国人小河水野氏の困惑①-苅谷赦免-
談義:江畑英郷
この「水野氏と戦国談義」も回を重ねて、とうとう三十回目となった。切がよいのと、「水野氏と‥」というタイトルを掲げておいて、水野氏について語ることが甚だ少ないことに少々気が咎めるので、今回は天文年間から桶狭間合戦までの小河水野氏について思うところを述べることにする。ここでの小河水野氏とは、知多半島北部東岸の小河(現在は愛知県知多郡東浦町)を本拠とし、この時期に刈谷・常滑・大高などに勢力をもった藤原姓水野氏(『刈谷市史』による)のことである。この水野氏については、本談義第八回「三河武士は忠義に薄く」で、中興の祖といわれる水野貞守からの来歴について一度簡略に述べさせてもらっている。そしてこの小河水野氏の動向を、ここで天文年間から桶狭間合戦までに限って述べるというのは、その時代より他は私が不勉強でよくわかっていないからである。
第八回「三河武士は忠義に薄く」では、天文年間の東三河の動向に注目して、水野忠政から信元の世代交代期にあった、親松平から親織田への外交転換に関する背景について言及した。そしてそこで意図したことは、織田・今川という2大陣営の軍事的対立という常套的な構図から離れて、もっと地域独自の自律的な事情にスポットを当ててこれを読み解くということであった。しかしながら、この戦国期における大名間の所領拡大競争という政治的軍事的構図を差しおいて、地域のあるいは小領主層の自律的事情を重視する観点がどのように根拠づけられるのか。この点が確かに示されないことには、常套的構図から離れて議論する足場が揺らぐことになりかねない。したがって、その後の組織論や土地所有に関する立ち入った考察は、一つにはそうした下からの根拠づけの意味合いがあったのである。
天文年間から桶狭間合戦までの水野氏の動向は、どのようであったのか。これに答えようとすれば、まず水野氏が武家で国人と呼ばれる階層に属するという規定から出発するであろう。つまり小河水野氏は何者であったのかの認識があって、文献史料に現れる諸動向をそれに沿わせて理解しようとすることになる。そうであるなら、天文年間、それは戦国時代真っ只中であるが、その時代における「国人」とは基本的にどのような存在であり、そこからしてどのような活動をするものなのかを知っておく必要がある。そしてそのような一般論としての国人像を基礎にして歴史を探るのであるが、これが個々の国人、たとえば小河水野氏を語るとなると、戦国大名を頂点とした群雄割拠という政治的軍事的構図が押し出されてきて、地域に根を張って自律的に活動する国人の姿が遠く霞んでしまうのである。したがって当談義では、この群雄割拠型の構図から距離をおくために、最初「リゾーム」という概念を提示した。ただしこれは、群雄割拠型の構図から離れるためのキャッチフレーズに過ぎず、それ自体が戦国期の国人像を具体的に示すわけではない。したがってその後は、所領とは何かを問い、自衛自存する村に注目し、そこから当知行や戦国期の土地所有、貸借と売買、そして戦国大名組織とは何かなどに思いをめぐらせてきた。そうした考察結果からすると、現時点で国人小河水野氏を語るうえでの基本的な足場は、以下のように整理されるであろう。
①「村の成り立ち」を支え、自らもそれに依存する土豪層が、武士階級の基盤である。
②国人あるいは大名でさえも、自領においては「村の成り立ち」を支え、また自らもそれに依存している。
③上記①と②から、この時代は非常にボトムアップ志向の強い社会であったと考えられる。
④個人に還元した後に市場原理で結合するという社会原理が貫徹していない時代であり、人は個人に還元されていない。
①~③と④は、密接に関係すると思うのであるが、④については今後考察を深める事柄である。したがって、以降で述べる天文年間から桶狭間合戦に至る小河水野氏を中心とした動向については、ここで示した①~③を念頭において考察することにする。また考察を向ける水野氏およびそれに関連する諸動向を示す史料であるが、昨年公刊されたばかりの『愛知県史 資料編10』に収録された諸資料に基づくことにする。なぜならば、信憑性の定かでない資料に振り回されるのはつまらないし、自身で個々の資料の確からしさを考証する能力もないからである。したがって、少々窮屈ではあるが、関係者の多大で真摯な努力によって世に送られたばかりの『愛知県史 資料編10』を、この際利用させていただこうというわけである。
さて、その『愛知県史 資料編10』を天文元年から読み進めていくと、小河水野氏に関わる格別に目をひく史料が天文20年に登場する。
今度、山口左馬助、別馳走之由祝着候、雖然織備懇望子細候之間、苅谷令赦免候、此上味方筋之無事、無異儀無山左申調候様、両人可令異見候、謹言
(今度、山口左馬助、別して馳走すべきの由祝着候、然りといへども織備懇望の子細に候の間、苅谷赦免せしめ候、此上味方筋の無事、異儀無く山左申調<モウシトトノエ>候様、両人異見せしむべく候、謹言)
十二月五日 義元(花押)
明眼寺
阿部与五左衛門殿
注:( )内は『新修名古屋市史 第二巻』より引用。
ここに「苅谷赦免」という語句が記されているが、このことが何を意味するのかが実に問題なのである。ここで「織備」といっているのは、織田備後守信秀のことであるが、この書状によればその信秀が「苅谷赦免」を今川義元に懇願したというのである。そしてこの書状を理解するうえで、セットでみておかねばならないのが次の今川氏真の感状(一部分)である。
苅屋入城之砌、尾州衆出張、雖覆通路取切之処、直馳入、其以後度々及一戦、同心・親類・被官随分之者、数多討死粉骨之事
(苅屋入城の砌<ミギリ>、尾州衆出張、通路を覆い取切の処といえども、直<タダチ>に馳<ハセ>入り、其れ以後度々一戦に及ぶ、同心・親類・被官随分の者、数多く討死粉骨の事)
(『豊明市史 資料編補二』、( )内は筆者)
これは桶狭間合戦で討ち死にした松井宗信の遺族にたいして、永禄三年に生前の宗信の忠孝を賞するために出された書状の一部である。『愛知県史 資料編10』は、文明2年(1470)から永禄2年(1559)までの資料を収録したものなので、この巻には掲載されていないが、ここに「苅屋入城の砌」とあることで、先の義元書状との直接の関連付けが必須となるのである。この松井宗信の粉骨の一件がいつのことであるか定かではないのであるが、この氏真感状によれば、今川方の松井宗信が刈谷城への通路を扼する「尾州衆」を撃退し、その刈谷城に入場している。また、同感状には「苅屋在城」とも書かれていることから、この時期刈谷城は今川方の城であったことになる。そしてこの義元と氏真の二つの書状を合わせると、次に示すような解釈が成立することになる。
これらを考え合わせると「織備」すなわち織田備後守信秀と義元との間に一時的和議が成立し、義元が苅谷赦免すなわち占領した刈谷城を刈谷水野家の信近に返還したのは、十八年十一月以後二十年春頃までの間となる。おそらく刈谷陥落は安城落城の直後の頃であったのだろう。「赦免」の条件は当然のことながら、水野一族とくに信元・信近の織田氏との断交と今川氏への服属であっただろう。これが水野氏関係史料に記録されなかったのは、敗戦は外へは極力知らせないという当時の一般的慣行のほかに、永禄三年の刈谷水野家滅亡によって、それ以前の今川氏への屈服などは小事となってしまったからではなかろうか。
(『刈谷市史』)
『刈谷市史』は、通説どおり水野信元の代になって織田・水野同盟が成立したとしており、「苅屋入城の砌」の時点で、水野の刈谷城が今川方の城となっていることから、今川によって刈谷城は「陥落」し「占領」されていたと理解している。そしてそれは天文18年(1549)の「安城落城の直後の頃」であり、その後天文20年の義元の書状に、信秀の懇望によって「苅谷赦免」となったあるのだから、この間に今川と織田に和睦が成立していたと『刈谷市史』は考えているのである。同様な見解は『岡崎市史』や『新修名古屋市史』などにもみられ、一般的な理解となっていると言えよう。またこの解釈について、橋場日月氏は『新説 桶狭間合戦』で次のように述べている。
実はこれを『新修名古屋市史』や『豊明市史』は、
①山口左馬助教継の斡旋で織田・今川が和睦し、刈谷城が織田側に返還された。
②その件について調停するよう山口を説得せよと岡崎の明眼寺(のち妙源寺)と阿部某に指示した。
と、説明している。
これに対し、筆者はどう考えても次のようにしか解釈できない。
まず第一に、これは
「山口教継が奔走すると言って来たことはめでたい」
と読むべきだろう。「馳走すべきの由」は未来形であり、「これから馳走します」という事なのだ。山口はこの時点で刈谷城開放以前の事柄について何も関与していない。
次に、「しかりといえども」は「しかし」「けれども」と同じ意味の接続詞だから、以降は、
「しかしながら刈谷城は開放する事に決まった。この上は講和について山口が異議なく調停に奔走するよう説得せよ」
という意味になる。
つまり、義元は「このたび山口左馬助教継が味方するとの事、めでたい。しかし、織田備後守信秀がなにかと懇願してくるので、刈谷城については占領を解くことにした。そういったわけだから当方の味方関係の和平について異議を主張する事なく調整に奔走するよう、両人から説得せよ」と言っているのだ。
教継は両者の間に立って和平斡旋に奔走したのではなく、義元に味方すると言って来たのだが、それに反してトップダウンで今川・織田の講和が成立したために刈谷城攻撃も中止されて解放が決定した。
そして、それに対して今川につくと申し出ていた教継は、ハシゴをはずされた格好になり、不服を申し立てるかもしれないが、不満を持つ事の無いよう、素直に従って講和に協力するよう、よく言い聞かせてくれ、と言っているとしか理解できないのだ。
山口教継が和平斡旋に奔走したという解釈はおかしい、というのが橋場氏の主張であるが、交戦状態にあった織田と今川が和睦へ動いている中での義元の書状という理解であり、その点では大した違いはないと言えるだろう。『刈谷市史』にしろ『新修名古屋市史』にしろ、そして橋場氏にしても、いずれもが織田信秀と今川義元が天文20年以前から交戦状態にあって、それが和平へと動こうとしているという解釈には違いがないのであるが、果たしてそうなのだろうか。
ここで、この義元の書状を4つの部分に分けて詳細に検討してみよう。
①今度、山口左馬助、別して馳走すべきの由祝着候
ここに「馳走すべき」とあり、これは橋場氏が言うように未来形だとしても、「別して」をどう解釈すべきか。「あらためて」という意味にもとれるが、そうなると今度の馳走の以前から、山口教継は今川に対して協力的であったように受けとれる。そして「馳走」の解釈であるが、「和平調停に奔走」という理解と、「織田方から今川方に寝返る」という理解の二つが提示されている。しかし今の段階では、どちらとも言いがたいし、それ以外の解釈が排除されるわけでもない。
②然りといへども織備懇望の子細に候の間、苅谷赦免せしめ候
「苅谷赦免」という言葉に目を奪われる。この箇所については通常、刈谷城の占領を解く、あるいは刈谷城に対する攻撃を中止するという軍事的な意味合いで解釈されている。しかし「苅谷」が刈谷城の意味に限定できるわけではないし、また「赦免」が今川の軍事的な意味にだけ使われるわけでもないだろう。そして、織田信秀が「懇望」したのを義元が承諾したことが、すぐさま和睦を意味するとも限らないのである。
③此上味方筋の無事、異儀無く山左申調候様
この箇所について橋場氏は、「当方の味方関係の和平について異議を主張する事なく調整に奔走するよう」という理解を示している。「馳走」すると言ってきている山口教継であるが、味方関係の和平に異議を主張したり、「講和に協力」しなかったりすることを義元が懸念しているというのである。その理由について橋場氏は、「トップダウンで今川・織田の講和が成立したために」、「今川につくと申し出ていた教継は、ハシゴをはずされた格好に」なるからだと説明している。しかし山口教継は、今川と織田の交戦が続くなかで「義元に味方する」という去就を選択したわけで、彼が主体的に織田信秀と交戦していたわけではあるまい。むしろ橋場氏の理解では、織田方から今川へ寝返ったととらえているのであるから、信秀は直前まで教継の味方であったことになる。そうであるのに、和平に反対したり非協力的な態度をとるというのは、まるで山口教継が織田信秀との戦いを望んでいるかのようである。山口が寝返ったことは、信秀にとっての恨みとはなっても、山口側に信秀との戦いを望む理由にはならないのではなかろうか。「ハシゴをはずされた格好」になったからといって、剥きになって信秀との交戦を続けるべきだと教継が不満を持つというよりも、恨みをもたれた信秀との緊張が軽減すると、むしろ教継は喜ぶのでははなかろうか。
④両人異見せしむべく候
「両人」とは、明眼寺と阿部与五左衛門のことであるが、ここに彼らの役割が示されている。それは、「山左申調候様」に「異見せしむ」のである。橋場氏はこれを「両人から説得せよ」とするが、ここで気になるのは、なぜ義元はこの両人に説得させようとしているかである。普通に考えれば、義元が山口に命じればよいことであるが、それをせずに両人の説得に期待しているのか、あるいは命令とは別に念を入れようというのか。いずれにしても、山口教継に対して、この両人の説得が効果があると義元がみなしていたことになる。
実際のところこのように解釈の幅は広いのであるが、ここで全体を眺めてみると、この書状の趣旨は、明眼寺と阿部与左衛門が義元の意向を山口教継に伝え、「味方筋の無事」を「異見せしむ」ことにある。そしてこの趣旨からすると、「苅谷赦免せしめ候」はどうにも唐突な感じがしてならない。橋場氏をはじめ通常の理解では、この箇所に水野氏の刈谷が登場しているのに、水野氏そのものはそっちのけで織田と今川の和睦ばかりに注目する。つまり彼らの理解では、「苅谷赦免せしめ候」は和睦の代名詞に過ぎないのである。しかしそれならば代名詞など使わずに、「信秀が懇願するので和睦することにした」とすればよいことだろう。さらにいえば、「苅谷赦免せしめ候」がなぜ織田・今川における和睦の代名詞になるのかがよくわからない。これまで織田と今川は、刈谷あるいは刈谷城をめぐって争っていたわけではないだろうに、なぜここで「苅谷赦免」が登場するのか。そのことにもっと注意を払うべきである。
義元は、「山口教継が馳走するとのことでそれは結構なことだ」としたすぐ後で、「然りといへども」として信秀の「懇望」と「苅谷赦免」のことを述べている。つまりここでは、山口教継の馳走と「苅谷赦免」は直接に、相反することとしてつながっているのである。山口の馳走が具体的に何を意味するのか定かではないが、その馳走が刈谷の赦免と相反するということは、少なくとも山口にとって刈谷は赦免すべきではないのである。つまり、「苅谷赦免」を織田・今川の和睦の代名詞として扱うのではなく、その具体性のままに受けとれば、山口教継と水野氏は敵対していたのであり、したがって窮していた水野氏を救うことになる「苅谷赦免」に教継は反対するのである。このように、この書状の趣旨が「味方筋の無事」に協力するように山口を説得することにあるのならば、そのことと「苅谷赦免」には直接の関係が存在するはずであり、そうと受けとらなければ何といってもこの「苅谷赦免」は唐突なのである。
織田と今川という大名級の対立の構図を無理にもちこまなければ、義元に懇望した信秀とその懇望を聞き届けた義元の間柄には、深刻な敵対は存在していないことが自然と理解できる。織田と今川が激突した小豆坂合戦は天文17年、そしてその翌年には織田方が占拠していた安城城が今川軍によって開城させられた。この義元の書状が天文20年であれば、両者の戦闘から2年が経過している。そして安城開城においては、織田信広と竹千代の人質交換が成立しており、織田勢の三河からの撤退という形勢が決まったのであった。敵味方の間には、越えることのできない敵対の溝があるのではなく、時に争い時に結ぶという流動性があったことであろう。そうであるならば、織田と今川という2大陣営の抗争の構図が、この義元の書状を理解する際の当然の前提というわけにはいかないのである。義元が、山口教継の不服を懸念して明眼寺と阿部与五左衛門に説得を命じた書状に、「苅谷赦免」が差し込まれたのならば、教継の不服の対象は「苅谷赦免」にあったと理解すべきなのである。しかしそうとなると、「此上味方筋の無事、異儀無く山左申調候様」の解釈がガラリと変わってくる。
(つづく)
# by mizuno_clan | 2010-12-19 14:54 | ☆談義(自由討論)