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【談義1】水野氏と戦国談義(第三十回)

国人小河水野氏の困惑①-苅谷赦免-
談義:江畑英郷

 この「水野氏と戦国談義」も回を重ねて、とうとう三十回目となった。切がよいのと、「水野氏と‥」というタイトルを掲げておいて、水野氏について語ることが甚だ少ないことに少々気が咎めるので、今回は天文年間から桶狭間合戦までの小河水野氏について思うところを述べることにする。ここでの小河水野氏とは、知多半島北部東岸の小河(現在は愛知県知多郡東浦町)を本拠とし、この時期に刈谷・常滑・大高などに勢力をもった藤原姓水野氏(『刈谷市史』による)のことである。この水野氏については、本談義第八回「三河武士は忠義に薄く」で、中興の祖といわれる水野貞守からの来歴について一度簡略に述べさせてもらっている。そしてこの小河水野氏の動向を、ここで天文年間から桶狭間合戦までに限って述べるというのは、その時代より他は私が不勉強でよくわかっていないからである。

 第八回「三河武士は忠義に薄く」では、天文年間の東三河の動向に注目して、水野忠政から信元の世代交代期にあった、親松平から親織田への外交転換に関する背景について言及した。そしてそこで意図したことは、織田・今川という2大陣営の軍事的対立という常套的な構図から離れて、もっと地域独自の自律的な事情にスポットを当ててこれを読み解くということであった。しかしながら、この戦国期における大名間の所領拡大競争という政治的軍事的構図を差しおいて、地域のあるいは小領主層の自律的事情を重視する観点がどのように根拠づけられるのか。この点が確かに示されないことには、常套的構図から離れて議論する足場が揺らぐことになりかねない。したがって、その後の組織論や土地所有に関する立ち入った考察は、一つにはそうした下からの根拠づけの意味合いがあったのである。
 天文年間から桶狭間合戦までの水野氏の動向は、どのようであったのか。これに答えようとすれば、まず水野氏が武家で国人と呼ばれる階層に属するという規定から出発するであろう。つまり小河水野氏は何者であったのかの認識があって、文献史料に現れる諸動向をそれに沿わせて理解しようとすることになる。そうであるなら、天文年間、それは戦国時代真っ只中であるが、その時代における「国人」とは基本的にどのような存在であり、そこからしてどのような活動をするものなのかを知っておく必要がある。そしてそのような一般論としての国人像を基礎にして歴史を探るのであるが、これが個々の国人、たとえば小河水野氏を語るとなると、戦国大名を頂点とした群雄割拠という政治的軍事的構図が押し出されてきて、地域に根を張って自律的に活動する国人の姿が遠く霞んでしまうのである。したがって当談義では、この群雄割拠型の構図から距離をおくために、最初「リゾーム」という概念を提示した。ただしこれは、群雄割拠型の構図から離れるためのキャッチフレーズに過ぎず、それ自体が戦国期の国人像を具体的に示すわけではない。したがってその後は、所領とは何かを問い、自衛自存する村に注目し、そこから当知行や戦国期の土地所有、貸借と売買、そして戦国大名組織とは何かなどに思いをめぐらせてきた。そうした考察結果からすると、現時点で国人小河水野氏を語るうえでの基本的な足場は、以下のように整理されるであろう。

①「村の成り立ち」を支え、自らもそれに依存する土豪層が、武士階級の基盤である。
②国人あるいは大名でさえも、自領においては「村の成り立ち」を支え、また自らもそれに依存している。
③上記①と②から、この時代は非常にボトムアップ志向の強い社会であったと考えられる。
④個人に還元した後に市場原理で結合するという社会原理が貫徹していない時代であり、人は個人に還元されていない。

 ①~③と④は、密接に関係すると思うのであるが、④については今後考察を深める事柄である。したがって、以降で述べる天文年間から桶狭間合戦に至る小河水野氏を中心とした動向については、ここで示した①~③を念頭において考察することにする。また考察を向ける水野氏およびそれに関連する諸動向を示す史料であるが、昨年公刊されたばかりの『愛知県史 資料編10』に収録された諸資料に基づくことにする。なぜならば、信憑性の定かでない資料に振り回されるのはつまらないし、自身で個々の資料の確からしさを考証する能力もないからである。したがって、少々窮屈ではあるが、関係者の多大で真摯な努力によって世に送られたばかりの『愛知県史 資料編10』を、この際利用させていただこうというわけである。

 さて、その『愛知県史 資料編10』を天文元年から読み進めていくと、小河水野氏に関わる格別に目をひく史料が天文20年に登場する。

今度、山口左馬助、別馳走之由祝着候、雖然織備懇望子細候之間、苅谷令赦免候、此上味方筋之無事、無異儀無山左申調候様、両人可令異見候、謹言
(今度、山口左馬助、別して馳走すべきの由祝着候、然りといへども織備懇望の子細に候の間、苅谷赦免せしめ候、此上味方筋の無事、異儀無く山左申調<モウシトトノエ>候様、両人異見せしむべく候、謹言)
                  十二月五日               義元(花押)
                    明眼寺
                    阿部与五左衛門殿

注:( )内は『新修名古屋市史 第二巻』より引用。

 ここに「苅谷赦免」という語句が記されているが、このことが何を意味するのかが実に問題なのである。ここで「織備」といっているのは、織田備後守信秀のことであるが、この書状によればその信秀が「苅谷赦免」を今川義元に懇願したというのである。そしてこの書状を理解するうえで、セットでみておかねばならないのが次の今川氏真の感状(一部分)である。

苅屋入城之砌、尾州衆出張、雖覆通路取切之処、直馳入、其以後度々及一戦、同心・親類・被官随分之者、数多討死粉骨之事
(苅屋入城の砌<ミギリ>、尾州衆出張、通路を覆い取切の処といえども、直<タダチ>に馳<ハセ>入り、其れ以後度々一戦に及ぶ、同心・親類・被官随分の者、数多く討死粉骨の事)
(『豊明市史 資料編補二』、( )内は筆者)

 これは桶狭間合戦で討ち死にした松井宗信の遺族にたいして、永禄三年に生前の宗信の忠孝を賞するために出された書状の一部である。『愛知県史 資料編10』は、文明2年(1470)から永禄2年(1559)までの資料を収録したものなので、この巻には掲載されていないが、ここに「苅屋入城の砌」とあることで、先の義元書状との直接の関連付けが必須となるのである。この松井宗信の粉骨の一件がいつのことであるか定かではないのであるが、この氏真感状によれば、今川方の松井宗信が刈谷城への通路を扼する「尾州衆」を撃退し、その刈谷城に入場している。また、同感状には「苅屋在城」とも書かれていることから、この時期刈谷城は今川方の城であったことになる。そしてこの義元と氏真の二つの書状を合わせると、次に示すような解釈が成立することになる。

 これらを考え合わせると「織備」すなわち織田備後守信秀と義元との間に一時的和議が成立し、義元が苅谷赦免すなわち占領した刈谷城を刈谷水野家の信近に返還したのは、十八年十一月以後二十年春頃までの間となる。おそらく刈谷陥落は安城落城の直後の頃であったのだろう。「赦免」の条件は当然のことながら、水野一族とくに信元・信近の織田氏との断交と今川氏への服属であっただろう。これが水野氏関係史料に記録されなかったのは、敗戦は外へは極力知らせないという当時の一般的慣行のほかに、永禄三年の刈谷水野家滅亡によって、それ以前の今川氏への屈服などは小事となってしまったからではなかろうか。
(『刈谷市史』)

 『刈谷市史』は、通説どおり水野信元の代になって織田・水野同盟が成立したとしており、「苅屋入城の砌」の時点で、水野の刈谷城が今川方の城となっていることから、今川によって刈谷城は「陥落」し「占領」されていたと理解している。そしてそれは天文18年(1549)の「安城落城の直後の頃」であり、その後天文20年の義元の書状に、信秀の懇望によって「苅谷赦免」となったあるのだから、この間に今川と織田に和睦が成立していたと『刈谷市史』は考えているのである。同様な見解は『岡崎市史』や『新修名古屋市史』などにもみられ、一般的な理解となっていると言えよう。またこの解釈について、橋場日月氏は『新説 桶狭間合戦』で次のように述べている。

 実はこれを『新修名古屋市史』や『豊明市史』は、
 ①山口左馬助教継の斡旋で織田・今川が和睦し、刈谷城が織田側に返還された。
 ②その件について調停するよう山口を説得せよと岡崎の明眼寺(のち妙源寺)と阿部某に指示した。
 と、説明している。
 これに対し、筆者はどう考えても次のようにしか解釈できない。
 まず第一に、これは
「山口教継が奔走すると言って来たことはめでたい」
 と読むべきだろう。「馳走すべきの由」は未来形であり、「これから馳走します」という事なのだ。山口はこの時点で刈谷城開放以前の事柄について何も関与していない。
 次に、「しかりといえども」は「しかし」「けれども」と同じ意味の接続詞だから、以降は、
「しかしながら刈谷城は開放する事に決まった。この上は講和について山口が異議なく調停に奔走するよう説得せよ」
 という意味になる。
 つまり、義元は「このたび山口左馬助教継が味方するとの事、めでたい。しかし、織田備後守信秀がなにかと懇願してくるので、刈谷城については占領を解くことにした。そういったわけだから当方の味方関係の和平について異議を主張する事なく調整に奔走するよう、両人から説得せよ」と言っているのだ。
 教継は両者の間に立って和平斡旋に奔走したのではなく、義元に味方すると言って来たのだが、それに反してトップダウンで今川・織田の講和が成立したために刈谷城攻撃も中止されて解放が決定した。
 そして、それに対して今川につくと申し出ていた教継は、ハシゴをはずされた格好になり、不服を申し立てるかもしれないが、不満を持つ事の無いよう、素直に従って講和に協力するよう、よく言い聞かせてくれ、と言っているとしか理解できないのだ。


 山口教継が和平斡旋に奔走したという解釈はおかしい、というのが橋場氏の主張であるが、交戦状態にあった織田と今川が和睦へ動いている中での義元の書状という理解であり、その点では大した違いはないと言えるだろう。『刈谷市史』にしろ『新修名古屋市史』にしろ、そして橋場氏にしても、いずれもが織田信秀と今川義元が天文20年以前から交戦状態にあって、それが和平へと動こうとしているという解釈には違いがないのであるが、果たしてそうなのだろうか。

 ここで、この義元の書状を4つの部分に分けて詳細に検討してみよう。

①今度、山口左馬助、別して馳走すべきの由祝着候
 ここに「馳走すべき」とあり、これは橋場氏が言うように未来形だとしても、「別して」をどう解釈すべきか。「あらためて」という意味にもとれるが、そうなると今度の馳走の以前から、山口教継は今川に対して協力的であったように受けとれる。そして「馳走」の解釈であるが、「和平調停に奔走」という理解と、「織田方から今川方に寝返る」という理解の二つが提示されている。しかし今の段階では、どちらとも言いがたいし、それ以外の解釈が排除されるわけでもない。
②然りといへども織備懇望の子細に候の間、苅谷赦免せしめ候
 「苅谷赦免」という言葉に目を奪われる。この箇所については通常、刈谷城の占領を解く、あるいは刈谷城に対する攻撃を中止するという軍事的な意味合いで解釈されている。しかし「苅谷」が刈谷城の意味に限定できるわけではないし、また「赦免」が今川の軍事的な意味にだけ使われるわけでもないだろう。そして、織田信秀が「懇望」したのを義元が承諾したことが、すぐさま和睦を意味するとも限らないのである。
③此上味方筋の無事、異儀無く山左申調候様
 この箇所について橋場氏は、「当方の味方関係の和平について異議を主張する事なく調整に奔走するよう」という理解を示している。「馳走」すると言ってきている山口教継であるが、味方関係の和平に異議を主張したり、「講和に協力」しなかったりすることを義元が懸念しているというのである。その理由について橋場氏は、「トップダウンで今川・織田の講和が成立したために」、「今川につくと申し出ていた教継は、ハシゴをはずされた格好に」なるからだと説明している。しかし山口教継は、今川と織田の交戦が続くなかで「義元に味方する」という去就を選択したわけで、彼が主体的に織田信秀と交戦していたわけではあるまい。むしろ橋場氏の理解では、織田方から今川へ寝返ったととらえているのであるから、信秀は直前まで教継の味方であったことになる。そうであるのに、和平に反対したり非協力的な態度をとるというのは、まるで山口教継が織田信秀との戦いを望んでいるかのようである。山口が寝返ったことは、信秀にとっての恨みとはなっても、山口側に信秀との戦いを望む理由にはならないのではなかろうか。「ハシゴをはずされた格好」になったからといって、剥きになって信秀との交戦を続けるべきだと教継が不満を持つというよりも、恨みをもたれた信秀との緊張が軽減すると、むしろ教継は喜ぶのでははなかろうか。
④両人異見せしむべく候
 「両人」とは、明眼寺と阿部与五左衛門のことであるが、ここに彼らの役割が示されている。それは、「山左申調候様」に「異見せしむ」のである。橋場氏はこれを「両人から説得せよ」とするが、ここで気になるのは、なぜ義元はこの両人に説得させようとしているかである。普通に考えれば、義元が山口に命じればよいことであるが、それをせずに両人の説得に期待しているのか、あるいは命令とは別に念を入れようというのか。いずれにしても、山口教継に対して、この両人の説得が効果があると義元がみなしていたことになる。

 実際のところこのように解釈の幅は広いのであるが、ここで全体を眺めてみると、この書状の趣旨は、明眼寺と阿部与左衛門が義元の意向を山口教継に伝え、「味方筋の無事」を「異見せしむ」ことにある。そしてこの趣旨からすると、「苅谷赦免せしめ候」はどうにも唐突な感じがしてならない。橋場氏をはじめ通常の理解では、この箇所に水野氏の刈谷が登場しているのに、水野氏そのものはそっちのけで織田と今川の和睦ばかりに注目する。つまり彼らの理解では、「苅谷赦免せしめ候」は和睦の代名詞に過ぎないのである。しかしそれならば代名詞など使わずに、「信秀が懇願するので和睦することにした」とすればよいことだろう。さらにいえば、「苅谷赦免せしめ候」がなぜ織田・今川における和睦の代名詞になるのかがよくわからない。これまで織田と今川は、刈谷あるいは刈谷城をめぐって争っていたわけではないだろうに、なぜここで「苅谷赦免」が登場するのか。そのことにもっと注意を払うべきである。
 義元は、「山口教継が馳走するとのことでそれは結構なことだ」としたすぐ後で、「然りといへども」として信秀の「懇望」と「苅谷赦免」のことを述べている。つまりここでは、山口教継の馳走と「苅谷赦免」は直接に、相反することとしてつながっているのである。山口の馳走が具体的に何を意味するのか定かではないが、その馳走が刈谷の赦免と相反するということは、少なくとも山口にとって刈谷は赦免すべきではないのである。つまり、「苅谷赦免」を織田・今川の和睦の代名詞として扱うのではなく、その具体性のままに受けとれば、山口教継と水野氏は敵対していたのであり、したがって窮していた水野氏を救うことになる「苅谷赦免」に教継は反対するのである。このように、この書状の趣旨が「味方筋の無事」に協力するように山口を説得することにあるのならば、そのことと「苅谷赦免」には直接の関係が存在するはずであり、そうと受けとらなければ何といってもこの「苅谷赦免」は唐突なのである。
 織田と今川という大名級の対立の構図を無理にもちこまなければ、義元に懇望した信秀とその懇望を聞き届けた義元の間柄には、深刻な敵対は存在していないことが自然と理解できる。織田と今川が激突した小豆坂合戦は天文17年、そしてその翌年には織田方が占拠していた安城城が今川軍によって開城させられた。この義元の書状が天文20年であれば、両者の戦闘から2年が経過している。そして安城開城においては、織田信広と竹千代の人質交換が成立しており、織田勢の三河からの撤退という形勢が決まったのであった。敵味方の間には、越えることのできない敵対の溝があるのではなく、時に争い時に結ぶという流動性があったことであろう。そうであるならば、織田と今川という2大陣営の抗争の構図が、この義元の書状を理解する際の当然の前提というわけにはいかないのである。義元が、山口教継の不服を懸念して明眼寺と阿部与五左衛門に説得を命じた書状に、「苅谷赦免」が差し込まれたのならば、教継の不服の対象は「苅谷赦免」にあったと理解すべきなのである。しかしそうとなると、「此上味方筋の無事、異儀無く山左申調候様」の解釈がガラリと変わってくる。
つづく

# by mizuno_clan | 2010-12-19 14:54 | ☆談義(自由討論)

【談義1】水野氏と戦国談義(第三十回)

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 義元の書状では、固有名が記載されていない者もいるので見落としがちとなるが、この書状の登場勢力は意外と多彩である。

A.以前は織田方であったが今川方へ馳走を申し出ている山口教継。
B.「苅谷赦免」を懇望する織田信秀。
C.「苅谷赦免」となった小河水野氏。
D.無事が懸念される「味方筋」。
E.山口教継が申し調える相手。
F.山口教継の説得を命じられた明眼寺と阿部与五左衛門。
G.書状の送り手である今川義元。

 この書状の背景を、織田信秀と今川義元の交戦から和睦への流れとしないで、山口教継と小河水野氏の対立とするならば、この両者と他の登場人物あるいは勢力との関係についてあらためて問い直す必要が出てくる。「此上味方筋の無事、異儀無く山左申調候様」の箇所を、橋場氏は「当方の味方関係の和平について異議を主張する事なく調整に奔走するよう」と訳しているが、義元へ馳走を申し出た山口教継が「味方筋の無事」に異議をはさむというのは、やはり違和感がぬぐえない。このDの「味方筋」とは、単純に今川方あるいはもっと踏み込んで、今川の被官だと考えてよいのだろうか。そして橋場氏は、「山左申調」を「調整に奔走する」とするが、誰に対するどのような調整なのであろうか。橋場氏の訳は「当方の味方関係の和平について」で始まるのであるから、義元と信秀の和睦に従おうとしない者たちに対する調整というように受けとれる。だがその点では、山口教継も「異議を主張する」だろうというのだから、彼に調整させようとする者たちと同類のはずなのである。
 上記のAからGの登場者たちの間の関係を、ここで整理した図1を掲げよう。
【談義1】水野氏と戦国談義(第三十回)_e0144936_14481516.jpg 織田・今川の交戦という図式から離れてみると、義元の書状のなかで一番問題になるのは、味方筋の無事を脅かしているのは誰かという点である。この点について考えてみると、書状のなかに「山左申調候様」とあるが、この申し調えることが味方筋の無事のことであるならば、その無事を脅かしているのは山口教継に説得させようとしている者たちということになる。このような理解でみると、この書状には二つの対立軸が現れていることになる。

①A山口教継とC刈谷水野氏の対立。
②D「味方筋」とE「申調」相手の対立。

 さらに山口教継の説得が有効であるとするならば、教継と説得相手は親密か味方同士ということになるはずである。そうなると山口教継と「味方筋」も、教継の「馳走」以前は敵対していた可能性が高くなる。そしてそれと同時に、山口教継と刈谷水野氏が対立しているのであれば、教継の「申調」相手もまた刈谷水野氏と敵対関係にあった可能性が高いだろう。これに加えて、義元が「苅谷赦免」としたことからすれば、刈谷水野氏と義元の「味方筋」の間にも敵対的な関係があったことが、推測として浮上してくるのである。
 <図1>の構図は、このようなA・C・D・Eのような国人・土豪勢力間の紛争が中心にあり、織田信秀や今川義元はその外側にいて、むしろこの騒動を鎮静化させようと協力している図式を表そうとしたものである。さて、織田・今川という2大陣営対立の構図を前提としないで義元の書状を読み解けば、山口教継や刈谷水野氏と、「味方筋」や「申調」相手が紛争の当事者であることが知られるのであるが、この「味方筋」や「申調」相手とは具体的にどのような者たちなのであろうか。
 この「味方筋」が何者であるかを解き明かす糸口は、義元が説得を依頼した明眼寺と阿部与五左衛門にあるように思われる。『愛知県史 資料編10』の巻末解説に、当会委員である水野智之氏の次のような説明が掲載されている。

 妙源寺文書 岡崎市大和町所在の真宗高田派妙源寺の文書。約七〇点の中世文書があり、多くは戦国期のもので、同寺にあてた碧海郡、額田郡の土地の寄進状や売券である。発給者にはのちに松平家臣団に組み込まれた在地小領主が多く、桑子御太子とも呼ばれていたが、江戸時代に妙源寺と改めた。

 明眼寺(妙源寺)は、当時の碧海郡、矢作川の西岸にあって岡崎城にはほど近い。「発給者にはのちに松平家臣団に組み込まれた在地小領主が多く」とあるように、松平色が強いがこの当時は独立性のある在地領主層を檀家として多く抱えていた。このことからすれば、義元書状の「味方筋」とは、彼ら矢作川西岸一帯、碧海郡中の安城や桜井、そして知立などに根を張る国人あるいは土豪層であったのではないかと思われる。このように、義元書状の「味方筋」を碧海郡の松平およびそれと結ぶ国人・土豪層であるとすると、彼らの多くは天文18年の安城城の開城以降に義元に従うようになったと考えられ、「味方筋」という表現はそれを示しているように思われる。
 次にこの碧海郡の勢力と敵対していた「申調」相手であるが、彼らが山口教継と関係の深い勢力だとすると、それは教継の本拠である鳴海周辺の国人や土豪たちということになるだろう。そしてこの鳴海周辺と碧海郡であるが、地域としては尾張と三河国境の境川を挟んで隣接していたのである。このように、義元の書状に現れた明眼寺の檀家である碧海郡の国人・土豪と、その明眼寺が説得しようという山口教継の地盤が隣接していたことからすれば、両者の間に紛争が持ちあがっており、それが激化していたと考えることは十分可能である。そしてそのことを示す史料が、実は『愛知県史』に収録されている。

同廿六 ならわニ着、道九里、
             宿ハならわ十郎兵へ
 山中よりおかさきへこし、まへハふし島へとおり候へ共、三河・尾張取相にて、おかさきよりあふらさきへ行き、舟ニ乗候て大はまへ行、又船ニのり候、五十丁計乗、ならわニ着候、
(4月26日、成岩に到着、道は9里。
             宿は成岩十郎兵衛。

 山中[岡崎市]より岡崎へ越し、前には藤島[日進市]へ通り候へども、三河・尾張取り合いにて、岡崎より油崎[?]へ行き、舟に乗り候て大浜[碧南市]へ行き、また舟に乗り候、50町ばかり乗り、成岩に着き候)
( )内は筆者。

 これは大村家盛の「参詣道中日記」の一部であり、天文22年に参詣のために美濃から尾張・三河を通り、その復路として三河から尾張へぬけたことがここに記されている。この道中日記によれば、往路には守山から岩崎・藤島そして岡崎へと進んだのであるが、復路は岡崎から南のルートを選択している。そこには、岡崎から「あふらさき」へ向かったとあるが、これは現在の油ヶ淵(碧南市平和町)のことなのであろうか。そしてそこから舟でとあるが、当時はこの辺りまで入り江で海が入り込んでいた(愛知県所蔵絵図より推定)ようだ。その後、大村家盛は大浜へ船で向かって、そこからさらに船を乗り継いで成岩に到着したと書いてある。このように往路は岩崎から岡崎へ向かう街道を使ったが、復路は船を乗り継ぐ南のルートを選んでいるのだが、その理由として家盛は、「三河・尾張取相にて」と日記に記している。家盛が岡崎から南へ下ったのであるから、岡崎から岩崎方面へ向かう、おそらくは鎌倉街道沿いで三河勢と尾張勢が騒動を起こしていたということになるだろう。
 岡崎から鎌倉街道を西に進めば、知立を抜け境川を渡り、二村山を越えて鳴海に至ることになる。天文22年にこの辺りで、尾張の勢力と三河の勢力が紛争状態にあったのであるが、この紛争は天文20年の義元の書状から読み出した地域紛争と同じ場所で起こっていたことになる。したがって、この「参詣道中日記」に記された「三河・尾張取相」は、三河碧海郡から尾張知多郡北部および山田郡南部にわたる地域に、この時期紛争の火種が燻っていたことを示していると考えてよいと思う。
【談義1】水野氏と戦国談義(第三十回)_e0144936_14485457.jpg

 義元の書状が出された天文20年と大村家盛の道中日記が書かれた天文22年の間には、織田信秀が天文21年に病で死去(『新修名古屋市史』)している。おそらくは、この尾張勢の求心力となっていた人物の死去と、その後継者となった信長の行動が、この地域の均衡を揺さぶり、信秀と義元の協力によって鎮静化していた情勢が一転し、再び紛争が始まったといったところなのではなかろうか。この天文22年の「三河・尾張取相」に、刈谷そして小河の水野氏がどのように関わっていたのかはわからない。しかし2年前においては、義元の書状に「苅谷赦免」が記されたのであるから、この碧海郡から鳴海にいたる一帯の地域紛争に深く関わっていたのは間違いない。
 
 さて、義元の書状に現れていた「味方筋」と「申調」相手がみえてきたところで、ふり出しに戻って「苅谷赦免」について再度考えてみる必要がある。これまで確認したように、義元の書状の趣旨は、鳴海周辺の国人・土豪と、その東南方向にある碧海郡の勢力との紛争を沈静化させることにあったと考えられる。そしてその紛争沈静化の具体的対応として、今川義元は、天文18年の安城合戦の勝者として、自身の公権力をもって西三河を押さえるのであるが、鳴海周辺の尾張衆については、山口教継の調停力に期待を寄せていた。本来この地域であれば、織田信秀がその役割を果たすところであるが、2年前の安城における敗戦による威信低下と「苅谷赦免」を義元に願い出たことで、鳴海周辺勢力の反発を買いその任を果たせずにいたのではなかろうか。その意味では、信秀もまた教継の調停を望んでいたと思われる。
 それでは、この山口教継をはじめとする鳴海周辺勢力と、明眼寺の檀家である碧海郡の勢力の紛争に、「苅谷赦免」はいかなる関わりがあるのだろうか。山口教継が「苅谷赦免」に反対であることは先に述べたが、そうであるならば、教継が申し調える相手である鳴海周辺勢力も彼と同じ立場であろう。一方で碧海郡の国人・土豪たちは、この「苅谷赦免」をどう受けとめたであろうか。
 先にあったように、松井宗信が「在城」していたことを思うと、刈谷城は義元の影響力下にあったと考えられ、刈谷水野氏は義元の公儀に従う立場にあったように思われる。このことからすれば、この「赦免」という言葉は懲罰の解除という意味に受けとめるべきかも知れない。そうであるとするならば、刈谷水野氏は義元に懲罰を科される何かをしでかしたことになる。山口教継が「苅谷赦免」に反対であることからすれば、彼ら鳴海周辺勢力にたいする罪過とも考えられるが、義元の「味方筋」である碧海郡勢力と紛争を抱えているのだから、彼らのために刈谷を懲罰したとは考えにくい。それよりは、刈谷水野氏と地盤が隣接する碧海郡勢力に悶着があったと考えたほうがよいだろう。そうであるならば、先に示した義元の書状に表れた対立軸に、次の③を追加する必要がでてくる。

①A山口教継とC刈谷水野氏の対立。
②D「味方筋」とE「申調」相手の対立。
③C刈谷水野氏とD「味方筋」の対立。

 こうして整理してみると、互いに勢力圏が隣接するA・C・Dの三者は、三つ巴の争いを、少なくとも天文18年から22年にかけて続けていたことになる。信秀と義元の公権意識による仲裁があったため、おそらく天文20年に紛争は一度沈静化したと思われるが、それによって彼ら三者を駆り立てる根本要因が取り除かれたわけではなく、再び天文22年になるとそれは再燃した。このように、山口教継ら鳴海周辺勢力、刈谷に拠点をもつ小河水野氏、そして碧海郡の国人・土豪が三つ巴の争いをしていたとするならば、織田・今川の2大陣営による戦いの構図は、ひとまず横によけておく必要が出てくるだろう。
 また、先に掲載した松井宗信の功績を賞した書状のなかに、水野氏の刈谷城が「尾州衆」によって「通路を覆い取切」られたとあった。普通はこれを、今川方となった刈谷城を織田勢が攻めたと理解するのであるが、「尾州衆」の標的は今川方なのではなく、刈谷水野氏そのものであったのではなかろうか。「通路を覆い取切」られたというのも、刈谷城を封じ込めたというような意味であり、松井宗信はそれを突破して「直に馳入」ったのである。これは義元が宗信に命じて、刈谷城を救援させたということであろう。そして「尾州衆」とあるからといって、それは直ちに織田信秀を指すわけではなく、おそらくは鳴海周辺の国人・土豪勢力をそのように呼んでいるのではないかと思われる。なぜならば、刈谷城からみれば最も近い「尾州衆」は、同族を除けば彼らなのである。
 天分20年に出されたとみられる義元の書状と、桶狭間で戦死した松井宗信を賞した氏真の感状に含まれる共通点は、知多半島の水野氏と鳴海周辺勢力の間に拭うことができない確執があったということである。頭から織田と今川という2大陣営の対立を前提にしてこれら史料を読めば、「苅谷赦免」が織田と今川の和睦になるし、「尾州衆」が織田信秀で、「苅屋入城」が刈谷城を今川軍が攻略したという、冷静に考えれば少々飛躍した解釈がまかり通ることになる。しかしながら、山口教継も刈谷水野氏も、織田方・今川方であったという前に、自領とそこで暮らす人々とともに生き、そして自分たち独自の問題を抱える領主なのである。さらにそれら領主の主であるとされる織田信秀や今川義元も、自身の都合で彼らに戦いを求めるというよりは、公権力として争いをコントロールしようと努める存在なのである。

 「苅屋入城」と「苅谷赦免」が、本当のところ何を意味するのか。それは2つの史料からだけでは、確かな結論を導き出すことはできない。しかしながら、刈谷水野氏および小河系の水野一族は、織田方・今川方を離れて、自身が拠って立つ地域で自律的に行動し、そこに固有の問題を抱えながらも前へ進もうとしていたことだろう。「苅屋入城」と「苅谷赦免」という文言に示されている事情には、西三河の当時の激しい動揺に晒され、それに翻弄されそうになりながらも、途を切り開こうとした水野氏の姿が反映されているようにも思える。そしてのそのときの水野の人々の面には、懸命さと困惑が入り混じったような表情が浮かんでいたように、なぜか想像してしまうのである。

# by mizuno_clan | 2010-12-19 14:50 | ☆談義(自由討論)

アクセス解析 No.11

●2010年9月から2010年11月まで、3ヶ月間の「水野氏史研究会ブログの第11回アクセス解析」を発表いたします。
 一般の研究会では、月に一度程度の例会、および年数回「会誌」を発行しておりますが、本会では委員会の外は、当面大会・例会および会誌等の発行を予定していないことから、集会参加人数・会誌の発行部数を公表する事は出来ません。従って本ブログへのアクセス状況(ユニーク・ユーザー数)を、四半期毎にご報告する事により、変則的な方法ですが「集会状況と会誌の発行部数に代替」させていただきます。
 みな様には日々お仕事などで、ご多用中にも関わりませず、本会にご理解ご尽力いただいておりますことに、ここに改めまして深謝し心から御礼を申し上げます。今後とも引き続き本会活動にご参加ご支援いただきたくお願い申し上げます。

※本ブログに設置している「カウンターの数値」は、実数とかなり離隔してきたため、2010年11月末を以て取り外しました。
                                               研究会事務局


▼【エキサイトブログ・レポートの集計データ】 更新2010.12.01
2010.09.01~2010.11.31 までの〝ユニーク・ユーザー数〟
合計 2,315 ip (前回比 102.6 %)

前計 16,491 ip
累計 18,806 ip
 ※ユニーク・ユーザー【 unique user 】数とは、ブログにアクセスされた接続ホスト数をユニーク(同じ物が他に無いの意)な訪問者の数として日毎に集計している。つまり同一人物が1日に何回アクセスしても、最初の1回のみがカウントされる。この集計基準は、ページ・ビューなどの基準に比べ判定方法が難しいが、実質訪問者数を示している事からサイトの人気度をより正確に反映できる。


▼2010.09.01~2010.11.31 までの〝ページ・ビュー数〟
合計 6,031 pv (前回比 104.6 %)

前計 44,818 pv
累計 50,849 pv
※ページ・ビュー数【 page view 】(=表示画面閲覧数)の月別日計グラフを以下に掲載する。
通常、訪問者はサイト内の複数のページを閲覧するため、訪問者数(ビジット)よりもページビューのほうが数倍多くなる。


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2010.11 合計 1,662 pv



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2010.10合計 2,314 pv



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2010.09 合計 2,055 pv

# by mizuno_clan | 2010-12-01 04:11 | アクセス解析

【談義1】水野氏と戦国談義(第二十九回)

所有の意味を探る②-融通と土地売買-
談義:江畑英郷

 中世における土地売買については、これまでにも幾度となくこの談義で論じてきた。そして中世の土地売買は、今日の売買のように対価支払によっても土地の所有権が完全に移動することがなかった。このような中世の土地売買の特異性について、長谷川裕子氏は次のように総括している。

 さらに売券や借用状は、法制史研究における徳政令研究や、階級闘争の視角から分析されてきた徳政一揆研究のなかで土地所有観念の問題として分析されてきた。具体的にそこでは、土地の本主権の問題、すなわち土地の戻り現象についての研究が進められ、耕作者と土地との本源的なつながりや、永代売りと質契約との同質性について明らかにされている。さらに近年では、名主職や作職といった職の分化過程についての再検討のなかで、売券や借用状についての検討がなされている。従来では、職の分化やそれにともなう土地売却は、耕作者の土地保有が耕作の継続によって土地所有権にまで高められた結果可能になる現象ととらえられてきた。それに対し、職の分化は、土地所有者が土地を請作させることによって現れてくること、またそれにともなって発生した得分は、処分可能な得分として売買されたことが明らかにされた。またそこでは、請作者の脆弱な耕作権を補完する組織として村が存在し、村内耕地に対して「集団的耕営権」を成立されていたことが指摘されている。
(『中世・近世土地所有史の再構築』-「売買・貸借にみる土豪の融通と土地所有」長谷川裕子著)

 ここに述べられているように、今日的な意味合いで「土地売買」というものを捉えられないのが中世というものであるが、その中世であっても、対価支払よって売買対象の所有権が完全に移動する取引は存在したことであろう。「売買」という用語は、一方で「耕作者と土地との本源的なつながりや、永代売りと質契約との同質性」が認められ、その一方で所有権の完全な移動という意味でも用いられたのである。そしてそれはやはり土地の売買というものが特異であるからだろうと思うのであるが、それならばなぜ土地取引におけるこの言葉の意味が今日と中世とではズレているのだろうか。あるいは「売買」という言葉が、中世ではなぜそのように多義的であるのか。そしてこのことが意味することは、売買や所有という概念であるだけに、社会の根幹の違いにそれが根ざしていると考えられるのである。

 先のように、長谷川氏は土地売買における現時点の成果を総括したうえで、土地売買としてとらえてきた事象を「融通」という観点でおきかえようとする。

 このような研究では、売買と質との関係や、土地所有者(作職所持者)と請作者との関係、また村内耕地に対する村としてのかかわり方、さらには中世と近世との連続面など、興味深い論点が提示され、大きな成果を上げているといえよう。しかし、これらの研究は、売買システムおよび土地所有構造の解明を主眼としているため、売買を行う目的や理由について、売却する側から追及されてはいない。また売買契約への村の関与についても、村の自力による領域確保=「村の当知行」とのかかわりで論じる必要性が指摘されつつも、現在まで具体的な分析はまだ不十分な状況である。
 それは、依然として売買契約は個人と個人の問題として取り扱われ、そこに「村の成り立ち」維持にとっての意味を当該期の社会状況に照らして論じるという視角がなく、村を中核とする当該期の在地状況や、それを取り巻く当時の自然的・人為的環境に対する配慮が欠けていたことに由来する。そのため、今後は売買契約を売却する側の視点から追及し、特に「村の成り立ち」維持にとっての意味を明らかにしていくことが課題となろう。

(前掲書)

 長谷川氏は、土地売買のこれまでの研究は、「売買を行う目的や理由について、売却する側から追及されてはいない」と述べて、この視角からの解明に取り組んでいる。そしてこの売却する側の売却の目的や理由には、①土地投機的な目的、②借用返済のため、③他のなんらかの購入代金に当てるため、といったものが考えられる。長谷川氏は、「“村の成り立ち”維持にとっての意味」と述べているので、①は考察から除外しているようにも思われるが、村に居住する土豪という存在においては、この点も視野に入っていることが以下の文書に表れている。

 こうした村内百姓への貸借は、従来の研究では土豪の高利貸ととらえられていた。しかし、その元手が他村の土豪から借りてきた米であったことや、史料⑥のように村としての借米に自身のほぼ全財産を抵当に入れていた状況から考えると、このような貸借関係を単純に土豪の高利貸活動ととらえることはできない。むしろ、これらの事例は、土豪同士の個人的なつながりをつうじて村内百姓調達の便宜をはかっていたものととらえられよう。それにより、富田氏のような土豪は、村内における自らの地位を維持しえたと考えられるのである。
(前掲書)

 売主・買主を誰とするかによって売買の目的は変わるのであるが、村内に根を張る土豪層は①投機的な目的で土地の売り買いをしていたのではないと、長谷川氏はここで述べている。

 したがって、ここの百姓による土豪への売買契約としてみえるものも、じつは村内部で対処できない場合に行われた年貢未進補填方法であったと考えられよう。このような土豪の融通機能=年貢未進補填のシステムは、村の収納のシステムと、村としての立て替えのシステムの外縁部に存在していた。そして、村の機能と土豪の機能が一体となって、「村の成り立ち」が維持されていたのである。
(前掲書)

 ここでは、年貢未進が契機となって、土地の売買が発生していることが指摘されている。上記の売買目的のパターンで言えば②「借用返済のため」ということになる。そして、この②は③「他のなんらかの購入代金に当てる」を包摂していた。

 以上のことから、蔵に納められる収穫物は、各年貢請負人のほうから直接各貸し主に支払う借銭・借米や小作料と、自己の生活必要分を指し引いた分であったこと、さらに蔵に納入された収穫分は、まず借銭・借米や種貸分、そして村をつうじて払われる小作料の返済にあてられ、そこから残った分が領主の年貢分として算用されたことがわかる。つまり領主への年貢は各年貢請負人からの蔵入分から一番最後に支払われたことがうかがわれるのである。
(前掲書)

 ここに述べられていることからすれば、個々の百姓(請負人)による耕作の不出来などによる収益の減少は、すべて年貢未進として現れることになる。つまり、個々の百姓の経済的問題がすべて年貢未進に転嫁されているのであり、その転嫁された年貢未進を、村や土豪が補填するというシステムが存在したというのである。したがって、売買が「村の成り立ち」を前提として成立していたという主張は、この年貢未進補填システムの中に売買が出現していたのであり、土豪の高利貸し行為や土地投機の中で売買が成立していたのではないということである。また、百姓が耕作を継続していくことを阻害する要因が、そべて年貢未進に転嫁され、それが売買という形態で補填されるということは、耕作の継続に売買の目的があったということになる。そして耕作の継続こそが、そこで暮らす人々の生存と生活を維持するのであり、それが「村の成り立ち」に他ならないというわけなのである。
 長谷川氏が言うところの「年貢未進補填システム」は、つまるところ百姓の経済問題をまる抱えで村や土豪が支えることである。したがってこの場合の土地売買は、市場における所有権の移動としてのそれではなく、売買が問題を抱える百姓の経済を救済するのである。したがって「融通」とか「補填」という用語の選択は、そうした意味を込めているのであろう。長谷川氏は、土地売買の多義性の根底に、財の交換行為ではなく、「村の成り立ち」=地域における共生をとらえる視角を取り出した。そしてそれを「融通」と呼ぶのであるが、次の箇所を読むと、どうしたわけか以前の売買の次元に引き戻されているように思える。

 室町・戦国期以来、土豪が村や地域に対して担っていた機能は、①領主権力との人的関係、②武力の保持と地域防衛への参加、③銭などの立て替え払い、④地域の治安や信仰施設の維持などであった。そのなかでもとりわけ戦乱の絶えない社会状況では、地域の防衛や領主からの軍役を果たすことが、武力を持つ土豪の役割として大きかった。たが、江戸時代になり、あらゆる戦争が停止されるとともに、村による公儀への訴訟が一般化するようになると、領主への取次や武力発動の機能は次第に低下していく。
 このような状況に、江戸初期における土豪の役割の変化を読みとることができるが、それでもなお前代と変わらず担い続けた機能が資金の融通であったといえる。資金の融通が変わらず必要とされたのは、江戸時代になってもいまだ百姓の経営が不安定であったことを示していよう。そのため、江戸時代以降彼らはそれによって自らの地位を確保していくようになる。その機能は、まさに地域の「銀行」というべきものであった。そして、実際に機能する限り、彼らはその立場を確保できたであろうし、また自らの経営や収入を維持しえたであろう。

(前掲書)

 この箇所で気になるのは、「銀行」という言葉が登場したことで、「融通」が「融資」であってもまったく文意が変わらないという点である。むしろ、「自らの経営や収入を維持しえた」という表現からすれば、それが生計であってそこから利益を得ていたと受取るべきであり、そうであれば営利的融資といったほうが適切なようにも思える。つまり「③銭などの立て替え払い」行為は、利他的なものではなく私利に基づくもので、まさに地域の銀行として、地域振興に貢献するとともに自らの営利目的を果たすのである。こうした理解のもとでは、融通と融資は同意語であるということになる。
 長谷川氏は、「土豪の高利貸活動ととらえることはできない」と述べているが、それは高利ではなく低利であったと言いたかったのであろうか。どうもそういうわけでもないように思われるが、江戸時代になってより鮮明になった土豪の「③銭などの立て替え払い」をして、「地域の“銀行”」と呼ぶのであるから、地域振興と自らの営利を両立している姿を想定しているのであろう。しかしそうであるなら、現代の地域密着型の信託銀行などは、その点において戦国時代の土豪とあまり変わりがないことになる。長谷川氏は、「百姓の経営が不安定であった」という点を強調し、そこから弱者を護り育てるというイメージを作り出し、そこに「融通」という言葉をあてているように思うのであるが、彼らが補填を受けたり銭を借りたりすることが、必ずしも経営が弱体であったことを示すものでもないと思う。その限りでは、土豪の活動を地域振興と両立する融資であったと規定しても問題はないだろう。しかし融通が融資と同義であるならば、高利貸しではなくともそれと同じ金融活動であり、つまるところ営利を目的とした金貸し行為ということになる。

 中世の土豪の活動を、現代の地域の銀行活動と同質であると長谷川氏が考えていたならば、なぜ融資ではなく融通という用語を使うのだろうか。融資というものは経済内取引であり、その行為はどこまでも経済有効性の範囲内にある。それに対して融通という言葉のもつ語感は、この経済性を踏み出している部分があり、ことに貸主の側に貸し手への好意という経済外要素が組み込まれているように思う。そして長谷川氏は、経済性に反する土豪の対応を次のように記している。

 だがその富田氏が、自身の田畠・山・家・諸道具といったほぼ全財産を質物に入れて、六〇俵もの米を福永氏から借用しているのは、おそらく常喜村からの依頼を受けてのことであろう。

 だが、こうした経営において問題となっていたことは、福永氏が「御年貢書出之面」を富田氏に渡さないことにより、富田氏がなんらかの損失をうけていたことや、福永氏が年貢米として「悪敷」き米を年貢として納めたことによって、富田氏が「なおしかへ過分」という状況になっていたことである。

 このような借米が何によって生じたものかは明らかでないが、おそらくは土豪の収入と融通のバランスが崩れ、融通分のほうが多くなってしまったために困窮するようになってしまったものと考えられる。

(前掲書)

 富田氏と福永氏は、隣村どうしの間柄にある土豪であるが、相互に貸し借りをしている中で損失を抱える事態も発生していた。そしてその借用は、ときに土豪の全財産を質物に入れねばならないほどであったのであり、そうしたことで借入れと返済がうまく回らなくなり没落する場合も少なからずあったという。こうした土豪の活動を、融資の失敗とみることもできる。しかし、長谷川氏が土豪の補填を融通とするのは、経済の枠組みを超えた働きをそこにみたからなのではないだろうか。だがこの「融通」という言葉を押し出す長谷川氏にしても、「地域への融通と自らの経営・収取を、うまくバランスをとりながら維持していける土豪ばかりではなかった」と述べており、ほとんど融通と融資の用法に区別がない。このように「融通」という用語を使いながら、その意味合いを融資から十分に区別できていないのであるが、そこには思いのほか重要な意味が隠されているのではないだろうか。
 以前、本談義の第十四回で、融通には「とどこおりなく通ずること」という意味があることを示し、こうした土豪の活動はこの意味で理解すべきだと述べた。この「とどこおりなく通ずること」を取引する人間関係に適用すれば、それは親密な間柄ということになる。貸借に融通という言葉をあてる場合、この貸手と借手が互いに親密であることが想起されるが、だからといって中世の土豪がすべての村人や隣村の百姓と親密であったというのには無理がある。そうであるなら、融通を介した貸手と借手の間にはどのような関係があったというのであろうか。このことを確認するために、ここからは売買対象(貸借の担保)についてより深く考察することにしよう。

 土豪の百姓にたいする融通は、土地を介してのものであった。しかし、中世的売買のなかに現れているのは単なる土地ではなく、「田地」「名地」「畠地」「茶園」あるいは「屋敷」である。するとそれを「土地売買」と言うとき、これらの売買の総称としてその言葉を使っているのであろうか。「田地」「名地」「畠地」「茶園」の総称は「耕地」であるが、それならば「耕地売買」という言い方があってもよさそうであるが、なぜかそのような言葉は使われることがない。中世にその特異な売買形態において取引されたのは、「田地」「名地」「畠地」「茶園」であるが、これを「土地売買」と表現するとき、それら耕地ではなく、文字通り「土地」が売買されたという認識が働いているのではないだろうか。
 「土地売買」とは、実のところ、現代資本主義社会における特異な用語であるとされている。

 資本主義的生産は、まず工業の部面で支配的な生産様式となったが、農業の部面では、前近代的な土地所有諸形態、具体的には封建的土地所有と小農民的土地所有とに直面した。資本は土地所有そのものを破棄することはできず、旧来の土地所有を資本主義的生産に適合した形態に変形させることによって、はじめて農業を自己のもとに従属させることができた。新たにつくりだされた土地所有は、商品生産の所有法則に合致する土地所有であり、近代的土地所有と呼ばれる。ここでは、土地の私的所有者である土地所有者は、農業資本家である借地農業者と土地の貸借契約を結び、一定期間の土地の利用にたいして、借地農業者からその代償として地代を受け取る。借地農業者は、農業労働者を雇用して、この土地の上で資本主義的農業経営を行なうのである
(『社会経済学』大谷禎之介著)

 資本主義社会には、それに固有の原理がある。したがって、資本主義社会以前に登場した所有にはこれに合致しないものがあり、その代表が「前近代的な土地所有」であるという。そして資本主義社会には、「商品生産の所有法則に合致する土地所有」という原理がある。しかし「前近代的な土地所有」もまた「所有」であることから、これを破棄することができず、「旧来の土地所有を資本主義的生産に適合した形態に変形」させてこれを取り込んだのである。

 土地は、資本および労働とともに、生産において付加価値を生む生産要素であって、土地のもたらす付加価値は、土地サービスという商品の対価として企業が地主に支払うものと考えられている。つまり、土地はそれ自体として価値を生むのであって、それが地代となる、というのである。
 しかし、われわれのこれまでの研究からは、価値は抽象的労働の物質化であって、土地そのものが価値を生むなどということはありえないことは明らかである。それではいったい、地代となる価値額は、どこからどのようにして生じるのであろうか。どこで物質化した労働なのであろうか。

(前掲書)

 マルクス主義において価値とは、「抽象的労働の物質化」したものであり、この考え方はアダム・スミスら古典派経済学の労働価値説に由来する。物の価値とは、人間にとって有用なあり方で現れているものである。廃棄物に価値がないのは、それを有用と認めることができないからであるが、その廃棄物が価値ある物に生まれ変わる場合もある。そしてこの生まれ変わりには必ず人の手が加わっているのであり、それが労働であり、労働が物質に向けて発揮されることを、マルクス主義では「労働の物質化」と堅苦しく表現しているのである。そしてその労働の量的側面を持って抽象的労働と呼ぶのであるが、そうなると労働の投入量が物の価値に比例することになる。この点などはいささか違和感があるが、そのあたりが労働価値説のジレンマなのだと思う。
 さて、このように物の価値をとらえると、労働が投入されていない物には価値がないことになる。したがって、ただの「土地」には価値がない。耕地であろうが原野であろうが、それはどちらも土地であることに変わりがなく、その意味で土地は地表の一部であるに過ぎない。そして地表は天然のものであり、人の手が加わる以前の存在であるのだからそこには「抽象的労働の物質化」は認められず、したがって無価値となるのである。そして資本主義的生産は、この無価値なものを所有物と認めている「前近代的な土地所有諸形態」に直面したのであるが、そこで「土地はそれ自体として価値を生むのであって、それが地代となる」という価値の「変形」を加えることで、これに「近代的土地所有」という装いを与えて、資本主義的生産の枠組みにくみ込んだというわけである。
 資本主義の原理には「商品生産の所有法則」があると大谷氏は述べていたが、これは労働を投入して価値を付与した者がこの生産物の所有者であるということを示している。そしてその生産活動は、「商品生産」の枠組み内の活動であり、市場において交換取引するがための生産である。このことは、「商品生産」と「所有」が別々にあってそれが結びついているのではなく、商品生産の中に所有が出現していることを示している。つまり物の有用性をその物の生産者が消費する場合は、ことさら所有が意識されることはないが、それが他者との交換物(商品)であるという次元では、不可避的に誰の所有物であるかが問われることになる。このことからすれば、「商品生産の所有法則に合致する土地所有」とは、土地を市場における売買対象として登場させることであり、そのために本来無価値であったものを、市場システムにおいて変形させたことになる。そして資本主義は、このように地表の一部に価値を付与して、それを「土地」として社会に登場させたのである。

 マルクス主義の労働価値説や「商品生産の所有法則」が無条件に正しいとは思わないが、「土地」「売買」「所有」という概念がいつの時代でも同じ意味であったわけではないことは、これまでに示したように現在の中世歴史学も認めていることである。しかしこれら概念の違いにたいする理解は、史料文献の分析の中から発見されたことであって、それがどうして異なっているのか、そうした概念形成は何によって生じたのであるかについては、それを問い進める術をもっているようにはみえない。したがって現代とは異なる概念形成について、呪術的観念であるとか、時代特有のというただそれだけの意味で中世的観念だと言ってきたのである。そうした状況であるため、意識内の事象として語るにとどまるか、現代に至る発展途上に出現する事象であるかのようにしか説明されてこなかったのである。そしてその点において、マルクス主義のここに述べた見解はきわめて示唆的であると思うのである。
 大谷氏は、「前近代的な土地所有諸形態、具体的には封建的土地所有と小農民的土地所有とに直面した」と述べていたが、そこには近代的土地所有とは異質で連続性が認められないような土地所有が存在した、という認識が示されている。しかしそうであってもその異質なものに、同じ「土地所有」という言葉を使っている点は、この断絶の本当の意味に対しては無自覚であったことを思わせる。「土地所有」は、資本主義的生産に適合させるために、市場システムにおいて所有を変形させた結果登場したものである。そうであるならば、それ以前には単なる土地の所有も売買もなかったはずであり、そうでありながら「前近代的な土地所有」という言い方は矛盾しているのである。しかしながら、なぜこのような矛盾を起こしてしまうのかがこの場合重要である。なぜならば、大谷氏は近代的な土地所有でないものを思い描くことができなかったのであり、それほどにまでにこの断絶は深いということを示しているからである。

 ここで話を戻すことにしよう。融通と融資は何が違うのかである。融資は土地を担保にして資金を貸し出す行為であるが、この場合の「土地」は近代的な地代を発生させるような資本としての地表である。そしてこの地表という資本には、確固とした所有者がいる。これにたいして、中世の土豪と百姓の間には、「田地」「名地」「畠地」「茶園」などの耕地が存在していた。そしてこの「耕地」とはたんなる地表ではなく、耕作者が継続的に労働を投下している対象であり、そこには生産と消費の連続的なサイクルがある。そしてこの生産と消費のサイクルは、直接耕作者だけを成員として成り立っているのではなく、直接耕作にたずさわらない多くの人びとも関与させているのである。この関与というのは経済関係だけを意味するのではない。むしろ経済関係以上に重要な原理によって支えられているのであり、その中から支えあいとしての融通が出現しているのである。
 生産と消費のサイクルとしての「耕地」は、売買の対象とすることができないし、同様に担保物件になることもできない。「土地」であれば売買も可能であるし、融資の担保にもなるが、作動するシステムである「耕地」は物件化することはできないのである。世界の中心に市場システムが存在する現代は、耕地を土地に変形させるが、そうでない時代には耕地は耕地のままでの成り立ちがあったのである。
 市場原理においては「土地所有」として現れるが、前近代と我々が呼ぶ過去の時間軸においては、耕地とそこで生きる人々を支える現代と異なる原理が強く働いていた。その原理を見極めるためには、これまで予告していたようにシステム論の見識を活用する必要があるように思う。それはオートポイエーシスと呼ばれるシステム論なのであるが、ここに至ってようやくそこへ論を持っていく段階がきたのである。

# by mizuno_clan | 2010-11-23 20:09 | ☆談義(自由討論)

「禅と武家水野」

禅と武家水野                             筆者:水野青鷺

 水野氏史を研究するようになって、水野諸氏の菩提寺に墓参する機会が多くなった。
取材した既得の資料により、採訪した菩提寺や未採訪の寺院を、大まかに列挙してみると、下表の通り大半が禅宗のお寺によって占められていることがわかった。水野氏諸家の大方が武家であったことから、なぜ禅宗と武士とがこのように密接に関係しているのかと、長年疑問に思いつつも、中々資料が得られず判らずじまいであった。
 そのような状況下、先日、偶然に大学の宗教学講義で、教授が「鈴木大拙」氏と板書されたので、著作を調べていく内、鈴木大拙『(対訳)禅と日本文化』に、これまでの謎を解く明解な指針が記されていたので、該当部分を引用し、その関係を考察してみる。

 なにかの関係でもよいが、禅が、日本の武士階級と交渉があったといえば、不思議に考えられるかもしれぬ。各国において仏教はいかなる形態をとって栄えたにせよ、それは慈悲の宗教であり、その歴史に変化はあったが、けっして好戦的な活動に従ったことはなかった。それでは、どうして禅が日本武士の戦闘精神をはげますことになったのだろうか。
 日本文化においては、禅は当初から武士の生活と密接な関係があった。もっともそれはけっして彼らの血なまぐさい職業を実行するように示唆したものではない。武士がなにかの理由で一たび禅に入った時は、禅は受動的に彼らを支持したのであった。禅は道徳的および哲学的二つの方面から彼らを支援した。道徳的というのは、禅は、一たびその進路を決定した以上は、振返らぬことを教える宗教だからで、哲学というのは生と死とを無差別的に取扱うからである。この振返らぬということは、結局、哲学的確信からくるのであるが、元来、禅は意志の宗教であるから、哲学的より道徳的に武士精神に訴えるのである。哲学的見地からは、禅は知性主義に対立して直覚を重んじる。直覚の方が真理に到達する直接的な道であるからだ。それゆえ、道徳的にも哲学的にも、禅は武門階級にとって非常に魅力がある。武門階級の精神は比較的に単純で哲学的思索に耽るというようなことは全然ないから――これが武人の根本的資質の一つであるが――当然、禅において似あいの精神を見いだすのである。おそらくこれが禅と武士との間に密接的な関係が生じた主なる理由の一つであろう。
 つぎに、禅の修行は単純・直裁・自恃・克己的であり、この戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致する。戦闘者はつねに戦うべき目前の対象にひたすら心を向けていればよいので、振返ったり傍見してはならぬ。敵を粉砕するためにまっすぐに進むということが彼ららとって必要な一切である。ゆえに彼は物質的・情愛的・知的いずれの方面からも、邪魔があってはならぬ。もし戦闘者の心に知的な疑惑が少しでも浮かんだならば、それは彼らの進行に大きな妨げとなる。もろもろの情愛と物質的な所有物は、彼が最も有効的に進退せんと欲する場合には、この上ない邪魔者になる。立派な武人は総じて禁欲的戒行者(アセティクス)か自粛的修道者(ストイクス)である。という意味は鉄の意志を持っているということである。そうして必要あるとき、禅は彼にこれを授ける。  

(鈴木大拙『(対訳)禅と日本文化』2005.12 講談社インターナショナル 第三章 禅と武士)


 本著は、誠に明確に記述されているが、水野氏史研究に資するため、内容を箇条書とし考察してみる――

1.どうして禅が日本武士の〝戦闘精神を励ます〟ことになったのだろうか
 武士がなにかの理由で一たび禅に入った時
   → 〝禅は受動的に彼らを支持〟
 禅は道徳的および哲学的に、二つの方面から彼らを支援
  禅は〝意志の宗教〟 → 哲学的で、より道徳的に武士精神に訴える
  道徳的―― 一たびその進路を決定 → 〝振返らぬことを教える宗教〟
  哲学的――〝生と死とを無差別的に取扱う〟
       〝直覚[直観]を重んじる〟(知性主義に対立)
        ∵直覚 → 〝真理に到達する直接的な道〟
   ∴道徳的にも哲学的にも、禅は〝武門階級にとって非常に魅力的〟
 武門階級の精神は比較的に単純 (武人の根本的資質の一つ)
   → 禅において似あいの精神を見いだす
∴おそらくこれが禅と武士との間に密接的な関係が生じた主なる理由の一つ

2.禅の修行 → 単純・直裁・自恃[自負]・克己的
   → 〝戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致〟
   ∵戦闘者はつねに戦うべき目前の対象にひたすら心を向けていればよい
 振返ったり傍見[脇から見て]してはならぬ
    敵を粉砕するために〝まっすぐに進む〟ということが彼ららとって必要な一切
∴戦闘者は、知的・情愛的・物質的のいずれからも、邪魔があってはならぬ
    a. 知的な疑惑 → 彼らの進行に大きな妨げ
b.もろもろの情愛と物質的な所有物
     → 最も有効的に進退せんと欲する場合 → この上ない邪魔者になる
 立派な武人は総じて禁欲的戒行者(アセティクス)か、自粛的修道者(ストイクス)である
   禁欲的戒行者=欲望、特に性欲を抑え戒律を守って修行に励む人
   自粛的修道者=自分から進んで、行いや態度を慎み仏道を修行する人
  ∴〝鉄の意志〟を持っている
     → そうして必要あるとき、禅は彼にこれを授ける

 つまり、武士であった水野諸氏もまた、禅において似あいの精神を見いだし、禅と密接的な関係が生じたことから、帰依し心の拠り所として禅宗の寺を菩提寺としていったものと推察される。つぎに、具体的に諸氏の菩提寺について記述してみる。

 桓武平氏水野については、始祖水野影貞以降、子孫は代々愛知県瀬戸市水野の地に住み、暦応三年(1340)、六代目の致国は、鎌倉建長寺の高僧覚源禅師に帰依し定光寺を開山している。また、致国の甥で致顕の子致高は、応永十九年(1412)、備中守に任ぜられたが、同年十二月二十八日入尾城中で病死し、感應寺に葬られたことから水野家菩提寺のはじまりとなった。感應寺の縁起については、天平六年(734)、行基菩薩が諸国遍歴の途、水野の地を訪れ、小金(おがね)神社を鎮守として小金山感應寺を開基したもので、この地方では最も古い寺の一つといわれている。当初は天台宗であったが、その後臨済宗妙心寺派に属し、定光寺の末寺となった。致高の後裔致勝は、水野権平衛家の始祖となり、孫の正勝は尾張藩の御林方役所の初代奉行に任じられ、代々世襲で明治維新まで九代続く。その間水野代官所の代官を三名排出する。
また、永享九年(1437)生まれで、小河水野の祖ともいえる水野貞守は、水野郷において仏道に帰依し、感應寺に香華堂(こうげどう)を建立したと記録にある。
同系統の水野又太郎良春は、康安元年(1361)、志談村(名古屋市守山区上~下志段味)から荒居(新居)に移り、山林を切開いて一邑となし居住の地とした。新居と称した新田や新宅などの名が後に村の名となった。應安元年(1368)、新居領主となった水野又太郎良春が、聖観音の像を本尊とし、弟報恩和尚(定光寺を開山した覚源禅師の弟子)に安生山退養寺を開山させ当寺を開基した。應安七年(1374)六月十二(六)日、良春は逝去し当寺に葬られた。

 小河水野一族と曹洞宗の関係においては、宇宙山乾坤院(愛知県知多郡東浦町)の建立に始まり、天澤院(愛知県常滑市)、春江院(名古屋市緑区)、傳宗院(愛知県知多郡東浦町)、心月齊(愛知県知多郡美浜町)などを相次いで開創した。これは、統治の必要性から分家を要衝に配し、他の政治勢力を従属させていく課程で、祖先祭祀のために分家がそれぞれの菩提寺を建立したことを示していると云われている。宇宙山乾坤院の縁起については、室町時代中期の文明七年(1475)、緒川城の守護を目的に初代城主水野貞守の寄進によって、川僧慧済が開山した。以来、代々水野家の菩提寺として、尾張徳川家より禄を下されるなど、厚い庇護を受けてきた。
小河水野諸系は、江戸時代に入ると、大名・旗本などの武家として全国各地に封じられたが、平時の封地においても、なお禅宗の菩提寺が大半を占めることとなった。幕末動乱期においては、二百数十年ぶりに戊辰戦争などが起こり戦いを余儀なくされたが、その時もまた、武家水野諸氏の戦闘精神を大いに励ますことが出来たものと推察される。


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# by mizuno_clan | 2010-11-22 23:19 | R-4>水野氏諸他参考資料