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【寄稿4】「水野次右衛門勝正」 »»Web会員««

水野次右衛門勝正

                                             著者:水野青鷺

 柴田勝家の義臣として有名な者の中に、水野次右衛門勝正がおり、さらには勝正と祖先は同じくするが、別系統で水野近仁の孫にあたる、姓を毛受(めんじょう)と改めた勝助家照(しょうすけ・いえてる)がいる。今日ではこの家照が、天正十二年(1583)四月二十一日の賤ヶ岳の戦いで華々しく散ったことから勇名となってはいるが、それに先立つ元亀二年(1571)の長島の合戦(第一次長島攻め)における、毛受家照の金の御幣奪還説については疑義があり、管見によれば書誌の記述から、毛受家照ではなく水野次右衛門勝正ではなかったかと推察される。このことから、この「金の御幣奪還説」について考察してみることにする。


◎水野次右衛門勝正および毛受勝助家照に関する参考資料
1-1.『尾張志』「水野次右衛門」の項には――
 「信長記の長島合戦の條に何とかしたりけん勝家の馬驗の五幣を一掻の奴原奪取時を噇とそ作りけるあはやと見る處に勝家が小姓水野次右衛門尉といひしものいまだ十六歳にて有りけるが面もふらす敵の中へつと懸入五幣を取返して勝家にこそ捧けけれ其恩賞に過分の領地を遣はし猶あきたらすやありけん耀衣(ホロ)をも預け申たり斯る希代のふるまひして後代までも名を残しける手柄の程こそ勇勇しけれ」――
つまり、「『信長記』の長島合戦の条に、勝家の馬印の五幣を敵奴ら(一向衆)が奪い取り、あわやというとき、勝家の小姓水野次右衛門尉という未だ十六歳の者ではあるが、脇目も振らず(よそ見もしないで)敵の中へと掛け入り、五幣を取り返して勝家に捧げた。勝家は次右衛門尉に恩賞として過分の領地を与え、まだ足らないと母衣(旗指物の一種)を預けるという名目により、これを授けた。このような世にも稀な振る舞いにより後世まで名を残す手柄をたて、たいそう立派である。」というような意のことを記している。

1-2.『尾張志』の「毛受勝助家照」の項には――
 「太閤記に毛受勝助ハ尾張春日井郡稲葉村(愛知県尾張旭市)の人なり柴田修理亮勝家に十二歳の頃より事へ後は小姓頭に任し一万石の地を領し素姓信篤く古風を事とし母に孝あり勝家敗北の折節(その時)舎兄茂左衛門尉もろとも忠死を心よくし其名尤(もっとも、いかにも)かうがし(神々しい)云々と見えたり」――
とあり、馬印の件については一言も触れていない。

2.『瀬戸市史』通史編 上 第一章尾張藩の支配と瀬戸市域 第二節林方支配
(一)水野氏 23 文化九年正月書上 水野家系譜下書 (表題)「系譜 水野久四郎」
致正の三男勝正の項には――
「 勝正
  柴田修理亮勝家に仕
 一 元亀二(1571)未年長嶋合戦之節に勇名を著し、其後水野ニ引籠リ有之
 一 病死年月等相知不申   」――
とあり、長嶋合戦では勇名を馳せたが、勝正はその後水野村に引き籠もったと記されている。 

3.『尾張群書系図部集(下)』水野氏 尾張春日井郡下水野村(瀬戸市水野)
  入尾城主、平姓水野氏
致正の次男として
「 勝正 次右衛門
・ 致正には久次郎
    春日井郡水野村に住す。織田信長に仕う。慶長元年(1596)七月二十日卒。」

4.「水野氏系譜」(平氏系にて水野権平家に伝わるものなり)
致正の三男勝正の細目には――
「 勝正 治右衛門
  柴田修理亮勝家ニ仕
   一 元亀二(1571)未早長島合戦之節勇名有之) 」

5.『東春日井群誌』東春日井群役所/編 名著出版/発行
  緒言
   本書は郡制廃止の記念事業として、大正十一年(1922)三月九日郡會の決議を経て、 同年五月編纂事業に着手し、大正十二年(1923)一月を以て完成の期とせり、[後略]
  毛受輝家
「家照元の名は照景、字は荘介稲葉村の人、新居城主水野又太郎良春四世の孫照昌の子なり、照昌始め稲葉村を開拓し之れに居り、姓を毛受と改む、家照素姓篤信にして古風を好み、又母に事へて至孝(この上ない孝行)なり、十二歳の頃より、柴田勝家に仕へ、後小姓頭に任ぜられ一萬石を食む、長島の戦に家照年十七、勝家に従ひ軍にあり、寇兵進撃勝家の騎標を奪ふ、勝家之を見て奮激し將に突入して之れに死せんとす、家照之れを諫止し、自ら寇中に混入して、騎標を奪い之れを勝家に送り、再び進撃敵中に入る、勝家精兵を遣はし之れを救ふ、事平ぎ偏諱(御一字)を與へ字を勝介となし、以て幕中の爪牙(主君を守る家来)と為せり、[後略]」

6.「稿本毛受勝助」水野瀬市/著/出版  発行1970.08 非売品
6-1.第一部 勝助・勝介・庄助・庄介「勝助の名前については、はつきりとした見解が示されたものは、なに一つ見あたらない。実に雑多な記法がなされ、数えあげたらきりがない。代表的なものだけでも、『勝助・勝介・庄助・庄介』などがある」と書かれている。
6-2.第一部 長島合戦の勲功で「勝」と「家」の二字を賜る
「[前略]勝助という名前は、勲功の恩賞である。名前が歴史を物語り、勝助の生涯を語っているからである。」
6-3.第一部 長島合戦の勲功で「勝」と「家」の二字を賜る
「真書太閤記」は、その時の恩賞として、「勝」と「家」の二字を与え、勝助の勇気を褒め称え……。挿絵(毛受勝助長島の合戦で金幣を取り返す)
6-4.第一部 長島合戦の勲功で「勝」と「家」の二字を賜る
「絵本太閤記」の挿絵に「毛受勝介馬印……」とある。
6-5.第一部 長島合戦の勲功で「勝」と「家」の二字を賜る
「 [中略]「『毛受』の姓も、『勝助』の名も『家照』の諱も、この長島の戦いを契機として一度に改めたものではないか。この仮説を抱き、長島の戦いに残る古記録に、金弊奪還を働いた小姓の名が、次のように挙げられていることからして(「…」以下は引用文から抜粋)
  甫庵信長記  水野治郎右衛門尉……勝家カ小姓水野治郎右衛門尉ト云シ者
  蒲生文武記  水野治郎右衛門……爰ニ勝家小姓水野治郎右衛門トテ
  當代記 水野治郎右衛門……柴田小姓水野治郎右衛門取返
  続武將感状記 水野治郎右衛門勝正……水野勝正、金の馬印
  尾張志 水野治郎右衛門尉……勝家が小姓水野治郎右衛門尉
  尾参宝艦   水野治郎右衛門……小姓水野治郎右衛門一騎適中に
『毛受勝助家照』の名を勝家から恩賞として賜った―とすれば元の名は何か? それは水野治郎右衛門(または水野治郎右衛門尉)であったのではないだろうか。[後略] 」


◎水野次右衛門勝正および毛受勝助家照の考察
7.「5」の『東春日井群誌』(1923)には、「家照元の名は照景」と記載されており、また「6-3」の『真書太閤記』(1849)には「毛受勝助長島の合戦」、「6-4」の『絵本太閤記』武内確斎(1799)では、「毛受勝介馬印……」とあるものの、「6-5」の「稿本毛受勝助」では、甫庵信長記(1626)を始めとする他の五書に「水野治郎右衛門」「水野治郎右衛門尉」「水野治郎右衛門勝正」と記され、「家照」の諱は書かれていない。著者の水野瀬市氏説では、長島合戦の勲功で「勝」と「家」の二字を賜ると書かれているが、「2.3.4」および「続武將感状記」には「水野治郎右衛門勝正」と明記されており、諱は「勝正」である。勝家の偏諱(御一字)の「家」を賜り照景から「家照」に改めたとしたとするのは納得できるが、治郎右衛門勝正の元々の諱に「勝」の一字があるにも関わらず、なぜ敢えて勝家の「勝」の偏諱を恩賞として授与されなければならなかったのであろうか。元々偏諱は文字通り主君の名の一文字を賜るものであり、二字共に賜るというのは如何にも不自然であると考えられる。
 これらのことから、近世に書かれた『絵本太閤記』武内確斎(1799)の頃に、長島の合戦の功労者が、無名な水野治郎右衛門から賤ヶ岳の戦いで高名を成した毛受勝助と混同されたか、又は故意にすり替えられ、さらには『真書太閤記』(1849)、『東春日井群誌』(1923)もまたそれに倣った可能性が高いのではないかと推察される。
「1-1」で、元亀二年(1571)の長島の合戦(第一次長島攻め)の時、「水野治郎右衛門勝正」は十六歳であったと記されていることから、弘治二年(1556)生まれということになる。「2」の『瀬戸市史』から、その後は何故か水野[村]に引き籠もったとあり、柴田勝家には仕えず、帰農したものとみられる。もし仮に賤ヶ岳の戦いに参戦していたとすると二十七歳の時であった。
 一方、毛受勝助は、「1-2」の『尾張志』に、「柴田修理亮勝家に十二歳の頃より仕えて、後は小姓頭に任し一万石の地を領し、……」とあり、順調に出世したことが窺える。しかしながら前述の通り、「勝家の馬印」の件については一言も触れてはいない。
長島の合戦で、柴田勝家の馬印である金の御幣が敵に奪われたのを、見事に取り戻し、その十二年後の天正十二年(1583)四月二十一日、賤ヶ岳の戦いで柴田軍が瓦解したことから、勝家は討死を覚悟し留まろうとした。しかしながら近習の毛受勝助は、主君に面目を保つことを諫め、即刻北ノ庄城へ落ちさせ、自らは勝家の馬印“金弊”を申し請けて、身代わりとなって山峡に盾籠もり、敵秀吉の大軍を欺き、二時間余りもそこに引きつけ死闘したが、ついに力尽きて金幣のもとに討ち死にした。このことから、同じ金弊の馬印にに絡み、「水野治郎右衛門勝正」と「毛受勝助」が同一視されたのではなかろうかと推測される。
 この“金弊”は、現在も柴田勝家の菩提寺である西光寺(福井県福井市左内町8-21)に所蔵されている。
元亀二年(1571)の長島の合戦(第一次長島攻め)から、四百三十余年後の今日において、改めて「水野治郎右衛門勝正」の功績を顕彰することとした。
                                                       《了》


★本稿は2008/02/12 ∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」に掲載したものを転載しました。また、掲載直後、毛受勝助氏のご子孫に本稿をご高覧いただきました。

# by mizuno_clan | 2008-05-01 05:08 | ★研究ノート

【推薦図書4 】 『下天を謀る』

水野氏の新聞連載小説 

今般本会員のお二人からご連絡を頂き、平成二十年(2008)一月四日から「中日新聞夕刊」「西日本新聞夕刊」「北海道新聞夕刊」に、安部龍太郎著『下天を謀る』と題する「水野氏」も登場する新聞連載小説が掲載中である事がわかりました。先日「織豊期研究会」例会で安部龍太郎先生と極短時間お話しする事が出来、本会の存在もお知らせする事ができましたが、残念ながら先生は大変ご多忙でいらっしゃるので、この小説についての仔細には話が到りませんでした。


安部龍太郎著 『下天を謀る』 (げてんをはかる)
 この小説の主人公は藤堂与右衛門高虎ではありますが、小牧長久手の戦い当時の水野忠重および嫡子勝成と水野信元の末娘照葉が登場します。この「照葉」(仮名?)については現在のところ史料は散見されませんが、どなたかご存じの方がおられましたらお知らせ下さるようお願いいたします。
<2010.3.18> ヒロインの水野照葉(水野信元の遺児)は、著者が造形した架空の人物であることが判明しました。


(あらすじ)2009.05.12更新
 浅井長政の家臣の家に生まれた藤堂高虎は、五人目の主である羽柴秀吉の弟・秀長の侍大将として仕えている。身長六尺を超える巨漢、高虎の武勇は広く知れわたっていた。
天正十二(1584)年、天下を狙う秀吉は小牧城に入った家康を包囲。二十九才の高虎は秀吉のもとに駆けつけ、家康の本拠地・三河を襲う策を聞いた。同年四月、長久手で秀次軍は徳川家康軍に惨敗。救援に駆けつけた羽柴秀吉軍は水野勝成隊の待ち伏せに遭うが、藤堂高虎らの活躍で退けた。六月、秀吉は竹鼻城を攻略。その間に家康は佐々成政、長宗我部元親、惣国一揆の面々、さらに朝廷にも調略を行い、秀吉包囲網を築いた。八月、ついに秀吉は犬山城に入り、小牧山城の家康と対峙する。この羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍による小牧、長久手の戦いは十一月に秀吉が信雄に単独講和を申し入れ終戦した。
 翌天正十三(1585)年三月、秀吉は紀州征伐を開始。根来を攻め落とし、信雄軍とともに雑賀の太田城を水攻めにする。その陣中で起きた水野勝成と池田輝政の私闘を、秀吉の侍大将・藤堂高虎は止めようとする。四月、太田城は降伏し、羽柴秀吉の紀州征伐は成った。陣払いの最中富永一門に襲われた水野勝成の盾になって照葉が撃たれた。藤堂高虎は照葉の身を預かり、介抱するうちに惹かれていく。六月、秀吉は四国攻めを開始。高虎は侍大将の身で抜け駆けをして胸に弾を受け、主の秀吉に叱責される。八月、高虎は秀吉のもとで四国の長宗我部元親との和睦を成功させた。
 天正十四(1586)年、関白になった秀吉は家康に母の大政所人質に出して、十月に上洛させ、高虎が改修した聚楽第の西の丸を与えて臣従させる。十一月、従兄弟の家康に勧められた縁談を断って刈谷に帰る照葉に、高虎は再会を誓った。同年、秀吉は惣無事令に反した島津義久に対し進軍を開始した。
 天正十五(1587)年、敗走する島津勢に対し、高虎は秀長の指示で追撃をしなかった。五月、これに恩義を感じた義久は降伏した。六月、九州征伐を終えた秀吉は突如バテレン追放を発令。しかし外国との貿易を継続するために秀長をイエズス会との交渉役にあてる。その使者として高虎は長崎に向かい、イエズス会から交渉を円滑にすすめる確約を得た。博多に渡る前日、加藤清正から照葉との縁談を打ち明けられ、高虎は照葉との恋仲になった事を伏せて祝った。
 天正十九(1591)
年、秀長は千利休とともに秀吉の朝鮮出兵を止めようとするが、叶わないままに病没。千里利休は切腹させられた。
 文禄四(1595)年、秀吉は関白を継がせた秀次を廃し、秀頼を後継者にしようとする。高虎はおびえる秀次に秀吉との対話を勧め、和解させた。政権内の権力争いの中で、主の秀保を暗殺された高虎は、初七日の後に出家。秀次は聚楽第の金を遣い込んだと罪に問われる。秀次の無実を訴える高虎のもとを、家康の書状をたずさえた照葉が訪れた。
同年、藤堂高虎は、徳川家康の考えに共感し、高野山を下りて板島城(伊予国宇和島城)主になる。三年後の慶長三年(1598)に秀吉が没し、後の覇権争いの中で、翌慶長四年(1599)一月に石田三成が家康襲撃を企てるが、高虎は事前に察知して家康を逃がした。三月に家康は前田利家を見舞うと三成が現れて挑発。高虎はいきりたつ武断派を抑え、家康の退路を確保して三成ら文治派の手出しを封じた。
 慶長四年(1599)閏三月、前田利家が没し、最大の後ろ楯を失った石田三成は、加藤清正ら武断派により襲撃され逃亡を図った。これを知った藤堂高虎は、文治派である宇喜多秀家の出兵を止めて両派の衝突を避けた。この騒動は徳川家康の仲介により、三成が奉行を辞して事は収まった。翌四月、清正の計らいで高虎は思いを寄せる照葉と大文字山中で一夜をともにする。
 慶長五年(1600)、高虎は、徳川家康の要請に応じて、上杉景勝を攻める会津征伐軍に加わるべく遠征を開始した。すると大阪では石田三成が挙兵し、諸大名の屋敷を包囲して妻子を人質にとった。これに対し加藤清正は、正室の清子を脱出させるために、家臣の梶尾助兵衛を派遣した。助兵衛は医者に通うと見せかけ、清子を侍女の照葉らとともに屋敷から救い出した。
同年八月、高虎ら東軍は、家康の命により岐阜城を攻略。石田三成は退き、西軍は関ヶ原に兵力を集中せざるを得なくなった。翌九月、密かに江戸を発った家康が本陣に入り、小早川秀秋と吉川広家から西軍を裏切る誓書を得た。両軍が布陣した関ヶ原で、高虎配下の多賀新七郎良勝が一番首を挙げる。
これら高虎の工作により、誓約通り秀秋が寝返り、徳川家康軍が勝利した。槍傷をうけた藤堂良政は勝勢を見届けるように没した。
 慶長十三年(1608)、高虎は伊予今治二十万石から伊賀伊勢二十二万石に転封。築城家として豊臣家包囲網の形勢に尽力し、三年後の同十六年(1611)には、領国の津城、伊賀上野城の改修に取り掛かる。
 慶長十六年(1611)三月、高虎は加藤清正に仲介を頼んで、徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見を実現させた。会見は無事に終わり、六月に帰国の途についた清正は中風で倒れ、存命のうちに跡目相続を成すため、侍女の照葉を通じて高虎に幕府への取次を頼んだ。同年清正は没したが、高虎の後見により熊本藩は跡目相続を成した。
 慶長十九年(1614)、家康はわざと諱を分断する「国家安泰」の文字を入れた鐘銘を文英清韓起草させ、豊臣家の不備として転封を要求する。これを豊臣秀頼が拒んだことから、徳川方は即座に出兵し、先陣の高虎は大坂城に迫った。

5月2日付夕刊392回第九章 大坂の陣(四十一)で最終回となる。
元和二年(1616)4月17日、家康は多くの者に看取られて安らかに息を引き取った。行年七十五歳。当時としてはみれにみる長寿であった。
高虎はそれから十四年の寿命を保ち、和子の入内や肥後加藤家の内紛の収拾、日光東照宮の造営、幕藩体制の確立など、幕府の中枢となって力を尽くした。
遠行は寛永七年(1630)10月5日。家康と交わした約束通り七十五歳での大往生であった。

                                                 (完)

                                       事務局世話人 水野青鷺




●刊行されました――
『下天を謀る』(上)・(下) 安部龍太郎/著 新潮社
 1,680円(定価) 発売日 : 2009/11/27

 ソニーとCIAを併せたような智謀――。戦国最強のNo.2、藤堂高虎見参!
乱れ荒んだ天下を情報戦略によって再編成したインテリジェンス。関ヶ原の戦いを短期間でアレンジした外交術。築城革命と都市計画を推進した技術力。
晩年の秀吉を敬遠して家康に与した情勢判断力――しかし高虎はトップを避けて参謀役に廻り続けた。サバイバルの果てに江戸幕府の基礎を設計した、巨漢大名の壮大な生涯。

判型 : 四六判変型
頁数 : 326ページ
ISBN : 978-4-10-378807-2
C-CODE : 0093
ジャンル : 小説
歴史・時代小説
【推薦図書4 】 『下天を謀る』_e0144936_1602689.jpg【推薦図書4 】 『下天を謀る』_e0144936_1622079.jpg

# by mizuno_clan | 2008-04-27 09:08 | 推薦図書

1,000アクセス

 3月13日、本ブログのカウンターを設置してから約40日間で、みな様からのアクセスが1,000回を超えました。どうもありがとうございました。
 これからも引き続き、どうかよろしくお願い致します。

                                         研究会事務局

# by mizuno_clan | 2008-04-22 02:16 | News

会員情報4

 この度、濃尾歴史研究所 横山住雄先生が、本会に入会いただきましたので会員各位にご報告いたします。
先生は著書『織田信長の系譜』等に「水野氏」を取り上げておられ、また鋳物師の「水野氏」の研究も行っておられます。今般会員登録いただきました事は誠に喜ばしい限りです。

先生の主な著書をご紹介します。

織田信長の系譜~信秀の生涯を追って~  教育出版文化協会 1993/06出版
間々観音小史 間々観音 1982/10出版
美濃の土岐・斎藤氏利永・妙椿と一族  教育出版文化協会 1992/01出版
犬山の歴史散歩(第3版) [横山住雄] 1989/05出版
国宝犬山城図録 教育出版文化協会 1987/04出版
尾張と美濃のキリシタン 中日出版社(愛知県郷土資料刊行会) 1979/05出版

また、先生の著書が下記の通り参考文献となりました。
NHK「その時歴史が動いた」2004年 9月8日(水)放送
「第191回 信長と道三~改革者を生んだ非情の絆~」
参考文献
○「斎藤道三」 横山住雄 濃尾歴史研究所
○「織田信長の系譜」 横山住雄 濃尾歴史研究所

                                  研究会事務局

# by mizuno_clan | 2008-04-14 20:01 | Information

リポジトリ

●リポジトリ

 2008年04月11日(金)朝日新聞朝刊<科学>に次のような記事が掲載されており、また同記事が「アスパラクラブ http://aspara.asahi.com/asalon/login/asalon.html 」でも見れます。この記事は、本会が行っている研究発表方法と共通する要素が多々ありますので、その記事の一部をご紹介します。全文については上記アドレスから御覧下さい。
                                             研究会事務局
                               
*リポジトリ 【repository】
容器、貯蔵庫、倉庫、集積所などの意味を持つ英単語。何らかのデータや情報、プログラムなどが体系だてて保管されている場所。アプリケーションやシステムの設定情報がまとめて記録されているファイルやフォルダのことや、複数の開発者が参加するプログラミング環境においてソースコードや仕様に関する情報をまとめて保管してくれるシステムなどを指すことが多い。

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無料で公開、学術論文/「リポジトリ(*)」導入機関が急増
  2008年04月11日(金)更新                      東京科学グループ・本多昭彦


大学などの研究機関で研究者の学術論文を独自に蓄積し、ホームページで無料で公開する「リポジトリ」システムを導入するところが急増している。学術論文雑誌の価格高騰で、すべてをそろえ切れなくなったことへの対抗策として欧米で生まれたシステムだが、大学の独自性を示す情報発信手段としても活用され始めている。

◇大学の独自性発信

日本の大学が購読する学術論文雑誌は90年ごろを境に激減した。北海道大図書館情報システム課の杉田茂樹さんによると、大学全体の購読雑誌数は90年代にほぼ半減した。

購読料の高騰が大きな理由だ。世界的に出版社の合併・買収が相次ぎ、学術雑誌界でも寡占化が進んだことが背景にある。特に予算の少ない大学は深刻な影響を受けた。
[中略]
欧米では90年代後半に論文を電子化して、無料で利用できるようにする取り組みが始まった。大学や研究機関が導入を始めた「リポジトリ」システムも、そのひとつ。論文などの研究成果を電子化してサーバーに保管し、ホームページで一般に無料で公開する。
[中略]

《筆者の本多昭彦から》
[中略]
研究者の論文については、そのリストがホームページに載っていても、中身までみることできるケースはあまりありませんでした。それがリポジトリの広がりで、簡単にみられるようになってきています。
[中略]
一般の市民にとっては、これまで簡単にはみられなかった学術情報を知るきっかけが広がったわけです。大学によっては自然科学だけでなく、人文・社会科学関係の学位論文などもリポジトリに載っています。何かのテーマをパソコンで検索しているときなどに思わぬ発見ができる期待も、増えつつあるようです。
[後略]
研究者側も、自分の研究成果をより広く知ってもらうにはどうしたらよいのか、それにはどんな対応が必要なのか、もっと気にかけるきっかけにしてもらいたいと思います。

# by mizuno_clan | 2008-04-12 10:29 | File