【談義1】水野氏と戦国談義(第三十一回)

国人小河水野氏の困惑②-水野金吾構へ-
談義:江畑英郷

 前回は、天文20年とみられる今川義元の書状に「苅谷赦免」という文言があることに注目して、そこから小河水野氏とその領地に隣接する三河碧海郡の領主たち、そして鳴海の山口左馬助教継の間に深刻な対立・紛争があったことを導き出してみた。そして、この尾張東南部から三河西南部にかけての地域紛争が、尾張の織田と駿河・遠江・東三河の今川という二大勢力の対立の構図に優先するのではないか、という視点を提示してもみた。このことは、戦国大名というものを一元的な組織として捉え、その頂点にある大名(それは必ずしも個人ではなく重臣を含めた合議体でもある)の、領地拡大志向を原動力とした組織運動であるという視点に対するアンチテーゼである。ただしアンチテーゼであるといっても、それを全面的に否定するものではない。今の時点では、地域のそれも地侍・国人といった階層の論理が独自性を帯びて存在しており、それと矛盾しないあり方で戦国大名は存在していたのではなかろうか、という主張にとどまる。そして今回もこの視点に軸足をおいて、「苅谷赦免」以降の小河水野氏とその周辺勢力の動向について考えてみようと思う。
 
 鳴海城を居城とする山口左馬助教継は、前回示したように「苅谷赦免」を快く思わなかったのであるが、刈谷城が赦免された後にどのような行動を起こしたであろうか。『信長公記』には、その後になって今川方であることを鮮明にした教継の動向が、次のように記されている。

 織田上総介信長公、十九の御年の事に候。鳴海<ナルミ>の城主山口左馬助、子息九郎二郎、廿年<ハタチノトシ>、父子、織田備後守殿御目を懸けられ候ところ、御遷化<センゲ>候へば、程なく謀叛<ムホン>を企て、駿河衆を引き入れ、尾州の内へ乱入。沙汰の限りの次第なり。
 一、鳴海の城には子息山口九郎二郎を入れ置く。
 一、笠寺に取出<トリデ>要害を構へ、かづら山、岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎五人在城なり。
 一、中村の在所<ザイショ>を拵え、父山口左馬助楯籠<タテコモ>る。

(『信長公記』新人物往来社 桑田忠親校注)

 ここに、「織田備後守殿御目を懸げられ候ところ、御遷化候へば、程なく謀叛を企て」とあることから、信秀の死去を契機として、山口教継は織田弾正忠家から離反したことが示されている。『新修名古屋市史』は、織田信秀の死去を天文21年3月としている。そしてこの「謀叛」が、「織田上総介信長公、十九の御年の事」だとあるが、信長は天文3年の生まれとみられることから、これもまた天文21年に、「駿河衆を引き入れ、尾州の内へ乱入」したのである。そしてここに、その具体的な引き入れ状況が記されている。
 教継の本拠である鳴海城は息子の九郎二郎に守らせ、笠寺に砦を構築して加勢にやってきた駿河衆を入れた。そして教継自身は、「中村の在所を拵え」てそこに立て籠もったのである。笠寺に砦を築き中村に立て籠もったことからすれば、牛一が言うところの「謀叛を企て」たのは単に山口親子だけではなく、笠寺や中村など熱田東南部の国人や土豪が一斉に行動を起こしたものと考えられよう。そして「かづら山、岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎」など今川の錚々たる武将たちが、これを支援するために派遣されたのである。
 太田牛一は、この山口教継など笠寺・鳴海方面の尾張衆の謀叛を語った後に、これに対する信長の反撃を描いている。

 一、織田上総介信長公十九の御年、人数八百計りにて御発足、中根村をかけ通り小鳴海へ移られ、三の山へ御あがり候のところ、
 一、御敵山口九郎二郎、廿の年、三の山の十五町東、なるみより北、赤塚の郷へは、なるみより十五、六町あり。九郎二郎人数千五百計りにて、赤塚へかけ出だし候。

(前掲書)

 牛一はこの信長と山口九郎二郎の戦いを、「三の山赤塚合戦」と呼んでいるが、ここで信長は「人数八百計り」の兵を率いて小鳴海へ出撃した。そしてこれを迎え撃ったのが、鳴海城を守備していた教継の息子九郎二郎であった。この動きは、笠寺・鳴海方面の尾張衆の謀叛に対する信長の反応と考えられるが、これについて『新修名古屋市史』は次のように述べている。

 戦いに先立って信長は、赤塚のすぐ西にある丘陵「三の山」(『信長公記』首巻)に陣を構え、山口氏の動きをうかがった。この三の山は現在の緑区鳴海町に所在する山王山である。現在、山王山は名古屋市によって公園化が進められている。
 すでに山口氏は、天白川西側の笠寺(南区笠寺町)と中村(南区呼継町)に砦や要害を構築して、鳴海から熱田方面へ連絡した鎌倉街道を押さえていた。この戦いで信長が、現在の瑞穂区中根を抜け、天白区と緑区の境にあたる緑区古鳴海を経て、山王山に進軍するという東に迂回したルートを取ったのも、そうした理由からであった。


 笠寺・鳴海方面における尾張衆の謀叛は、「鳴海から熱田方面へ連絡した鎌倉街道を押さえ」られるという事態を引き起こしていた。これに対して信長は、三の山・赤塚と兵を動かして山口方と戦ったのであるが、ここにいくつか気になる点がある。

①信長の兵力が「人数八百計り」で山口の兵力が「人数千五百計り」と、およそ倍の違いがあるが、なぜ信長の兵力はこのように少なかったのか。
②信長と戦ったのは山口九郎二郎など尾張衆だけであるが、なぜ加勢にきたはずの駿河衆の参戦がなかったのか。
③那古野城、あるいは信長の重要拠点である熱田からは、笠寺・中村が手前になるにもかかわらず、なぜ信長はその先の三の山へ向かったのか。

 『信長公記』はこの戦いについて、「いづれも、みしりかへしの事なれば、互に、たるみはなかりけり」と記しており、戦ったのは相互に顔見知りの者たちだったとしている。このことからすれば、山口九郎二郎が率いた「人数千五百計り」はすべて尾張衆であったことになるが、わざわざ駿河衆を笠寺の砦に入れておきながら、彼らが参戦していないというのはどうしたことなのだろうか。山口教継らが信長に対して謀叛を起こし、その謀叛によって信長と戦闘に及ぶだろうということで、駿河兵を笠寺砦に配備したのではなかったのか。そうであるならば、当の信長が兵を動かし小鳴海に出動したからには、駿河兵の参戦は当然あってよいことである。
 さらに、謀叛を起こした尾張衆だけで「人数千五百計り」の兵力を有し、これに葛山・岡部・三浦・飯尾・浅井などの有力武将が備えている敵地に、たった「人数八百計り」で挑み進んでくる信長の行動も不可解である。そしてこの「八百計り」という人数は、信長が率いた兵数を明記する際に必ず登場する。信長が斉藤道三と富田の正徳寺で会見するために引き連れたのは、「御伴衆七、八百、甍を並べ」た兵士たちであった。また弟信勝と対立し、柴田勝家・林美作守の軍勢と戦った際には、「信長の御人数七百には過ぐるべからず」と記されている。このことからすると、この「人数八百計り」というのは、弟信勝や重臣林秀貞、あるいは叔父の織田信光などが擁する兵数を加えていない、信長直率の兵力であったということになりはしないだろうか。
 信秀死去を契機にして謀叛が起こったとなると、これは織田弾正忠家に対するものであったと考えるところであるが、なぜか信長が直属兵だけでこれに立ち向かい、謀叛側は頼りの駿河勢が加勢しないという奇妙な戦いがここに描かれている。はたして信長は、駿河勢が出てこないと知っていたのだろうか。鳴海城から出撃した山口九郎二郎が「人数千五百計り」で、信長が率いた「八百計り」の倍である。もしこれに駿河勢が加わっていたならば、その差はさらに開き、3倍4倍に達していたことだろう。そうであるのに信長は、この寡兵で三の山に上ってきたのである。
e0144936_15171788.jpg さらに妙だと思うのは、信長の進軍経路である。『新修名古屋市史』は、「三の山は現在の緑区鳴海町に所在する山王山である」と述べ、信長は「現在の瑞穂区中根を抜け、天白区と緑区の境にあたる緑区古鳴海を経て、山王山に進軍するという東に迂回したルートを取った」と説明している。信長が三の山(山王山)へ至るルートを、<図1>に青線で描いてみたが、たしかに笠寺や中村の砦を避けて東に迂回している。ただ『新修名古屋市史』は、山口方が「鳴海から熱田方面へ連絡した鎌倉街道を押さえていた」から、このルートをたどったのであり、信長の標的は鳴海城あるいは鳴海城の将兵にあったと決めつけているのが、少々問題である。
 謀反の中心人物である山口教継は、中村に立て籠もっているはずで、その中村を素通りして鳴海に向かう理由がよくわからない。信長が那古野城あるいは熱田から出撃すれば、まず行き会うのは中村の砦のはずである。そしてそうであるから、山口教継が立て籠もったのではなかろうか。それなのに信長は、それを避けて東に迂回して、どういうわけか中村砦と笠寺砦、そして鳴海城のちょうど中間点になる三の山に上がったのである。山口方の3つの軍事拠点の兵力を合わせれば、このときの信長の3倍か4倍、あるいはそれ以上であろうというのに、自ら腹背に敵を抱えるような場所に進み出たというのは、どう考えても奇妙ではないだろうか。そしてさらに不思議なのは、鳴海城からこれを迎撃に出た山口九郎二郎である。味方の砦に押しつけるように北北西にぶつかって行くべきだと思うが、なぜか三の山の東方向にある赤塚へ向かったのである。
 大田牛一が描くこの三の山赤塚合戦について、『新修名古屋市史』は「山口氏の動きをうかがった」とし、『豊明市史資料編』解説は、「信長は鳴海城攻撃のために出陣した」としている。この合戦は、離反して今川方となった山口教継を中心とする勢力に対する信長の反撃であると受け取って、通常それを疑わないのであるが、先にあげたように3つの解しかねる疑問がそこには厳然と存在するのである。しかしながら、三の山赤坂合戦に関する『信長公記』の記述には、さしあたりこの3つの疑問を解く鍵は見当たらない。したがって、三の山赤坂合戦の疑問に答えるためには、より空間的時間的視野を広げて考察してみる必要があるだろう。

 三の山赤塚で信長と山口九郎次郎が戦ったのは、天文21年4月と考えられるが、これより後の信長は清洲の守護代と争うようになる。そしてそれは、叔父の織田信光の計略によって清洲城が陥落する天文23年まで続くのであるが、その間に鳴海より南の知多半島では、今川勢の新たな攻勢の動きがあった。

 さる程に、駿河衆岡崎に在陣候て、鴫原<シギハラ>の山岡構へ攻め干<ホ>し、乗取り、岡崎より持ちつゞけ、是れを根城にして、小河の水野金吾構<カマエ>へ差し向かひ、村木と云ふ所、駿河より丈夫に取出<トリデ>を相構へ、駿河衆楯籠<タテコモ>り候。並びに、寺本の城も人質出だし、駿河へ荷担<カタン>仕り、御敵に罷りなり、小河への通路を取切り候。御後巻<ウシロマキ>として、織田上総介信長御発足たるべきの旨候。
(前掲書)

 このころ岡崎城は今川義元に接収されており、当主竹千代(後の松平元康)は駿府で義元に養育されていた。したがって岡崎城には駿河の将兵が駐屯しており、その駿河勢と松平勢が共同して「鴫原の山岡構へ」を攻め落としたのである。そして今川方は、この軍事拠点を「根城にして」村木に堅固な砦を構築する。そしてそれより西の伊勢湾に臨む寺本城からも人質を出させて、今川方は「小河への通路を取切」るラインを構築したのである。しかしながら、『信長公記』は単に「小河への通路を取切り候」と述べるだけで、小河と結ぶどの地点への通行が遮断されたかを記していない。また、この封鎖あるいは遮断を実行した今川方の意図についても示されていないが、この点について、『新修名古屋市史』は次のように述べている。

 しかし、織田信長は、清須方との戦いに専念することはできなかった。岡崎在城の今川勢が、小川城(城主水野信元)に対抗して、村木に砦を構えて守兵を置き、さらに近くの寺本城も今川方に荷担したのである。村木砦が信長と同盟者水野信元との連絡を絶つことになるため、信長は出陣を企図した。

 ここでは、今川方が構築したラインが、「信長と同盟者水野信元との連絡を絶つことになる」と述べられている。同書はこの「通路を取切り」が、「御後巻として、織田上総介信長御発足」という結果をもたらしたのだから、信長と小河城主水野信元の連携が扼されたという理解をしているのだろう。ただし、「連絡を絶つ」という曖昧な表現をとり、今川方の意図についてそれ以上踏み込んだ見解は示していない。「連絡を絶つ」のは第一のステップであるはずで、その後どうしようとしていたのかが明確に示されてはいない。これについては、『刈谷市史』の記載のほうが要をえている。

 しかし地理的にみると重原城は、鎌倉街道(中世東海道) の八橋宿(現知立市)から知立を経て刈谷城にいたる道筋を抑える位置にある。したがって今川方が水野氏の軍事行動を抑制するためには、どうしても確保せねばならない。それ故、水野氏の反今川の姿勢が明らかになった時点で重原攻めが行われ、水野方の山岡氏は敗退したのが二十三年正月なのであろう。刈谷水野の信近がこの時どう動いたか定かではない。
 重原と連携した村木砦は、小河城攻撃のための前進拠点であった。小河水野氏が今川氏に服属するならば、鳴海山口氏と相まって知多郡や愛知郡南部は完全に今川領国化する。それをくい止めるため信長の作戦が、二十三年一月二十四日の村木砦強攻であった。


 『新修名古屋市史』そして『刈谷市史』も、この村木砦合戦における今川方の意図の説明がやや中途半端であるが、両者を足して合わせると、次のようになるだろう。

①今川方の当方面における最終目的は、知多郡や愛知郡南部を「完全に今川領国化」することにあった。
②そのために、小河城攻撃が企てられた。
③そして小河城を攻撃するためには、重原城-村木砦-寺本城を連携させる必要があった。
④上記3拠点の連携は、「信長と同盟者水野信元との連絡を絶つ」ことになる。

 そして『新修名古屋市史』や『刈谷市史』は明確には述べていないが、次の⑤が村木砦構築の直接的な意義であると考えられる。

⑤信長が那古野城から小河城へ救援に向かう道筋を、重原城-村木砦-寺元城の連携で封鎖しこれを阻む必要があった。

 『新修名古屋市史』が言うところの「連絡を絶つ」は、「通路を取切り候」に対応しているのだと思うが、内容が曖昧である。一方で『刈谷市史』は、「重原と連携した村木砦は、小河城攻撃のための前進拠点であった」としており、「通路を取切り候」に直接に触れていない。大田牛一は、「並びに、寺本の城も人質出だし、駿河へ荷担仕り、御敵に罷りなり」と書いているのだから、重原城-村木砦-寺本城の連携で「通路を取切り候」ということなのだと思う。したがって、今川方の小河城攻撃に対する信長の援軍を、この3拠点の連携が阻むという意図を今川方がもっていたことになる。
 このような上記①~⑤のような理解は、三河を領国化した今川がさらに西へ勢力を拡大しようとし、尾張の中心的な勢力が信長であったとするならば、ごく当たり前にそう考えるところのものである。しかしそうした前提に立ってものをみると、史料に存在しているちょっとした表現、おやっと思うような記述に鈍感になってしまう。先に三の山赤塚合戦においては、決して軽視できない3つの疑問が取り出されたが、この村木合戦においても『新修名古屋市史』や『刈谷市史』が語るように事は単純ではないように思う。どこが単純ではないのか、『信長公記』の記述を詳細に検討してみよう。

 まず、重原城-村木砦-寺本城という軍事ラインを構築し、小河城を攻撃した段階で救援に駆けつけるであろう信長の進軍を阻止するという見方であるが、『信長公記』には「御後巻として、織田上総介信長御発足たるべき」と書かれていた。この「後巻」という用語であるが、『日本戦陣作法辞典』には、「敵軍の後面にまわって背後から攻めることをいう」とある。したがって、信長が小河に向かおうとすると正面に敵がいるので、「後面にまわって背後から攻める」ことになるのだと、牛一はあっさりと書いているのである。そして実際に信長の援軍が進んだ経路は、熱田から海路を経て知多半島へと向かうものであった。

 正月廿一日あつたに御泊り、廿二日以<モッテ>の外<ホカ>の大風に候。御渡海なるまじきと、主水<カコ>、楫取り<カジトリ>の者申し上げ候。昔の渡辺、福島にて逆櫓<サカロ>を争ふ時の風も、是れ程こそ候はめ。是非において御渡海あるべきの間、舟を出だし候へと、無理に廿里計りの所、只<タダ>半時計りに御着岸。
(『信長公記』)

 今川方が、重原城-村木砦-寺本城という軍事ラインを構築して「小河への通路を取切り」したのであるならば、実にあっさりとこれが回避されている。また牛一の言い方も、ごく当然のように「御後巻として」援軍を発するとあり、このことからすれば、今川方の軍事ライン構築の努力は実に間が抜けていたことになる。さらに、信長の援軍を阻止しておいて小河城を攻略することに今川方の意図があるとするならば、今川方の行動はまた実に鈍重であったことにもなる。

 併<シカ>しながら、御敵、清洲より定めて御留守に那古野へ取懸け、町を放火させ候ては如何<イカガ>とおぼしめし、信長の御舅<シュウト>にて候斎藤山城道三<ドウサン>かたへ、番手の人数を一勢乞ひに遣はされ候。道三かたより、正月十八日、那古野留守居として、安東伊賀守大将にて、人数千計り、田宮・甲山・安斎・熊沢、物取新五此等を相加へ、見及ぶ様体<ヨウテイ>日々注進候へと申し付け、同じ事に、正月廿日、尾州へ着き越し候ひし。
(前掲書)

 このころ信長は清洲の守護代と敵対しており、信長が那古野城を空けて小河の援軍に赴けば、清洲方が那古野へ攻めてくるだろうことが予想された。このため信長は俄かには動けず、舅である斉藤道三に支援を依頼し、これを承諾した道三に命じられた安藤守就が、1月20日に1千の兵を引き連れて那古野に陣を構えたのである。信長はこの道三の支援をえてようやく出陣が可能となり、翌日21日には熱田に軍を進めたというわけである。こうした信長側の事情があったにもかかわらず、今川方の小河城攻撃はその間実行に移されずに時を過ごし、結局は信長の来援を許してしまったのである。
 村木砦が完成して今川方の兵がそこに入ってから、信長が小河に来援するまでどれくらいの期間があったのかは定かではない。しかしながら、信長側のこうした動きからすれば、少なくとも半月ほどは準備にかかったであろうと思われる。その間村木砦に入った今川方は、何をまごまごしていたのであろうか。せっかくの信長の援軍阻止ラインも徒労となり、信長側に拘束されて動けない事情があってもそれを活かすことができなかった。このように『新修名古屋市史』や『刈谷市史』が説明する、村木砦構築に関する今川の狙いの説明が正しいのであれば、今川方はなんとも迂闊で愚鈍であったことになってしまう。しかしながら、今川方にそのような問題があったと考えるよりも、村木砦構築の狙いが別のところにあったとする方が正しいのかも知れない。したがって、小河城攻略のために信長の来援を阻止する必要があり、そのために村木砦が構築されたとする見解をひとまず置いておいて、もっと別の見方をすることができないか探ってみることにしよう。
つづく
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by mizuno_clan | 2011-02-05 15:39 | ☆談義(自由討論)

【談義1】水野氏と戦国談義(第三十一回)

つづき

 『信長公記』には、「小河の水野金吾構<カマエ>へ差し向かひ」と、村木砦の配置について記されていた。この「小河の水野金吾構へ」を、『新修名古屋市史』は「小川城(城主水野信元)」だとしているが、そうであると「水野金吾」は水野信元であるということになる。しかしながら、『信長公記』において水野信元は、水野下野守として描かれるのが通常である。

 其の日は野陣を懸けさせられ、直ちに小川へ御出で、水野下野守に御参会候て、爰許<ココモト>の様子、能々きかせられ、小川に御泊り。
(前掲書)

 同じ「村木の取出攻めらるるの事」という節で、同一人物を「水野金吾」としたり、あるいは「水野下野守」と書き記したというのはどうであろうか。この村木砦合戦が描かれた節には、「東大手<オオテ>の方は水野金吾攻め口なり」、「既に薄暮に及び侯の間、侘言<ワビゴト>の旨にまかせ、水野金吾に仰せ付けらる」という二箇所に「水野金吾」が登場する。これらの記述の仕方をみても、「水野金吾」と「水野下野守」が同じ人物であるとは思えず、「水野金吾」を水野信元とするには無理があるように思う。しかしそうであるならば、この「水野金吾」とは誰のことなのであろうか。
 これについては、水野青鷺さんのブログ「水野氏ルーツ採訪記」に、「村木砦址(水野金吾篇)≪考証≫」という記事が掲載されている。水野金吾に関してはこちらに詳しく考証されているので、是非一読されることをお勧めする。この水野青鷺さんの考証の結論は、「“水野忠分”が、父の死後、水野下野守右衛門大夫忠政の“衛門の唐名=金吾”を名乗っていた可能性は高いものと思われる」である。この水野忠分<タダチカ>については、『東浦町誌資料編3』に掲載されている「家忠日記」の解説に次のようにある。

 ここに登場する水野藤次(郎)は、『寛永譜』では、忠政の六男某、『寛政譜』では八男忠分とする人物である。尾張国愛知郡山崎(現名古屋市南区呼継元町付近)と緒川の二箇所の地名をつけて登場するので、両所に館をもっていたことがわかる。

 「村木砦址(水野金吾篇)≪考証≫」を読むと、「水野金吾」に一番近いのが忠分だとういうことであるが、少なくとも水野信元以外の小河水野一族の誰か、それも忠政の子息ということになるだろう。しかしそうなると、先に述べたように小河城の城主が水野信元であるという理解と、この「小河の水野金吾構へ」という表現が矛盾してしまう。なぜならば、「小河の水野金吾構へ」では、水野金吾が城主である小河城という意味になってしまうからである。もっともこの小河城(高薮城)の城主を、水野忠分だとする見解もある。木原克之氏は『郷土研究史みなみ第73号』で、「信元は水野棟梁といっても、どちらかと言えば刈谷衆頭に比重のかかった存在であった」とし、「緒川領地の三割は緒川衆頭の忠分が領知していた」と述べている。しかしながら、この点に関しては『刈谷市史』が示す、小河城主=水野信元、刈谷城主=水野信近という定説は動かないところであろう。
 このように「小河の水野金吾構へ」を小河城であるとすると、どうにも解釈の筋が通らないという問題が起こる。そこで「構へ」という用語に注目して、別の見方ができないかを考えてみよう。「村木の取出攻めらるるの事」には、拠点軍事施設に関する次のような記述がある。

1.鴫原の山岡構へ攻め干し
2.小河の水野金吾構へ差し向かひ
3.駿河より丈夫に取出を相構へ
4.寺本の城も人質出だし
5.あらこの前田与十郎城へ罷り退き
6.駿河衆楯籠り候村木の城へ取り懸け
7.寺本の城へ御手遣ひ

 「小河の金吾構へ」とは別に、「鴫原の山岡構へ」にも「構へ」が使われている。そして『信長公記』首巻では、拠点施設を「構へ」と表現するのはこの「村木の取出攻めらるるの事」に限られている。「城」「取出」という言い方もしているなかで、この2箇所だけ「構へ」と表現するのはなぜなのであろうか。まずはここで、戦国期の拠点施設用語を確認しておこう。『新修名古屋市史』には、戦国期の拠点施設用語について次のような解説がある。

 城あるいは城郭、城館は、館・砦などの施設の総称として用いる。細かく分類すれば軍事と政治・居住・文化の拠点といった諸機能を合わせもったものを城あるいは城郭と呼ぶ。これに対して、ある程度の防御施設は備えても、居住や政治や文化の拠点としての機能に比重があったものを館という。さらに軍事機能を最優先にして、政治や居住性といった機能性が低いものが、砦であった。

 上記の定義にしたがえば、「村木の城へ取り懸け」という表現があるが、村木の施設は砦ということになる。「小河の水野金吾構へ差し向か」うように構築され、すぐに「駿河衆楯籠<タテコモ>り侯」というのであるから、この施設の目的は軍事にあるからである。そしてこの村木砦の規模は、次のようであったとされている。

 村木砦は、低地に面した段丘の端部に立地しており、南側は「大堀霞むばかりかめ腹にほり上げ、丈夫に構へ」たとされ、『信長公記』首巻でも、特に厳重に構えられたようすが記されている。臨時の砦とはいえ、村木砦はきわめて堅固なものであったといえよう。
 奥田敏春の研究と終戦後に撮影された米軍の航空写真をもとに今川氏の村木砦を復元すると、東西一二〇メートル、南北二〇〇メートルのややいびつな四角い外郭のなかに、約五〇メートル四方の内郭を備えた砦であったと考えられる。
(『新修名古屋市史』第二巻)

 このように村木砦は大規模にして堅固なものであったのであるが、小河城を攻めるためにこのような砦がはたして必要だったのであろうか。今川方の狙いが、防衛することではなく金吾構へを攻め落とすことであったのならば、この村木砦の規模はどうにも解せない。深く大きな堀を備え、頑丈に構築されたということは、この砦が防御に優れているということである。それでいて「小河城攻撃のための前進拠点」であり、「臨時の砦」であったというのであるが、そうした拠点にこれほどの防御力が必要なのであろうか。
 この村木砦は、「鴫原の山岡構へ」を「根城にして」構築されたのであるが、こちらは通常『刈谷市史』のように重原城のことであると理解されている。そして村木砦合戦より後のことになるが、桶狭間合戦で今川軍が敗北すると、尾張やそれに隣接する三河の城から今川軍が退却する。『信長公記』には、「大高城・沓懸城・池鯉鮒の城・原、鴫原の城、五ケ所同事退散なり」との記載がある。ここに「鴫原の城」とあるが、ここでは「構へ」ではなく「城」となっている。このことからすると、牛一は「構へ」と「城」を特に区別してはいないのであろうか。
 この節の『信長公記』の記述の仕方をみると、「寺本の城」「村木の城」といった<地名+城>の形式と、「鴫原の山岡構へ」「小河の水野金吾構へ」「あらこの前田与十郎城」といった<地名+名+施設>という二つの型の違いが表れている。このような拠点施設の示し方の違いは、大田牛一の単なる気まぐれなのであろうか。この点を確認するために、ここで「あらこの前田与十郎城」という表現に注目してみよう。
 荒子の城というと我々はすぐに前田利家を連想するのであるが、この時期の城主は利家の父である利昌である。戦国人名事典(新人物往来社)に、利昌は「荒子城を築き城主となったといわれる」とあり、没年が1560(永禄3)年とある。そうするとこの前田利昌が与十郎かというと、どうもそうではないらしい。同族に前田種利という人物がいるが、彼が与十郎だという説が一般的らしい。そしてそういうことであると、「あらこの前田与十郎城」は荒子城ではないことになる。荒子城や前田氏について確かなことはわからないのであるが、大田牛一が「あらこの城」と書かずに、そこに城主名をわざわざ挿入したのは、前田利昌が城主である荒子城と混同させないためではないかと思えてくる。つまり単に気まぐれで「前田与十郎」を加えたというのではなく、そう書かないと識別が不確かになるため、そこに城主の名を入れてはっきりさせたというわけである。
 そこで次に「鴫原の山岡構へ」についてであるが、『刈谷市史』は次のように述べている。

 重原城については詳しい史料がなく、わずかに『三河国二葉松』に「一重原村古城 △山岡伝五郎、或河内守、天文二十三年正月、今川勢攻落」とあるものの、山岡氏の出自や刈谷城との関わりは明らかではない。ただ知立神社所蔵の「永見家家譜」に永見守重の娘は山岡河内守室とあるので、山岡氏は刈谷か小河の水野家臣であったとみてよい。

 つまり山岡氏が水野氏の家臣であったことは間違いないようだが、重原城との関わりは確かではないということである。したがって「鴫原の山岡構へ」がただちに重原城であるとはいえないのであるが、「あらこの前田与十郎城」「小河の水野金吾構へ」という表現とこの「鴫原の山岡構へ」には一つ違いがある。それは「山岡」とあるだけで、下の名前が記されていない点である。そしてこれはなぜかと考えれば、前田は利昌と種利(与十郎)、水野は信元と忠分(金吾)を識別する必要があったのに対して、山岡はそうした区別が不要だったからではなかろうか。つまり「鴫原の山岡構へ」は、「鴫原の構へ」だけでは区別がつかないが、そこに「山岡」と挿入すれば、水野方の拠点施設であることがはっきりとするというわけである。さらに進めて言えば、「鴫原の山岡城」でも具合が悪かったということではないだろうか。つまり「鴫原の山岡構へ」は重原城とは別物であり、その意を込めて「構へ」としたのではあるまいか、ということである。
 このように考えると、「小河の水野金吾構へ」についても同様で、「小河の構へ」でも「小河の水野構へ」でも識別が確かにならないということになる。しかしこの拠点施設が小河城であるならば、「小河の城」でよかったはずであるし、念を入れて「小河の水野城」でも問題はなかったはずではなかろうか。そうなると、「小河の水野金吾構へ」は小河城ではなく、水野金吾が守る別の拠点施設であったということになる。さらにオガワについては、以下のような記述の違いがある。

1.小河の水野金吾構へ
2.小河への通路を取切り候
3.直ちに小川へと御出で、水野下野守に御参会候て
4.小川に御泊り

 「水野金吾構へ」は「小河」と記されるが、水野下野守(信元)が登場する場所は「小川」と表記されている。これも気まぐれ書き損じなど言いようはあるだろうが、「水野金吾構へ」と小河城(小川城)が別物であるとするならば、それを意識した書き換えであるとも考えられる。そうなると上記2の「小河」は信元のいる「小川城」のことではなく、「水野金吾構へ」のことであり、この「構へ」と小河城や刈谷城、あるいは信長とむすぶ通路が遮断されたという意味になるだろう。

 これまで考察してきたように、『信長公記』の表記の仕方からすると、「鴫原の山岡構へ」は重原城ではなく、「小河の水野金吾構へ」は小河城ではない可能性が浮上してきた。しかしそうなると、村木砦を構築した今川の意図はそのことによってどのように描き変わるのか。この点を確認し、描き変わる全体像をみることで、独自拠点としての「構へ」の解釈が妥当かどうかを計ることにしよう。
e0144936_15313233.jpg <図2>は、三の山赤塚合戦と村木砦合戦に登場する拠点を描き、それぞれの拠点を織田・水野方は青線、今川方は緑線で結んだものである。またこれに、両合戦における信長の進軍経路を灰色の線で描きこんだ。そしてこの地図に、想定としての「小河の水野金吾構へ」と「鴫原の山岡構へ」を書き込み、それもまた拠点間を線で結ぶが、敵方のラインによって分断されている箇所は赤線、かつてのラインが消滅している場合は赤の破線で描いてみた。
 この<図2>のポイントは、「水野金吾構へ」を小河城とは別の軍事施設として捉え、それを村木砦の北方に配置した点にある。このことによって、「小河への通路を取切り候」という箇所が、「水野金吾構へ」と小河城および刈谷城との間が分断されてしまったという意味で理解することが可能になる。そしてそれ以上に重要なのは、大高城-「水野金吾構へ」-「鴫原の山岡構へ」という水野方のラインが浮かび上がってくるということにある。このことが、村木に砦が構築される前には、このような水野方の拠点をつなぐラインが形成されており、それが前回指摘したこの地域の紛争に対処するものではないかという視点を導くのである。
 今川義元書状の「苅谷赦免」の解釈から、水野氏と山口氏など鳴海方面の領主たち、それに碧海郡の松平氏を中心とした領主たちの三つ巴の紛争が、天文20年から22年くらいにかけてあったであろうことを、前回の当談義で述べさせてもらった。そしてこの地域の紛争については、織田信秀と今川義元が協調して沈静化に努力していただろうとも書いた。しかし天文21年、織田信秀が死去してしまうと、鳴海の山口教継とその周辺領主たちは今川方にその身を投じてしまう。そうなると、鳴海方面尾張衆と碧海郡三河衆の対立は消滅し、以前に三つ巴であった紛争は、水野氏と今川方鳴海・笠寺方面領主の紛争と、水野氏と碧海郡領主の紛争に収束してしまうことになる。そしてこの事態に対して水野氏は、<図2>に描きこんだ、大高城-「水野金吾構へ」-「鴫原の山岡構へ」という拠点間をむすぶトライアングルを形成して対処していたのである。図中の黄色く塗った地域は、水野氏がこのトライアングルで対処していた紛争地であろうという想定箇所である。

 今川義元書状にあった「苅谷赦免」の解釈は、水野氏と鳴海方面の領主たち、そして碧海郡の領主が互いの生存圏をかけて争っていたという視点を示すことになった。そしてその紛争は天文20年以前から続いており、22年に記された大村家盛の「参詣道中日記」に「三河・尾張取相」として記録されていた。こうしてこの時期に、岡崎から鳴海までの鎌倉街道沿いに勃発していた地域紛争と、『信長公記』に記された三の山赤坂合戦、そして村木砦合戦とは、時間的空間的に重なり合うことになる。このことを念頭におくならば、<図2>に描いたように、「水野金吾構へ」と「鴫原の山岡構へ」はこの地域紛争の脈絡で解釈される必要があるだろう。
 <図2>に示した「水野金吾構へ」の重要な意義は、水野氏の本拠である小河・刈谷両城と大高城の連携を確保したことにある。天文21年に織田信秀が死去したことを契機として、水野氏と敵対してきた鳴海方面の領主たちが織田弾正忠家から離反した。そしてこのことによって、これに隣接する大高城が危機に陥っただろうことは容易に想像できることである。したがってこの時から、水野氏は孤立しかねない大高城と小河・刈谷両城の連携を強化する必要に迫られたであろう。<図2>において村木の北方に「水野金吾構へ」を配置したのは、この大高と小河城・刈谷城を中継させることを意図するならば、この辺りであろうと考えたからである。そしてこの位置であれば、村木砦が「小河の水野金吾構へ差し向かひ」であったこととも違わないであろうからである。
 『新修名古屋市史』や『刈谷市史』のように、那古野城の信長と小河城との連携を主張するのであれば、間にある大高城の存在は無視してよいはずはなく、那古野城-大高城-小河城の連携ラインでこれを捉えるべきである。そしてこの大高城へのラインが、山口教継ら笠寺・鳴海の領主たちの転退によって危機にさらされたことが、村木砦合戦の背後にあると考えるべきだろう。少なくともそれは、信長と小河城を直接むすぶよりも、当時の状況に合致していたに違いないと思われる。
 このようにして「水野金吾構へ」は、村木の北方に構築されたのではないかと思うのであるが、このことは水野氏と悶着のあった知立方面の領主たちを刺激したことであろう。そしてそれによって刈谷城の北東に緊張状態が生まれ、「鴫原の山岡構へ」が築かれることになったのではあるまいか。そうなると、「鴫原の山岡構へ」を攻略したのも、村木砦に籠もって「水野金吾構へ」と小河城・刈谷城の連携を断ったのも、知立を中心とした碧海郡の領主たちであったことになる。そしてこのことを前提とするならば、村木砦合戦の本質は、水野氏と碧海郡領主の地域的な武力衝突であり、信長と駿河兵はそれへの加勢であったということになるだろう。

 それでは、那古野城-大高城-小河城という連携ラインが、笠寺・鳴海の領主たちの「謀叛」で断ち切られたというこれまでの考察をもって、先に提示した三の山赤塚合戦の疑問に答えてみることにしよう。
 織田信秀の死去を契機とした尾張東南部の動揺は、根底に知多半島を北上して勢力を拡大する水野氏と、その拡大先である鳴海・笠寺方面の領主たちとの前々からの紛争を再燃させることになった。この紛争に対して生前の信秀は、今川義元と協調介入して事態の沈静化をはかったが、後を継いだ信長にそれだけの外交力と政治力はなかった。鳴海城主山口教継を中心とした勢力が、信秀死去を契機に今川を頼るようになったことで、信長は水野氏との連携を強化せざるをえない立場となるが、鳴海・笠寺の領主と敵対関係にあったというわけではない。同様に、今川氏との間に直接的な敵対関係が発生していたのでもない。あくまで対立軸は、水野氏と鳴海・笠寺方面の領主たちにあり、信長や義元は間接的な立場なのである。
 こうした情勢下における信長出兵の目的は、山口氏あるいは鳴海城への攻撃にあったのではなく、大高城への通行確保を確認することにあった。熱田方面から大高城への経路としては、干潮時であれば鳴海から南へ直接南下することができる。しかしこの場合、鳴海城と笠寺・中村の砦が阻止に動けばまったく望み薄である。一方で、鎌倉街道を使って東に迂回する経路がある。三の山(山王山)に上がったのは、こうした二つの経路を念頭において山口方の出方を窺うためではなかっただろうか。そして鳴海から出撃した山口九郎二郎が東の赤塚へ向かったのも、信長の東への迂回を見越しての動きだったと考えられる。そして赤塚で信長と山口方がぶつかったわけであるが、駿河勢が出てくるわけでなく、日が暮れると敵方に取られた人質や馬を双方で交換したというのも、そうした物見的な意味合いが背景にあったからだろう。また信長が率いる兵が少なかったというのも、今川勢との戦闘が念頭に置かれていたわけではなかったことによると思う。そして駿河勢が出撃しなかったのは、そもそも彼らが信長と戦うためにこの地にいるのではないからで、義元が引き続き鳴海方面の紛争鎮静化のために派兵したことを示しているように思えるのである。

 尾張において求心力をもっていた織田信秀が死去したことで、信秀・義元の協調によって鎮静化していた尾張・三河の南部にまたがる地域は、再び争いの火の手をあげた。そして信秀亡き後の織田弾正忠家は、かつての信秀のように義元と協調して公儀をまっとうする力がなく、尾張は混迷の時代に突入していったのである。この混迷に知多半島の水野氏もまた否応なく巻き込まれ、かつてより厳しくなった事態に、「水野金吾構へ」を築いて対処しようとしたのであったが、これを許さなかった今川方の碧海郡領主たちによって大高城-「水野金吾構へ」-「鴫原の山岡構へ」の体制は崩れてしまう。その後の信長の救援によって村木砦は陥落したのであるが、「水野金吾構へ」がどうなったのかは知る由もない。
 水野氏と山口教継を中心とする鳴海・笠寺方面との紛争は、その後どうなったのであろうか。最終局面は桶狭間合戦によってもたらされることになるのであるが、次回の「水野氏と戦国談義」は、山口教継の顛末を考えることで紛争の行方がどうなったかを示してみようと思う。
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by mizuno_clan | 2011-02-05 15:35 | ☆談義(自由討論)