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『加藤清正「妻子」の研究』
 本会員で、旧備後福山藩・下総結城藩水野家二十代御当主水野勝之氏が、昨年十月に上梓された『加藤清正「妻子」の研究』についてご紹介します。
<2010.03.17>共著者 福田正秀氏、本会入会。

 本書は題名通り「加藤清正の妻子」についての研究書であるが、「あとがき」に記されているように「――思いだして見ると我が家にある系図に加藤清正に嫁いだ女性がいると云う単純な興味からの始まりがここまで広がろうとは思いませんでした……」と書かれている如く、水野家を出発点とした著書だけに、水野家についての史料考証は秀逸である。
中でも「第四章 清浄院(水野氏)とあま姫(瑤林院)」には、「水野本系図」(茨城県歴史資料館蔵)、「水野家記」(福山城鏡櫓蔵)、水野家文書の「水野記」などが写真と共にその内容が記され、今回初めて発見された史料も掲載されている。
 会員各位にはぜひご一読をお勧めします。
                                  研究会事務局




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『加藤清正「妻子」の研究』


水野 勝之著
福田 正秀著
税込価格 : ¥3,150 (本体¥3,000)
出版 : ブイツーソリューション
発売 : 星雲社
サイズ : 22cm / 258p
ISBN : 978-4-434-11086-3
発行年月 : 2007.10
内容説明 :
転換期の近世初頭、家と家との絆となった姫たちの信仰と祈りとは−。清正・忠廣のわずか2代で江戸初期に断絶した有力大名加藤家。根拠もなく語られている清正の妻子の全貌を、史料考証により明らかにする。








<目次>
はじめに
第一章 諸説検証
   一、清正の子供たち
      1、一男二女説・一男三女説・二男二女説
      2、三男二女説
   二、母子系図
第二章 山崎氏と虎熊 
   一、肥後入国前からの妻子(秀吉朱印状)
   二、糟糠の妻は山崎片家息女(山崎家譜)
   三、虎熊の実在(清正書状)
      1、清正親子で朝鮮出陣計画
      2、虎熊第二陣二千の大将
      3、急ぎ虎熊差越すべし
      4、急使安田善介帰国
      5、虎熊母煩う
      6、朝鮮在陣長期化を覚悟
      7、虎熊出陣最終命令
      8、虎藤を朝鮮王子と質交換(奮忠舒難録)
   四、清正に百助という養子がいた(山崎家譜)
第三章 徳川時代の清正の妻たち
   一、帰国三年、四人の妻に四人の子
   二、「加藤家御侍帳」に見る加藤家の女性たち
第四章 清淨院(水野氏)とあま姫
   一、結婚の背景
   二、加藤家へ入った清淨院の付人たち(水野家文書)
   三、関ヶ原直前に大坂脱出
   四、黒田如水の支援と過酷な山中越え(黒田家譜)
   五、清正の祈願と歓喜(清正書状)
   六、あま姫生母の証明
    証明一 幕府編纂系図
      1、『寛永諸家系図傅』
      2、『寛政重修諸家譜』
    証明二 徳川實記
    証明三 水野家文書
      1、「水野本系図」
      2、「水野家記」
      3、「水野記」
    証明四 本圀寺の墓
    証明五 身延二十七世日境上人の弔状
    証明六 紀州徳川家史料
      1、『南紀徳川史』
      2、あま姫は肥後生れの肥後育ち
      3、金婚と逝去
    証明七、菩提寺報恩寺に両親の位牌
   七、熊本にも清淨院の墓(法宣寺)
第五章 淨光院(菊池氏)と古屋姫
   一、古屋姫の誕生
   二、生母は本覺院か竹之丸殿か
   三、徳川四天皇の榊原家へ嫁ぐ
   四、阿倍正澄に再嫁、二子を産む
   五、古屋姫の子正能老中となる
   六、古屋姫(本淨院)の墓地調査
   七、古屋姫の母は淨光院
   八、古屋姫娘の墓(日向延岡藩二代有馬康純室)
第六章 本覺院(菊池氏)と忠正
   一、最初の江戸妻
   二、忠正死して清正悲嘆にくれる
   三、文献史料に深まる謎
   四、本覺寺は清正在世時の建立
   五、菊池武宗の息女説
   六、墓碑と石祠に見える物語
   七、二基の墓、淨得院は誰?
   八、柄鏡に映る妻たちの交流
第七章 正應院(玉目氏)と忠廣―改易への階段
   一、忠廣生母の証明
   二、玉目氏とは
   三、忠廣肥後五十四万石を相続
   四、馬方牛方騒動
   五、三斎書状に見る改易の真相
   六、忠廣と光正、父子の対立
   七、紀州頼宣の働き
   八、庄内配流と塵躰和歌集
   九、庄内丸岡・家臣と女中
   十、忠廣の祖母を迎えに
  十一、丸岡での生活
  十二、正應院と忠廣逝去
  十三、加藤家廃絶と遺品のゆくえ
第八章 二代忠廣の妻子
   一、崇芳院(蒲生氏)と松平光正
      1、崇法院の熊本生活
      2、光正の清正崇拝
   二、法乗院(玉目氏)と正良・献珠院
   三、献珠院―父を慕いて
      1、御赦免と阿部四郎五郎家へ輿入れ
      2、池上本門寺墓で親子の対面
   四、丸岡時代の妻子
おわりに
  真正 加藤清正「妻子」系図


<内容>
●「今だからわかる!」史料で探る真実の妻子関係
 清正には妻五人に実子五人と養子が一人いた。これまでの定説では妻三人に子は四人とされ、母子系譜も間違いだらけ。根拠もなく語られてきた加藤清正「妻子」の全貌が、清正の正室清淨院(家康養女)の実家水野家の当主と熊本の研究家による徹底的な史料考証で四百年ぶりに明らかに。豊臣時代これまで全く知られていなかった妻子の存在、徳川との固い絆となった姫たち。加藤家斷絶の裏に二代忠廣の妻子たちなど、これは清正の実像を知る上で必要不可欠な、近世初頭の有力大名肥後加藤家の成立と滅亡にも関わる基本的に重要な研究成果である。
●英雄を陰で支えた女たち
 戦国から泰平への大きな転換期の時代、清正の血を誰がどのように伝えていったのか。家と家との絆となった姫たちの信仰と祈りは。正室と側室の関係など、これまで名も知れず歴史の陰に消えていった大名家の奥に生きた女たちの様々な真実が明らかになる。女性史研究上も必見の一書。


<書評>
●熊本日日新聞社 『第29回熊日出版文化賞』受賞, 2008/3/22
☆選考委員評☆ (2008年2月16日熊本日日新聞「熊日出版文化賞」決定報道より)・諸説ある清正の妻子関係を文献や墓碑調査などから検証した。
・イメージが先行しがちな清正とその妻子の実像を客観的に実証した。
・墓や寺に足を運び、歴史科学の視点からアプローチしている。
☆謎多かった家系 真実に迫る労作(2008年2月24日熊本日日新聞「受賞作の魅力」) 封建時代の系譜について女性の記録は少ないし、系譜の誤謬も多い。それぞれの時代を家と子供のために必死に生きた女性たち、その真実をこのように明らかにする研究に敬意を表したい。 富田紘一(熊本市文化財専門相談員)
☆<評>熊本日日新聞『散文月評』(平成19年11月25日)
「資料考証、実地踏査を踏まえてもたらされた史実にも驚かされるが、文章のうまさも加わり謎解きの面白さを追体験できる。資料に残りにくい女性を系図に復元するという意表をついたテーマと整然とした論証は、むしゃんよか、の一言に尽きる」
 *むしゃんよか=熊本の方言で「武者振りが良い」すなわち「男らしい」「かっこいい」という意味。

# by mizuno_clan | 2008-05-17 19:11 | 推薦図書

【寄稿7】桶狭間の戦いと同盟関係の一考察 »»Web会員««

桶狭間の戦いと同盟関係の一考察
                                                筆者:水野青鷺

 「桶狭間の戦いと水野氏の関係」については、foxbladさん、mori-chanさんから共に鋭利な論考が寄せられており、特に「水野十郎左衛門とは誰なのか」という推考は、両者ともに史料に基づいた考察であることから、大変に興味深く拝読させていただいた。
後の十郎左右衛門「水野元茂」の実父は「水野信近」であり、養父は「水野信元」であることから、「元茂の父」は二人存在したのである。従ってfoxbladさん、mori-chanさんが「元茂の父」をどちらの父としているかによって、二者選択の余地が生まれる。今後もこの「水野十郎左衛門とは誰なのか」については引き続き考察される事を願っている。
 また「水野氏」が一般に言われているように「織田方」に与したのか、今川方に与したのかが論じられているが、日本の戦国時代と近似した中世ヨーロッパの諸事情と比較してみる事にする。
 今学期から愛知学院大学で、小林隆夫教授「国際関係史概説」を聴講しており、この講義で、国際関係とは、従前は国家間関係を国際関係といったが、現在は独立した諸国家の織りなす関係の総称であるとし、国家が基本単位であり、このヨーロッパ国際関係が現代国際関係の母体となっていると教示された。
また「中世的ヨーロッパ秩序」では、「無数の領主の間に権力が分散」しており常に領主間の争いがあった。その理由として「領主が一日で往復できる範囲を領土」としており、領主が領民を護るために、城を築き堀を廻らせていた。つまり城が領主権力の基盤であり、「領主同士も相互に同盟を結び安全保障の道具」としていた。これら領主間において上級領主(主君)と下級領主(家臣)に分かれ、下級領主は上級領主に領土を寄進し、上級領主は一旦受納した後下級領主に下げ渡し、内政干渉は行われず、戦争の際には下級領主は上級領主に荷担した。さらに下級領主はこの上級領主以外にも複数の同盟を結んでおり、5~20数カ国との同盟があったといわれている。つまり上級領主は複数の下級領主と、また下級領主は複数の上級領主と同盟関係締結していたのである。
  これらの状況は日本の戦国時代の領主間にも当てはまるのではないだろうか。北西部を織田氏、北部を斉藤氏、北東部を武田氏、東部を今川氏に挟まれた「水野氏」は、中世ヨーロッパの領主のように、それぞれの領主と対等な同盟関係を結んでいたのではなかったろうか。領主間の争いの際には、何れに与するか、あるいは静観するかはその一国の領主の判断によるものであり、他の何れの同盟国からも戦争荷担を強要される事はなかったものと考えられる。
 従って桶狭間における水野氏の動向は所謂「日和見」と観られる状況にあったが、水野氏にとって、諸国との同盟関係こそが自国の安全保障の道具であったのである。
                                                      《了》

# by mizuno_clan | 2008-05-11 17:17 | ★研究ノート

【寄稿6】桶狭間合戦当時と事後の水野氏の動向  »»Web会員««

桶狭間合戦当時と事後の水野氏の動向
                                           著者 mori-chan

 小生尾張徳川家に多少縁があり、以前から徳川家康の事績についてあれこれ調べてきた。もとより、専門家ではないので、足のむくまま、気の向くまま、まさに下手の横好きである。自分が開設しているブログ「夜霧の古城」においては、「徳川家康と知多半島」というシリーズで、桶狭間合戦において、尾張攻略をめざす今川義元が大軍を率いてきたのが、逆に織田信長によって討たれ、今川方の先鋒であった松平元康、後の徳川家康が合戦の前に兵糧を運び入れると同時に大高城に入ったものの、今川軍の敗戦の報に接して、大高城を脱出、岡崎城に戻って今川氏の支配から脱しようとするところまで述べてきた。

 さる2008年4月29日、豊明市の曹源寺(愛知県豊明市栄町内山45)にて郷土史研究家梶野渡氏の講演があることを、尾張中山氏御子孫のS氏から聞き、さっそく行ってきたのであるが、いかにして2千の兵力の織田勢は10倍もの大軍を擁する今川勢を破ったか、その軍勢の構成や織田信長の実家である織田弾正忠家と一族の関連、織田信長の軍人の育て方、大高を目指す今川本陣の動きをキャッチした情報戦、曹源寺住職であった快翁龍喜和尚と中山氏、桶狭間合戦との関わりなど、分かりやすく興味深い話が多かった。寺の本堂いっぱいにあふれた聴衆は2百名を大きく越え、3百名くらいはいたようで、280部用意した資料がまったく残らなかったらしい。

<曹源寺>
【寄稿6】桶狭間合戦当時と事後の水野氏の動向  »»Web会員««  _e0144936_1005361.jpg
















 その講演後、S氏一行と梶野渡氏、曹源寺和尚と庫裏の座敷で少し雑談をした。ちなみに曹源寺自体は大脇村がもともと知多郡であったため、知多八十八ヶ所の一番札所になっているが、今の曹洞宗の地区分けでは名古屋とその周辺の地区に属し、曹源寺和尚はブロック長であるとのこと、道理で大勢を前にした話の仕方もうまいと思ったが、それはともかく。やはり桶狭間合戦での水野氏の動きがどうにも分からない、単に合戦が終わるのを水野氏は待っていたようにも思われるし、岡部元信が桶狭間合戦後籠城していた鳴海城から引き上げる途中に刈谷城を襲撃して水野信近を討っているが、なぜ籠城で疲れ果てている兵で襲ったのか(最初から攻めるつもりなら、今川の大部隊で桶狭間に行く途中でも攻め落とせば良いのではないか)というような話をした。

 この点については、以前ブログ「夜霧の古城」(「徳川家康と知多半島(その29:桶狭間合戦から今川氏からの自立まで)」)でも、「桶狭間の合戦で動向が分からないのが、水野信元である。桶狭間合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦においても、松平を含む今川勢は、織田方となっていた緒川水野氏と戦ったのであるが、当主水野信元の去就がはっきりしない。特に、村木砦に砦を築くようなことが今川勢に出来たとするなら、敵地に普請をしたことになり、刈谷、緒川の水野氏はそれを傍観していたのかということになる。(略) 

 天文23年(1554)の村木砦の戦いは、水野信元が日和見をするなかで、織田信長が緒川水野氏の流れであるが布土城主になって知多における織田直系であった水野忠分を助ける形で展開していたとみるべきで、その後の石ヶ瀬合戦や桶狭間合戦に水野信元が積極的に関与していない事情があったと思われる。すなわち、明確に今川方に寝返っていたわけではないが、水野信元は織田にも今川にも通じていたように思われる。

 確かに、水野信元の弟である刈谷城の水野藤九郎信近や主だった者は、鳴海城を開城し、駿河に帰る途中の岡部元信により、はかりごとをもって討ち取られ、城内に放火された。それは、岡部元信が、水野信元の立場をよく理解していなかったことによる、偶発事象かもしれない。もし、本当に水野信元が今川勢にとって脅威なら、桶狭間に行き着く前に刈谷を襲っていたか、すくなくとも別働隊を作ってでも攻撃を加えていたであろう。」と述べている。

<水野信近の墓のある楞厳寺の水野家廟所>
【寄稿6】桶狭間合戦当時と事後の水野氏の動向  »»Web会員««  _e0144936_1014166.jpg
















 その水野氏の桶狭間合戦当時の態度、動向を理解するうえで興味深い文献がある。

それは『別本士林証文』にある「今川義元書状写」永禄三年(か)四月十二日付のもの。

「夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀、申付人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言

             (永禄三年か)四月十二日   義元

                         水野十郎左衛門尉殿 」
 

(書き下し文)

「夏中、進発せしむべく候条、それ以前尾州境取出の儀、申し付けの人数差し遣わし候、然らばその表の事、いよいよ馳走祝着たるべく候、なお朝比奈備中守申すべく候、恐々謹言

             (永禄三年か)四月十二日   義元

                         水野十郎左衛門尉殿」

これが永禄3年の文書であれば、水野十郎左衛門尉に尾張における今川方の前線にたってくれるように要請しているのであり、桶狭間前夜という時期に水野氏に今川方について働いてくれと言っているのである。

 この十郎左衛門尉は、その名前の署名が入った最も新しい文書(東浦町誌にあるが、もとは大御堂寺文書)では、元亀3年(1572)のものがある。しかし、これは後の十郎左衛門尉であり、前述の十郎左衛門尉の息子か跡継ぎということになる。

「野間大御堂寺従前代雖為守護不入、猶以御理之儀候条、一円令免許上者、諸役等寺中之竹木夫以下此外於向後も申事有間敷者也仍状如件

元亀三年 壬申 十月十八日

水野十郎左衛門尉

柿並

寺中参

是後ノ十郎左衛門也

元藤四郎元茂ト云 」


(書き下し文)

「野間大御堂寺、前代より守護不入たりといえども、猶もって御理之儀候之条、一円免許せしむる上は、諸役等寺中の竹、木、夫丸以下、このほか、猶向後も申す事あるまじきもの也。よって状くだんの如し。

元亀三年 壬申 十月十八日

水野十郎左衛門尉

柿並 寺中参

これ 後の十郎左衛門也 

元藤四郎元茂という」

<水野忠政の墓>
【寄稿6】桶狭間合戦当時と事後の水野氏の動向  »»Web会員««  _e0144936_1023795.jpg  では、この水野十郎左衛門尉とは誰であろうか。小生、それが分からず、ずっと胸の奥に引っかかった感じであった。水野十郎左衛門というと、旗本奴で幡随院長兵衛と争った子孫のほうが有名であるが。

 この水野十郎左衛門尉は、天文13年(1544)閏11月には織田信秀と書状のやり取りをしているし、斎藤道三とも交信しているのである。すなわち、戸田氏系水野氏のような水野氏の傍系であるとは考えられない。また天文13年(1544)閏11月の時点で存命であり、桶狭間合戦時も生きており、息子が元亀3年(1572)10月の時点で存命という水野家主流の人物ということになる。尾張、駿河、美濃の代表人物とも交信できる主流の水野氏というと、緒川・刈谷水野氏、大高水野氏、常滑水野氏以外ではない。しかしながら、大高水野氏なら、宛名にその代々が用いたらしい大膳亮という名前が用いられたであろうし、永禄3年の桶狭間合戦時には、その当主大膳亮忠守は大高城を追われて、刈谷に閑居していたのであるから、今川義元がわざわざ書状を送るはずがない。

<水野氏ゆかりの乾坤院>
【寄稿6】桶狭間合戦当時と事後の水野氏の動向  »»Web会員««  _e0144936_1032288.jpgもちろん緒川水野でも、天文12年(1543)になくなった水野忠政以前の人では時代があわない。残るは、緒川・刈谷水野氏の数人か常滑水野氏ということになるが、大御堂寺周辺の支配権は永禄初年に常滑水野氏から緒川・刈谷水野氏に移っており、元亀年間に大御堂寺周辺を支配していたのは常滑水野氏ではなく、緒川・刈谷水野氏である。

つまり、水野十郎左衛門尉とは緒川・刈谷水野氏の誰かである。

最後の文書にある「元茂」とは、水野信元の養子である通常「信政」とある人物である。その十郎左衛門尉が水野信政であれば、その先代とは、他ならぬ水野信元その人である。つまり、水野十郎左衛門尉は、水野信元であったことになる。この十郎左衛門尉という通名は、緒川水野氏の祖ともいうべき水野貞守の通称が水野九郎次郎十郎左衛門蔵人というのに端を発しているかもしれない。十郎左衛門尉というのは、水野家主流の名乗りであり、前出の旗本奴の水野十郎左衛門もその系統をひいているから、そう名乗ったのである。また水野信元の子に、松平信定の娘を母とする十郎三郎というのがいるが、その名前は十郎という父の子の三郎という意味であるから、信元が十郎ということになる。

 この水野氏が桶狭間合戦に際してとった可能性がある態度、立場を書けば、

(1)水野氏は織田方であることを貫いたが、相手が余りに自分の領土に近い場所に迫ってきたため、領内でおとなしくしていたか、合戦にも出たが働きが目立たず、歴史に残らなかった

(2)実は、水野氏は密かに織田方を裏切り、今川方についていたが、正史ではそう書かれずに今日にいたり、真相が分からなくなった。

(3)桶狭間合戦では、水野氏は両軍によしみを通じながら、どちらにもつかず、「洞ヶ峠」を決め込んだ

(4)関が原合戦のときの小早川秀秋のように、最初今川方について戦ったが、合戦の途中で織田方に戻った

(5)(4)とは逆に織田方であったが、途中から今川方になって戦った

上記のうち、(5)はありえない。もし途中から今川方になったら、桶狭間合戦後に岡部元信が刈谷城を攻めることが発生しえない。また、(2)は今川義元の書状が、裏切りの根拠となりえるが、実際に今川方について織田勢と戦ったのなら、織田にとっては大いなる背反であり、何か記録が残ると思われる。(4)も同じで、最初今川軍に水野がいたなら、人々の印象に残るだろうから、何か記録が出てきてもおかしくない。

残るは、(1)か(3)であるが、もし(1)で単純に織田方についていて動きが積極的でなくても、相手のある話で、もしそうなら今川勢が行きがけの駄賃とばかりに刈谷城を攻めたのではないかと思う。もっとも、桶狭間合戦の前に既に刈谷城が今川方の手に落ちていたら、話は別である。

残るは(3)であるが、本当は(3)でもない。今川勢が刈谷城を攻めなかったのは、やはり水野信元と今川勢の間で何らかの約束が出来ていたからであろう。それは義元の書状そのままに尾張境で前線にたつということかもしれない。しかし、その約束に関わらず、水野勢は動かなかった。つまり、今川方との約束を反故にして、水野勢は終始織田方のまま、積極的には戦おうとしていなかったと思う。つまり、「洞ヶ峠」を決め込んだのではなく、織田方のまま、今川に加担するフリをしたのである。あるいは、桶狭間の敗戦で敗走する今川勢に追い討ちをかけるようなことはしたかもしれない。そして、桶狭間合戦後は何事もなかったように、織田陣営にあったに違いない。

だから、合戦後に約束を違えた水野氏に対して、岡部元信が謀略をもって水野信近を討ち、刈谷城に放火する行為に出たのではないか。

<大高水野氏の菩提寺春江院>
【寄稿6】桶狭間合戦当時と事後の水野氏の動向  »»Web会員««  _e0144936_1042557.jpg これに関して、大高城を取り巻く砦のうち、鷲津、丸根という有名な砦以外に、大高城のすぐ近くの向山砦、あるいは氷上山砦(氷上姉子神社という熱田神宮の摂社がある)、正光寺砦という三つの砦があるが、千秋氏が守っていた氷上山砦以外の何れかを水野氏が守っていたが、勝手に撤退してしまい、それが元で氷上山ともう一つの砦も引かざるを得なくなった。それで、織田信長は大高城周辺の砦の守将と元守将に責任をとらせ、鷲津、丸根を見捨てるとともに、他の砦の守将であった千秋、佐々に敵軍の先鋒に突っ込むように仕向けたというように、まことしやかに書いている人がいる。

もともと大高水野氏の居城だった大高城であるから、土地に精通した水野氏が砦を守っていてもいいのだが、向山砦、氷上山砦、正光寺砦はそれほど大勢の軍勢をおける場所ではなく、桶狭間合戦時には兵をおいても、孤立するような位置関係にあった。特に氷上山は、「お氷上さん」と地元の人から言われる氷上姉子神社のある小山で、周囲は平地、大高城とも少し離れている。

<氷上山砦跡>
【寄稿6】桶狭間合戦当時と事後の水野氏の動向  »»Web会員««  _e0144936_105161.jpg 小生もその各砦跡と思しき場所を見て歩いたが、春江院の脇にあり、大高城とは尾根続きの向山砦は切岸と簡単な堀しか防御施設がなく、連絡用の砦の位置づけとみえ、実際の合戦ではすぐに兵が撤退する場所である。氷上山は小高い山であるが、大高城よりも海岸線の船の出入りを見張る物見がある程度の砦であった。よって、熱田湊から大高の船着場の監視所としての限定された役割しか果たしえず、砦を守備兵でいっぱいにするようなものではない。正光寺砦も、小高い山から大高城を見張ることができる(現在はマンションが邪魔で見通せない)が、ここは大高城の南東にあって、東側からの敵をけん制することができるように思えた。兵を置くとすれば正光寺砦なのだろうが、織田勢としてはそこに兵をさくよりも、今川本陣を狙う兵を多くしたかったのであろう。実際に桶狭間合戦でも、守備兵はいなかったと思われる。

<正光寺砦とおぼしき台地から大高城跡を望む>
【寄稿6】桶狭間合戦当時と事後の水野氏の動向  »»Web会員««  _e0144936_1054249.jpgよって、こうした砦に関しても、水野氏が出兵して云々ということもなさそうである。

一方、明らかに水野氏で桶狭間合戦に参戦した人物がいる。それは、丹下の砦を守った水野帯刀である。

水野帯刀は、常滑水野氏の喜三郎忠綱の子であったようで、戸部水野氏というべき家を分立していた。つまり、水野氏の主流からはずれた人物である。よほど、水野氏主流は、桶狭間合戦に名前を出したくなかったのか。

また、中島砦をまもった梶川一秀は平氏の出で、織田信長の家臣である。出身も尾張国丹羽郡楽田といわれ、今の大府市横根に城を構え、水野信元の成岩城攻略後に成岩城主となった梶川五左衛門秀盛など、水野氏重臣の梶川氏とは関係ないかもしれない。ちなみに、水野氏重臣の梶川氏は、大脇城の城主でもあったらしいが、大脇城は発掘によって実在が証明され、堀や溝で囲まれた居館や屋敷などが見つかっている。井戸からは常滑の壷と鉢が完全な形で出土しているほか、「天正四年」(1576年)及び「大御堂寺」が記された護摩札が出ており、戦国期の武士の生活を知る貴重な資料となっている。

 なお、真相を知る男、水野信元は後に天正3年12月(1576年1月)佐久間信盛の讒言により武田勝頼との内通を信長に疑われ、岡崎の大樹寺において殺害された。
                                                      《了》
<三河岡崎の大樹寺>
【寄稿6】桶狭間合戦当時と事後の水野氏の動向  »»Web会員««  _e0144936_1062140.jpg

# by mizuno_clan | 2008-05-08 10:16 | ★研究ノート

【寄稿5】水野氏における桶狭間参戦の背景1/2  »»Web会員««

水野氏における桶狭間参戦の背景
                                            著者:foxblade

 先の投稿 「水野氏と桶狭間合戦」では、今川の攻勢に窮した水野氏が表面的には屈服したように見せかけ、合戦当日に背後から襲いかかったのだと述べた。そして桶狭間合戦において、信長の重要な同盟者である水野氏の動向が明らかではないのは、水野氏のこの偽装工作を後世に残したくないという作為によってであると考えた。
 この論拠は、今川義元が水野十郎左衛門に送った書状と、義元の死後に今川氏真が岡部元信に出した感状の矛盾にある。桶狭間合戦前、義元は水野十郎左衛門、すなはち水野信近に尾張出征への協力を依頼した。一方、氏真は岡部元信が鳴海城から退去の帰路、元信が水野信近を討ち取ったことを賞している。この合戦前と後の水野信近に対する相反する今川方の対応は、信近が今川の味方と思わせておいて合戦当日に裏切ったと考える以外、他に説明のつけようがないのである。
 桶狭間合戦において、桶狭間を含む南方知多半島一帯に勢力を築く水野氏の裏切り行為があったとするならば、それが合戦の帰趨に重大な影響を与えたであろうことは間違えがない。この合戦は、四万五千という圧倒的優勢にあった今川軍がたった一日で大敗し、しかも総大将の今川義元が戦死するというまさに劇的な戦いである。その戦いの裏面に、この合戦ではほとんど語られることのない水野氏の裏切りがあったとなれば、それこそが今川敗北の真因かと思いたくなるが、『信長公記』に描かれる合戦の推移をみれば、信長率いる織田勢が義元本陣を急襲し、それによって義元が斃れ今川は敗北しているのである。水野氏の裏切りは、『信長公記』に沿うならば、どこまで信長の大勝利に貢献したのかは定かではない。
 桶狭間合戦の真相には、そう容易に近づくことはできないものであろうと思う。むしろここでは、今川軍が圧倒的な有利にある中で、なぜ水野氏は信長陣営に留まり、偽装裏切りという危険な賭けに出たのかを問うべきであろう。そうすることでこの合戦の周囲が明らかになって、そこから永禄三年五月十九日のあの戦いの真の姿が立ち現れるかもしれない。

 信長が今川方の鳴海城と大高城の周囲に砦を築き、包囲して義元に宣戦布告したのがいつのことであるかは定かでない。信長の父信秀が三河安祥で敗退して以来、今川の勢力は尾張にまで浸透し、その中で鳴海城と大高城も今川方となった。両城は軍事的に落とされたという様子はなく、優勢な今川方に鞍替えしたかのように『信長公記』には記載されている。
 信秀の死後、同族や身内の相次ぐ離反に会い、これを撃破して信長が今川と対峙できるようになったのは、永禄二年になってからのことである。したがって、鳴海城と大高城が織田方の砦に包囲されたのも、この頃であるとするのが妥当である。そして史実を追ってみると、この時期まで信長と今川勢が直接激突したのが明らかなのは、たった一度きりである。それはあの村木砦の戦いである。そしてこの戦いは、水野氏をめぐる、義元と信長の綱引きのような戦いではなかったろうか。水野氏は、今川領と織田領の間に存在する一大国人領主である。当然ながら両陣営が味方としたい。それまで水野氏は織田と同盟を結んでいたのであるが、義元は水野氏の本拠である小川城の目と鼻の先である村木に砦を構えることで、水野氏に圧力をかけた。義元の意図は、水野氏の自陣への引き込みにあった。これに対して信長は、間髪をいれず村木砦を攻略して見せた。この時見せた信長の電光石火の如き進退は、後の彼の戦振りの原型となるものであったと考えられる。攻防一日にして村木砦は落とされたが、後続の戦いがあった様子はない。このことからしても、義元は水野氏に全面戦争を仕掛けたのではなく、むしろ政略的意図で水野氏の誘降を探ったと見られる。しかし義元のこの老獪な政略は、信長の大胆な電撃作戦により頓挫させられたのである。
 村木砦の戦いは多分に政略を背後に持ったものであると考えられるが、そのことは今川と織田が全面的な戦争状態にあったものではなく、むしろ天文十九年か二十年頃に実施された休戦和睦が信長の時代にも継続されていたことを窺わせる。信秀の死後、多少の衝突はあったものの今川は三河経営、信長は尾張国内の戦いに専念していたのであって、両者が正面きって戦う時期ではなかったと考えられる。桶狭間合戦があったことから、義元と信長はずっと戦っていたと素朴に思われるかもしれないが、実際は和睦が継続していたとするのが妥当だろう。
 この両者の関係を断ち切って、宣戦布告をしたのは信長であった。『信長公記』にあるように、明確な信長の意図を持って鳴海城と大高城は包囲されたのである。 大田牛一は『信長公記』において、鳴海城と大高城を囲む砦の配置や守将を記載する文中冒頭に、次のように書いている。

—御国の内へ義元引請けられ候ひし間、大事と御胸中に籠り候ひしと、聞こえ申し候なり—

 鳴海城と大高城を包囲することで、信長は「御国の内へ義元引請けられ候ひし」と覚悟を決めていたのである。この今川方の両城を包囲すれば、義元が尾張に来襲するであろう事は間違いのないことで、信長の胸中にこれを受けて立つ覚悟があったことを示している。
 このように、和睦から決戦に織田と今川の関係を転換させたのは、劣勢であるはずの信長である。永禄二年に岩倉の織田伊勢守を滅ぼして、同族の敵対者を一掃した直後であるが、尾張一国を平定したとはとても言える情況にはない。尾張八郡の内、中島郡、愛知郡、海東郡、春日井郡を服属させていた程度で、その中心とも言える愛知郡の南東部に今川の勢力が入り込んでいた。また同郡の北東岩崎を中心とした一帯には今川寄りと見られる丹羽氏が蟠踞しており、表立っては敵対はしていないが帰属もしていない勢力がまだ多数あったと思われる。
 桶狭間合戦は、四万五千の今川軍とその十分の一程度の信長軍の戦いとして『信長公記』に描かれているが、現在は今川軍は多くても二万五千程度であるとするのが一般である。反対に信長軍は、岩倉城の陥落で尾張が平定されたかのように捉えて、一万以上の兵力があったとする場合も少なくない。寡兵の信長が、あのように鮮やかな勝利をどのようにして達成したのかがはっきりしないために、兵力差を縮めて説明しようとする傾向がそうさせているようである。
 特に今川軍四万五千が多すぎるとする見解は、「慶長三年検地目録」に記された石高から計算するが、この俗に言う太閤検地の実態をよく検討する必要がある。太閤検地は、一般に理解されているほどには同質ではなく、地域によって差があったと考えられる。また米の収穫量=国力というわけでもなく、そもそも整備された動員制度をこの時期どれほどの大名が確立していたと言えるだろうか。上杉謙信は、永禄四年に十万の兵力で小田原城を包囲したが、謙信がその領国において十万の動員力を有していたわけではない。
 桶狭間合戦時の織田と今川の兵力差が、実際どれほどであったかは定かではない。しかし、大田牛一は『信長公記』に、今川の兵数をくり返し四万五千と記録した。対する信長は二千ばかりであったとし、圧倒的な兵力差があったと語っている。そして作り事は一切書いていないと主張し、大軍の今川が惨敗したのは天道に反していたからだと言う。主人信長の勝利は、彼の武威や戦術の巧みさにあったとは主張していない牛一の言葉に、事実を曲げて寡兵が大軍を破ったとの詐術を見ることはできない。
 大田牛一は、永禄三年の合戦当時、義元が四万五千という驚くべき大軍を率いて尾張に来襲したこと、そして迎え撃った信長が二千程度の兵力でしかなかったと認識しており、それを『信長公記』に記載したにちがいない。また当時の読者がそれを読んで、そんなはずはないと猜疑の目を向けるなどとは全く考えてもいなかったし、事実そうしたこともなかったのだろう。
 桶狭間合戦における実際の兵力差はさておき、義元と信長の実力差に対する当時の人々の認識は、『信長公記』のそれと変らず、信長の劣勢は誰の目にも明らかであったのである。それにもかかわらず、尾張東南にあって今川の脅威に直に接している水野氏は、何ゆえに信長の陣営に踏み留まっていたのであろうか。

 信長が、父信秀の代から続く今川との休戦和睦を継続している限り、水野氏は双方に誼を通じて、知多半島における自領拡大に邁進することができた。「水野氏と桶狭間合戦」で触れた水野十郎左衛門信近の、多方面外交にその典型を見ることができる。しかし村木砦の戦い以降、水野氏の去就をめぐる信長と義元の綱引きは激しさを増したであろうし、西三河の松平氏を掌握した義元の圧力は高まる一方であったと思われる。
 水野氏がこの事態に対処するのに、自立した国人であるがために自身の去就を単独で何の制約もなく選択できたとするのであれば、駿河、遠江、三河を領国とする今川氏に従うのが当然のことであったろう。天文十八年(一五四九)の三河安祥城攻略以来、今川の威勢は尾張東部に及び、尾張の国人や土豪が今川傘下に次々に属するようになっていた。
 『豊明市史資料編補二』に、岩崎を本拠とする国人丹羽氏に宛てた義元の安堵状が収録されている。

—沓掛・高大根・部田村之事
右、去六月福谷在城以来、別令馳走之間、令還付之事畢、前々売地等之事、今度一変之上者、只今不及其沙汰、可令所務之、近藤右京亮相拘名職、自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之、横根・大脇之事、是又数年令知行之上者、領掌不可有相違、弥可抽奉公者也、仍如件—

 この安堵状は、天文十九年十二月と記されており、義元が安祥城を奪取した翌年に出されたものである。丹羽氏は天文七年(一五三八)に本郷から岩崎に本拠を移したとされ、現在の日進市から東郷町に及ぶ広範な地域を押さえていた国人領主である。家伝『丹羽軍功録』によれば、天文二十年(一五五一)丹羽氏清・氏職親子が信長と戦いこれを撃破したと伝えている。
 書状に登場する近藤右京亮とは、沓掛城主であったと伝えられる近藤景春のことである。桶狭間合戦前日、義元は沓掛城に宿泊しここから桶狭間へと向かった。文中では、天文十九年の時点で近藤景春を味方であると記している。そして横根、大脇の知行を安堵しているが、この地は水野氏の支配領域と重なっている。丹羽氏は、義元の勢威を背に岩崎から南下し、水野氏の領地に食い込むように勢力を拡大させていたのである。
 沓掛城の西でも国人や土豪が信長を見限り、次々と今川陣営に馳せ参じる様子が『信長公記』に記録されている。

—熱田より一里東、鳴海の城、山口左馬助入れ置かれ候。是れは武篇者、才覚の仁也。既に逆心を企て、駿河衆を引き入れ、ならび大高の城・沓掛の城、両城も、左馬助調略を以て乗つ取り、推し並べ三金輪に三ヶ所、何方へも間は一里づつなり—
 天文十八年(一五四九)に織田信秀が安祥城で破れ、天文二十一年(一五五二)に死去するに及んで、三河に隣接する東尾張一帯が今川方に走っていた。こうした情勢は桶狭間合戦時まで変ることがなく、『信長公記』にはさらに尾張海西郡の服部党が、船団を率いて義元に合流すべく大高城下に終結していたことを伝えている。海西郡の蟹江城は、弘治元年(一五五五)に今川方の松平親乗によって攻略されているので、服部党の船団には松平の兵も加わっていたことだろう。
 このように永禄三年(一五六〇)、義元が尾張に大軍を進めた時点の情勢を見れば、水野氏が今川陣営に組することが当然とも思えるが、合戦後の岡部元信の行動に明らかなように、水野氏は今川を謀り信長と共に今川の敵となったのである。武士世界の軍事的側面だけを捉えて考えるならば、水野氏の決断は理解しがたい。

 ここで、水野氏の国人領主としての領域統治について考えてみたい。
 水野氏の支配領域は、刈谷周辺の三河と小川を中心とした知多半島北部一帯である。一般に、天文十二年に死去したとされる水野忠政の代までに、小川、刈谷、常滑、大高を領するようになったと考えられている。そして忠政の後を継いだ信元は、尾張の実力者である織田信秀と同盟を結び、知多半島南部へ勢力を拡大した。
 刈谷市教育委員会が刊行した『刈谷水野氏の一研究』では、「知多半島における信元の動向は『知多郡史』『成岩町史』『野間町史』などにある程度触れられてあるが、史料上の問題で確証できる説とは言い難い」としながらも、次のように述べている。

—信元の同盟後ただちに半島平定を目指し、南下政策をとったようである。この頃の知多半島には水野氏の他、佐治氏や戸田氏が勢力をもっていたと言われる。(中略)佐治・戸田両氏と水野氏の関係を中心に、信元の半島進出の過程を『知多郡史』などから追ってみると、緒川から南へ乙川・半田・成岩というコースと、常滑から野間というコースに分けられる。つまり半島の北部は東海岸を、中部から南部にかけては西海岸を押さえていったことになる。このような形をとらざるを得なかったのは、右の図からもわかるように、当時大野を中心に内海から羽豆崎(師崎)にかけて勢力をもっていた佐治氏の存在が認められるからであり、また半島の南端羽豆崎(師崎)をはじめ富貴・河和には戸田氏が勢力をもっていたからである—

 水野氏の知多半島南部への進出は、信元の代になって急に始まったということではないようであるが、東と西の海岸沿いに領地を確保していったのである。水野氏の南下によって圧迫された佐治氏と戸田氏は、水野氏との婚姻関係を構築して知多半島に均衡がもたらされた。
 さて、ここで一つ考えねばならないことがある。それはこの水野氏の勢力拡張は、なぜ海岸沿いに進むことになったのだろうか、という点である。そしてその答えは明らかで、支配すべき拠点が海岸沿いにあったからである。そして拠点の多くが海岸沿いにあるのは、この地が半島だからである。
 知多半島は、西は伊勢湾、東は三河湾と衣ヶ浦が海岸線を形成し、東西幅が最も広いところが東浦と大野辺りで、十四キロほどである。その南五キロほどの半田・常滑から幅が五キロほどに狭まって、二〇キロほども南に伸びている。東西五キロという非常に細長い地形であり、河川というほどのものがないため農業にはいささか不向きである。今日は愛知用水がこの地を潤しているが、この用水が引かれる前は溜池と井戸水に頼るばかりで、旱魃の被害に見舞われることが度々であったという。こうしたことから、主要な産業が海運と漁業ということになり、半島の浦々に拠点ができるのである。
 信元以前に水野家の領有となっていた小川、刈谷、常滑、大高のいずれも海に面しており、隣接する港を有している。このことを見れば、知多半島で勢力を得るためには、その主要産業である海運と漁業を自らの経済基盤に組み入れる必要があったことがわかるのであり、その有力拠点を押さえたことが水野氏が台頭した所以であったと考えられる。

 水野氏の古くからの拠点である常滑は、室町時代になって窯業の中心地となっていった。製品としての大型の甕や壷は、海運によって東北、 関東、関西、中国、九州にまで運ばれていたという。水野氏は、伊勢湾、三河湾、衣ヶ浦の海運や漁業、そして常滑焼のような工業を担う商工・漁民を統治することで経済的な基盤を確立し、それを背景に勢力を拡大したのである。
 この水野氏と信秀・信長には共通点がある。信秀は祖父の代から勝端城を拠点とし、信秀の父信貞の時に尾張有数の港町津島を傘下に収めた。さらに信秀は、天文七年(一五三八)に今川氏豊から那古野城を奪い、その南方にある熱田を支配するようになった。そして津島と熱田という富貴の港湾都市を手に入れた信秀は、その経済力を背景に尾張一の実力者にのし上がったのである。
 信秀と信元の同盟は、当時の武士社会の軍事面だけで考察するのではなく、共に海運に基づく商工業を基盤としているという点にもっと注目すべきである。そして海運・交易であるがために、双方が相手を必要としている。
 当時伊勢湾と三河湾は、海運によって結び付けられた一つの経済圏としての側面があったことが指摘され始めている。この種の研究はまだまだ数が少ないようであるが、綿貫友子氏が『尾張・参河と中世海運』の中で語っていることを引用しておこう。

—十六世紀中期までに尾張においては、大野、常滑、野間、亀崎、岩成、緒川、刈谷、津島、大高、曙、篠島、参河においては、大浜、鷲塚、佐久島、今橋(吉田)、牟呂津などの港の存在が確認できる。そしてそれらの港は、桑名、楠、大津、長太などの伊勢沿岸の港と連絡されていた。
 幕藩体制の整備とともに、幕府や諸藩の貢租米の輸送を契機とする近世伊勢湾海運が発展し、さまざまな舟稼ぎが展開される以前、中世末までにそれらの輸送を可能にするだけの基盤は整えられていたことは確かである—
                                                 《つづく》

# by mizuno_clan | 2008-05-04 15:37 | ★研究論文

【寄稿5】水野氏における桶狭間参戦の背景2/2  »»Web会員««

水野氏における桶狭間参戦の背景
                                               著者:foxblade

 戦国期に伊勢湾や三河湾において、既に多数の港町が形作られ、それらを結ぶ航路を多数の船舶が行き来していたのである。そしてその海運の利点は、なんと言ってもその輸送コストの安さである。ものと人間の文化史シリーズの『船』に、海上輸送の能率と題して次のような記述がある。

—海上輸送というものは、その能率と経済性の点で陸上輸送とは段違いにすぐれていた。たとえば、一〇〇〇石の米を大坂から江戸へ運ぶ場合を考えてみよう。馬一頭に四斗俵二俵を積み、馬子一人が手綱をとるとすれば、一〇〇〇石では馬一二五〇頭・馬子一二五〇人を必要とし、順調にいって十五日はかかる。しかも実際には宿場での乗継をせねばならず、その手間や人馬の食料などは莫大なものとなる。ところが、一〇〇〇石積の船を使えば、わずか一艘、船頭以下の乗組は十五、六人ですみ、日程は天候に支配されるとしても、ふつう一〇日程度で走破できるのであるから、陸上輸送とは比較にならない高い能率と経済性をもっていたことがわかる—
 戦国の当時、既に一〇〇〇石を超える大船も建造され、交易船として回航していた。海路は天候に左右されやすいが、船の規模を大きくするだけで輸送力が格段に向上する。そして船の規模に乗組員の数は比例することなく、規模が大きいほど石積当りの乗組員が少なくて済むのである。伊勢湾内のような近海交易では、一〇石から二五石程度の小型船が使われていたようであるが、木曽川や天王川などで内陸の町とも連結された一大流通ネットワークが存在していたと考えられる。そしてその間を、短時間で大量の物資が行きかっていたのである。弘治二年(一五五六)に、山科言継が水野氏の常滑から伊勢湾を横断して長太(鈴鹿市)に向かったが、この時は七里を四時間で渡っている。陸路であれば二日はかかるであろう。
 海運は優れた交易手段であったために、信長と水野氏の経済基盤である港湾都市は、この高いコストパフォーマンスの海運を最大限利用して繁栄していた。熱田・津島と常滑・大高・小川は、互いに重要な交易相手であり、より遠隔交易への中継点としても相互に欠かせない存在であったに違いない。そして信長と水野氏の結びつきは、武士階級同士の軍事的な必要からである以上に、武士としての存立を支える経済基盤の分かちがたい関係から成り立っていたのである。そうであるが故に、軍事的な観点から見れば圧倒的に不利にあった信長を見捨てて、水野氏は今川方に走ることができなかったと考えることができる。

 信長と知多半島の経済関係を思わせる史料を、次に紹介したいと思う。

—智多郡并に篠嶋の諸商人の当所守山往反の事は、国質・郷質・所質に前々或は喧嘩、或は如何様の宿意の儀ありと雖も違乱あるべからず候、然らば敵味方を致すべからざるもの也、仍って状件の如し—

 天文二十一年(一五五二)に、信長が家臣の大森平右衛門に宛てた判物写である。この判物について、『織田信長文書の研究』では次のように解説されている。

—「智多郡」と篠嶋(知多湾上の島。面積七平方粁。漁業の島)の商人が守山(名古屋市守山区)に往来するについての自由を保証した判物である。国質・郷質・所質についてはまだ明確な解釈がついていないけれども、貸借関係で債権者が債務の弁済をもとめることができない場合には質物を取り上げるとの契約のことのようである。それらの違乱を禁じ、もちろん敵味方の戦いとしてはならないとした—

 天文二十一年といえば、信長の父信秀が死去した年である。家督を継いだ信長は、早くも水野氏の経済基盤である知多郡と篠嶋の商人たちに、守山への往来の自由を保証する行為を示した。そして守山は叔父の信光が領有地であり、周辺経済の中心地であった。おそらく信長は、自己の意思が貫徹するとは限らない守山の地であるからこそ、敢えてこのような往来自由保証を宣告したのではないだろうか。家督を継承したばかりで、信長の意に必ずしも従わない同族や家臣があることを承知で、弾正忠家の新当主としての施政を明確に打ち出したのである。
 自身の経済基盤に熱田と津島を抱える信長は、伊勢湾と三河湾、そして衣ヶ浦を含む海上交易圏の守護者たらんとした。『新修名古屋市史』では、「古くからの織田弾正忠家の勢力基盤である、津島を中心とした尾張西部地域についてみると、織田信長の家督継承は、抵抗なく受け入れられていったと思われる」と述べている。これは熱田も同じことで、家督継承後の相次ぐ同族や家臣との抗争が発生する中で、津島と熱田が変らぬ支持基盤であり続けたのは、信長の施政の基本に交易圏の擁護が貫き通っていたからと考えるのが妥当であろう。
 信長と水野氏は、その経済基盤である港湾都市が共に伊勢湾・三河湾交易圏に属していることから、歩調を合わせて協調する関係にあったのだと思われる。そして信長や水野氏という領主階級が、領内の港湾都市を一方的に支配していたというようりも、領主が都市の安全と自由を保証し発展を後押しする役割を果たす見返りに、都市は物資の調達や金銭提供をおこなっていたのではないだろうか。
 信長が敵対する同族や家臣を打ち破り織田家を掌握し、水野氏が佐治氏や戸部氏を屈服させ知多半島に覇権を得たのも、他を圧する経済力の裏づけがあってのことで、その経済力の源泉は領内の港湾都市から得ていたものと思われる。そうであれば、津島や熱田、そして小川や常滑、大高などは、彼ら進取の武士政権における生命線であったのである。
 村木砦の戦いに臨んだ信長が、本拠の那古野城を斉藤道三の一千の兵に預けて激浪の伊勢湾を渡ったのは、水野氏が今川に屈服しそうになったことで、伊勢湾・三河湾交易圏が危機に瀕したからである。また、永禄三年に圧倒的に優勢な今川軍が尾張に進攻した際に、味方と謀って矛先をかわし、桶狭間に至った義元を背後から攻めた水野氏も、信長の敗北が交易圏の崩壊をもたらすと考えたからに違いない。自身の経済基盤を支える交易圏の崩壊を食い止めようと、信長も水野氏も決死の行動に出たのである。

 今川氏の本拠である駿府は、居住人口が一万人を超えていたと言われ、戦国期における有数の大都市である。小和田哲夫氏は『今川義元』の中で、駿府を「今川氏親・義元は、『東の京』をめざして町造りを進めた」とし、商業の中心地であった本町とか今宿が「碁盤状市街となっていたのは、京都の町割りを模したもの」としている。町中には安倍川が流れ、東海道が通る陸上交通の要衝でもあった。また、この駿府の外港として清水港があり、『静岡県史』においては、「遠駿沿岸においても、陸上交通を補完する形で大小の船が往来し、人や物資の運搬が活発に行われていたことが窺える」としている。
 義元が居住する駿府は一大商業都市であり、「東の京」をめざした町造りをして、今川領国における経済の中心地として栄えていた。それならば、水野氏は信長支配下の熱田や津島との交易に拘らずに、三河までも手中にした今川の経済圏との関係を強化し、こちらに乗り換えてもよかったのではないだろうか。そうすれば、強国今川を敵に回す危険を冒さずに済むのである。
 「水野氏と桶狭間合戦」で考察したところでは、水野氏は偽装工作までして信長陣営に留まっている。そうまでして今川を拒絶したのは、、水野氏の経済基盤が伊勢湾・三河湾交易圏に組み込まれていたからだと考えるのであるが、今川もまた商業振興に力を入れており、軍事陣営と経済圏を同時に転換することも選択肢としてあり得たのではないだろうか。しかし水野氏はそれをせずに、信長と共に敗色濃厚な桶狭間合戦に臨んだのである。これはなぜであろうか。

 『今川義元のすべて』に収録されている『商業政策と駿府の豪商』の中で、長谷川弘道氏は次のように述べている。

—今川氏の商業政策は、「追加」第八条に見られるように、飽くまでも在来の座商人の旧権(特定商品販売の商売役の徴収権)を認めていくことが基本的な方針としてあり、台頭する新興商人等の役銭徴収権の要請を認めることはなかった。(中略)つまり、今川氏の商業政策は信長のように座を撤廃したり、新興商人を優遇するものではなかったのである。
 また、商人たちの領国外への荷物の移出についても統制し、重要物資の国外流出を防止した。さらに他国の商人の活動も制限し「かな目録」第二二条にみられるごとく、家臣との個人的な関係を結ぶことを禁止し、また、駿府を訪れた場合には今宿において監督下においた。これにより国内の商人を保護し、一方で、国内の情報が他国に流出することを防止した。つまり、今川氏は友野氏に対して旧権を安堵し、これを支配下に組み込み、商人頭に任じて商人の統制を行った。今川氏はこれらにより、商業を一元的に把握し、その利益の分散を防止し、間接的に収奪を達成したのである。—

 今川氏が友野氏や松木氏など駿府の豪商を優遇し、商人頭に任じて領国内の商業を統制下に置こうとしたことは良く知られている。今川氏の商業政策では、一部の特権商人が力を拡大する一方で、その統制下に入る商人たちには強い制約が課されることになる。自由闊達な商業活動が制限され、他国商人に対する排他性も伺えるようである。このことは水野氏の領内で商業活動を営む商人たちにとって、今川領国の経済圏に組み込まれたくない強い動機になるであろう。そして自領の商人たちの活力が失われることは、水野氏にとって経済基盤が弱体化することに繋がるのである。

 一方の信長はどうであろうか。ここで信長の第一号文書として知られる「尾張熱田八ケ村宛制札」を、『織田信長文書の研究』(奥野高廣著・吉川弘文館)から見てみよう。

一、当社御造営のために、宮中(神社の境内)に人別を収めらるべし、国次の棟別並に他所・他国の諸勧進は停止せしむるの事、
一、悪党現形に於ては、届けに及ばず成敗すべきの事、
一、宮中は先例にまかせて他国・当国の敵味方并に奉公人、足弱、同じく預ケ物等、改むべからざるの事、付り、宮中へ出入の者え路次に於て非儀を申かくるの事、
一、宮中え使事は三日以前 并にその村へ相届け、糾明をとげ、その上難渋につきては、譴責使を入るべき事、
一、俵物留の事、前々の判形の旨に任せて、宮中え相違なく往反すべき事、
右の条々違犯の輩に於ては、速に厳科に処すべきもの也、仍って執達件の如し、

 この文書は、天文十八年(一五四九)、信長十六歳の時に熱田八ケ村に宛てた制札の記載文である。確認されている信長の文書で最も古いものであるが、先の大戦時に焼失してしまって現存していない。
 この制札では「宮中」保護のための諸命令を掲げているが、この「宮中」を『織田信長文書の研究』では「神社の境内」と文字通りに解釈している。これに対して『新修名古屋市史』では、「熱田社も含めて、熱田周辺を指すときは、『宮中』と呼ばれていたらしい」と、より広義な意味で捉えている。このように、保護の対象が熱田社そのものであったのか、それとも熱田社を含む熱田の町全体であったのか、二通りの解釈が可能であるがどちらが妥当であろうか。また、父信秀が健在であるにもかかわらず、十六歳の信長が熱田社保護のためにこのような文書を発するというのも、何か腑に落ちない気がする。。いったいこの制札は何を目的として、織田弾正忠家嫡男の名によって出されたものなのだろうか。
 『新修名古屋市史』は、この点に触れて次のように指摘している。

—熱田八カ村に対して、熱田社造営のため課役を免除したり、人や物資の自由を保証した制札である。信長の初見文書として有名であるが、残念ながら原本の高札は太平洋戦争で焼失し、写真や写しでしか現在見ることはできない。この時期に尾張国内統治に関する信長の文書が初めて出現するのは、岡田正人・鳥居和之らが指摘するように、同月の三河安祥城失陥による信秀の威信低下に代わって、後継者信長を新たに登場させることで、織田弾正忠家の体制を補強しようとした政治目的があったためと推定される—

 この制札が出された天文十八年は、信秀が確保していた三河の安祥城が、太原雪斎率いる今川軍によって陥落させられた年であった。以降、信秀は三河より後退し、先に述べたように尾張東部にも今川の勢力が扶植されるようになっていく。そして信秀の死去は、この三年後である。こうした情況を踏まえて、信秀の安祥敗戦により低下した弾正忠家の威信を、嫡男を前面に出すことで回復させようとしたとするならば、この制札による保護の対象は、単に熱田社だけとするよりは、弾正忠家の経済を支える熱田町全体として考えた方がよさそうである。
 信長=織田弾正忠家は、熱田町に「自由」を保証した。「悪党現形」を届けずに「成敗」してよいとは、処罰権の承認とともに何が「悪」であるかも町方の規定に委ねるということだろう。また、「他国・当国の敵味方并に奉公人、足弱、同じく預ケ物等、改むべからざる」として、熱田町に治外法権を認めている。そこには、他国者、そして敵であってさえも、信長は介入しないと言っているのである。
 熱田が商業都市であることを想えば、他国の商人との交易、さらに尾張国内の敵対勢力下にある商人との売り買いを前提としているのであろう。経済活動に政治は介入しないという宣言が、この制札を掲げた者の意図であったことと思われる。それが、信秀に代わって表舞台に現れた信長によってなされたことに注目すべきだろう。弾正忠家凋落の刷新が、熱田の経済自由宣言であり、それを保証するのが信長なのである。このことは、単に威信の落ちた信秀でない人物というよりは、信秀以上に経済的自由に理解があり積極的であったのが信長である、という捉え方が妥当であると思われる。
 信長は弾正忠家の新政策を、より踏み込んだ経済活動の自由保障として打ち出した。その天文十八年は、三河における今川の領国化が始まった年である。つまり友野氏等、駿府の豪商による商業統制がいよいよ三河にも及ぼうとするその時に、尾張の新生織田弾正忠家では、熱田を経済自由都市として認定したのである。そしてこうした政策は、熱田だけに限られたことではなく、津島や守山などにも同様に適用されたものではないかと思われる。さらにそのことは、それら弾正忠家の有力商業都市と交易で結ばれる他領の都市へも波及効果を持ったことであろう。水野氏領地下の常滑や大高、小川や刈谷の商人たちは、今川の商業統制と信長の商業自由政策という対照的な事態が進展する様を目撃していたのである。

 桶狭間合戦で、水野氏が信長陣営に留まった理由を追ってきた。軍事的な力関係では今川が信長を圧倒しており、この点ではいかように考えても水野氏が信長の元を離れなかった理由は見出せない。その一方で、水野氏存立の基盤が知多半島沿岸の交易都市にあると考えると、津島・熱田の尾張における二大海運都市を領内に有する、信長との分かち難い関係が浮かび上がってくる。そして信長の記録として残る第一声が、熱田の自由商業都市宣言であり、対する今川義元の政策は、駿府豪商を介した商業統制にあった。
 水野氏は、今川の軍事的脅威は嫌と言うほど感じながら、自身を経済的・軍事的に支える領内の沿岸交易都市に根を張る商人勢力の選択を、受け入れざるを得なかったのである。そして駿府の商業統制ではなく、信長の自由交易を支持し、これに馳せ参じることを決断した下からの動きに乗せられたまま、信元や信近たち水野氏は桶狭間合戦に臨むことになったのである。
                                                      《了》

# by mizuno_clan | 2008-05-04 15:36 | ★研究論文