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【Event】愛知県図書館企画展示・関連講演会のお知らせ

今般下記のように、企画展示・関連講演が開催されますのでお知らせします。
「水野氏関連」として「於大の方」と、その子息・徳川家康のゆかりの女性たちが、近世の歴史を支え動かした、その生き方に焦点を中てた企画内容となっています。

                               研究会事務局

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愛知県図書館の公式サイトへのリンク

テーマ「戦国・江戸の女たち 尾張に生まれ、家康の母となる「於大の方」、浅井三姉妹、春日局、篤姫、和宮 等々、徳川家ゆかりの女性など、戦国・江戸時代に生きた女性に関する歴史書、小説など約300冊を集めた企画展示。
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●愛知県図書館 企画展示
テ ー マ:戦国・江戸の女たち
期  間:平成23年5月13日(金)~7月13日(水)
内  容:「江」や「篤姫」など徳川家にまつわる人物を中心に、戦国・江戸に生きた女性に関する図書を展示・貸出します。
会  場:1階ロビー
展示資料:(水野氏関連を一部抜粋)
       村瀬 正章『徳川家康生母於大の歴史と遺跡めぐり』(中日出版社 2007 年)
        ※地域資料のため館内でご利用ください

●関連講演会(『愛知県史』資料編13 織豊3 の刊行に合わせた講演会)
テ ー マ:『愛知県史 資料編13 織豊3』の刊行にあたって
題目・講師:Ⅰ「秀次事件と女性たち」
          四日市大学教授 播磨良紀(はりま よしのり)氏
        Ⅱ「地域と女性の視点から見直す関ヶ原の戦い」
          岐阜工業高等専門学校教授 山本浩樹(やまもと ひろき)氏
日  時:平成23年7月9日(土)午後1時~午後4時
場  所:愛知県図書館 5階大会議室
共  催:愛知県県史編さん室
申込方法 :事前に「県史編さん室」までお電話でお申し込みください。
受付開始 :6月6日(月)から 先着200名 ※参加費無料
申込問合先:愛知県県史編さん室 TEL 052-972-9172(平日午前9時から午後5時30分まで)


●『愛知県史』資料編13 織豊3  刊行物案内

# by mizuno_clan | 2011-05-28 17:50 | Event-1(講演会・講座)

検索機能に「タグ機能」を追加

 これまでは、本ブログ記事の検索は、サイドバーに表示された「カテゴリ」で検索できましたが、今般これに加えて「タグ機能」を追加しました。

●「タグ機能」の説明
 タグとは荷札のようなもので、1つの記事に3つまで「キーワード」を設定できます。
同じキーワードを持つ記事同士は、タグ別の記事一括表示ができ参照しやすくなります。
今回は、カテゴリ「研究論文」「研究ノート」「史料紹介」の3つに分かれて投稿されていた「寄稿」を、わかりやすく一括表示し参照できる様にしました。利用方法は、サイドバーに表示された「タグ」の中から目的のものを選んでクリックすると一覧が表示されます。これまでのカテゴリ検索と併せてご利用下さい。
 尚 カテゴリの「談議」につきましては、カテゴリ検索のみとし、タグの「寄稿」には含みませんが、今後「キーワード」を設ける必要があれば、逐次「キーワード」を増やして行く予定です。

                                                 研究会事務局

# by mizuno_clan | 2011-05-03 18:24 | Information

【談義1】水野氏と戦国談義(第三十二回)

国人小河水野氏の困惑③-山口左馬助生害-
談義:江畑英郷

 永禄三年(1560年)の桶狭間合戦は、大田牛一が著した『信長公記』に詳細に記録されている。私の認識では、その後のすべての桶狭間合戦に関する著述は、この『信長公記』から派生したものである。したがって今日では、『信長公記』に基づいて桶狭間合戦を考察するのが常道となっているのであるが、その『信長公記』の叙述でありながら、桶狭間合戦の考察から除外されている箇所が少なからずある。

 此<カク>の如く重々<カサネガサネ>忠節申すのところに、駿河へ左馬助、九郎二郎両人召し寄せられ、御褒美は聊<イササカ>かもこれなく、情なく無下~<ムゲムゲ>と生害<ショウガイ>させられ候。世は僥季<ギョウキ>に及ぶと雖も、日月未<イマ>だ地に堕<オ>ちず。今川義元、山口左馬助が在所<ザイショ>へきたり、鳴海にて四万五千の大軍を靡<ナビ>かし、それも御用にたたず、千が一の信長纔<ワズカ>二千に及ぶ人数に扣<タタ>き立てられ、逃がれ死に相果てられ、浅猿敷<アサマシキ>仕合<シアワ>せ、因果歴然、善悪ニツの道理、天道おそろしく候ひしなり。
(『信長公記』新人物往来社 桑田忠親校注)

 『信長公記』を直接読まれていない方は意外かもしれないが、ここにこの合戦における今川義元大敗北の原因がはっきりと語られている。しかしこれまで、この箇所をして今川軍敗北の原因であるとした論者は存在しない。なぜならば、因果応報の道理、天道によって今川軍が敗北したというのを真に受けるほど、現代の我々は迷信深くないからである。しかし義元には道理がなかったのだという指摘は、その「道理」あるいは「天道」の理解によっては、迷信だといって簡単にかたづけられないと思うのである。

 太田牛一が、この合戦の顛末に掲げた「道理」を構成する史実は、次のように整理される。

① 山口左馬助教継は、今川義元に「重々忠節」を尽くした。
② 義元は、山口教継の功績に褒美を与えなかった。
③ 義元は、山口教継親子を駿府に呼び寄せて殺害した。
④ 義元は、山口教継の在所(鳴海・桶狭間)へやってきて討ち死にした。
⑤ 義元は四万五千の大軍を擁していたが、わずか二千の信長勢に敗れた。

 そして上記の史実から、太田牛一は次のような因果応報を見出していることになる。

A 四万五千の大軍を擁していたのだから、わずか二千の信長勢に敗れることは尋常ではない。
B このような尋常でない事態が起こったのは、人智を超えた力が働いたためである。
C その人智を超えた力とは、悪しき因縁がそれを正そうとする結果に結びつくように発揮された。
D 悪しき因縁とは、上記の①~③であり、それを正した結果が上記の④と⑤である。

 太田牛一は早い時分から織田信長の家臣となっており、この桶狭間合戦にも信長のもと従軍していただろうと考えられている。その牛一が上の引用にみられるように、この奇跡的な大逆転勝利を、信長の才能や戦術に求めることはしていない。『信長公記』が記す桶狭間合戦には、大勝利へ導く信長の作戦が描かれているわけではなく、また牛一は信長の軍事的才能を褒めることをしているわけでもない。信長は兵を率いて戦場で戦いはしたが、今川の大軍が敗れ去ったのは義元側の悪しき因縁によったのであり、それが義元さえも死に至らしめたのだと牛一は語る。このように太田牛一は、奇跡の大勝利の原因をいささかも主である信長に求めることなく、その戦いをなんとも冷徹に描いたということなのである。
 太田牛一という書き手の特質は、この冷徹さにあるように思うのであるが、その冷徹さが指摘する桶狭間合戦の核心は、「道理」あるいは「天道」にもとづく因果応報である。この戦場にあって戦う男であった牛一が、その生死の境にみた「道理」そして「天道」とはいったい何であったのだろうか。今回はそのことについて考えてみようと思うが、その考察の対象はまたしてもあの山口左馬助教継であり、彼の動向は必ずや小河水野氏に関わりがあることなのである。

 桶狭間合戦に現れた因果応報の始まりとして、牛一によって告発された山口親子殺害事件であるが、この親子がなぜ殺害されることになったのかについて、『信長公記』に具体的な記述があるわけではない。この事件の真相を探ろうとするとき、どこから手をつけるべきなのか。その探求の第一歩は、この親子の殺害時期を特定することにあるだろう。

 『信長公記』によれば、鳴海城主山口左馬助・九郎二郎親子は、駿河に呼び寄せられて切腹させられ、鳴海城には岡部五郎兵衛が城代として入り、大高・沓掛両城にも城番が置かれたという。
 弘治元年(一五五五)二月五日付版物で、織田信長は、一雲軒・花井右衛門兵衛尉に対し、鳴海に同心した星崎・根上の者の領地を没収するための調査を命じている。また、弘治三年一二月三日付の朱印状で、今川義元は、尾張国鳴海東宮大明神祢宜<ネギ>二郎左衛門尉に、同明神・八幡神田を安堵し、近年押領の祢宜の不法については、在城衆に堅く申付くべしと述べている。この弘治元~三年の間に、山口親子が滅ぼされ、今川氏の派遣した城代岡部五郎兵衛が置かれて、鳴海城近辺は今川氏の直接支配下に入ったと推定される。岡部五郎兵衛は、これ以前は笠寺の在城衆の一人であったが、山口氏滅亡後の鳴海城の城代となった。当時今川氏の最前線は、黒末<クロスエ>川(天白川)東岸の鳴海・大高両城であり、同西岸の笠寺・中村砦は信長方が奪回したと推定される。そうでなければ、信長は、鳴海城の周囲に付城を築くことは無理と思われる。

(『新修名古屋市史第二巻』)

 『新修名古屋市史』は、山口親子殺害時期を「弘治元~三年の間」としているが、その開始時期の根拠として示されているのが、弘治元年に一雲軒・花井右衛門兵衛尉に対して出された信長の命令書である。

星崎根上之内今度鳴海江同心之もの共跡職、悉為欠所上者、堅可遂糾明者也、仍如件、
   天文廿四                 上総介
     二月五日                 信長(花押)
      一雲軒
      花井右衛門尉兵衛殿

(星崎根上の内、今度鳴海へ同心のもの共跡職、悉く欠所と為す上は、堅く糾明遂ぐべきもの也、仍って件の如し)
(『愛知県史資料編10』)注:()内筆者

 この書状にある「今度鳴海へ同心のもの共」とは、鳴海すなはち山口教継が天文21年に織田から今川へ転向した際に、彼に同調して今川方になった者たちのことである。その同心者がここで信長に処罰されようとしているが、当然のこととして今川としては彼らを守らねばならない。しかしながら、ここで信長は糾明を断行する姿勢を示しているのであるから、星崎・根上の転向組みは領地を失う危機に瀕しているわけである。したがって『新修名古屋市史』は、星崎・根上の領主たちが今川によって守られていないことに注目し、そこにこの書状の意義を認めているわけである。そして彼ら鳴海同心者をまず守らねばならない立場にある者こそが山口教継なのであり、それが果たせていないからには、教継の身に異変があったか、少なくとも彼の今川方における立場が急落している事実がそこにあったろうというわけである。
 また弘治3年には、鳴海東宮大明神の祢宜(神社に奉職する神職の総称)に対して所領が安堵されているが、その書面で義元は「在城衆此の旨を存じ堅く申し付くべきもの也」と述べている。ここで「在城」といっているのは鳴海城のことであるが、そこには「衆」という複数の在番がいるだけで、かつての城主であった山口親子の姿が見えなくなっている。また義元は、鳴海東宮大明神における所領帰属問題の監督を「在城衆」に命じているのだが、これは鳴海周辺の領主としての山口氏が消滅していることを示すものである。こうした理解に立って『新修名古屋市史』は、この時点までに山口親子が殺害されたと判断したのである。このように、「弘治元~三年の間」に山口親子が殺害されたという指摘には、相応の妥当性が認められる。そうなると弘治元年より前に、この親子が殺害されねばならなくなった何かが起こっていたことになるが、山口親子殺害を語る『信長公記』はその何かを直接には記していない。その代わりに、親子が転向して以来の鳴海周辺の動向を、同書は次のように伝えている。

 既に逆心を企て、駿河衆を引き入れ、ならび大高の城・沓懸の城、両城も、左馬助調略を以て乗つ取り、推し並べ三金輪に三ケ所、何方へも間は一里づゝなり。鳴海の城には駿河より岡部五郎兵衛城代として楯籠り、大高の城・沓懸の城、番手の人数、多太~<タプタプ>と入れ置く。
(『信長公記』前掲書)

 ここで述べられていることを、以下箇条書きにしてみる。

①逆心を企てて、織田弾正忠家を離反した。
②今川方に与するようになって、笠寺砦に駿河衆を引き入れた。
③大高の城・沓掛の城、両城も、左馬助が調略を以て乗っ取った。
④鳴海の城には岡部五郎兵衛が城代として楯籠った。
⑤大高の城・沓掛の城に、番手の人数も十分に入れ置いた。

 『信長公記』が語るところを5つの箇条書きにしたが、確実にそうだと言えるわけではないが、基本的にはこの順番が時間の経過どおりであると考えられる。また、③を除いて主語が欠落しているが、①と②の主語は間違いなく山口教継である。そして④で鳴海城に楯籠ったのは岡部元信であるが、それを命じたのは今川義元であると考えられる。さらに⑤であるが、これもまた義元の命令によるものであろう。こうして5項目に主語を補ってみると、①~③は山口教継の行動を記しているが、後半の④と⑤はおそらくは義元の命令・意向によるもので、少なくともそこに教継の関与はないとみてよいだろう。そうなると『信長公記』が記すこの箇所には、前半と後半の間に断絶がおかれており、①②③とこの地域の動向をリードしてきた山口教継は、後半になると消え去り、④以降は今川義元の指令と意向で事態が動いているようにみえる。このことからすれば、③と④の間に山口親子殺害があったとみるべきであるが、③は教継の今川方としての功績が記されているのであって、それは親子殺害の原因とは程遠い内容のように思える。
 さてここで、先にあげた弘治元年の信長の糾明命令書と、この③の出来事の前後関係を考えてみることにしよう。まず信長の命令書の内容を、詳細に検討することからはじめる。信長はこの書状に「糾明遂ぐべき」と書いており、そのことを一雲軒と花井右衛門兵衛尉に命じていたわけだが、この「糾明」を『新修名古屋市史』は「鳴海に同心した星崎・根上の者の領地を没収するための調査」だとしていた。するとこの調査の目的は、「領地を没収する」ことであり、その対象者となるかどうかは「鳴海に同心した」かどうかで決まることになる。山口教継が織田弾正忠家から離反したのは天文21年であったが、おそらく星崎・根上の鳴海同心者はそのとき行動を共にしたことであろう。ところで、この天文21年(1552)から弘治元年(1555)までは3年の期間があるが、この時期になって信長は、急に3年前の謀反に対する処罰を思い立ったということなのであろうか。
 残されている信長の命令書は弘治元年のものであるが、それ以前にもこうした命令書は存在したのかもしれない。しかしながら重要なのは、この弘治元年になって「堅く糾明遂ぐべき」とその意志の貫徹を明確にしている点である。これはこの時期になると、こうした今川転向者に対しての処罰に、実効性が備わってきていることを示すものである。そして糾明の貫徹が可能であるということは、この命令が適用される星崎・根上における情勢が、それまでとは一変しているということである。つまり、信長の力がこの地域に確実に浸透し、反対に今川の威令は及ばなくなっているのである。こうした情勢の変化が起こったことに対して、この地域における信長の軍事力が優勢になったと考えたくなるが、実際にはそうではない。この時期の今川方は、この後で確認するように以前と変わらず笠寺砦を維持していたし、大高城・沓掛城を自陣営に引き込む勢いをもっていた。その一方で信長側はどうかというと、村木合戦のおいて1千の守兵を提供してくれた、同盟者の斉藤道三に異変が起きていたのである。

 しかし、西隣美濃では、信長の最大の支援者斉藤道三が、天文二三年(一五五四)三月、家臣の支持を失って隠退し、家督を子利尚(のち義龍)に譲るという事態が起きていた。織田弾正忠家当主としての信長の地位に対抗しようとする動きが、こののち尾張国内で生じてくることになった。
(『新修名古屋市史第二巻』)

 権威が失墜して引退していた道三は、その後の弘治2年になると義龍と戦って戦死してしまう。この道三の権力低下は、信長の糾明命令が発せられる1年前に始まっており、弘治元年の時点では美濃からの支援は期待できなくなっていた。この美濃における情勢変化によって、弘治元年前後の信長は、『信長公記』が語る「御迷惑なる時、見次者は稀なり。ケ様に攻め、一仁に御成り候」という状態にあった。こうしたことからすれば、軍事力において今川優勢・信長劣勢という情勢が逆転していたとは考えられないのであるが、その中で星崎・根上においては、領地没収にかかわる領主たちへの調査が実施されていた。したがって信長の何らかの軍事的勝利が、星崎・根上の調査を可能にさせたとは考えられないのであるが、そうだとするならば、この地の領主自身が進んで信長の糾明を受け入れるようになった、とみることが順当となるだろう。つまり星崎・根上の領主たちは、かつて鳴海に同心して今川方となったように、ここに来てまた自らの意志で信長に帰参するようになったということなのである。
 このように弘治元年の信長の糾明命令書は、ここに示された星崎・根上に限らず、この鳴海周辺地域において今川方に転向していた者が、この頃ぞくぞくと信長に帰参していたことを示すものである。そしてこの帰参は、信長方の優勢な軍事力によって引き起こされたものではなく、星崎・根上の領主たちがそれを望んで実現したものである。そしてこの信長方への帰参には、領地没収と今川方からの報復の恐れというペナルティがあったはずであるが、それを押して今川を離れ信長に帰属する彼らの胸中はどのようなものだったのだろうか。かつて鳴海に同心して今川方となった際も、その選択を彼ら領主自らがおこなったが、それは今川に帰属することが彼らにとってプラスであったからである。それが3年たってこうなったということは、従来と異なって今川方であることが大きなマイナスに変わっていたということを示している。過酷なペナルティを課されても、信長帰参を星崎・根上の領主たちに選択させたほどのマイナス要因とは、いったい何であったのだろうか。

 信長の糾明命令書が出された弘治元年前後には、山口教継による大高城・沓掛城の調略、そして山口親子の殺害があったわけであるが、それらの年次は判然としていない。そこでこの3つの事件の意義とそのつながりを検討することで、この地域に発生していた信長への帰参が、何によって促されたかを明らかにしてみようと思う。まずはこの3つの事件の発生順であるが、大高・沓掛の調略は山口教継の手によるものなので、それが山口親子殺害の前であることは明らかである。そしてこの大高・沓掛両城への調略成功は、星崎・根上に対する信長の糾明命令が出される前のことであると考えられる。なぜならば、星崎・根上の領主たちが信長に帰参してゆく流れの中では、大高と沓掛に対する調略が功を奏するとはとても考えられないからである。この両城は武力をもって攻撃されたのではなく調略されたのであり、たとえそれが策略によるものだとしても、それを成就させる下地というものがあったはずである。つまり鳴海に同心した者たちが、次々と信長に帰参する情勢下では、山口教継の弁舌あるいは策略をもってしても、大高・沓掛の者を動かすことはできなかったであろう、ということなのである。したがってこの両城に対する調略の成功は、弘治元年よりも前の、未だ信長に帰参するという流れが起きていない時点で起こったことである。
 先に『信長公記』が記すこの地域の動向を①~⑤に分けて、その記述の仕方から③と④の間に断絶があると述べたが、その③はまさしくこの大高・沓掛両城の調略について書かれたものであった。こうしてみるとこの調略、どうも単に今川方の山口教継の忠節・手柄話し、というだけのものではなさそうである。この談義は第三十回から「国人小河水野氏の憂鬱」というタイトルを掲げ、これまで山口教継と小河の水野一族の間に敵対関係があったという見方で論を進めてきた。そのことからすれば、沓掛城はさておき、少なくとも大高城を山口教継が調略したというのは格別の意味をもつことになる。なせならば、敵対する水野氏が鳴海の目前に構える拠点、それが大高城であり、この大高城から水野氏を追い払うことは、教継にとって長年の念願であったはずだからである。教継にとってこの大高城は目障りなどというものではなく、水野氏と彼の力関係からすれば、自身に強力な圧力をかけ続ける脅威だったはずで、これを何とか跳ね除けたいと思い続けてきたことだろう。したがって大高城の調略という事件は、今川氏への忠節や功績という以上に、教継にとって差し迫った自身の目標の達成であったわけである。そして大高城調略が教継の念願であったならば、彼が今川方に転じたのも、大高の水野氏を退去させたいという一途な思いがあって、踏み切ったものであろう。そしてそれは知多半島を席巻するように勢力を拡大し、さらに知多郡を越えて北上する水野氏に直面することになる、笠寺・星崎・根上・沓掛の領主たちに共通の同心事項であったはずである。こうして対水野氏という共通の目的によって、鳴海を中心とした一揆が結ばれていたと考えることができるのである。
 ここでこれまでに明らかになった事実を、先に①~⑤に整理した天文21年からの鳴海周辺の動向に加えてみることにする。

① 山口教継は、逆心を企てて織田弾正忠家を離反した。
a 星崎・根上の領主も、山口教継に同心して織田弾正忠家を離反した。
② 山口教継は今川方に与するようになって、笠寺砦に駿河衆を引き入れた。
b 三の山・赤塚で信長と山口子息が戦った。
c 信長は小河水野氏を援けて、今川方の村木砦を攻め落とした。
③ 大高の城・沓掛の城、両城も、左馬助が調略を以て乗つ取った。
d 星崎・根上の領主は、今川を離れて信長に帰参した。
e 山口親子が、今川方によって殺害された。
④ 鳴海の城には岡部五郎兵衛が城代として楯籠った。
⑤ 大高の城・沓掛の城に、番手の人数も十分に入れ置いた。

 ここには、織田弾正忠家、織田信長、山口教継(親子)、小河水野氏、星崎・根上の領主、今川方(岡部元信や守兵)が登場しているが、これらの関係が時間とともにどのように推移していったかを<表1>に整理してみた。
【談義1】水野氏と戦国談義(第三十二回)_e0144936_1021692.jpg
 <表1>における天文20年の枠組みは、『新修名古屋市史』や『刈谷市史』などによる織田・今川和睦説に基づいて表現しておいた。この和睦説は織田と今川の和睦であって、両者はそれぞれの意図と都合から西三河で戦い、そしてこの頃にやはりそれぞれの意志で和平を選択したというわけであるから、ここには両者以外にはせいぜい知多半島の有力者水野氏が登場するくらいである。しかしながら、本談義においては第30回で述べたように、織田・今川の2大陣営がこの地域の動向を牽引したという視点ではなく、在地領主における独自事情が基底にあって、それに引き摺られるように織田・今川が関与していたという理解に立っている。したがってその本来の構図からすれば、天文21年として表現した枠組みが20年においても描かれるべきであるが、あえてその視点の違いをここに持ち込むことにした。
 表中の赤線はそこに対立・紛争があったことを示すが、そこから左と右に分かれて織田陣営と今川陣営という一括りがあったというのではなく、その赤線に接している勢力(同色)が対立・紛争の当事者であることを示そうとしている。そして水色が「織田弾正忠家」から「信長」に変わっているが、これは信秀の時代の弾正忠家が分裂して、信長はその一勢力に過ぎないことを示している。この「信長」と「今川」の配色は、対立・紛争の当事者とは別の擁護者・同盟者であることを示すために、同系統色であるが色を分けている。
 この表のように鳴海周辺の動向を整理してみると、やはり弘治元年に事態が大きく転回していることがはっきりとする。ここで山口教継を以前のままに残しているが、実際はこの時点で彼ら親子が殺害されている可能性もある。したがってここで注目すべきなのは、弘治元年以降の<e>の段階である。鳴海城に岡部元信が入って、かつての山口教継の占めていた位置に、この地に派遣された駿河衆が収まっていることに注目されたい。
 天文20年以前から続いてきた鳴海周辺領主たちと水野氏の紛争は、水野氏の北の拠点大高城が山口教継によって調略され、そこの水野大膳が追い払われたことで大きな転機を迎えた。それまで鳴海に接する大高の水野氏に対抗するために、山口教継らは今川を頼って駿河衆をこの地に引き入れた。そしてその効果があって大高城から水野大膳が退去して、水野一族の力は南部に押し戻されることとなった。こうして一揆をむすぶ領主たちに対する水野氏の圧力は大きく減退し、彼らの目的はここに成就されたのである。そしてこのことは、この目的を掲げ続けてきた一揆衆にとって、今川方であることによるプラス要因がここで消滅したことを意味する。しかしながらその代わりに、それまで顕在化していなかった今川方であることのマイナス要因が、ここに至って一揆衆の前に浮上してくるのである。

つづく

# by mizuno_clan | 2011-04-23 14:06 | ☆談義(自由討論)

【談義1】水野氏と戦国談義(第三十二回)

つづき

 駿河兵が山口教継によって笠寺砦に引き入れられたのは天文21年であったが、それから弘治元年までの3年間は、この地に今川の将兵が留まり続けた。そしてそれは後の桶狭間合戦まで続いたのであるが、この駿河兵の駐留費用はいったい誰が負担していたのであろうか。次の永禄2年8月21日付の書状は、朝比奈筑前守に対して今川義元が大高城在番を命じたものである。

今度召出大高在城之儀申付之条、下長尾一所之事一円永所宛行之也、於遂在城者連々可加扶助、彼郷之内前々之被官等無相違所還附也、守此旨用心已下無油断可勤之者也、仍如件、
  永禄弐未己年
    八月廿一日                 治部大輔(花押影)
    朝比奈筑前守殿

(今度召し出し大高在城の儀申し付けの条、下長尾一所の事、一円永く宛行う所也、在城を遂げるにおいては連々扶助を加えるべし、彼の郷の内、前々の被官等、相違無く還付する所也、此の旨を守り、用心已下<イカ>油断無く勤めるべきもの也、仍って如の件し)
(『愛知県史資料編10』 )注:()内筆者

 ここで義元は、大高城の在番を勤める朝比奈筑前守に、その費用の賄い分として知行地を宛ておこなっている。この場合、朝比奈にとって大高城は預り物で、この城に関わる収支に彼は直接関わることがないために、その収支を押さえる義元が別途在番に要する費用を拠出したものであると考えられる。このように特別選任によって発生するような費用は、それを命じた義元が負担するというのが当時の定法であったように思われる。そうであるならば、笠寺砦に駐留していた駿河衆の諸費用は、同様にそれを命じた義元が負担していたのであろうか。
 駿河衆は、山口教継が彼らを「引き入れ」たことで笠寺砦に楯籠もることになったのであるが、このことは教継が直接駿河衆に働きかけたのではなく、義元へ駿河兵の派遣を要請したことを示している。義元はこの要請を承諾して葛山・岡部・三浦・飯尾・浅井を鳴海に派遣したのであるから、この場合は派遣要請者が駿河衆の駐屯費用を負担したと考えるのが順当のように思う。そしてその派遣要請者とは、山口教継個人というのではなく、彼を中心とする対水野氏一揆の領主たちであり、駿河衆の駐屯費用を負担することが前提の派遣要請であったと考えられる。こうして大高城の水野氏を退去させるための対価を、鳴海・笠寺・星崎・根上などに根を張る在地領主たちは3年間負担し続けたのである。そしてその負担に耐えた一揆衆は、教継の調略によって水野氏が追い払われた時点で、役割を終えた駿河衆に立ち去ってもらうつもりだったはずである。しかしながら、駿河の将兵は笠寺砦から引き上げることはなかった。

去晦之状令披見候、廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由、神妙候、猶々堅固ニ可被相守也、謹言
  永禄元年
     三月三日               義元(花押)
  浅井小四郎殿 飯尾豊前守殿 三浦左馬助殿 葛山播磨守殿 笠寺城中

(去晦<ツゴモリ>の状披見せしめ候、廿八日の夜、織弾人数夜込めせしめ候処に早々追払われ、首少々討取り候由、神妙候、猶々堅固に相守らるべき也、謹言)
(『豊明市史資料編補二』 )注:()内筆者

 この義元の書状をみれば、永禄2年3月までの笠寺砦には、かつて山口教継に引き入れられた今川の面々が留まり続けていたことがわかる。このように大高城の水野氏が退去した後も、笠寺砦は以前と変わらず駿河衆が楯籠もっていたのだが、その駐留費用が依然として対水野氏の一揆衆に掛かっていたのであるならば、それを彼らが大きなマイナス要因とみなさないはずがない。そしてこのことを最も気にかける立場にいたのが、駿河衆を引き入れた山口教継だったのである。彼は駿河衆に、これ以上駐留費用を負担できないことを伝えたであろうし、義元にも彼らへの退去命令を出すように願い出たことであろう。しかしそれがどうなったかは、その後の展開が示すとおりである。この地の今川勢は引きあげることなく、むしろ「大高の城・沓懸の城、番手の人数、多太~と入れ置く」という経緯をたどることになったが、このことは一揆の中心人物である山口教継を追い詰めたにちがいない。
 大高城の水野氏が退去したことで、この水野氏に対抗していた鳴海・笠寺・星崎などの領主たちにおける、駿河兵駐屯の意義が一変することになった。天文21年から続く駐屯費用の負担は、それまでも重く彼らにのしかかっていただろうが、水野氏退去を契機として耐えがたい負担として意識されるようになったことであろう。そして星崎・根上の領主たちが今川方を離れる決断をして、弘治元年に信長に帰参してしまった。おそらくこの時点まで、山口教継は彼らを引き留めようとしたであろうし、一方で駐留の駿河衆、そして駿府の義元に何度も費用負担はできないと訴えたことだろう。しかしながら、ついに一揆が崩れて離反者が出てしまった。このことが「駿河へ左馬助、九郎二郎両人召し寄せられ」という義元の行動につながり、山口親子は義元に直談判すべく駿府へ向かったということではないだろうか。
 山口親子殺害事件については、信長による情報操作の謀略であったとする説がある。これは信長が仕掛けた虚偽の情報を義元が鵜呑みにして、無実の山口親子が殺害されたというものであるが、これを少しでも裏付ける史料は存在していないし、かつての暗愚に近い義元像を背景とすることから最近はあまり耳にしなくなった。これに対してこのところ目にするのが、義元の外様排除の深謀遠慮説である。橋場日月氏は『新説桶狭間合戦』において、「今川義元は、反覆絶えない旧織田方の寝返り国人たちを、逆にその転向を予防するという大義名分のもとに次々とあるいは殺しあるいは左遷して、その拠点に子飼いの武将と兵を配置していったのだ」と述べている。そしてそれは、「義元による一定の基本方針のもとにおこなわれた外様排除の深謀遠慮だった」というのであるが、これもまた根拠があるわけではない。
 山口親子は駿河(駿府)に「召し寄せられ」たわけであるが、義元が始めから殺害するつもりであったならば、なぜわざわざ親子を呼び寄せる必要があったのだろうか。鳴海方面には駿河の将兵が駐屯していたのだから、その兵力を背景に鳴海で親子に死を与えればよかったのではなかろうか。むざむざ駿府へ招きよせられるような山口親子であるのだから、鳴海であろうが駿府であろうが、義元が命を遂行するのに違いはなかったはずである。さらに義元が山口親子を殺害せんとした動機であるが、彼らが外様だから信用がおけず、子飼いで信頼のおける者と首をすげかえようとしたというが、次にこの点について検証してみよう。
 山口親子が排除された後に、その後釜として鳴海城に入ったのは岡部元信である。そしてその元信はそのまま桶狭間合戦を迎えて、最後まで鳴海城に留まって奮戦し、許しを得て城を退去したということで氏真から褒賞されている。

右、今度於尾州一戦之砌、大高・沓掛両城雖相捨、鳴海堅固爾持詰段、甚以粉骨至也、雖然依無通用、得下知、城中人数無相違引取之条、忠功無比類、剰苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、数多討捕、城内悉放火、粉骨所不準于他也、彼本知行有子細、数年雖令没収、為褒美所令還付、永不可相違、然者如前々可令所務、守此旨、弥可抽奉公状如件
  永禄三庚申年
    六月八日                氏真(花押)
    岡部五郎兵衛尉殿

(右、今度尾州一戦の砌<ミギリ>、大高・沓掛両城相捨てると雖も、鳴海堅固に持ちて詰めるの段、甚もって粉骨の至也、然ると雖も通用無きに依り、下知を得て、城中人数相違無く引取の条、忠功比類無し、剰<アマツサ>え苅屋城籌策<チュウサク>を以って、城主水野藤九郎其の外随分者、数多く討捕り、城内悉く放火、粉骨他に準于<ジュンコ>せざる所也、彼の本知行は子細有りて、数年没収せしむと雖も、褒美として還付為さしめる所、永く相い違うべらず、然らば前々の如く所務せしむべし、此旨を守り、弥<イヨイヨ>奉公抽<ヒ>くべきの状件の如し)
(『豊明市史資料編補二』 )注:()内筆者

 ここで氏真は岡部元信の働きを賞して、仔細があって数年前に没収していた彼の知行地を還付すると述べている。数年前というのがいつのことで、どのような罪過があって元信の知行地が没収されたのかはわからない。しかしこのような措置をとったのは生前の義元であり、岡部元信は領地を没収されるような罪を犯していたのである。そしてその罪が許されたのが、没収されていた知行地が還付された永禄3年6月ということなのである。このことからすれば、義元の生前はついに元信への叱責は解かれぬままであったことになるが、そのような元信に義元が信頼を寄せていたというのは如何にもおかしな話しである。このことによって、外様排除の深謀遠慮説は成り立たないことがわかるが、叱責を受けていた岡部元信が鳴海城主となったというのは、いったいどういうわけなのだろうか。
 永禄元年に「織弾」による夜襲を撃退した笠寺守備の武将は、かつて天文21年に山口教継が引き入れた面々であるが、ただ一人岡部元信の名前がこの砦から消えている。したがって永禄元年には元信が鳴海城主となっていたとわかるが、笠寺砦には葛山・三浦・浅井・飯尾の面々が詰めていながら、なぜ叱責を受けている者が鳴海城の城主に抜擢されたのだろうか。
 岡部元信が桶狭間合戦後になって没収地を回復したということは、彼がこの笠寺・鳴海に駐留するにあたって、義元がその負担を補填しなかったことを意味している。もし大高城在番となった朝比奈筑前守のように、義元が駐留経費を負担するのであれば、まっさきに元信に没収地を還付したことであろう。それがなされなかったということは、先ほど述べたように、この地への派遣要請をした対水野氏一揆衆が、その費用を負担することになっていたからである。そしてその駐留費を賄ってきた山口教継が殺害されると、叱責されているはずの岡部元信が鳴海城に入った。このことは、元信が鳴海城主となったのが義元の意向ではなく、現地が義元の統制をはずれて勝手に動いていることを示すものではないだろうか。
 天文21年に尾張東南部に派遣された駿河衆の駐留費用を、それを求めた在地領主たちが負担していたと考えると、次の2点に対する説明が明快なものになる。

① 星崎・根上の領主たちは、劣勢の信長になぜ帰参したのか。
② 今川方として貢献してきた山口親子はなぜ殺害されたのか。

 駿河衆の駐留費用の負担が、星崎・根上の領主と山口親子に重くのしかかっていたことが、彼らが今川方であることの大きなマイナス要因となっていた。そしてそれに耐え切れなくなった、星崎・根上の領主が今川を離反する。そのことが今川方への転向を主導した山口親子を追い詰め、親子と今川氏との間に亀裂と衝突が避けられなくなった。それが『信長公記』が記す「御褒美は聊かもこれなく、情なく無下~と生害させられ」という事態の真相のように思う。しかしながら、それをもって義元が山口親子を殺害したというのは、まだ結論を急ぎ過ぎていることになるだろう。駿河衆の駐留費負担の件で、山口親子と義元が決定的に対立してこそ、この殺害が現実のものとなるはずであるが、義元の側に本当に駿河衆を居座らせる理由があったのであろうか。もともとこの駿河衆の派遣は、山口教継の要請を義元が聞き届けて実現したものである。そのことからすれば、要請元が将兵の駐留は不要となったので引き揚げてもらいたいというのを、義元が拒む理由はないように思われる。
 この鳴海方面への駿河衆派遣の性質は、次のように整理することができる。

① 要請元が駐留費用を負担していた。
② 駐留部隊には守備的に留まることが求められ、積極的に交戦することはなかった。

 ①はそれを直接に示す史料があるわけではないが、先に述べたように、このことを前提とすることによって星崎・根上の領主が劣勢の信長に帰参したこと、そして山口親子が殺害されたことを無理なく説明することができるようになる。また②については、駿河衆が「引き入れ」られたことと、大高城・沓掛城が教継の調略によって今川方となったこと、そして笠寺砦の駿河衆には防衛的な戦闘記録はあるが進んで周囲を攻撃した記録が残されておらず、大高・沓掛以外に新たに今川方となった地域がないことから、それと結論付けることができるだろう。
 この上記に整理した①と②は、この駐留部隊派遣が地元の要請元主導で実現していたことを示すもので、義元が自領あるいは自勢力拡大を目的として実施してきたことを示唆するものではない。そしてこの地でその後に起こったことは、星崎・根上が離反し山口親子が殺害されるという、この派遣の前提となった枠組みが全面的に崩壊するという事態であった。先の義元の外様排除の深謀遠慮説では、この崩壊を義元が意図して引き起こしたという解釈をしていたが、外様という区別でみるならば、それに該当するのは特定の国人領主だけではない。これまでこの談義で論じてきたように、在地には独自の自律的なシステムが作動しているのであり、在地の土豪や国人は「村の成り立ち」の補完者としてそのシステムに組み込まれていた。したがって、そのような在地の土豪・国人が外様だというのであれば、その地域全体が外様なのであり、簡単に領主の首をすげ替えればよいというものではない。そうであれば、星崎・根上の離反と山口親子殺害は、この地域のシステムが今川に組み込まれることに重大な打撃を与えたはずである。つまりこの二つの事件は今川の統治における失策であり、少なくともそれを義元が意図して引き起こしたなどということは考えられないのである。
 天文18年に松平広忠が殺害された動揺を抑えるために、今川義元はすばやく岡崎城を接収し、次いで安城城から尾張勢を追い払った。このことで、東三河に加えて西三河の大半が今川に従うようになり、三河一国の統治は今川の手に委ねられるようになった。しかしこの今川による西三河統治には、次に述べられるような地域との協調が必要とされていた。

 今川氏は三河の支配に際し、松平一族をはじめとする西三河諸領主に対しては、竹千代への「忠節」も要請していた。すはわち今川氏は西三河諸領主へ政治的な両属関係を作り出さざるをえなかったということである。そして今川氏の三河支配はそれを前提としてはじめて成り立っていたことをあらためて強調しておきたい。(中略)今川氏がこうした政治的な両属関係を否定・払拭しようとするのは当然のことで、その最も有効な方法は義元の三河守任官であり、義元はそこで三河支配の正当たる途を開こうとしていたのである。その経緯はともかく、義元が三河守に補任されるのは永禄三年(一五六〇)五月八日であり、桶狭間合戦の一一日前のことであった。
(『戦国大名今川氏と領国支配』久保田昌希著)

 西三河に広く分布し、長年にわたってこの地の領主であり続けた松平諸氏は、長忠の代より安城家を惣領とするようになり、竹千代(元康)はその5代目に当たる。その竹千代は、幼少の身でかつ駿府で養育されていたにもかかわらず、今川の統治にとって欠かせないシンボルであったというわけだが、この西三河にとっては今川こそが外様であるということを、このことは示しているのである。松平惣領家の居城である岡崎城に、城代を送ればそれで今川が松平にとって代わるわけではない。このことと同様に、城主親子を殺害して鳴海城に城代を入れれば、それでこの地域が今川に馴染み従順になるというわけではないのである。
 先に鳴海城主となった岡部元信が領地没収の叱責を受けていたことから、山口親子殺害を義元の深謀遠慮だとする説は成り立たないと述べたが、より本質的にはこの時代の戦国大名における権力観に問題がある。被官を自身の都合で譜代・外様などと色分けし、その被官の生命と財産を随意に破壊できる権力を、この時代の戦国大名がもっていたという認識がなければ、先に紹介した深謀遠慮説など成り立たない。そしてこの権力観に立てば、鳴海方面の在来の枠組みを今川義元が自身の都合で意図的に崩壊させた、というシナリオも通るのであろうが、こうした権力観には安易に立たないというのがこの談義のモットーである。また派遣部隊に対して、義元がどの程度の統制を働かせていたのかにも、この問題は関わることになる。
 岡部元信は、領地を没収されるような行動をする男であるが、そのような元信が駿府から遥かに離れた尾張の地で、おとなしく義元の意向に沿うようにしていたとは思われない。そしてそれは岡部元信だからというのではなく、この時代の主従関係というものがそもそもそうした側面をもつものだ、ということから言えることなのである。この主従関係に対する理解のスタンスによって、義元の権力が尾張駐屯の駿河衆を厳格に統制したという見解に立つ場合もあるだろうし、ここで述べているように義元の統制は届かない、あるいは緩やかにしか統制しようとしない、という考え方にもなる。この時代の社会を強く規定していたとみられる主従関係が、果たしてどのようなものであったのか。それは次回以降に詳しく考察してみようと思うが、ここでは岡部元信が義元から叱責を受けていた身でありながら鳴海城主となった、という点に注目して考える必要がある。
 確認できる史実からすれば、天文21年に山口教継に引き入れられた駿河衆は、永禄元年に至るまで笠寺砦にずっと楯籠っていたことになる。しかしながらそれが義元の命令だったということで、彼らが素直に従っていたと考えるにしても、この6年もの間ずっとただ笠寺砦に籠って敵に備えていたというのは、何か間が抜けた話しのように思える。それにいったい、どの敵に備えていたというのであろうか。一般的には織田信長を今川方の変わらぬ敵対者とするのであるが、その信長は駿河衆が笠寺砦に籠っていた間に、清洲の守護代と争いこれを滅ぼし、兄信広・弟信勝と戦ってこれを退け、岩倉の守護代とも干戈を交えて戦いを優勢にすすめていた。『信長公記』が語る「ケ様に攻め、一仁に御成り候」というが信長の立場であったわけで、彼は尾張国内の敵対者と激しく争うのに手一杯であったのである。このように当時の尾張国内は内紛状態にあったのだから、笠寺砦の駿河衆に対信長あるいは対尾張衆ということで、厳重な守備が求められていたとは考えにくい。
 それでは、大高から水野氏が退去した後も、駿河衆が笠寺・鳴海に居座った理由とは何であったのだろうか。北条氏の有力被官である山角定勝には小窪六右衛門という寄子がついていたが、彼らの寄親・寄子関係の形成について、『戦国の群像』(集英社日本の歴史⑩)は次のように述べている。

 この五年間、小窪は北条から所領を宛行われることなく、参陣していた。一騎仕立てともなれば、一人前の武士で、従者の一人や二人は従えて従軍するのであるから、かれが村の有力な百姓すなわち地侍であったことはまちがいない。そしてこのとき、所領を宛行ってくれるよう目安を認<シタタ>めて、山角を取り次ぎとして北条に訴え、それが認められて萱方<カヤカタ>一〇貫文を給地として宛行われることになったのである。こうして正式に北条の家臣となった小窪は、今まで山角に「同心致」してきた関係をそのまま認められて、山角を寄親とする同心=寄子に正式に編入されたのである。
 さきの甲斐の恵林寺領でみた御家人はみんながそれぞれにちがう寄親の同心になっていた。それはかれらが、小窪と同じように、戦争の機会にそれぞれちがう有力者に結びついていったことを示すであろう。もちろん寄親の側からも、自己のもとに多くの兵を集めて戦功をあげようと、村に積極的に働きかけていったことはまちがいない。


 岡部元信は天文21年に笠寺砦に入り、永禄三年の桶狭間合戦後に鳴海城から退去するまで、8年間という月日を鳴海・笠寺の地に留まり続けた。浅井・三浦・葛山・飯尾については確かなことはわからないが、おそらく元信と同様であったろう。そして彼らは8年もの間、ただ敵地を睨んで砦に楯籠っていたわけではなく、この尾張東南部に自身の勢力を扶植することに努めていたものと思われる。それは今川のためというよりも、自身のために今川の仲介なしに寄子を募り、また彼らの頼りとなるよう努めていたことだろう。鳴海や笠寺の地侍層は、山口氏などのような在地の国人領主、知多半島に大きな力をもつ水野氏、そして新興の駿河衆の狭間にあって、真に頼りとなる寄親を求めて盛んに彼らに接触していたはずである。そして大高の水野氏が立ち去った後には、在地国人領主と東の一大勢力を背景とする駿河衆が、そうした地侍衆をめぐって競合関係に突入していたと考えられるのである。

つづく

# by mizuno_clan | 2011-04-23 14:05 | ☆談義(自由討論)

【談義1】水野氏と戦国談義(第三十二回)

つづき

 太田牛一は、鳴海の山口教継が大高城と沓掛城を調略で落としたことを語ったすぐ後で、「推し並べ三金輪に三ケ所、何方へも間は一里づゝなり」とこの3城の地理関係に言及している。この地理関係はとくに重要とも思われないのであるが、なにか少々窮屈にこの箇所に差し込まれている。そして実際の3城の距離は、鳴海-大高が2.5キロメートル、鳴海-沓掛が7キロメートル、そして大高-沓掛が7キロメートルであり、これらを結ぶと実際は不等辺三角形となっている。しかし牛一の脳裏では、3城はそれぞれ等距離にあって鼎の脚のような関係にある。そしてこの脚の只中には、あの桶狭間が広がっているのである。思うに牛一は、この3城がこの地域を押さえる要であって、それがすべて今川方になったことを強調したかったのだろう。そしてこの地理関係の記述に続いて、「鳴海の城には駿河より岡部五郎兵衛城代として楯籠り」と、唯一鳴海城だけその城代の名を明記したのは、それが山口教継の居城であったからであり、この城主交替に強い思いがあったからではないかと思うのである。
 さて最後に、今回の結論を述べることにしよう。殺害された山口親子の居城に、叱責を受けているはずの岡部元信が入ったということは、それが義元の命令ではなく元信の実力行使によるものであること示している。そしてこのような実力行使をもって鳴海城主となったからには、それが岡部元信の強い願望であり、その願望を叶えるために彼は必要なことを為したであろうと思われる。鳴海城主となるのに必要なこと、それは山口親子を亡き者にすることである。義元は尾張に派遣した岡部らの独走を掌握するために、訴えを起こしている山口親子を駿府に呼び寄せた。義元は直接に山口親子から実情を聴取しようとし、親子は面と向かって窮状を訴えようとした。しかし何らかの手段を講じて、岡部元信は山口親子が駿府に到着する前に彼らの命を奪ったのである。
 ここに述べた結論を裏づける確証は、残念ながら存在してはいない。しかしながら、これまでの考察が獲得した状況証拠は、こうした結論を指し示していると言えるだろう。笠寺に楯籠った駿河衆は、在地の山口氏らの要請を受けた義元の命令によってやってきたのであるが、だからといって彼らが命令遂行にのみ忠実で、独自の利己的な活動を戒めていたなどということはまずないことである。また8年もの間、笠寺・鳴海にあって自勢力拡大のための活動をすることもなく、じっと「織弾」に対峙していたなどと考えることにも無理がある。それでも駿府にいる今川義元が、鳴海・笠寺の現地情勢を確実にコントロールできる権力をもっていたと主張するのであれば、その目線から村の当知行やそれを支える地侍の融通などという、磁力をもった底辺の活動が取りこぼされているのである。笠寺・鳴海の村々やそこに根を張る地侍は、彼ら自身のために主と頼む国人を選びとるのである。そしてこの求めに応じて山口教継や岡部元信が奔走しているのであり、それがこの地域を動かしているのであって、駿府の義元が指先で遥か離れた尾張の派遣者を操っているのではない。
 山口教継は、義元に忠節を尽くしたのに「情なく無下~と生害させられ」たのだと太田牛一は語るが、教継は今川という大勢力に為す術もなく翻弄されたのではない。彼には、知多半島を北上して勢力を拡大する水野氏の脅威が迫っており、その脅威に対抗するために織田から今川へ転向するという決断をした。そしてその今川の力を利用して、ついには大高の水野氏を追い払うという念願を果たしたのであった。しかしながらその一方で、義元が派遣した駿河衆は役割を終えても笠寺・鳴海の地から去ることはなく、この地に彼ら自身の勢力を扶植すべく独自の活動を継続した。こうして虎の威を借りて狼を追った教継であったが、今度はその虎の子に脅かされ、ついには食われてしまうという皮肉な結果となったのである。
 かつて織田信秀の懇望を聞き入れて「苅谷赦免」に踏み切った義元は、「味方筋の無事」を求めてこの地域の安定に力を注いでいた。しかしその義元によってこの地域に派遣された駿河衆は、今川方という枠組みに納まりきっていたわけではなく、自力富強を押して憚らない者たちでもあった。そしてそのことを主である義元が否定するというのは、当時の主従関係に対する矛盾行為として捉えられたのではないだろうか。つまり、領主たち個々の自力富強の延長にこそ、この時代の主従関係があるのだと考えるのであるが、先にも述べたようにこのことは次回以降に考えることにしよう。
 太田牛一が、「浅猿敷<アサマシキ>仕合<シアワ>せ、因果歴然、善悪ニツの道理」と語るとき、その浅ましさや悪を義元にみているのであろうが、彼が知る以上に駿河の大大名はその意志の貫徹力が小さかった。そういう理解に立てば、浅ましさと悪はその運命の皮肉にこそあって、食ったものがまた食われる、あるいは食ったと思ったものが食い切れてなくて仇を為す、といったところにあるのかもしれない。鳴海の在所から山口親子の姿は消えたが、それで寄親たちの競合が消え去ったわけではなく、鳴海・大高・沓掛が形成する鼎の脚下の桶狭間は、ますますその情勢が流動化していったことであろう。そして尾張東南部で領主たちの浮沈が繰り返されている間に、信長は驚くべき急成長を遂げて、尾張の守護者を掲げて今川を討つべく立ち上がるのである。
 山口教継は、念願としていた大高の水野氏を追い払ったが、その後彼は岡部元信に殺害され、またその元信は桶狭間の敗戦で鳴海城を追われて、報復としか思えない刈谷城襲撃を果たして水野信近を殺害する。山口教継にしろ岡部元信にしろ、なぜか鳴海城主となったものは、宿命的に水野氏と深い因縁を刻むのであろうか。そしてその後、不確かながら水野大膳が大高城に復帰したというが、この城については一巡して元に戻ったということになる。悪行はその当為者の滅亡に至るという廻り合わせを念頭において、太田牛一は「因果歴然」と言ったのだろうが、ここにみえてきたのは、興る者が時を経て滅するという流転、そして輪廻のように繰り返されて元に戻るという、ある種の調和であったように思う。しかしどちらも人智を超え出た結びつきであり、誰かの意図によるものだとか、合理的に説明できる成り行きだというわけではない。そしてこうした混迷を救おうとしていた今川義元は、この成り行きに彼の意図とは関わりなく運命的に結びつけられて、「山口左馬助が在所」に足を踏み入れたとたんに、絡んだ因縁にその足元をすくわれたのである。こうした義元が陥った状況を無理に説明することもできようが、様々な起こりうる可能性の中であの劇的な結末が用意されたのを思えば、それが「天道」であったとするのに、いつしか違和感は消えているのである。

# by mizuno_clan | 2011-04-23 14:04 | ☆談義(自由討論)