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【講談1】水野氏と戦国談議(第十二回)

当知行・当事案(3)
-中世荘園制における所有の観念-
                                                          談議:江畑英郷

 中世の土地制度といえば荘園制である。だが、この荘園制度、戦国時代においてはどうなっていただろうか。

 中世は荘園制度(荘園公領制)の社会であり、それを最終的に否定したのは豊臣政権である、というのが学界の常識である。それにより、戦国時代を荘園制の時代とみる荘園制説が存在する。しかし他方では、荘園制はもはや社会を規定する土地制度ではないとみる説がそれに対置されている。(中略)
 荘園制説は、一部で荘園領主に年貢を納めている荘園があること、荘園制のもとで決められた本年貢や公事が、村人の負担の中に残っていることを重視する。だからこの説は、戦国の達成をほとんど無視し、戦国を否定して成立する(と考える)織豊政権の達成を逆に「革命的」と評価することになる。
 このように異なる時代観は、地域によって荘園の残存度や、荘園制の影響が異なるという、地域差の問題と関係している。畿内近国・北陸では、本巻が引きつぐ、一五世紀の時点で、山城国を頂点として、なおかなりの数の荘園が残っていたし、荘園領主も最後の牙城としてその確保に必至になっていた。それと、この地域に戦国大名が典型的には成立せず、また成立が困難であったこととは決して無関係ではない。地域差の問題は戦国史に大きな影響を与えた。


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 これは『戦国の群像』で、池上氏が「はじめに」を締め括る「戦国時代と荘園制」で述べたものである。ここで池上氏は「九条家領の変遷図」を掲載して、「しかし上図の九条家領の変遷をみれば、戦国時代が荘園制の時代であったとはとうていいえないことがわかるであろう」として、荘園制説を否定している。池上氏の立場は、「戦国時代を荘園制社会と考えることはできない」なのである。
 ところでこの図の脚注には、「○○の資料にみえる当知行の所領」と書かれている。このことからすれば、所領には当知行の所領と不知行の所領があったことになる。同箇所で池上氏は、「美濃以下三か国全部と摂津・河内の一部の所領は、すでに八〇年も前から年貢をまったく納入していない」と書いているので、当知行と不知行との区別は年貢の納入があるかないかであるということになる。前々回、「当知行とは、現実に領地を排他的に占拠している、支配していることを意味する」という本郷氏の定義を引用したが、それとは少しニュアンスが異なるようである。
 このニュアンスの違いは、「知行」というものに対する捉え方の違いからきているようである。第五回「所領とは何か」において、『日本史辞典』(角川書店)に記載される「知行」を掲載したが、それは次のようなものであった。

 平安時代から鎌倉・室町時代にかけて行われた土地・財産の直接支配をいう。古代では土地の所有権とその権利の行使事実(用益)とが分化せず、土地の直接支配を占とか領とか呼んだが、平安中期ごろには土地の用益権が分離して、これらを領掌・領知するといい、平安末期に用益権を意味する職(しき)が成立すると、この職の行使事実を知行というようになった。職が分化してひとつの土地のうえに重層して設定されると、知行もまた重層して成立した。

 これまでも何度となく言及してきたが、中世では土地そのもの以上にその土地の用益権が問題になっている。『日本史辞典』によれば、平安末期以降「知行」は用益権の行使事実のことである。そして土地の直接支配から「土地の用益権が分離して」、職との関わりの中で「知行」が規定されるようになったのである。ここでいう用益権は、土地そのものから分離したものであるから、年貢や公事の徴収権を指すことになる。そうであるならば、「当知行」とは「現実に領地を排他的に占拠している」ことでなくとも、年貢や公事を徴収できていれば立派に成り立っていることになる。知行=用益権という認識であれば、本郷氏のいう「占拠」事実がなくとも、年貢・公事の徴収事実さえあれば当知行は成立しているのである。また「知行もまた重層して成立した」とされるが、「排他的に占拠」ではそれも成り立たない。本郷氏の言う「当知行」と、池上氏が図の脚注に示した「○○の資料にみえる当知行の所領」は、同じようで実は大きく異なった知行理解が背景にあると思うのである。
 こうしたことを言うのも、実のところ本郷氏のような「当知行」理解が一般に多いように思うからである。本郷氏は『武士から王へ』の一節、「当知行ということ」で先のように述べた後、「実力主義」と題して次のように書いている。

 なぜ中世において当知行が重んじられたか。二つの応答をあげることができる。まず、時が武士の世であったこと。武士は支配者としては新興の存在である。古代以来の領主である貴族や大寺院、それに朝廷が各国の国衙(いまの県庁)を介して管轄している土地(国衙領と呼ぶ)に足場を築き、そこから勢力を周囲に拡大していく。武士が実力を以て占拠していく土地は、由緒を厳密に尋ねれば、ほとんどは旧勢力の所有するところであった。これをいちいち重んじていては、武士社会は成り立たない。それゆえに武士の政権である幕府は、過去の来歴よりも現在の当知行に重きを置いたのである。
 権力の大きさにも配慮しなくてならない。国民一人一人を捕捉する国民国家の権力に比べ、中世の権力はまことに微力というほかはない。織豊政権による全国統一と比較しても、その差異は歴然としている。(中略)中世の武家の権力は、江戸のそれには太刀打ちできない。土地の所有を定めるための厳密な調査能力がまず未熟である。さらに重大なことには、強制力が不足している。仮に適(たま)さか証拠が出揃って現状が不法な占拠であることが判明したとしても、状況を改変する実行力が十分ではない。


 このことからすれば、武士の世を築いた武家政権は、自分たち武家に都合の良いように由緒を軽んじ、「世は実力主義の時代である」とうそぶいたということになる。そして不法占拠を取り締まるにしても、中世の武家政権はその実行力が心許ないというが、そうすると実力主義を標榜する武家政権自身が実力不足という皮肉なこととなる。それにしても、ここで言う「実力」とは何のことを指すのであろうか。「古代以来の領主」を排除して「実力を以て占拠」するのが「武士」であるならば、そしてその非法を十分に取り締まる実力に欠けるというのであれば、やはりこの「実力」は武力を指すのであろう。したがって、当知行の根底には実力主義ならぬ武力主義があったということになる。そしてこの武力主義としての当知行は、まさに群雄割拠の戦国時代という捉え方、その出現の背景説明にそのまま当てはまるものとなる。
 実力占拠が優先し承認される社会であれば実力競争が過熱するのは必然であり、行き過ぎを抑制する権力が脆弱であれば実力の内実は武力となり、武力どうしの果てしのない激突となるだろう。本郷氏が述べた「実力主義」は鎌倉時代を念頭においたものであるが、その論理はそのまま戦国時代にも当てはまる。池上氏が示した九条家の当知行の減少も、そうした実力主義によって武力のない旧権力が圧倒されていく過程として理解できるし、その結果登場するのは各地に割拠する戦国大名たちなのである。このようにしてみれば、武家が所領の拡大を第一義として武力発動をしていたのは、そこに「当知行」という社会原理があったからということになる。

 先に池上氏が脚注で示した「○○の資料にみえる当知行の所領」と、本郷氏の排他的占拠地とでは「知行」に対する理解が大きく異なっていると述べた。『日本史辞典』が示す「知行」は土地の用益権であるし、重層しうるものである。したがって、池上氏は年貢が徴収できていることだけで当知行だとする。その一方で、本郷氏は「現実に領地を排他的に占拠している、支配していること」が当知行だとするが、本郷氏とて歴史用語として「知行」が土地の用益権を意味することを知らないわけではない。

 江戸時代において下野国足利村を領するといえば、その地に生きる人々も、そこにある自然も、その地が生み出す生産物も、すべてを所有することに他ならなかった。まさに排他的に当知行できたのだ。ところが中世は全く事情が異なる。在地領主が足利荘を領するとは、多くは足利荘の下司(げし)という職務〔これを下司職(げししき)という〕に任じられているに過ぎない。(中略)
 下司職には上級の職務があって、それが皇族・摂関家・大寺院が手中にする本家職、貴族や寺院が任じられる領家職であった。また京都周辺に居住する本家や領家は、荘園経営の責任者として現地に代官を派遣することがあった。この代官、預所(あずかりどころ)職が下司職直接の上司となった。下司職の下級の職としては公文(くもん)職などがあり、他にも荘園の個別の事情を反映して設置された。在地の種々雑多な下級の職を得たのは、下司の縁者や配下であることが多かった。
 本家を頂点として、本家の規模を小さくした領家、代官たる預所、現地をおさえる下司、下司の配下の公文など、このような一連の職務の連なりを職(しき)の体系と呼ぶ。このうち土地の安全を守る使命を帯びた下司が武装して武士となり、武力を用いて当知行を推進していく。さらには在地に生きる個々の領主の利益を代弁するものとして将軍権力を形成し、下司職は地頭職へと転換していくのである。

(『武士から王へ』)

 『日本史辞典』が圧縮して書いていたことを平易に説明している内容となっているが、「土地の安全を守る使命を帯びた下司が武装して武士となり、武力を用いて当知行を推進していく」という箇所が、ここで本郷氏が述べたかったことである。つまり、土地の用益権が職として重層的に分有されていたが、その中で武力をもった特定層(本郷氏は下司とする)がこの重層的分有を否定し、独占的所有を確立していったということなのである。
 本郷氏は中世荘園制の職の体系、つまり重層的に用益権を行使するということをネガティブに捉えているようであり、それは次の一文に「所有概念の未熟さ」として語られている。

 職の体系が用いられるということは、本家となる天皇家ですら他者の容喙(ようかい)を否定する所有が実現できないのだから、それだけ「所有」の概念自体が成長していないことを示している。権利が侵害されたときに過不足のない対応を期待できるからこそ所有権が安定するのだとすれば、所有概念の未熟さは、たとえば古代の「公地公民」政策の影響などを考慮するより、より即物的に、所有を保証する主体たる公権力の未熟さゆえと捉えるべきだろう。
(『武士から王へ』)

 先の引用で本郷氏は、江戸時代はすべてを所有できた、「まさに排他的に当知行できたのだ」と述べていた。その一方で中世は「“所有”の概念自体が成長していない」とするのだから、中世から近世江戸時代へ向けて、重層的分有から一元的独占へと所有権が成長していったと考えているのだろう。本郷氏は中世の所有が未熟であるとネガティブに捉えるから、歴史の発展によって今日的所有権がやがて確立していくのであり、それは重層的分有層の中で武力を身につけた階層によって強制的に成し遂げられたのだと考える。また、所有概念の未熟さは、その所有権を保証する公権力がそれに足る力を持っていなかったことが原因だと述べている。つまり本郷氏は、中世の土地所有には欠陥があったのだと言っているのであり、それは歴史の進展によって乗り越えられるべきものだとしているのである。そしてそのような中世社会が背景にあって、武家による権利なき占拠が出現し、それを正当化する土壌となったというのだろう。

 本郷氏はこうして「当知行」を、中世・戦国社会をより強力な武家権力へと導く原動力としてみているように思われる。当知行の「当」に武力を中心とした実力をみれば、九条家の知行地が急速に失われ、それを吸収した武家が結集して家中をなし、その家中を足がかりとして戦国大名が登場する。そして戦国大名はさらなる実力の発露として、大名間戦争に勝ち抜こうとするという図式がみえるようである。
 どうもこうした理解の根底には、今日的な所有概念を歴史の到達点とする自覚があって、それを尺度として中世社会、そして荘園制を捉えているように思えてならない。今日に生きる我々とすれば、現代社会が規定する所有概念が当たり前のものであるが、それと同一線上にあるものとして中世の所有を捉え、未熟であるとすることが果たして妥当なのであろうか。職の体系は中世荘園制度から生まれたが、そのしくみに所有の未熟があったのかどうかを知るために、荘園制についてもう一度その実態を確認してみる必要があるだろう。
 中世の荘園制については次のように定義される。

 荘園は古代・中世を通じて存在した私的土地所有の一形態である。この荘園が、私的土地所有という性格を持ちつつ、同時に公的な人民支配、つまり統治の枠組みとして機能する政治社会体制が荘園制である。
(佐藤泰弘著「荘園制と都鄙交通」-日本史講座3収録)

 この佐藤氏の定義によれば、荘園は「私的土地所有の一形態」であるが、それ以上に「統治の枠組みとして機能する政治社会体制」だったのである。この「統治の枠組みとして機能する」という点がポイントであるが、どうして私的土地所有が統治の枠組みになるのだろうか。

 律令体制は土地の所有と人の支配を切り離し、寺社・貴族から百姓にいたるまで並列的に田主権を認めた。しかし律令体制(公民制と国家的土地所有)の変容とともに、土地所有は支配身分と被支配身分に分離し、重層化する。支配身分(後の侍層・諸大夫層以上)は国郡に認められた領主として、人の支配を含みこんだ土地所有(領主的所有)を展開するようになる。人の支配には特殊な支配(主従制や家支配など)と一般的支配(一般住人への支配)がある。特殊な支配の有無にかかわらず、一般的支配つまり住人支配を伴う領主的所有を領主制と呼ぶことにする。
(佐藤氏同書)

 ここで重要なのは、荘園が「住人支配を伴う領主的所有」の形態をとり、それがために「統治の枠組みとして機能する」ようになったことである。現代の土地所有は当然ながら、土地の所有とそこの住人支配は分離している。それ以前に現代においては、住人を「支配する」などとは決して言わない。だが中世においては、土地の所有とともにそこに住む人々を支配する「領主的所有」として、荘園制が社会の基盤となっていたのである。
 中世の土地の所有は、その土地に住む人々の支配と切り離されてはいないのであり、その点が今日の土地所有と根本的に違うところである。前回「買得地拡がりの背景」におけるコメントのやり取りで、所有権などを現代に置き換えて説明するのは誤解を生むと書いたが、それはこのことがあったからである。高村さんはそこで、『徳政令―中世の法と慣習 笠松 宏至 (著)』 を紹介してくれたが、おそらく土地の「もどり」について指摘されたかったのではないだろうか。この件についてはこの後で少し触れるが、後々徳政を扱うことになると思うので、その時に再度考えてみることにしたい。
 さて、荘園というものが「領主的所有」を本質として、土地の所有とその土地の住人支配が分かちがたく結びついたものだと言うが、ここでの「支配」とは何を意味するのであろうか。佐藤氏は同書において、荘園領主と荘園住人との関係について次のように述べている。

 中世荘園は領域内の住人を排他的に支配することを志向する。荘内に国領・他領が散在していても、住人編成は荘園側が行なった。(中略)住人の側も、寄人・供御人などを除けば、帰属意識は荘園にあり、某荘住人と名乗った。
 住人に対する支配は荘園領主に公的機能を果たすことを求め、荘園支配は住人への統治行為となる。それは国郡の支配と競合するため、国郡の行政権を排除しうる不入権が重要であった。郡郷司の行政権は荘司に継承された。しかし国の行政権は荘園領主に譲られたのではなく、荘内から排除されて潜在しているだけである。荘園領主が果たすべき公的機能は国からの委譲ではなく、荘園領主が住人と結んだ統治契約である。


 「住人支配」と言われていたものの実態は、「荘園領主が住人と結んだ統治契約」に基づいた統治行為であったわけである。これは荘内の土地を所有してはいるが、そこの住人を所有しているわけではないこと、そして土地がただそこにあるだけでは所有者へ何ももたらさないのであり、そこに所有者と住人=耕作者の共存があるとする立場である。土地はただ所有しているだけでは何も実利をもたらさない。そこに人が住んで耕作に精を出すことで実りがあり、その耕作を援助することで土地所有者も実りの一部を手にすることができる。土地の所有と住人がセットになっている理由がここにある。そして土地所有者が公的機能を果たして「領主」となるのも、土地+住人+耕作が年貢を生み出すのであり、この三位一体の保全と向上が所有者を富ませるものだからである。
 昔マルクスという哲学・経済学者が、富は資本から生まれるのではなく労働から生まれるものだと言ったが、彼の意図も資本+労働=富なのだという点にあったと思う。現代資本主義では資本と労働はきっちりと分離されているが、それはそういう社会制度なのであって、ことの実態では資本と労働とは初めから分離しているわけではない。両者がなければ富は生み出されないのであるから、制度による切り分けがなければもともと癒着した構造だといえよう。そうであるから、中世の土地所有権は、今日からすると理解しがたい次のような説明になるのである。

 中世の領主的土地所有は、古代の公的な領域支配権と土地所有権(墾田、治田)が融合して形成された。つまり、所有権と公的支配権が癒着した構造が中世的な土地支配権の特質であって、所有論的にみれば、領主の権利は上級所有権と位置づけてよい。一方、一〇世紀以降、百姓治田の立券が抑止され、土地所有権が身分制的に再編されるなかで、百姓の土地に対する権利が下級所有権、つまり「私領」として成立した。下級所有権は「作手・作職」と称されることが多いが、その名前が示すとおり、耕作権としての属性を本義としつつも、初発段階から地主制的な構造を内包する-つまり、別に直接耕作者を抱える-ことが少なくなかった。
(『中世・近世土地所有史の再構築』-「中世後期における下級土地所有の特質と変遷」西谷正浩著)

 中世の土地所有権には、上級と下級があったというのである。今日の所有権には排他的独占という概念が含まれるが、それからすると、所有権に上級と下級があったというのはどうにも飲み込みが悪い。先の佐藤氏は、「百姓の田主権は事実的な耕作権として社会的に承認され継続し」て成立したものであると述べている。この「事実的な耕作権として」という表現に注目すると、あの当知行の「当」が思い起こされる。実際に土地に向き合って、その土地に働きかけ、その実りに生活を賭けている者には、その対象である土地に権利があって当然だということなのであろうか。
 もともと自然であった土地は誰のものでもなく、それがある時から特定者に所有権が発生するというが、自力で原野を切り開いて耕地とした者だけが所有者となったわけでもない。

 一〇世紀中頃になると立券は貴族層の土地所有権を認定する手続きを意味するようになる。貴族層は郡司・刀禰に所領の立券を命じ、開発や租税免除を伴う場合は国司に働きかけた。立券は百姓を排除し貴族層のものとして継続した(立券の貴族化)。
(佐藤泰弘著「荘園制と都鄙交通」-日本史講座3収録)

 このように「手続き」が所有権を生み出すのであるが、そこに「当」という本来性を呼び覚ます無名の声が沸きあがる。そのものと最も緊密な関係を取り結んでいるのは誰であるか。そのものに魂を浸透させた者、そのものに痕跡を最も強く刻んだ者こそが正統な所有者ではないのか。制度を離れてみれば、そうした声が自然の感覚というものなのかも知れない。中世社会では制度がそれほど強固ではない、制度が未熟とかではなく制度が人をどれだけ支配しているかの尺度において、人は制度からもっと自由であったのだろう。そこに制度を離れた自然の感覚が、制度を超えて力を発揮する場面があったのではないかと思うのである。
 高村さんから紹介があった、笠松宏至氏が書いた『徳政令―中世の法と慣習』などに基づく徳政研究の到達点が、『日本史講座3』に整理されている。そこの一つに次のように書かれている。

 古きことを良きこと、新しきことを悪しきことと考える社会において、「徳政」すはわち徳のある政治とは、世の乱れにより本来あるべき姿から逸脱したものを元に戻すことであった。質入・売買により本来の持ち主から離れた土地を元に戻すのは「徳政」の理念の発現である。
(近藤成一著「中世前期の政治秩序」-日本史講座3収録)

 「本来あるべき姿から逸脱したものを元に戻す」という理念が徳政に込められていたというが、先の荘園制における下級所有権の発生をみれば、この「本来」とはものを活かしものと供にある者こそが所有者であるという観念に基づくように思われる。しかしこの本来性は、認定された者を所有者とする社会制度によって疎外されているがゆえに、その本来性への回帰が「理念」だと言われるのである。先に本郷氏は
公的権力の支えがなければ所有権は安定しないと述べていたが、それは所有権というものが制度の所産だからではないのだろうか。つまり所有権は、多分に手続き的な制度によって規定され、人為的に人とものの間を線引きしていると考えられるのである。
 このようにしてみると、未熟だとされる中世所有観念は、今日の我々に所有とは何かをあらためて考えさせるような内容を含んでいる。そして当知行を権利のない者が武力的な実力によって土地を占拠することと理解する場合、制度を破っているという点で、制度を超えて本来をめざす徳政と共通するものがあるようにも思える。しかしながら、徳政がはらむ「理念」が、実力主義ならぬ武力主義と同一であるわけがない。本郷氏が言うような当知行の「当」が「実力」を示すのに対して、徳政理念が示すのは「本来」である。それでは実力を持って現在を是認させる当知行と、現状を追認することなく本来を追及する徳政理念とは相反するものなのであろうか。どちらも土地を中心とする所有にかかわる社会の底辺からの動きでありながら、この両者は鋭く対立するものなのであろうか。その如何は、当知行の「当」の解釈にある。次回はこの「当」の真相を探り、中世所有観念のポジティブな側面に光をあてたいと思う。

by mizuno_clan | 2009-03-31 22:48 | ☆談義(自由討論)