アナーキーと主従関係①-欠所の意味を探る-
談義:江畑英郷
前回は、山口左馬助教継の殺害の真相について詳しく考察を加えてみたが、そこでは教継に同心して織田から今川に転向した、星崎・根上の領主たちの帰参に関する解釈が重要なポイントとなっていた。この考察は、弘治元年に信長によって発給された命令書に基づくものであったが、そこに現れていた「欠所」という用語の意味は、「領地没収」のことであるとした。これは『新修名古屋市史』の理解をそのまま踏襲したものであったが、実のところこの用語理解ではこの信長命令書を適切に解釈することができない。前回の談義では、この文書から星崎・根上の領主たちが、今川から離れて信長に帰参したことが確認できれば議論の本筋に支障はなかったことから、この「欠所」という用語に踏み込むことを避けていた。しかしながら、この「欠所」という用語の理解には、この時代の社会に対する暗黙的な視点が介在しており、それがためにこの用語を本来の意味から遠ざけてしまっているように思うのである。したがって今回は、信長文書に現れる「欠所」という用語の意味について考えを巡らせ、この用語の本来の意味を摘出してみようと思う。
奥野高広著『織田信長文書の研究』(吉川弘文館)は上下巻に分かれ、その上巻には序説につづき「尾張在国時代編」が収録されている。これは天文18年~永禄9年の間、すなはち信長家督相続の3年前から岐阜に本拠を移すまでの期間に、信長が発給した残存する全文書を年代順に収録したものである。そしてここには、13点の「欠所(闕所)」に関わる文書が収録されているが、その箇所の読み下し文を抽出して表に整理してみた。

(注)読み下し文は『織田信長文書の研究』の通り。引用は同書『増訂版』(ご指摘により追記)
『織田信長文書の研究』の「尾張在国時代」に収録されている文書には、売主が欠所処分を受けたことに引きずられて、買主の権利が脅かされることがないように、信長が買主(宛人)を保護する内容のものが多数含まれる。上にあげたA・B・E・G・I・J・Mがそれに該当するが、このことは信長の保護指定が無い場合は、売主の欠所が買主にも波及するということを示すものである。これについて、『新修名古屋市史』に次のような記載がある。
買得地安堵を受ける目的は、売主が没落して闕所となったとき、その闕所分に含めて買得地が没収されない保証を求めることにあった。それは逆に、買得地は売主の闕所分に含めて没収される傾向が強かったことを意味する。在地性の強い中世社会では、土地売買によって土地の権利が買主に完全に移転することは稀であり、売主は売却後も土地に対して本主<ホンシュ>(本来の持主)の権限を維持していた。中世の土地売買には、年紀売など期限付売却や元金を返せば取り戻せる本銭返<ホンセンガエ>しなど条件付売却の場合が多いように、売主には本主として優先的に受け戻す権利があった。また名主得分(加地子<カジシ>)などの中間得分の売却では、買主には得分のみを負担して、売主がそのまま下地を支配する事例も多かった。売主が闕所となった場合には、そうした本主権も没収の対象とされたのである。
(『新修名古屋市史第二巻』)
売主が欠所(財産没収)処分を受けた場合、その欠所対象者の財産だけでなく、彼が売却した財産(買主の所有物)にもその没収が及ぶというのは、現代の我々からすれば理不尽で異様なことに思える。そこで『新修名古屋市史』は、この理不尽さと異様さがどのような背景に基づくのかを、ここで説明しているわけである。同書によれば、売却地の本主権が売主のもとに残っており、この「本主権も没収の対象とされた」ため、「買得地は売主の闕所分に含めて没収される」ことになるのだとされる。この構図を図示すれば、図1のようになるであろう。

Cが買得した財産の本主権が、欠所処分決定者であるAによって没収されるのであるが、図1に示したようにこの本主権に対してCが保有しているのは「知行権」であると規定できる。そしてこの知行権買得に際しては、「年紀売など期限付売却や元金を返せば取り戻せる本銭返しなど条件付売却」であったとされている。つまりこの「条件付」というところに本主権の残存を認めているのであり、そこでは条件が満たされれば本主の元に財産が戻されるという、今日でも理解可能な解釈が示されているのである。しかしながら、この条件付売却を本主権残存の根拠のように説明しておきながら、その本主権が没収されると「買得地は売主の闕所分に含めて没収される」と述べているところで、また理解不能となる。没収されたのはBの本主権であるが、この本主権をもって知行権を取り戻すためには、設定された期限が満了したとか、元金を本主権所有者が買主に返したとかの条件が満たされる必要があったはずである。しかし、Bの本主権がAによって没収されたこと自体では、何らこの返還条件を満たしたことにはならない。つまり『新修名古屋市史』は、当時の本主権優先をもちだしはしたが、それによって売却した知行権が没収される根拠を示せてはいないのである。
このように、購入した財産が「売主の闕所分に含めて没収される」という不条理は、本主権の優先をもちだしても現代の我々を納得させるに至らない。だからといって、所有観念が未成熟だとか時代の特異性だとかでかたづけるのは、この時代を知ることを放棄するに等しいことである。おそらくは、この時代をとらえる無自覚な諸前提が、この欠所の実態から我々を遠ざけてしまっているのであり、それがために理解が及ばなくなっているのであろう。したがって、この欠所の不条理を解消するためには、そこに設定されてしまっている無自覚な前提を眼前に引き出す必要がある。そこでここからは図1に表されていない前提を探り、それを図中に加えた新たな構図でこの欠所というものを考えてみることにしよう。
図1の構図をA文書に当てはめてみると、「永代買得の田畠・屋敷・野浜」が財産で、「売主」が[B]、そしてこの文書の宛人が[C]ということになる。そして残る欠所処分決定者としての[A]であるが、これが誰であるかには二通りの解釈が成り立つ。一つはA文書には全く登場しない誰かであるという解釈で、もう一つは文書を発給した信長本人であるというものである。表1中のC・E・H・Mの文書は、欠所処分決定者が信長であることが明らかであるが、それ以外は信長であるとも、あるいは信長以外の誰かであるとも受取れる内容となっている。そこでまずは、欠所処分決定者が信長以外の人物であると仮定して、この構図について考えてみることにしよう。
当然のことであるが、欠所処分にはその処分の決定者と処分対象者が存在する。そして欠所が財産没収であるならば、処分対象者にとってそれは大きな不利益であり、従いたくはない決定である。しかし表1に示した文書では、どれもが欠所として貫徹されるべき処分であることが前提とされている。つまり欠所処分は強制力をともなっているのであるが、処分対象者に対して処分決定者がそのような不利益を強いることが可能なのはなぜなのだろうか。今日であれば国家権力が法的根拠に基づいて強制力を発動するが、天文・永禄の尾張において同様の権力は存在しない。だからといって暴力が強制力だというのでもない。処分対象者は暴力によって財産を「奪取」されるのではなく、秩序の中で「没収」されるのである。この場合の強制力とは、共に秩序を形成している者どうしの相互了解であり、その了解が通らない不測の事態に暴力が使われるのである。
この時代において社会に秩序をもたらしているもの、それは主従関係である。したがって処分決定者と処分対象者の間には、主従関係が存在していることが前提されなければならない。[B]が[A]の処分に従うのは、[A]が[B]の主だからである。このところの事情を、表1のC文書で確認してみようと思うが、これは前回の山口左馬助殺害の謎を解くのに重要なポイントとなった文書であった。
星崎根上の内今度鳴海え同心の者共跡職、悉く闕所たるの上は、堅く糾明を遂ぐべきもの也
この「星崎根上の内今度鳴海え同心の者共」とは、鳴海の山口左馬助に同調して織田弾正忠家との主従関係を解消して、今川家との主従関係に鞍替えした者たちのことである。そしてそのことによって示されているのは、従うべき権力(強制力)を当事者が自身の意思によって選び取っていたということである。そこでの強制力は、その強制力を従う側が認めることで成立しており、それが認めがたければ主従関係を他に移すことが可能であった。このことは、選択の余地なくその元に組み込まれている国家権力が厳然と存在している現代社会とは、まったく異質の社会の成り立ちと考えねばならないだろう。このような社会の有り様を、第十四回では「アナーキー」と規定した。
さてこのC文書には、「悉く闕所たるの上は、堅く糾明を遂ぐべきもの也」と、織田弾正忠家を離れて今川被官となった星崎・根上の領主たちに対する処断が示されている。しかしながら、これを信長が今川被官を処断したと受取ることはできない。なぜならば、「悉く闕所」とするとか「堅く糾明」するといった処断は、自己の強制力の及ぶ範囲でのみ意味をもつ行為だからである。したがってこうした信長の命令書が出された以上は、この弘治元年の時点で星崎・根上の領主たちが今川被官であるはずがなく、彼らは再び信長の被官として帰参していたと考えねばならない。このことは、星崎・根上にほど近い笠寺砦に籠っていた駿河衆に、「その方らの領地は没収処分とする」と信長が命令することなどありえないことを思えば明らかであろう。
弘治元年の時点で、星崎・根上の領主たちが信長に帰参していたというのは前回の談義の骨子であったが、このC文書をもって彼らの領地が信長に没収されたと述べた点は、ここで一度撤回しなければならない。「悉く闕所」を悉く没収と解釈したのは『新修名古屋市史』であったが、信長への帰参とその領地没収とは両立しがたいものである。前回の談義で述べたように、今川被官である立場を信長被官に転向するには、大きなペナルティを覚悟しなければならない。それは当然に今川方からも科されるし、再転向・帰参であるがために信長側からも「悉く闕所」という処分が示されていた。前回談義では、そうしたペナルティと鳴海・笠寺の駿河衆駐留経費負担が天秤にかけられて、星崎・根上の領主たちはペナルティ覚悟で今川と縁を切って信長を頼ったと考えたのであった。しかしながら、「悉く闕所」が悉く領地没収という意味であったならば、彼らは領主として立ち行くことができない。それは単なるペナルティを越えており、星崎・根上の領主たちの存在が否定されるも同然の厳罰である。したがって彼らが今川を離れて信長に帰参したことと、その彼らの領地が悉く没収されることは、実際には両立しないはずなのである。
信長と今川は、これより5年後に桶狭間にて浮沈をかけた激突をする。そのことから信長と今川は終始敵対して、互いに敵方の領地を奪ったり奪われたりを繰り返していたと思われがちである。その思い込みからすれば、星崎・根上の今川方が戦いに敗れて一掃されたところで、「悉く闕所たるの上は、堅く糾明を遂ぐ」となったと結論するかもしれない。しかし史実を丹念にみれば、そうした記録があるわけでなく、信長と今川の双方に戦いの必然性があったわけでもない。むしろ信長には尾張国内の守護代や同族、そして道三失墜の後は美濃との間で激しい抗争が繰り広げられていたし、今川もまた西三河の統治に手こずっていたのである。したがって星崎・根上の領主たちは、両者の冷戦的均衡の中で、今川か信長かを選ぶことができたのであろうと考えられる。
信長が領地没収処分を決定したのであれば、星崎・根上の領主たちは信長の被官でなければならない。しかし領地が没収されるのに、彼らが今川から信長へ鞍替えしたとは到底思えない。ここに解釈のジレンマが現れているのであるが、星崎・根上の領主たちが信長から処分を受けることになったというのは確実である。そしてこのジレンマは、彼らが処分を受けることによってではなく、その処分の内容を領地没収と解釈することによって生じているのである。「欠所」が没収を意味するというのは妥当な理解であるのかどうか、ここで踏み込んで考えてみることにしよう。

欠所処分を科すことが可能となる前提として、そこに主従関係が存在しなければならないのであるが、先の図1にこの主従関係を組み入れたものが図2である。[A]が[B]を欠所処分としていることで、この両者は主従の間柄と認められるが、信長が[C]を保護しようとする間にも主従関係が存在する。そして、[A]が[C]の買得地を没収することを信長が制限しているが、この制限という強制力発動の背景にも主従関係が存在しているはずである。このことからすれば、信長と[A]もまた主従の間柄であることになる。そしてこの文書の発給者である信長の関心は、[A]が[B]を欠所処分としたことや、信長が[C]に免許を与えていることではなく、[A]が[C]の買得地を没収することを防止することにある。そしてそれが可能であるためには、[信長]-[A]が主従関係でなければならない。しかしながら、[C]からの買得地没収をやめさせたい[A]が、いつでも信長の被官であるとは限らないのである。
表1における買得地保護に関わる文書では、[A]について直接記すことはなく、「異儀ある」「異見ある」「別儀ある」「相違ある」者、あるいは「違乱の族」として示されるのみである。したがって、その[A]が信長の被官であると前提されているわけではなく、それが誰であっても[C]からの没収を禁止していることになる。そうなると誰であっても、その人物が望むあるいは当然の権利と信じている没収を、信長が禁止する強制力がどこから生じているのかが問題となる。そしてここでも現れてくるジレンマは、「欠所」という用語の意味を没収と受け取ることに始まっているのである。
さてここまでは、欠所処分決定者が信長以外の別人であることを前提として考察してきた。この前提であると、欠所処分決定者は必ず信長の被官でなければならないことになるが、各文書がそれを前提としているわけではない。したがって、ここでもまた「欠所」を没収の意味で受け取ることの問題がみてとれるわけである。一方で、欠所処分決定者を信長であるとした場合、自身の没収行為の適用除外を表明していることになり、信長以外の別人としたような問題は発生しない。しかしながら今度は、信長以外の別人による売主欠所に連座する買得地没収に対して、宛人は何も保護されないことになり、信長による宛人保護の範囲が著しく狭く限定されてしまうことになる。宛人の財産を主として保護するという目的からすれば、信長自身であろうと誰か別人であろうと、宛人買得地は没収されてはならないはずであり、そのことからすればこれら文書における欠所決定者は、信長以外の別人も含むと考えるべきであろう。
ここまで考察してきた、売主欠所に連座する買得地没収からの保護以外に、信長が欠所を申し付けた際の宛人保護に関する文書がいくつか存在する。H文書は、信長が欠所処分決定者である際立った事例であるが、ここには欠所という用語の意味を探るうえで注目したい内容が含まれている。そこでこのH文書を詳しく検討してみようと思うが、まずは『織田信長文書の研究』から読み下し全文を以下に示しておこう。
今度国中欠所の儀申付くといえども、代々の免許あるの上は、別儀あるべからず、向後<キョウゴ>に於て、買徳[得]の田地等、たとい何たる下地たりと雖も、異儀[議]あるべからず、然らば前々売買の儀につきて出し置く判形の儀、末代に於て聊<イササ>かも相違あるべからず、次にその方門外え出入の俵物質の儀、国中の札を召し上げ候と雖も、質物の事に候間、往反あるべし、并に新儀の諸役あるべからず候、自然此の如き免許の類を破棄せしめ申しつくと雖も、数通の判形を出し置く上は、何様の儀に於ても、此の旨を以って罷り上り、理<コトワ>り申すべきもの也、仍って状件の如し
この文書には5つの命令が含まれているが、それを箇条書きに整理すると以下のようになる。
① 今度国中欠所の儀申付くといえども、代々の免許あるの上は、別儀あるべからず
② 向後に於て、買得の田地等、たとい何たる下地たりと雖も、異議あるべからず、然らば前々売買の儀につきて出し置く判形の儀、末代に於て聊かも相違あるべからず
③ その方門外え出入の俵物質の儀、国中の札を召し上げ候と雖も、質物の事に候間、往反あるべし
④ 新儀の諸役あるべからず
⑤ 此の如き免許の類を破棄せしめ申しつくと雖も、数通の判形を出し置く上は、何様の儀に於ても、此の旨を以って罷り上り、理り申すべきもの也
まず最初の①の解釈であるが、これについて『新修名古屋市史』は次のように述べている。
尾張をほぼ統一し美濃進出のため小牧に本拠を移した永禄六年、信長は「国中欠所」を申し付けている。それまでの闕所地の宛行を総点検して、改めて尾張の統一者信長との知行関係の再確認を図ったものといえよう。
同書はH文書における意図を、「尾張の統一者信長との知行関係の再確認を図った」ものとしているのだから、「国中」の文言を尾張国全体という意味で理解していることになる。そして同書は「欠所」を領地没収のことだとするのであるから、「国中欠所の儀申付く」は、尾張国中の知行地を没収するという意味になるはずである。しかしながら同書はそうは言わず、「それまでの闕所地の宛行を総点検」し、「知行関係の再確認を図った」のだと説明する。このようにH文書の「欠所の儀申付く」が、他の文書同様に領地没収を命じるではなく、ここではなぜ「総点検」や「再構築」になるのだろうか。それは尾張の領地をすべて没収するなど、誰がみても成り立たないような解釈だからである。そこで、もっとそれらしい「総点検」や「再確認」をもちだし、「欠所」は過去の欠所処分地という意味にすりかえてしまっている。しかし「欠所の儀申付」けるのは、「今度」であり過去ではない。普通に素直に受けとめれば、「尾張の領地すべてを没収することを命じた」以外にないはずであるが、それは実際にはありえないことなので、同書は解釈を偏向してしまっているのである。
次に②は、買得地の保護を表明したものであり、先に検討した文書と同様の性格の内容であると考えられる。しかし①で「国中欠所」を命じ、宛人をそこから除外する言明があるにもかかわらず、②のような買得地に限定した保護を言い添える必要があるのだろうか。そして③に再び「国中」が登場し、「札を召し上げ」たと書いてある。これについて『織田信長文書の研究』は、「その方の家に出入する俵物(米穀)質は、国中に於てその許可証を取りあげても(米穀の移出入を停止する。米留-こめどめ)質物であるから出し入れしてよい」と、その文意の解釈を示している。ここで同書はこれを「米留」だとしているが、「札」つまり免許を召し上げたのだから、一時的な俵留めであるよりは「国中」の免許が無効になったと考えるべきではないだろうか。また⑤において、「此の如き免許の類を破棄せしめ申しつく」とある「此の如き」とは、③を指しているのだろうから、この点からしても部分的一時的な免許無効ではないと考えられる。
H文書に登場する①は欠所除外、②は買得地保護、③は俵物扱いの免許、そして④は新儀諸役の免除と、いずれも宛人保護の具体的内容が示されている。しかしながらこの文書最後の⑤は、信長の判形(免許)の優越性を示しているだけであり、①~④のような具体的保護内容を記したものとはなっていない。このことからすれば、このH文書の構成は①~④で宛人権益の保護内容を示し、それらの締め括りとして⑤で①~④に共通する原則を示して終わらせているものであると考えられる。この⑤は「自然此の如き免許の類を」で始まるが、これが①~④にかかるものであるとすると、①の「今度国中欠所の儀申付くといえども」は、「免許の類を破棄せしめ申しつくと雖も」と等価であることになる。そうなると知行が免許に相当し、「欠所の儀」が「破棄せしめ」に対応していることになる。こうしてこの①と⑤の文章変換が妥当であるならば、「欠所」は「破棄」を意味することになる。さてそうなると、これまで「欠所」が意味するところとされてきた「没収」と、ここで新たにその意味として取り出された「破棄」とは、何が違うのかということになる。
<
つづく>