というのも考えにくい。そうなると残るのは、④の加地子買得地ではなかったかということになる。
 買得地であったというのであれば、その所領が三河であるとか尾張であるとかは全く関係のないことで、彼らの財力と購入の機会さえあればどこであろうと取得することになるわけである。その意味では、本拠地から十キロないし十五キロというのは、とんでもなく離れているということでもないので、買得して所領としたというのは十分考えられることである。
 こうした買得による所領拡大は、城主クラスの武士によっても頻繁におこなわれていたようである。尾張岩崎(日進市岩崎町)城主である丹羽氏清は、天文十九年(一五五〇)に今川義元から安堵状を得ているが、そこには「前々売地等の事、今度一変の上は、只今その沙汰に及ばず、これを所務せしむべし」と書かれている。ここで安堵の対象となっているのは、沓掛・大高根・部田村、そして横根・大脇の地である。丹羽氏の本拠である岩崎から大脇(豊明市栄町)そして横根(大府市横根町)までは十五キロメートルほどの距離である。丹羽氏はこの安堵状を得るために、今川方のために福谷(うきがい)城で在番を勤めており、遠方の買得地に対する権利を確かなものにしたかったに違いない。またこの安堵状文で、義元は「近藤右京亮名職にあい拘り、自然彼は味方に属すといえども、本地を為すの条、散田一円これを収務せしむべし」と述べており、沓掛・大高根・部田村が沓掛城主である近藤景春の領域に属することを承知で丹羽氏に安堵を与えている。義元が丹羽氏への安堵状に「近藤右京亮名職にあい拘り」とわざわざ述べたことは、こうした丹羽氏の買得地が近藤氏との間でトラブルを起しやすいことを念頭においていることを示している。
 第五回「所領とは何か」では、和泉国の中氏の買得による土地集積について触れたが、「中氏は土地そのものを集積したのではない。その土地の耕作者が負担する、加地子得分という余剰分を取る権利を主に集積したのである」と池上氏が述べていたことを思い出して欲しい。所領を抱えるとは、必ずしも土地そのものの所有に限定されるものではない。「余剰分を取る権利」である加地子が「本年貢にくらべて、加地子の額が圧倒的に高く、ほとんど二~三倍かそれ以上となっている」ことを思えば、売券一枚で取り扱われる加地子の集積が、所領拡大には何よりも手っ取り早いことになるだろう。そう考えると、松平忠倫や清定が尾張に持っていた所領も、この加地子を買得したものであった可能性が高い。そして同様なことは尾張東部の武士たちにも該当することで、信秀に従って小豆坂で戦った面々は、西三河の各地に買得によって入手した所領を持っていたのではないだろうか。
 所領の拡大は、領主が防衛しなければならない空間を押し広げることになる。しかし買得地の場合は「余剰分を取る権利」であるから、防衛というよりも権利を守る、権利が喪失することを防止することになる。そして買得地の権利は、他の手段で入手した所領よりも不安定である。その理由についてはこの先の回で詳しく述べるが、権利であるがために他と異なる特性を持つことによる。
 池上氏は『戦国の群像』の中で、この時代の所領を特徴づける特性について次のように述べている。

 買地安堵状や「晴宗公采地下賜録」などによれば、家臣の所領のなかには、在家一宇や半在家、田一反などのきわめて零細な所領が含まれている。一人の所領が数郷・数郡に散在するのが普通で、逆に一郷村に一〇人も十数人もの領主がいるというのも決して例外的なことではない。そうした所領をすべて個人の力で支配することは困難であり、在地領主の独立性・自立性は急速にゆらぎ出してくるのである。

 「晴宗公采地下賜録」(はるむねこうさいちかしろく)は、伊達晴宗が天文二十二年(一五五三)に家臣全員に対して所領宛行いと安堵をいっせいにやり直したときの控え記録である。ここでは、「在地領主間の土地売買がこの時代の構造的な問題であった」とされるほど、多くの買得地安堵がなされていた。買得地は売り手の事情によって手放されたものであり、また多くは加地子であるため、実際の土地と違って簡単に分割される。買い手も土地そのものではなく「余剰分を取る権利」であるため、それがどれだけ分割されていようと特にそれを気にかけることもない。また買得地がどれだけ遠方にあっても、権利としての余剰分が懐に入る限り何も問題はない。こうして池上氏は、「一つの郷に何人もの家臣の所領があるような所領の零細性と、一人の家臣が数郡・数か国に分散した所領をもつという分散性が、戦国期の知行制の特徴であった」(『戦国の群像』)と述べるに至るのである。
 
 天文年間に松平氏が権力構造の転換期を向かえ、その中で一族の有力者であった松平信孝が惣領である広忠の家臣団によって排斥された。この事件は、前回「竿と錘の戦国力学」で考察したように、単なる内輪揉めではなく、松平氏が一族一揆から家中へと構造転換をはかるといった重大な背景を負っていたわけで、それだけに多くの一族・家臣を巻き込んだ熾烈な内部抗争となった。それによって西三河の秩序が大きく揺らぎ、その中でこの地に零細で分散した所領をもつ尾張の武家領主たちもまた激しく動揺したのである。松平氏の抗争は敗れた側の所領没収となり、ただでさえ権利が錯綜する零細で分散している買得地がその巻き添えになることに、尾張の買得者が大きな危機感をもったのも当然であろう。それは武家領主だけではなく、富裕な商人や寺庵そして名主なども同様で、尾張国内で大きなうねりとなって西三河への介入が求められたに違いない。
 信秀の軍事行動について、「国中憑(たの)み勢」をして「三川(三河)の国へ御出勢」と『信長公記』は言うが、それはこうした東尾張の領主たちの強い要請に答えたもので、そうだからこそ守護や守護代の支援が得られたのであり、尾張国内に頼みが受け入れられたのである。しかしそれでも、西三河に買得地をもつ東尾張の領主たちこそ事の当事者であるため、彼らがこの軍事介入の中心となるのは本人たちの望みでもあった。『新修名古屋市史』は、安城合戦の時点で信秀と清洲守護代家が敵対関係にあったとしているが、それでも守護代方であるはずの那古野弥五郎が参戦していたのは、彼もまた西三河に買得地を所有していたからではなかっただろうか。
 池上氏がいう所領の分散性と零細性は、戦国期の武士たちの動向を根底から規定していたと考えられる。そして所領がなぜそのように分散し零細になるのかの答えは、その多くが買得地であったからというのが私の考えである。こうした所領の分散性と零細性が何をもたらすかについて、池上氏は次のように述べている。

 所領が零細で各地に分散していれば、家臣がすべての所領に住んで直接支配を行い、年貢等を収納することはできない。百姓は一人の領主の支配下に入るとは限らず、幾人もの領主の所領に耕地を所持する場合が多くなる。そうすれば、百姓を人格的に従属させたり、村全体を支配下におくことはできなくなる。各家臣にとって各地の自分の所領の実態を把握することも、所領支配を個人の力で全うすることもほとんど不可能になる。とすれば、家臣共通の課題を領国規模で解決する政策が大名によって打ち出されなければならない。
(『戦国の群像』)

 池上氏は「所領に住んで直接支配を行い、年貢等を収納することはできない」とか、「百姓を人格的に従属させたり、村全体を支配下におくことはできなくなる」という言い方をしているが、これからするとここで池上氏は買得地よりは給恩地を念頭においているように思える。例えば伊勢の北畠氏が大和国宇陀郡の国人沢氏に与えた給恩地である神戸(かんべ)六郷(三重県松坂市)は、「北畠氏の一族坂内(さかない)氏や大北氏、下村氏などの所領があり、寺庵領も多く点在して、それぞれが年貢を徴収する権限をもっていた」という。このように給恩地にも所領の分散性や零細性は見られたであろうが、やはりそれがより顕著にあらわれるのは、土地そのものとは分離していくらでも細分化され転売される買得地になるであろう。この買得地については、徳政との関係等について今後焦点を当てていかねばならないが、ひとまずそれが領地の分散性と零細性に深く関連し、領主そして戦国大名の戦いが引き起こる根本原因となっていたことを押さえておきたいと思う。
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 上の図1は、買得地を念頭におかない場合の所領空間を表現したものである。先に触れた上和田城の松平忠倫、桜井城の松平清定、岩崎城の丹羽氏清、そして沓掛城の近藤景春の所領をイメージしたもので、実際の彼らの所領を跡付けたものではない。図2は、買得地の分散性と零細性をイメージしたもので、松平忠倫や清定が尾張に所領をもっていたとなると、こんな分布をしていたのではないとの想像である。また丹羽氏清が横根や大府に買得地を所持していた等の距離感については、正しく表現してある。
 
 先に丹羽氏が今川義元から知行安堵を受けた書状に、「前々売地等の事、今度一変の上は、只今その沙汰に及ばず、これを所務せしむべし」と書かれてると述べた。義元がここで言わんとしていることは、次のようなことになるだろう。
 前々からの売地の問題であるが、この度安堵見直しをかける以上は、今に至って過去の取り決めは無効となるので、あなたがこれを知行しなさい。
 義元が「今度一変の上は」と言っているのは、前年の天文十八年に西三河の安城城が陥落し、西三河から織田方の勢力が一掃されたことを受けているように思う。この信秀の安城における敗戦は尾張東部の勢力図にも大きな影響を与え、この地域に義元の安堵が知行保障となる契機が生まれていたのである。鳴海城、大高城、沓掛城が織田方から今川方となったのは、一般に織田信秀が死去した天文二十二年ごろだと考えられているが、沓掛城の近藤景春について「彼は味方に属す」と書かれていることから、この天文十九年には既に今川に属していたのかも知れない。
 また「只今その沙汰に及ばず」という箇所は、信秀が与えていた安堵の無効を宣言したものと考えられ、あらたにこの地域の安全保障をしている義元が、その判断で安堵の見直しをしていることを示す。そしてこの背景には、知行地の帰属をめぐる領主間の対立・争論があることが窺える。ここで義元が示したことは、今川に対する貢献度を基準として安堵を認めたように受け取れるのである。このようにその所領が誰に帰属するのかが、中世を通じて争われてきたわけで、横領・譲渡・質取り・売買など帰属が錯綜・混乱する動きが激しく展開していた。そして恒常的に発生する所領の帰属問題が集中的に現れるのが、上記所領分類の②荘園領主と百姓の仲介の中から獲得していった加地子得分と、④加地子を中心とした買得地なのである。そして一般に②と④の帰属紛争を解決する基準が、「当知行」と言われるものである。

2/2へ続く

by mizuno_clan | 2009-03-08 14:54 | ☆談義(自由討論)