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【談議1】水野氏と戦国談議(第十一回)

当知行・当事案(2) -買得地拡がりの背景-
                                                          談議:江畑英郷
 今回は、前回に引き続き「当知行・当事案」の二回目である。
 この「水野氏と戦国談議」では、これまで様々なことを述べてきたが、実のところ様々のようであっても問題にしていることは「戦国大名はなぜ戦い続けたのか」であるし、それを戦国期の権力モデルから解き明かそうという点では変わらない。私がここで追求してきたものは、戦国大名が群雄として各地に割拠し、その群雄どうしが所領の拡大をめざして激突することによって、絶え間ない戦いの時代となったとする戦国権力モデルを克服することにあった。そしてこの群雄割拠型の権力モデルに対してリゾーム型権力モデルを対峙させ、戦国期の権力が単純なツリー構造ではなく、散りががりと言われる多軸・多層構造であったことを示してきた。そこでは戦国期における社会集団の相互関係がリゾーム構造をなしており、そのリゾーム構造の中からどのように恒常的な戦いが発生するのかを見極めようとしている。またこれら集団行動の根幹に「所領の拡大」と言われるものがあるとされるが、その「所領」とはそもそも何であるのかを問題にしてきた。第五回の「所領とは何か」はまさにそれがテーマであったが、そこでは買得によって所持する所領というものに注目してみた。今回はこれに続いて、戦国期所領の根幹に迫るまで、何であるかを追求してみたいと思う。

 まずは、『新修名古屋市史』に水野氏と買得所領に関して述べられている箇所があるので、それを以下に引用してそこから所領について考えていきたい。

永代寄進申す下地の事
合せて壱貫弐百文、てへり
右件の田は、加藤図書助持分為(た)りといへども、笠寺の観音のふつく(仏供)田に寄進申す所実正(じっしょう)なり、此の如く永代寄進申し候上は、後々に於いて子孫親類為りといへども、とかく違乱煩(わずらい)の儀有るべからず候、仍て後の為め、永代の寄進状件(くだん)の如し、
  延徳元年 酉己 十二月廿九日
 寄進主              加藤宗繁(花押)
彼の田の在所は、とべ(戸部)の下弐反、但し公方年貢六百文、水野彦右衛門方へ御さたあるへく候、
此外(このほか)諸やくあるまじく候、
  延徳元年 酉己 十二月廿九日
(笠覆寺文書)

 延徳元年(一四八九)に、加藤図書助宗繁が、笠寺観音(笠覆寺)に仏供田として在所戸部(南区)の下の田二反を寄進した際の寄進状で、熱田加藤氏発給の初見文書として知られているものである。注目したいのは、寄進後に笠覆寺が負担すべきものとして、公方年貢六〇〇文を水野彦右衛門方へ沙汰すべしと記している点である。仏供田として寄進された田は、文明一一年(一四七九)に、加藤宗繁が「あつたの宮宿之又四郎」から代銭四貫文で永代売得したものである(笠覆寺文書)。(中略)
 同売券によると、購入後に加藤宗繁が負担すべきものとして、同田の公方役代五〇〇文と礼分一〇〇文、合計六〇〇文の年貢・礼を「作良北尾之行慶之方(さくらきたおのぎょうけいのかた)」へ沙汰すべしとなっている。したがって、文明一一年から延徳元年の期間に、同田の公方年貢の納入先が作良北尾(桜村字北尾)の行慶から、水野彦右衛門に代ったことが理解できる。戸部は、笠覆寺の北にあり、井戸田とは山崎川を隔てて比較的近い、延徳元年までに、水野氏が戸部の田地から公方年貢を徴収する領主として姿を現していることは注目される。


 『新修名古屋市史』が注目しているのは、延徳元年という早い時期に小河の水野氏が戸部にまで進出していることにある。この寄進状の日付が、実質的な初代である水野貞守が没した文明十九年(一四八七)の二年後に当ることから考えて、おそらく貞守の頃から戸部に所領を持っていたのだろう。同書は、井戸田(瑞穂区井戸田町)や市部(瑞穂区市丘町?)を領していた今川那古野氏の年貢未進に際して、「当時井戸田・市部周辺を領有していた水野氏に働きかけて、冥加上分を納めさせようとした」ことを取り上げている。そして、「水野氏は、一五世紀末に知多郡小川・三河刈谷城主となっていたが、この時期にその勢力は北上して、愛知郡井戸田・市部周辺にまで進出していた」と述べるのである。
 同書は「加藤宗繁が“あつたの宮宿之又四郎”から代銭四貫文で永代売得したもの」と述べ、この戸部の田二反が宗繁の購入地であったことが示されている。また、宗繁への売主が「あつたの宮宿之又四郎」とあり、田二反が戸部にあることから、この又四郎自身もこれを売買によって入手していたものと思われる。そして公方年貢を別に納めることが定められていることで、この売買の対象は加地子得分であったことが分かる。このようすからすると、この田二反は部分的に切り出されて次々と転売された加地子ということになり、当時の加地子売買の実態を垣間見るようである。
 水野彦右衛門という人物が小河の貞守とどのような関係にあるのかはわからないが、井戸田に一定の領地を持っていたということである。この井戸田の水野家が小河水野家から派生したものなのか、それともそれ以前に井戸田に根を張っていたものかはわからない。『新修名古屋市史』はこれに関連して、御器所(ごきそ:昭和区)の佐久間氏に触れた箇所に、小河乾坤院(知多郡東浦町)所蔵の「血脈集」に佐久間氏の名が挙がっており、「乾坤院は小川城主水野貞守が建立したと伝えられており、同史料に水野一族とともに名を列ねていることは、小川城主水野一族と佐久間氏が親しい関係にあったことをうかがわせる」と述べている。これからすると、御器所の佐久間氏と小河の水野氏が良好な関係を構築していたのであれば、御器所のすぐ南にある井戸田の水野氏は、当然小河水野家に深い繋がりがあると同書が判断したものと思われる。

 前回「当知行・当事案(1)」で述べたことに対して、「ではなぜ彼らは国境を越えて土地を買得するのかという疑問が生じます」という指摘をいただいた。国境は越えてはいないのであるが、水野氏の本拠である小河から井戸田までは、北北西に十六キロメートルほど離れている。松平忠倫の上和田城から尾張までがおよそ十五キロメートル、そして丹羽氏岩崎城から横根までが十五キロメートルと、たまたまかも知れないが十五キロメートルという数字が目につく。離れていると言えばかなり離れているのであるが、そのような地に買得所領が拡がるのはなぜなのだろうか。
 加藤図書助宗繁の寄進状では、水野彦右衛門は公方年貢の収納者であるが、この収納権は北尾の行慶から移ったものである。これがどのようにして移ったのかは『新修名古屋市史』では言及されていないのであるが、元の収納者が行慶という寺社関連らしき人物であることからすると、彦右衛門への所領宛行ないなどではないであろう。そうとなればこの公方年貢収納権の移動は、やはり行慶と彦右衛門の間における売買取引によって生じたと理解するのがよさそうである。加地子ばかりでなく公方年貢までもが売り買いされていたことになるが、そこに行慶なる寺社関連の人物が介在していることに注目したい。
 第五回「所領とは何か」で和泉国で買得地を集積した中氏について触れたが、その集積は「中氏と、その子息の入寺した根来寺成真院とが買い集めた土地の売券(売渡証文)」によってなされていた。中氏は土地(加地子)の買得にあたって、根来寺成真院に子息を入寺させ、その寺院を介して加地子を買い漁っていたのである。しかしなぜ、寺院を介して加地子を買取るのであろうか。それは中世の寺院が広範に金融業を営んでいたからである。
 井原今朝男(いはらけさお)氏の著した『中世の借金事情』を読んでいると、やたらと貸し手に僧侶の名前が出てくる。そして貸し手には意外と尼僧が多いのであるが、それについて井原氏は次のように述べている。

 御家人・延暦寺の僧侶や山徒・祇園社の社僧らが、妻女や女房・白拍子・遊女・仲人らを宿所・浜蔵・屋地・土倉などに配置して、日吉上分物や神物などを借用して倉納物の貸借・管理や輸送・販売・流通などに従事させていたものといえよう。土倉も借金により運営されており、貸借取引によってこそ商業活動は展開されたのである。

 ここで井原氏は「土倉も借金により運営されており」といっているが、金融業を営むにも当然ながら元手資本金がなくてはならない。寺社が金融業に進出するのは、「日吉上分物や神物などを借用して」とあるように、信仰によって人々から広範に集めた供物や講銭が寺社の金融資本となっていたのである。

 鎌倉末期には中世寺社の堂塔の修理費や寺内衆徒の相互扶助のために頼母子講や無尽講の組織が発達して、貸借取引の供出や勧進によって資金を調達する方法が発達したことが分かる。南北朝から室町期には、禅宗の祀堂銭をつかった貸借取引での資金調達が発達する。
(『中世の借金事情』)

 このように寺社は潤沢な資金を所持していたが、それを運用するために金融業を営んでいたのである。そしてその資金の対象は加地子を中心とする土地売買にも向かい、借金のかたに土地の質券や売券を数多く所持することになる。中氏はこうした寺社の金融的な側面に目をつけて、子息を送り込んで自らの加地子集積の手先としたのである。そして金融や売買にはネットワークが必要であるが、寺社には本寺・末寺など独自のネットワークがあり、これが有効に作用していたに違いない。そうすると、加藤宗繁寄進状の件で現れた行慶なる人物も、こうした寺社金融ネットワークの一員であり、水野彦右衛門はそのネットワークと何らかの繋がりを持っていたとも考えられる。小河水野氏が建立した乾坤院は曹洞宗寺院であるが、中氏の例を念頭に置くならば、この曹洞宗寺院ネットワークを介して井戸田の地に領地を持ったとはいえないであろうか。水野氏は寺院関係の貸借に何らかの関与をして、その結果として井戸田・市部などに所領を持った。水野氏の進出時期が今川那古野氏の後退期と重なるのであれば、今川那古野氏が借金等から手放した土地を寺院を介して入手したのかも知れない。

 前回は松平忠倫や松平清定の領地が尾張にあったことを梃子にして、「当事案」というものを引き出したのであったが、思い返してみれば松平氏とは松平郷の有徳人から身を起した一族であった。初代とされる松平親氏は、三河松平郷(豊田市松平町)の松平太郎左衛門尉に人物を見込まれて婿入りしたのであるが、その前歴は一般に諸国を遍歴する時宗の僧侶であったとされる。平野明夫氏は『三河松平一族』で、「親氏は“渡り”的技術伝播者・遍歴する職人であった」と述べて、時宗僧侶という前歴は後世の作為であるとする。また親氏が入り婿した松平太郎左衛門尉については、『三河物語』が「国中一の有徳なる人」と表現しているが、平野氏は太郎左衛門尉の伝承をいろいろ勘案して、「松平太郎左衛門尉は有徳人であった」としている。有徳人とは富裕な人を指して言う言葉であるが、彼らが一定の社会的貢献も果たすことから「有徳」と表される。そして親氏が婿入りした松平家は、「地主よりも流通業者のイメージのほうが強く感じられる」ような存在であり、親氏の代においては「買得や請地の形で支配領域を拡大した」と述べられているのである。
 その後の松平氏は本拠となる岩津に進出するのであるが、これについて平野氏は、『三河物語』では岩津城の奪取となっているが、「松平氏の有徳活動の一環と捉えられ」、「岩津進出の真相は、岩津に買得地を得たということだろう」と述べている。また岡崎についても、「泰親の代に有徳人として岡崎へ進出し、信光の代には領主として進出した」とするのである。こうしてみると、松平氏の所領拡大は有徳人的性格を基本として、その基盤とする流通機構に乗った買得によって土地を集積していったことになる。そして初代親氏は時宗の僧ではなかったが、太郎左衛門尉は「念仏の行者」であったとされ、寺院ネットワークとも繋がりがあったかも知れない。しかしそれ以上に、「技術伝播者」である親氏を見込んだあたりは、商工業・流通に基盤を持って財力を蓄積し、それを背景に一家を拡大せんとする事業家であったようにも思われる。
 このような松平氏の出自からすれば、松平忠倫や松平清定が買得によって尾張にまで領地を拡げていたことは十分に考えられることだろう。このように武家領主という看板を背負っていても、その活動は商工業・金融にまで及んでおり、一家の繁栄は領主的な拡張に限られていたわけでもない。そうした領主外活動が、やがて足場になって領地の取得や新たな領域への進出を可能にしているのでもあり、戦などの暴力的な手段だけが所領拡大を実現するのではない。

 水野彦右衛門が公方年貢を収納する戸部の二反の田地は、加藤宗繁から笠覆寺に寄進された。ところで宗繁は、笠覆寺に対する厚い帰依の気持ちからこの田地を寄進することにしたのだろうか。この寄進状には、「永代寄進申し候上は、後々に於いて子孫親類為りといへども、とかく違乱煩(わずらい)の儀有るべからず候」と述べられている。寄進という篤実なる行為に、子孫や親類が違乱や煩いを持ちかけることなどを気にしているようであるが、今日の我々からみると何か違和感を感じないであろうか。また「永代寄進」、「永代の寄進」と妙に「永代」を強調しているようにも思えるが、このことには何か背景があると考えるべきなのかも知れない。
 
 永享五年(一四三三)の大原持綱による観音寺寺領分の「段銭」の寄進は、二〇貫文の銭を観音寺から借用した代償であった。この実態は寺領分の天役諸公事の免除であるが、これを観音寺側がどう認識していたかを示す記事が「仏田目安」にある。そこには「此三丁二反天役者、廿貫文ニ買申、委旨ハ本文ニ有、加法輪院田ヲ」とある。これを観音寺は領主から買得したと認識しているのである。惣村が「公文職」など領主権を買い得して「自治」を獲得することは菅浦で見られるが、この場合もそれに等しい行為である。観音寺はいわば銭の力で領主権を形骸化させていると言える。この事態は、領内の諸集団と新たな関係を構築しつつある一円領主にとり必然的なものであると同時に、抱え込んだ新たな矛盾の種であるとも言えよう。

 上記は、湯浅治久氏の『中世後期の地域と在地領主』で述べられていることである。ここに言われていることは、戦国期権力の本質を垣間見るようで非常に興味深い内容である。
 大原持綱は近江源氏佐々木氏の一流であり、六角・京極・高島らと並ぶ名族の惣領である。大原庄は滋賀県山東町に、「立庄時期は不明だが、平安期から鎌倉期にかけては仁和寺御室領として見える」荘園であり、大原氏は鎌倉期に地頭としてこの地に在任していたとされている。この大原庄夫馬郷に大原観音寺が所在しており、上記の引用はそこに残された『大原観音寺文書』の研究から指摘されているものである。
 ここでは領主大原氏の観音寺に対する「段銭」寄進とみえることが、実際は観音寺から大原氏が借用した二〇貫文の弁済であったことが示されている。先に中世寺社が金融業を営んでいることを指摘したが、その金融先は時に土地の領主でもあったわけである。このように表面上「寄進」とみえる行為が、実際のところ借金の弁済であったといったケースも少なくないように思える。加藤宗繁の笠覆寺への寄進が借金弁済のためのものかどうかはわからないが、「永代」を強調しているようにも思えるので、そうであった可能性は少なくないに違いない。
 このように寺社への寄進が債務返済と近しい関係にあったことは意外であるが、それにもまして「銭の力で領主権を形骸化させている」という指摘には驚かされる。そして領主権を購入することで、自らの「自治」を実現するということに及んでは、領主とは何かの定義が大きく揺らぐ思いである。ここに至って、そもそも「領主」とは何であるのか、それをあらためて問い直す必要性が生まれてきた。「所領」「領主」「支配」は基礎的な概念ではあるが、それだけに戦国期の社会・権力構造をダイレクトに反映する用語であり、この概念が適切に捉えられているかで時代認識は大きく変わることだろう。そして「当知行」を探求することで、この基礎概念を正しく定義することができるだろうというのが私の展望である。今回はこの「当知行」に肉薄するつもりであったが、ここまでに思いの外字数を費やしてしまった。そこで次回「当知行・当事案(3)」として、当知行に焦点を当てて「所領」「領主」「支配」の概念を押さえていきたいと思う。

by mizuno_clan | 2009-03-15 21:36 | ☆談義(自由討論)