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【談義1】水野氏と戦国談義(第二十五回)

戦国組織論(3)-交換と代替わり-

                                         江畑英郷

 組織とは何か。その答えとして世に最も広く受け入れられているのは、バーナードの規定した「2人以上の人々の、意識的に調整された諸活動、諸力の体系」である。今回はこの定義に基づいて、組織の概念を詳細に検討してみることにする。まず『組織論』(桑田耕太郎・田尾雅夫著)において、この定義を以下のような具体的な例をひいて分かりやすく説明しているので紹介しておこう。

 ここで組織の概念について、具体的なイメージをもつために、次の例を考えてみよう。ある道に、人の通行を妨げる岩がころがっており、その岩の片側にA、B、C、3人の男がそれぞれ自動車に乗ってやってきた状況を考えよう。いまAは家に帰るために、Bは恋人と待合わせのために、Cは銀行強盗をして追手から逃れるために、その岩の反対側に行きたいという欲求をもっている。しかしその岩は、一人の力では動かすことができず、3人の力を合わせれば、どかすことができるかもしれない。この状況では、3人の個人的な欲求、目的とは独立に、「岩をその場からどける」という共通の目的が存在する。このようなとき、組織がつくられる契機がある。
 岩を動かすにはどうしたらよいのだろうか。まず3人のそれぞれが、全力で岩を押すという活動を提供しなければならない(活動力の提供)。また、岩を押す方向とタイミングを一致させ、3人の力を同じ向きに同時に合わせる必要がある(相互作用)。そのためには、事前にどの方向に押すか、岩のどの部分に力を作用させるかを打ち合わせ、「1、2の3」といった合図とともに、力を合わせなければならないだろう(意識的調整)。これらの条件が整い、3人の提供する力が、意識的な調整によって、同じタイミングで、同じ方向ベクトルをもって相互作用し、合力が形成された瞬間に組織がつくられ、岩を動かすことができる。組織とは、岩が動き出してから、退けられるまでの間に存在する合力(意識的に調整された3人の力の体系)である。


 バーナードの定義した言葉に即して組織概念が具体的に説明されているが、一番最後の箇所に「組織とは、岩が動き出してから、退けられるまでの間に存在する合力(意識的に調製された3人の力の体系)である」と述べられている。この言い方だと、合力が存在する間だけ組織は存在するが、それが消失した瞬間に組織がなくなるということになる。この例では、無事岩をどけられれば、3人はそれぞれの目的地に車を向かわせ、おそらく二度と力を合わせないだろうからこれでよいのだろうが、組織一般が合力が存在する間だけ存在するというのは変に思うかもしれない。しかしそうではないのである。

 夜に工場が閉まっている場合、従業員が与えられた職務を遂行していないとき、組織は存在していない。企業や病院などの協働体系が、継続的に状態(state)として存在しているようにみえても厳密にはその背後で組織がつくられては消え、またつくられるという繰り返しのプロセスが進行しているのである。
 組織がつくられることを「組織化(oraganizing)」と呼べば、組織は、繰り返し行われる組織化のプロセスのスナップ・ショットとして観察される。毎日、企業や役所で、前日と同じような行動の相互作用の体系がみられるのは、実態としてそのような体系が存在するからではなく、同じ相互作用パターンを繰り返し生み出す組織化への強い圧力がそこに存在するからである。組織構造とか組織文化は、こうした安定的パターンを生み出す主要な源泉として理解できる。

(前掲書)

 我々は普通に組織は人の集団だと思っているが、バーナードは注意深く「諸活動、諸力の体系」と規定しており、「集団」という語はそこにはない。岩をどかそうとする3人の例は具体的でわかりやすいと述べたが、「意識的に調整された3人の力の体系」という結びで一転妙なことになった。組織を「人の力の体系」であるとか、「行動の相互作用の体系」だとすると、力や作用なのであるから「実態としてそのような体系が存在する」のではなく、常に生成されているものだということになる。そうであるから、その活動や力が消えれば組織も消え去るのである。そうすると、組織は人そのものに関わるものではなく、人が生み出す力や作用の側に関わるものだということになるが、ここで『組織論』が整理している組織概念を以下に示しておこう。

 第1に、組織を構成する要素は、人間そのものではなく、人間が提供する活動や力である。個人は、パーソナリティ、個人的信念や価値観、身体的、性的、文化的特長を兼ね備えたきわめて複雑な存在である。しかし組織を構成するのは、そうした個人ではなく、その人が提供する活動である。個人と活動とを区別することが、最も本質的な点である。
 第2に、組織を構成する諸活動・諸力は、体系(systrem)として互いに相互作用をもつことである。一般にシステムとは「相互作用を持つ要素の集合」であると定義されるが、それは相互作用をもつために個々の要素には還元できない全体としての特性をもつものである。組織が個人の努力の和以上の成果を達成できるのは、こうしたシステムとしての特性をもつからである。
 第3に重要な点は、組織を構成する諸活動は、「意識的に調整」されていることである。人間の提供する諸活動を、ひとつの体系たらしめているのは、この「意識的調整」である。(中略)したがって組織における行動は、重要な側面において参加者の「個人的」なものではない。たとえば、会社のために報告書を作成している事務員は、彼自身の個人的関心とはまったく関係ない場所、時間、形式、内容によって仕事をしている。その意味で「意識的に調整された行動」という場合、その担い手が特定の個人であっても、その行動は「個人的」なものではなく、「組織的」な行動なのである。


 我々は組織を人の集団だと思うことが多いが、本質的には「組織を構成する要素は、人間そのものではなく、人間が提供する活動や力」なのである。「人間そのもの」ではないというのは、人は「個人的信念や価値観、身体的、性的、文化的特長を兼ね備えたきわめて複雑な存在」であるために、そのままでは組織の構成要素にはなりえないからである。先の例にしたがえば、3人がそれぞれに抱える事情、家があってその家に帰りたい、恋人がいて早く会いたい、追手から逃れたいなどは、岩を動かすという活動自体には無関係である。3人はそれぞれの事情から岩をどけるという組織に対する活動提供者となったが、その事情・目的はバラバラである。それが「岩をその場からどける」という一点において一致しているのであり、そのための活動の提供以外に3人を3人として一括りにする理由はない。つまり複雑な人の存在様式のままでは、「集団」という一括りに意味を与えられないのである。したがって、組織としての一括りを可能とするには、複雑な存在様式をもつ人間が目的を持って提供した「活動や力」をその実体とする他ないのである。
 組織が人の集団ではないとすると、「意識的調整」というのも、組織に属する人が組織内部で活動を調整しているのではないことになる。先の例でいえば、3人は「事前にどの方向に押すか、岩のどの部分に力を作用させるかを打ち合わせ、“1、2の3”といった合図とともに、力を合わせ」ることにしたのであるが、その活動は岩を動かすという「諸活動、諸力の体系」が自ずと求めたことである。3人の力が相互に作用し、岩をある方向に動かすほどの合力になるのは、力の作用体系に基づくのであって、人の意識が実現していることではない。そして、力の作用体系は人の意識の外にあるのであり、人の意識がおこなっているのは、その力の作用体系を見極め、複雑な自身の存在様式から特定の活動を引き出すことである。
 バーナードの組織定義をより明確に理解しようとすると、「2人以上の人々の、意識的に調整された」-「諸活動、諸力の」-「体系」という3つの文節をもった構造を意識する必要がある。そしてこの構造を端的に示しているのが、『組織論』に掲載されている図1である。
< 図1>
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 この図において「組織」は中心にあるが、参加者はそこには存在しない。参加者は「資本家」「従業員」「顧客」「供給業者」などとして周辺に描かれ、インプットとアウトプットの矢印が具体的な誘因と諸力を付して引かれている。そしてこの「資本家」「従業員」「顧客」「供給業者」が、「2人以上の人々の、意識的に調整された」に相当する。ここに記された「資本家」「従業員」「顧客」「供給業者」はすでに多様で複雑な個人ではなく、特定の活動を提供するパターンとして組織に関与しているのであり、そこでの意識的な調整がその活動のパターン化をもたらしているのである。そしてインプットの矢印が「諸活動、諸力の」に対応するが、矢印に付された「資本」「労働力」「原材料・設備等」などがパターン化された活動である。参加者のパターンは、まさにこのインプットされる活動のパターンによって規定されているのである。そして中央の「組織」が「体系」である。
 この図において示されているのは、「組織が参加者の貢献をインプットとして、参加者の誘因をアウトプットとして生産する変換体系である」ということである。そしてこの「変換体系」がインプット(貢献)を規定し、インプットが参加者を規定しているのである。人そのものは、「資本家」でもなければ「従業員」でもない。したがって、この図に登場しているのは人そのものではなく、組織によって切り出された活動パターンの源泉なのである。こうしてこの種の組織概念図に「人」は記載されないのだから、組織が人の集団であるというのは正しくないということになる。


 「組織」という言葉を知らない者はいないが、今日の組織論という学問が規定する組織の本質は、知っているはずの概念がそう簡単なものではないことを教えてくれている。そして組織概念において「最も本質的な点」は、「個人と活動とを区別する」ことである。さてここで、組織に関する言及で、わかりやすい説明をもうひとつみることにしよう。

 組織は人びとの集団である。ひとりの人間のことを組織とは呼ばない。しかし、集団には違いないが、組織は単なる集団ではない。まず、組織に属する人は好き勝手にふるまったり、てんでんばらばらに行動してはならない。(省略)いずれにしても、組織としてまとまって事を行うためには、個人の自由は制限されなければならない。つまり、組織では個々人の行為は、協同して行動するために良くも悪くも調整される必要がある。
 では、人々が協同して行動すれば、組織といえるのか?組織としては、それだけでは充分でない。
 担当者が代ったためにゴミの回収が滞ってしまったり、先生が亡くなったからといって授業がストップしてしまうようでは、組織としては失格である。
 組織というからには、組織としてまとまった行動を持続し、クルマを生産しつづけたり、ゴミを滞りなく回収したりしていなければならない。そのためには、組織では、人々の顔ぶれが変っても協同行動が維持されていなければならない。

(『組織を変える<常識>』遠田雄志著)

 ここで遠田氏は、無造作に「組織は人びとの集団である」と書いているが、氏が「個人と活動とを区別する」ことをどこまで念頭においているのかは定かでない。しかし「組織に属する人は好き勝手にふるまったり、てんでんばらばらに行動してはならない」という言い方は、文字通り「人びとの集団」のことを言っているように思える。この箇所の間違いは、「組織に属する人は」という主語を置いたことであり、それがために「個人の自由は制限されなければならない」という帰結になってしまっている。しかし組織と個人の自由の制限には、本来何の関係もない。先の図1の構図でいえば、「従業員」が組織の参加者であるが、そうすると従業員の自由は制限されなければならないのだろうか。この「従業員の自由」といった言い方には奇妙な感じを覚えるが、それは従業員が所定の労働力を提供する存在として規定されているのであり、基本的にそれ以外の意味をもたないからである。つまり従業員は個人という多様な存在様式ではなく、特定の活動の提供パターンであり、そこでの自由うんぬんは筋違いなのである。したがって、「組織では個々人の行為は」「調整される必要がある」のではなく、個人が自身を調整して所定の活動を組織に提供しているのであり、この個人の自己調整は組織の外で行われているものなのである。
 さらに遠田氏の説明では、「組織に属する人は」を前提としていることで、「組織では、人々の顔ぶれが変っても協同行動が維持されていなければならない」という帰結にもなっている。しかし、組織というものには「顔ぶれ」=個人は属していないのであって、「維持されていなければならない」というような禁止・制限が設けられているわけでもない。再び図1の「従業員」でいうのならば、従業員に「顔ぶれ」はなく、この組織参加者はそれぞれの活動を提供しているが、その活動はもとより交換可能なものである。つまり組織においては、「顔ぶれ」を交換可能な存在に仕立てているのではなく、始めから交換可能なパターンとしての活動提供で成り立っているのである。
 もともと組織にインプットされる諸活動・諸力には、固有性などなく交換可能なものである。しかしその諸活動・諸力を提供するのはやはり個人であり、その個人が参加者とならなければ社会組織は存立しえない。遠田氏は、「自由は制限されなければならない」と述べるが、これは人の存在様式が「自由」といった不確定性を帯びていることを示している。つまり何の工夫もないところでは、所定の活動を安定的にインプットできないのが人であり、それでは組織が不安定になるので、ある種の箍(たが)が必要となるのである。その箍が規範や動機付けであり、先に「組織構造とか組織文化は、こうした安定的パターンを生み出す主要な源泉として理解できる」とあったのは、このことを指しているのである。つまり我々が通常組織と聞くとイメージする組織構造やその組織のルールは、活動を提供する人間が「自由」で「パーソナリティ、個人的信念や価値観、身体的、性的、文化的特長を兼ね備えたきわめて複雑な存在である」ことから派生した、副次的な特性であったわけである。先の岩の例では、3人それぞれに十分な動機付けが前提としてあり、組織も岩を一回限りどければよい一時的なものであったがために、構造もルールもいらなかったのであるが、毎日岩が転がり落ちてくるとなればそうもいかなくなる。決まった時刻に集合して、同じように力を合わせねばならないし、定期的に休みも必要となってくる。そうなれば交代制を決めなければならないし、欠員が生じた場合の対処法も決めておく必要がある。そしてそうした取り決めと実施を監視して、滞りなく毎日岩の除去が行われることに責任をもつ者も必要となるだろう。これらはすべて、人が組織に関わることで副次的に出現するものである。もしこの日々岩を除去する体系に、岩を自動的に除去する機械が導入されていれば、機械には自由も信念もないので、構造もルールもなしに毎日安定的に岩は取り除かれるのである。

 さて、長々とバーナードやサイモンによって提唱された組織論について説明してきたが、この「諸活動、諸力の体系」としての組織概念を基本として、戦国期の大名組織について考察を進めてみようと思う。戦国期の武家が組織を形成していたとすると、その目的はそれぞれの知行を守りそれを拡大することと、さし当り捉えることができようか。そして参加者は軍役を組織に提供し、組織は知行の安全と新たな宛行いを与えるということになるだろう。しかし我々はそうした組織を、「北条氏」とか「武田氏」と呼ぶのであるが、これはどうしたわけであろうか。
 北条氏の場合で考えてみると、これを組織だとすると、この組織への参加者となるために欠かせない条件がある。その条件とは、北条氏と主従関係を結ぶことである。そしてこの北条氏との主従関係が不可欠な条件であることから、この集団は「北条氏」と呼ばれることになる。つまり「北条氏」とは、北条氏とその従者の集団という意味なのである。これは当たり前のことと言えばそうであるが、それでは「諸活動・諸力の体系」としての組織とこの主従関係とは、いったいどういった関係にあるのだろうか。
 組織は先の図1から、「人-[組織]-人」という構造をもっていると表現できよう。一方で北条氏の主従関係は、「給人-北条氏-給人」という構造であると規定できる。この構造をみると、どちらも「人」と「人」が直接の関係を持っているのではなく、[組織]あるいは「北条氏」と関係を結んでいるのであり、それらを介して一括りにされているということがわかる。そうしたことで両者をともに「集団」とするならば、「北条氏」という集団は、主である北条氏が[組織]と重なり合わないと組織としては成り立たないことになる。しかし生身の北条氏が、「諸活動・諸力の体系」と同体というのは、いかにも考え難いことである。こうしてみると、主従関係と組織は両立しえないものではないかと思えてくる。
 組織においてもトップと呼ばれる存在はあるが、これと主従関係における主とは何が違うのであろうか。例えば企業におけるトップが社長である場合、組織内の権限がいかに強かろうと、社長は役職であり活動提供者の一人がその役割を担っているに過ぎない。したがって、社長も交換可能なのであるが、主従関係にある主は交換不可能な存在のはずである。しかし主従関係においても、代替わりというものがある。代替わりは、主の死去や隠居によって主が不在となったことを契機として発生するのであるが、それではこの代替わりは主の交換なのであろうか。

 代替わりにともなって、氏康が何よりも行わなければならなかったのは、領国内におけるさまざまな権利関係の確認作業であった。家臣には所領等が与えられていたが、それらは基本的には、その当主限りにおけるものであり、当主の代が代わると、あらためてその関係を締結し直す必要があった。それが同時に、家臣との主従関係の更新ともなった。家臣の側にしても、それらの所領等の領有や、役(大名に負担する税金の一種)の免除などの特権について、新しい当主に保証してもらう必要があり、積極的にその保証を求めてきたから、それらについてあらためて確認し、承認する作業を行わなければならなかった。こうした、前代以来の所領の領有などをあらためて承認することを、代替わり安堵という。
(『戦国大名の危機管理』黒田基樹著)

 北条氏綱が天文十年(1541)に病没し、主不在となった「給人-氏綱-給人」の主従関係は、あらためて「給人-氏康-給人」という主従関係に仕立て直す必要があったということである。企業においては、従業員は社長と雇用関係を結んでいるのではなく、組織と雇用関係を締結しているがために、社長の交代は彼らの雇用(組織参加)に関わりがないが、主従関係は主と従者の直接関係であるがために、主の不在は関係そのものの解消とならざるをえない。そしてそれが代替わりとなるのは、不在となった主の家督継承者と従者の間に主従関係を継続したいという意志があり、これに基づいて家督継承者とかつての主の従者が新たに主従関係を構築するからである。主従関係自体で考えるならば、それは「従者-主-従者」の構造なのだから、主の不在ではこの構造が成り立たないことは明白である。そして「従者-主A-従者」と「従者-主B-従者」が別の主従関係であることも、これはまた明白なことである。
 主も従者も交換できない。これが主従関係というものであり、戦国大名「北条氏」は紛れもなくその主従関係をその基盤としていたのである。もしこれが[北条氏]という組織であったならば、当主という役職に就く者が変わっただけであり、当主以外の参加者と[北条氏]の関係は何も変わるところがないはずである。したがって「北条氏」を、単純に組織であるということはできないのであるが、そうかといって組織でないわけでもない。「代替わり」という表現がとられるのは、主こそ氏綱から氏康へと代わったのであるが、従者側の異動が基本的にそこにはなく、「従者-( )-従者」という固定構造があって、( )内が代わったという認識があるからである。前回伊豆衆として登場した清水康英や笠原美作守は、「清水康英-氏綱-笠原美作守」としてあったが、代替わり後は「清水康英-氏康-笠原美作守」となった。この従者側を固定する力は、氏康の力量もあっただろうが、そこに[北条氏]という組織の存在があったからでもあろう。そしてこの「従者-( )-従者」という固定構造を、当時の人びとは「家中」と呼んでいた。そうであるならば、北条氏においては「清水康英-氏康-笠原美作守」という主従関係と、「従者-( )-従者」という家中が並存していたことになるだろう。このように戦国大名においては、家中という組織と、大名個人と被官個人の主従関係の集合体が二重構造をなしていたのであり、しかもそれがほぼ均衡していたことに特徴があるのではないかと思うのである。
 戦国組織論と題して、ここまで三回論を立ててきた。この「戦国組織論」という題には、戦国期の組織について論じるという意味合いよりも、戦国を介して組織というものの本質に迫るという思いを込めている。「組織」という概念はそれほど自明なものではなく、したがってそれを前提とした戦国期固有の組織のあり方などは、どうにも論じるには難しい。おそらくこれは、前にも扱ったが「権力」などという概念も同様であり、実のところ歴史とはこうした社会の基礎概念を考察するのに適しているのではなかろうかと思うのである。現代人は、主従関係など古めかしい昔の因習くらいに思っているのだろうが、組織の時代といわれる「組織」に対峙させられうる貴重な仕掛けであるのではないだろうか。次回は、なぜ主従関係なのか。今回は述べられなかった組織の根幹に対置させながら、このことを解いていこうと思っている。

by mizuno_clan | 2010-04-24 17:18 | ☆談義(自由討論)

【寄稿14】将軍足利義昭の御内書 »»Web会員««

◆足利義昭より水野信元に遺れる書状 
                              
                                         筆者:水野青鷺
  

update 2010/04/21

就(二)近般信長恣儀相積(一)、不慮城都取退候、然此節甲州令(二)一味(一)、天下静謐馳走頼入候、(為脱カ)其差(二)越一色中務太輔(一)、猶藤長可(レ)申候也、
    (天正二年[1574] ) 三月廿日         (足利義昭)(判)
               水野下野守(信元)とのへ  


                            [榊原家所蔵文書]坤 [古證文]六 [別本士林證文]

                   出典:中村孝也『新訂 徳川家康文書の研究』上巻 日本学術振興会


[意訳]
 「武田勝頼と協力して信長を討伐せよ」

[訓み下し文]
 こんぱん のぶながの ほしきままのぎ あいつもるにつき、ふりょ じょうとを とりのきそうろう、すなわち このせつ こうしゅうを いちみに さしめ、てんかせいひつに ちそうたのみいり そうろう、そのため いっしきなかつかさのだいぶを さしこす、なお ふじなが もうすべく そうろうなり、

[釈文]
 足利義昭より水野信元につかわされた書状 [御内書]――
 この度、信長のほしいままの振る舞いがひどくなり、思いがけなく都を退いた。そこで最近甲州の武田勝頼を仲間にして、天下静謐(*1)のために奔走するよう頼み込んだ。そのため一色中務大輔(*2)を差し遣わした。尚 委細は(室町幕府御供衆)一色藤長が申します。

[註]
*1=天下静謐(てんかせいひつ)=天皇の命を受けて将軍が逆賊を退治し、全国にわたる平穏な社会状況をいう。しかし南北朝以降、天皇のためではなく「室町将軍のための天下静謐」に矮小化していた。
*2=『新訂 徳川家康文書の研究』掲載の「ほぼ同文の徳川家康宛内書」の注記には、(藤長)[一色藤長]とあるが、藤長の官位は式部少輔であり、『後北条氏家臣団人名辞典』の「中務大輔(なかつかさのだいぶ)」には、「古河公方(こがくぼう=室町時代後期から戦国時代にかけて下総国古河[茨城県古河市]を本拠とした関東足利氏)足利義氏の家臣。」とあり、「なお、年未詳九月二十五日足利義氏官途状(滋賀県立安土考古博物館所蔵下乃坊文書・戦古一一八四)で義氏から「中務大輔」の官途を受けた。」とあることから、本史料紹介では、「中務大輔」を古河公方足利義氏家臣に比定する。

by mizuno_clan | 2010-04-11 09:14 | ★史料紹介