国人小河水野氏の困惑③-山口左馬助生害-
談義:江畑英郷
永禄三年(1560年)の桶狭間合戦は、大田牛一が著した『信長公記』に詳細に記録されている。私の認識では、その後のすべての桶狭間合戦に関する著述は、この『信長公記』から派生したものである。したがって今日では、『信長公記』に基づいて桶狭間合戦を考察するのが常道となっているのであるが、その『信長公記』の叙述でありながら、桶狭間合戦の考察から除外されている箇所が少なからずある。
此<カク>の如く重々<カサネガサネ>忠節申すのところに、駿河へ左馬助、九郎二郎両人召し寄せられ、御褒美は聊<イササカ>かもこれなく、情なく無下~<ムゲムゲ>と生害<ショウガイ>させられ候。世は僥季<ギョウキ>に及ぶと雖も、日月未<イマ>だ地に堕<オ>ちず。今川義元、山口左馬助が在所<ザイショ>へきたり、鳴海にて四万五千の大軍を靡<ナビ>かし、それも御用にたたず、千が一の信長纔<ワズカ>二千に及ぶ人数に扣<タタ>き立てられ、逃がれ死に相果てられ、浅猿敷<アサマシキ>仕合<シアワ>せ、因果歴然、善悪ニツの道理、天道おそろしく候ひしなり。
(『信長公記』新人物往来社 桑田忠親校注)
『信長公記』を直接読まれていない方は意外かもしれないが、ここにこの合戦における今川義元大敗北の原因がはっきりと語られている。しかしこれまで、この箇所をして今川軍敗北の原因であるとした論者は存在しない。なぜならば、因果応報の道理、天道によって今川軍が敗北したというのを真に受けるほど、現代の我々は迷信深くないからである。しかし義元には道理がなかったのだという指摘は、その「道理」あるいは「天道」の理解によっては、迷信だといって簡単にかたづけられないと思うのである。
太田牛一が、この合戦の顛末に掲げた「道理」を構成する史実は、次のように整理される。
① 山口左馬助教継は、今川義元に「重々忠節」を尽くした。
② 義元は、山口教継の功績に褒美を与えなかった。
③ 義元は、山口教継親子を駿府に呼び寄せて殺害した。
④ 義元は、山口教継の在所(鳴海・桶狭間)へやってきて討ち死にした。
⑤ 義元は四万五千の大軍を擁していたが、わずか二千の信長勢に敗れた。
そして上記の史実から、太田牛一は次のような因果応報を見出していることになる。
A 四万五千の大軍を擁していたのだから、わずか二千の信長勢に敗れることは尋常ではない。
B このような尋常でない事態が起こったのは、人智を超えた力が働いたためである。
C その人智を超えた力とは、悪しき因縁がそれを正そうとする結果に結びつくように発揮された。
D 悪しき因縁とは、上記の①~③であり、それを正した結果が上記の④と⑤である。
太田牛一は早い時分から織田信長の家臣となっており、この桶狭間合戦にも信長のもと従軍していただろうと考えられている。その牛一が上の引用にみられるように、この奇跡的な大逆転勝利を、信長の才能や戦術に求めることはしていない。『信長公記』が記す桶狭間合戦には、大勝利へ導く信長の作戦が描かれているわけではなく、また牛一は信長の軍事的才能を褒めることをしているわけでもない。信長は兵を率いて戦場で戦いはしたが、今川の大軍が敗れ去ったのは義元側の悪しき因縁によったのであり、それが義元さえも死に至らしめたのだと牛一は語る。このように太田牛一は、奇跡の大勝利の原因をいささかも主である信長に求めることなく、その戦いをなんとも冷徹に描いたということなのである。
太田牛一という書き手の特質は、この冷徹さにあるように思うのであるが、その冷徹さが指摘する桶狭間合戦の核心は、「道理」あるいは「天道」にもとづく因果応報である。この戦場にあって戦う男であった牛一が、その生死の境にみた「道理」そして「天道」とはいったい何であったのだろうか。今回はそのことについて考えてみようと思うが、その考察の対象はまたしてもあの山口左馬助教継であり、彼の動向は必ずや小河水野氏に関わりがあることなのである。
桶狭間合戦に現れた因果応報の始まりとして、牛一によって告発された山口親子殺害事件であるが、この親子がなぜ殺害されることになったのかについて、『信長公記』に具体的な記述があるわけではない。この事件の真相を探ろうとするとき、どこから手をつけるべきなのか。その探求の第一歩は、この親子の殺害時期を特定することにあるだろう。
『信長公記』によれば、鳴海城主山口左馬助・九郎二郎親子は、駿河に呼び寄せられて切腹させられ、鳴海城には岡部五郎兵衛が城代として入り、大高・沓掛両城にも城番が置かれたという。
弘治元年(一五五五)二月五日付版物で、織田信長は、一雲軒・花井右衛門兵衛尉に対し、鳴海に同心した星崎・根上の者の領地を没収するための調査を命じている。また、弘治三年一二月三日付の朱印状で、今川義元は、尾張国鳴海東宮大明神祢宜<ネギ>二郎左衛門尉に、同明神・八幡神田を安堵し、近年押領の祢宜の不法については、在城衆に堅く申付くべしと述べている。この弘治元~三年の間に、山口親子が滅ぼされ、今川氏の派遣した城代岡部五郎兵衛が置かれて、鳴海城近辺は今川氏の直接支配下に入ったと推定される。岡部五郎兵衛は、これ以前は笠寺の在城衆の一人であったが、山口氏滅亡後の鳴海城の城代となった。当時今川氏の最前線は、黒末<クロスエ>川(天白川)東岸の鳴海・大高両城であり、同西岸の笠寺・中村砦は信長方が奪回したと推定される。そうでなければ、信長は、鳴海城の周囲に付城を築くことは無理と思われる。
(『新修名古屋市史第二巻』)
『新修名古屋市史』は、山口親子殺害時期を「弘治元~三年の間」としているが、その開始時期の根拠として示されているのが、弘治元年に一雲軒・花井右衛門兵衛尉に対して出された信長の命令書である。
星崎根上之内今度鳴海江同心之もの共跡職、悉為欠所上者、堅可遂糾明者也、仍如件、
天文廿四 上総介
二月五日 信長(花押)
一雲軒
花井右衛門尉兵衛殿
(星崎根上の内、今度鳴海へ同心のもの共跡職、悉く欠所と為す上は、堅く糾明遂ぐべきもの也、仍って件の如し)
(『愛知県史資料編10』)注:()内筆者
この書状にある「今度鳴海へ同心のもの共」とは、鳴海すなはち山口教継が天文21年に織田から今川へ転向した際に、彼に同調して今川方になった者たちのことである。その同心者がここで信長に処罰されようとしているが、当然のこととして今川としては彼らを守らねばならない。しかしながら、ここで信長は糾明を断行する姿勢を示しているのであるから、星崎・根上の転向組みは領地を失う危機に瀕しているわけである。したがって『新修名古屋市史』は、星崎・根上の領主たちが今川によって守られていないことに注目し、そこにこの書状の意義を認めているわけである。そして彼ら鳴海同心者をまず守らねばならない立場にある者こそが山口教継なのであり、それが果たせていないからには、教継の身に異変があったか、少なくとも彼の今川方における立場が急落している事実がそこにあったろうというわけである。
また弘治3年には、鳴海東宮大明神の祢宜(神社に奉職する神職の総称)に対して所領が安堵されているが、その書面で義元は「在城衆此の旨を存じ堅く申し付くべきもの也」と述べている。ここで「在城」といっているのは鳴海城のことであるが、そこには「衆」という複数の在番がいるだけで、かつての城主であった山口親子の姿が見えなくなっている。また義元は、鳴海東宮大明神における所領帰属問題の監督を「在城衆」に命じているのだが、これは鳴海周辺の領主としての山口氏が消滅していることを示すものである。こうした理解に立って『新修名古屋市史』は、この時点までに山口親子が殺害されたと判断したのである。このように、「弘治元~三年の間」に山口親子が殺害されたという指摘には、相応の妥当性が認められる。そうなると弘治元年より前に、この親子が殺害されねばならなくなった何かが起こっていたことになるが、山口親子殺害を語る『信長公記』はその何かを直接には記していない。その代わりに、親子が転向して以来の鳴海周辺の動向を、同書は次のように伝えている。
既に逆心を企て、駿河衆を引き入れ、ならび大高の城・沓懸の城、両城も、左馬助調略を以て乗つ取り、推し並べ三金輪に三ケ所、何方へも間は一里づゝなり。鳴海の城には駿河より岡部五郎兵衛城代として楯籠り、大高の城・沓懸の城、番手の人数、多太~<タプタプ>と入れ置く。
(『信長公記』前掲書)
ここで述べられていることを、以下箇条書きにしてみる。
①逆心を企てて、織田弾正忠家を離反した。
②今川方に与するようになって、笠寺砦に駿河衆を引き入れた。
③大高の城・沓掛の城、両城も、左馬助が調略を以て乗っ取った。
④鳴海の城には岡部五郎兵衛が城代として楯籠った。
⑤大高の城・沓掛の城に、番手の人数も十分に入れ置いた。
『信長公記』が語るところを5つの箇条書きにしたが、確実にそうだと言えるわけではないが、基本的にはこの順番が時間の経過どおりであると考えられる。また、③を除いて主語が欠落しているが、①と②の主語は間違いなく山口教継である。そして④で鳴海城に楯籠ったのは岡部元信であるが、それを命じたのは今川義元であると考えられる。さらに⑤であるが、これもまた義元の命令によるものであろう。こうして5項目に主語を補ってみると、①~③は山口教継の行動を記しているが、後半の④と⑤はおそらくは義元の命令・意向によるもので、少なくともそこに教継の関与はないとみてよいだろう。そうなると『信長公記』が記すこの箇所には、前半と後半の間に断絶がおかれており、①②③とこの地域の動向をリードしてきた山口教継は、後半になると消え去り、④以降は今川義元の指令と意向で事態が動いているようにみえる。このことからすれば、③と④の間に山口親子殺害があったとみるべきであるが、③は教継の今川方としての功績が記されているのであって、それは親子殺害の原因とは程遠い内容のように思える。
さてここで、先にあげた弘治元年の信長の糾明命令書と、この③の出来事の前後関係を考えてみることにしよう。まず信長の命令書の内容を、詳細に検討することからはじめる。信長はこの書状に「糾明遂ぐべき」と書いており、そのことを一雲軒と花井右衛門兵衛尉に命じていたわけだが、この「糾明」を『新修名古屋市史』は「鳴海に同心した星崎・根上の者の領地を没収するための調査」だとしていた。するとこの調査の目的は、「領地を没収する」ことであり、その対象者となるかどうかは「鳴海に同心した」かどうかで決まることになる。山口教継が織田弾正忠家から離反したのは天文21年であったが、おそらく星崎・根上の鳴海同心者はそのとき行動を共にしたことであろう。ところで、この天文21年(1552)から弘治元年(1555)までは3年の期間があるが、この時期になって信長は、急に3年前の謀反に対する処罰を思い立ったということなのであろうか。
残されている信長の命令書は弘治元年のものであるが、それ以前にもこうした命令書は存在したのかもしれない。しかしながら重要なのは、この弘治元年になって「堅く糾明遂ぐべき」とその意志の貫徹を明確にしている点である。これはこの時期になると、こうした今川転向者に対しての処罰に、実効性が備わってきていることを示すものである。そして糾明の貫徹が可能であるということは、この命令が適用される星崎・根上における情勢が、それまでとは一変しているということである。つまり、信長の力がこの地域に確実に浸透し、反対に今川の威令は及ばなくなっているのである。こうした情勢の変化が起こったことに対して、この地域における信長の軍事力が優勢になったと考えたくなるが、実際にはそうではない。この時期の今川方は、この後で確認するように以前と変わらず笠寺砦を維持していたし、大高城・沓掛城を自陣営に引き込む勢いをもっていた。その一方で信長側はどうかというと、村木合戦のおいて1千の守兵を提供してくれた、同盟者の斉藤道三に異変が起きていたのである。
しかし、西隣美濃では、信長の最大の支援者斉藤道三が、天文二三年(一五五四)三月、家臣の支持を失って隠退し、家督を子利尚(のち義龍)に譲るという事態が起きていた。織田弾正忠家当主としての信長の地位に対抗しようとする動きが、こののち尾張国内で生じてくることになった。
(『新修名古屋市史第二巻』)
権威が失墜して引退していた道三は、その後の弘治2年になると義龍と戦って戦死してしまう。この道三の権力低下は、信長の糾明命令が発せられる1年前に始まっており、弘治元年の時点では美濃からの支援は期待できなくなっていた。この美濃における情勢変化によって、弘治元年前後の信長は、『信長公記』が語る「御迷惑なる時、見次者は稀なり。ケ様に攻め、一仁に御成り候」という状態にあった。こうしたことからすれば、軍事力において今川優勢・信長劣勢という情勢が逆転していたとは考えられないのであるが、その中で星崎・根上においては、領地没収にかかわる領主たちへの調査が実施されていた。したがって信長の何らかの軍事的勝利が、星崎・根上の調査を可能にさせたとは考えられないのであるが、そうだとするならば、この地の領主自身が進んで信長の糾明を受け入れるようになった、とみることが順当となるだろう。つまり星崎・根上の領主たちは、かつて鳴海に同心して今川方となったように、ここに来てまた自らの意志で信長に帰参するようになったということなのである。
このように弘治元年の信長の糾明命令書は、ここに示された星崎・根上に限らず、この鳴海周辺地域において今川方に転向していた者が、この頃ぞくぞくと信長に帰参していたことを示すものである。そしてこの帰参は、信長方の優勢な軍事力によって引き起こされたものではなく、星崎・根上の領主たちがそれを望んで実現したものである。そしてこの信長方への帰参には、領地没収と今川方からの報復の恐れというペナルティがあったはずであるが、それを押して今川を離れ信長に帰属する彼らの胸中はどのようなものだったのだろうか。かつて鳴海に同心して今川方となった際も、その選択を彼ら領主自らがおこなったが、それは今川に帰属することが彼らにとってプラスであったからである。それが3年たってこうなったということは、従来と異なって今川方であることが大きなマイナスに変わっていたということを示している。過酷なペナルティを課されても、信長帰参を星崎・根上の領主たちに選択させたほどのマイナス要因とは、いったい何であったのだろうか。
信長の糾明命令書が出された弘治元年前後には、山口教継による大高城・沓掛城の調略、そして山口親子の殺害があったわけであるが、それらの年次は判然としていない。そこでこの3つの事件の意義とそのつながりを検討することで、この地域に発生していた信長への帰参が、何によって促されたかを明らかにしてみようと思う。まずはこの3つの事件の発生順であるが、大高・沓掛の調略は山口教継の手によるものなので、それが山口親子殺害の前であることは明らかである。そしてこの大高・沓掛両城への調略成功は、星崎・根上に対する信長の糾明命令が出される前のことであると考えられる。なぜならば、星崎・根上の領主たちが信長に帰参してゆく流れの中では、大高と沓掛に対する調略が功を奏するとはとても考えられないからである。この両城は武力をもって攻撃されたのではなく調略されたのであり、たとえそれが策略によるものだとしても、それを成就させる下地というものがあったはずである。つまり鳴海に同心した者たちが、次々と信長に帰参する情勢下では、山口教継の弁舌あるいは策略をもってしても、大高・沓掛の者を動かすことはできなかったであろう、ということなのである。したがってこの両城に対する調略の成功は、弘治元年よりも前の、未だ信長に帰参するという流れが起きていない時点で起こったことである。
先に『信長公記』が記すこの地域の動向を①~⑤に分けて、その記述の仕方から③と④の間に断絶があると述べたが、その③はまさしくこの大高・沓掛両城の調略について書かれたものであった。こうしてみるとこの調略、どうも単に今川方の山口教継の忠節・手柄話し、というだけのものではなさそうである。この談義は第三十回から「国人小河水野氏の憂鬱」というタイトルを掲げ、これまで山口教継と小河の水野一族の間に敵対関係があったという見方で論を進めてきた。そのことからすれば、沓掛城はさておき、少なくとも大高城を山口教継が調略したというのは格別の意味をもつことになる。なせならば、敵対する水野氏が鳴海の目前に構える拠点、それが大高城であり、この大高城から水野氏を追い払うことは、教継にとって長年の念願であったはずだからである。教継にとってこの大高城は目障りなどというものではなく、水野氏と彼の力関係からすれば、自身に強力な圧力をかけ続ける脅威だったはずで、これを何とか跳ね除けたいと思い続けてきたことだろう。したがって大高城の調略という事件は、今川氏への忠節や功績という以上に、教継にとって差し迫った自身の目標の達成であったわけである。そして大高城調略が教継の念願であったならば、彼が今川方に転じたのも、大高の水野氏を退去させたいという一途な思いがあって、踏み切ったものであろう。そしてそれは知多半島を席巻するように勢力を拡大し、さらに知多郡を越えて北上する水野氏に直面することになる、笠寺・星崎・根上・沓掛の領主たちに共通の同心事項であったはずである。こうして対水野氏という共通の目的によって、鳴海を中心とした一揆が結ばれていたと考えることができるのである。
ここでこれまでに明らかになった事実を、先に①~⑤に整理した天文21年からの鳴海周辺の動向に加えてみることにする。
① 山口教継は、逆心を企てて織田弾正忠家を離反した。
a 星崎・根上の領主も、山口教継に同心して織田弾正忠家を離反した。
② 山口教継は今川方に与するようになって、笠寺砦に駿河衆を引き入れた。
b 三の山・赤塚で信長と山口子息が戦った。
c 信長は小河水野氏を援けて、今川方の村木砦を攻め落とした。
③ 大高の城・沓掛の城、両城も、左馬助が調略を以て乗つ取った。
d 星崎・根上の領主は、今川を離れて信長に帰参した。
e 山口親子が、今川方によって殺害された。
④ 鳴海の城には岡部五郎兵衛が城代として楯籠った。
⑤ 大高の城・沓掛の城に、番手の人数も十分に入れ置いた。
ここには、織田弾正忠家、織田信長、山口教継(親子)、小河水野氏、星崎・根上の領主、今川方(岡部元信や守兵)が登場しているが、これらの関係が時間とともにどのように推移していったかを<表1>に整理してみた。
<表1>における天文20年の枠組みは、『新修名古屋市史』や『刈谷市史』などによる織田・今川和睦説に基づいて表現しておいた。この和睦説は織田と今川の和睦であって、両者はそれぞれの意図と都合から西三河で戦い、そしてこの頃にやはりそれぞれの意志で和平を選択したというわけであるから、ここには両者以外にはせいぜい知多半島の有力者水野氏が登場するくらいである。しかしながら、本談義においては第30回で述べたように、織田・今川の2大陣営がこの地域の動向を牽引したという視点ではなく、在地領主における独自事情が基底にあって、それに引き摺られるように織田・今川が関与していたという理解に立っている。したがってその本来の構図からすれば、天文21年として表現した枠組みが20年においても描かれるべきであるが、あえてその視点の違いをここに持ち込むことにした。
表中の赤線はそこに対立・紛争があったことを示すが、そこから左と右に分かれて織田陣営と今川陣営という一括りがあったというのではなく、その赤線に接している勢力(同色)が対立・紛争の当事者であることを示そうとしている。そして水色が「織田弾正忠家」から「信長」に変わっているが、これは信秀の時代の弾正忠家が分裂して、信長はその一勢力に過ぎないことを示している。この「信長」と「今川」の配色は、対立・紛争の当事者とは別の擁護者・同盟者であることを示すために、同系統色であるが色を分けている。
この表のように鳴海周辺の動向を整理してみると、やはり弘治元年に事態が大きく転回していることがはっきりとする。ここで山口教継を以前のままに残しているが、実際はこの時点で彼ら親子が殺害されている可能性もある。したがってここで注目すべきなのは、弘治元年以降の<e>の段階である。鳴海城に岡部元信が入って、かつての山口教継の占めていた位置に、この地に派遣された駿河衆が収まっていることに注目されたい。
天文20年以前から続いてきた鳴海周辺領主たちと水野氏の紛争は、水野氏の北の拠点大高城が山口教継によって調略され、そこの水野大膳が追い払われたことで大きな転機を迎えた。それまで鳴海に接する大高の水野氏に対抗するために、山口教継らは今川を頼って駿河衆をこの地に引き入れた。そしてその効果があって大高城から水野大膳が退去して、水野一族の力は南部に押し戻されることとなった。こうして一揆をむすぶ領主たちに対する水野氏の圧力は大きく減退し、彼らの目的はここに成就されたのである。そしてこのことは、この目的を掲げ続けてきた一揆衆にとって、今川方であることによるプラス要因がここで消滅したことを意味する。しかしながらその代わりに、それまで顕在化していなかった今川方であることのマイナス要因が、ここに至って一揆衆の前に浮上してくるのである。
<
つづく>