水野氏は、尾張東南部と三河西南部に一族を展開し、織田、今川、松平とそれぞれに関係を構築し、情勢に応じて追従しまた距離をとる柔軟な外交をおこなっていたのではないだろうか。そしてこれは強大な勢力に挟まれた弱小勢力が、生き抜いていくために普遍的に有効な処世であろう。分立する一族がそれぞれに有力な勢力と結びつき、水面下でそれを共有することで、水野一族としての存立を図っていく、そんな強かな外交政策があったように思われる。
織田・水野同盟というものも、そんな水野氏の処世の一つの現れであり、その同盟も他の勢力とのパワーバランスの最中で揺れ動いていたものと理解すべきであろう。そしてそのような水野氏の多様性を体現したような人物が、一人存在していた。それは謎の人物とされている水野十郎左衛門尉である。
この人物は水野一族の誰に当たるのかがわかっておらず、しかも実に幅広く外部勢力と交信をしており、この点で立場がよくわからず「謎」だと言われている。『東浦町誌・資料編3』に、五点の十郎左衛門に関する史料が掲載されている。この五点の史料の後に解説があるので、それを引用することにしよう。
―後世の家譜類には登場せず、謎の人物(『刈谷市史』)とされている水野十郎左衛門の関連文書である。内容からして信元と同時期である天文十三年(一五四四)頃から元亀三年(一五七二)頃まで知多半島にいた水野氏の一族であることは間違いない。美濃の斉藤道三・今川義元・織田信秀と多方面に交信しており、しかもどれも厚礼である。他国の大名とこうした交信を交わす人物としては、まず考えられるのは信元であろうが、他に子の元茂と弟の藤次郎忠分も考えられなくもない。ただ、別の人物とすれば、信元との政治的位置関係が問題となり、信元を中心としたこの時期の水野氏像は大幅に修正される必要が出てくる。しかし、仮に誰であっても、従来織田信秀・信長との同盟関係のみが指摘されてきた水野信元ら水野一党の動きが単純なものでないこと、そして政治的動きが自立的で他国の大名と多様な政治的関係を結びうるものであったことは確認できる―
水野十郎左衛門の「謎」とは、この人物が系図上の誰に当るかがわかっていないというだけのことではない。この人物が織田家だけではなく、それと敵対している様な斉藤道三や今川義元とも結びついていたことで、水野氏の立場が織田との同盟関係だけでは捉えきれない幅広さを持っていたことを示唆するからである。だが、この人物が水野一族の中で占める位置がはっきりしないと、そうした動きが水野氏全体のものであるか、一個人あるいは一部の者達の動向に過ぎないのかが判断できない。ただし、『東浦町誌』が指摘しているように、「どれも厚礼」であることから、水野氏の中心人物であることが想定されるのである。
前に見たように、刈谷城の「入城」や「赦免」をめぐっての考察から、水野氏は分立した一族ごとに情勢に応じた外交を展開していたことを示した。しかし、この水野十郎左衛門は、一人で織田信秀、斉藤道三、今川義元と親しく交信しているのである。織田と同盟関係にあるとされながら、敵対しているはずの斉藤や今川とも関係を築いているこの人物は、いったいどういう立場の者だろうか。そしてこの人物は、水野一族の中でどのような影響力を持っていたのだろうか。
この十郎左衛門の謎を解くことで、きっと水野氏の実像に迫る鍵を手に入れることができるに違いない。そんな思いで、しばらくこの人物について足跡を追おうとしたが、何の手がかりも得られずにいた。そしてこの人物が誰であるのかが、遂に明らかになったのである。横山住雄氏の『織田信長の系譜』に、その答えが記載されている。
―天文年間に、織田信秀と岡崎松平氏に挟まれて、家名存続に腐心をした人物に水野十郎左衛門が居るけれども、これまでの尾張・三河の史書にはほとんど書かれていないために、その本貫地や系譜などが何も判明しなかった。私も長い間史料採訪を重ねてその手がかりを得ようとしたが、収穫はなかった。ところが近年になって、戸田順蔵氏著「東浦雑記」を見たところ、この人物が幻の人ではなくて、知多郡東浦町緒川の地に実在したことを示す史料が掲載されていて、これを契機にして十郎左衛門の実像に迫ることが出来るようになった。(中略)先掲の棟札によって、天文十三年頃の小河城主は水野十郎左衛門信近であることがほぼ確定出来、同時に翌天文十四年の刈谷城主は水野藤九郎守忠であることも推定できるから、とにかく水野忠政とか信元という人物が刈谷・小河両城主を兼ねたなどということはひとまず否定して考えた方が良いのである―
水野十郎左衛門は、水野信近であることが確認された。横山氏は、この信近を水野信元と同一人物と解釈しているが、信近は信元の弟にあたり、刈谷城主であったとする『刈谷市史』の見解に従うべきだろう。この点について、横山氏に直接質問させていただいたが、横山氏は返信で私の指摘に対して「しかり」と回答されているので、水野十郎左衛門信近は小川(小河)城主ではなく、刈谷城主で問題はないだろう。
今川義元の承認の元で、守忠の養子となって刈谷城主となった水野信近が、十郎左衛門であった。信近が水野氏惣領である信元の弟でありながら、織田との同盟に縛られず応変に敵対勢力とも関係を結んでいたことから、義元も刈谷城主となることを認めたのかもしれない。そしておそらくは、信元もこの信近の行動を承認しており、道三や義元が「厚礼」をもってしたのは、信元の代理と認識していたからではないだろうか。
『東浦町誌』も解説で述べているように、「水野信元ら水野一党の動きが単純なものでないこと、そして政治的動きが自立的で他国の大名と多様な政治的関係を結びうるものであった」ことの背景には、「一族一揆」があった。このことは、水野という同名で一族でありながら、小川、刈谷、常滑、大高、戸部は、それぞれ自立しており、独自の路線を選択しうるものであったと理解される。そしてそれが「一揆」であることから、同時に協調・調和・和合の契機を常に持っているということでもある。こうした「一族一揆」の中心として分立した庶家をまとめるために、信元自身の外交も多様性を内包していたことだろう。だが最も強く結びついている織田家の関係を慮って、信元自身は前面に出ず、弟の信近を代理に立てていたと考えるのが妥当なところではないだろうか。
さて、この水野氏と桶狭間の合戦の関わりにおいても、水野十郎左衛門は重大な鍵を握っている。水野十郎左衛門の多角的な外交の中には、単なる交信を超えた今川義元との驚くべき関係が存在する。十郎左衛門と義元の関係を示す史料は、現在二点が残されている。一点は、西三河の鵜殿長持が安心軒という人物に宛てた手紙である。この手紙について、『織田信長の系譜』では次のように解説している。
―この鵜殿長持の手紙によれば、信秀は飯豊すなはち引馬城主の飯尾豊前守に密書を出した。その密書は安心軒が使者になって引馬城へ向かう手はづになっていたか、あるいは安心軒が信秀の密使を捕らえて密書を奪ったと考えられる。安心軒はいづれにしてもこの密書を飯尾豊前守乗連に届けるべきか否かを主人の水野信近に図り、結論としてこれを西郡(蒲郡)の鵜殿長持のもとへ送ったのである―
この手紙では、水野信近が今川方のために働いている様子がはっきりと示されている。鵜殿長持は、東三河(愛知県宝飯郡)上郷城主であり、義元の妹婿であったとされている。今川にとって、東三河支配の要となる人物である。また飯尾豊前守乗連は、遠江引馬城主で今川の有力武将であった。
織田信秀が今川方の飯尾乗連に密書を送ったとすれば、内応の誘いか何かであろうが、信近はこれを鵜殿長持に託した。つまり信秀の計略を妨害したのであり、今川方の長持とは以前から連携を取っていたとも考えられる。
この手紙は天文十七年(一五四八)と推定されており、織田と今川の小豆坂合戦の年に当たる。十郎左衛門信近は、織田信秀から懇意の手紙を受け取っているので、実に立場が複雑な人物である。この時期信近は未だ刈谷城主とはなっておらず、安祥城も織田方が押さえている。西三河では織田勢が優勢である中で、信秀の外交を妨げ今川に恩を売っているのである。先に見た翌年の刈谷城の一件は、このことを見ても、軍事的な攻略により今川方になったとするのは無理がある。
水野十郎左衛門は、織田信秀と同盟を結ぶ小川の信元の元で、西三河で激突している今川義元と密かに関係を結んでいた。そして、信秀の「懇望」と義元の「赦免」によって刈谷城主となる。この信秀の「懇望」が、水野氏との同盟が保たれていたことの証でもあり、義元の「赦免」が、十郎左衛門信近の隠された今川との結びつきを表している。そして次の義元から十郎左衛門への書状が、桶狭間合戦と水野氏にとって、直接な繋がりをもつものである。
―夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀申付、人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言―
この書状は年の記載がなく、四月十二日とだけ記されている。多くはこれを永禄三年、尾張出陣の一ヶ月ほど前に、十郎左衛門に出陣予定を伝達し、その際の協力を依頼したものとしている。私はこの書状があるがために、水野十郎左衛門が誰なのかを問うてきたのである。この書状は、桶狭間の合戦時、水野氏は信長の味方ではなく、今川方となっていたことを示している。通説とは全く違っており、これが事実なら桶狭間の合戦に極めて重大な影響をもたらしたはずである。ただ水野十郎左衛門が誰なのかが謎だったために、この書状の持つ意味を位置付けようがなかったのである。しかし今や、水野十郎左衛門が水野信近であることがわかっている。そして十郎左衛門が信近であったことで、桶狭間の合戦における水野氏の実像が浮かび上がってくるのである。
冒頭で触れたように、水野氏が桶狭間の合戦をどう戦ったのかは不明である。この時点で知多郡をほぼ手中にし、三河の刈谷周辺や熱田に近い戸部付近にまで勢力を拡大していた国人領主が、自領と同盟者の危機にどう対処したかが全くわからないというのは、かえってそこに重要な秘められた何かがあったのではないかと疑いたくなる。『信長公記』は、村木砦の戦いで字数を費やして水野氏を扱いながら、桶狭間合戦ではこの有力な同盟者について一切触れていない。これは一体、どうしたことだろうか。
桶狭間合戦での動向は明らかではないが、合戦直後の水野氏の消息を伝える史料は残されている。今川氏真が岡部元信に出した感状である。その中に次のような箇所がある。
―剰苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、多数討捕、城内悉放火、粉骨所不準于他也―
岡部元信は鳴海城を守備していたために撤退の機会を得られなかったが、信長と休戦して退去することになった。その帰途、突如として刈谷城を襲撃し、水野藤九郎信近を討ち取ってしまったというのである。そしてこれを氏真が褒めているのであるが、これはよく考えると奇怪なことである。岡部元信は対面上強がっていたかも知れないが、目の前で今川の大軍が総崩れになる様をまざまざと見せつけられた。そして敵中尾張に取り残されて、内心は死を覚悟していたに違いない。しかし信長との休戦交渉がうまく運び、無事に鳴海城を退去することができたのである。九死に一生を得た思いで尾張を後にしたことだろう。その岡部元信が、信長の同盟者である水野信近を攻めたのである。これは如何なる心境の変化なのであろうか。
今川にとって水野は敵であるから、帰りがけの駄賃とばかりに苅谷を攻撃した、というのはこの状況にはあてはまらない。岡部とその配下の今川残党は、信長と休戦したのである。信長と休戦したということは、その同盟軍である水野とも休戦したということに他ならない。そして休戦に当たって、諸々の誓約を双方がしたはずである。誓約内容については、立場が不利な岡部側が自身の安全を確保するために、あれこれ腐心したであろうことは十分想像がつく。つまり岡部とその配下にとっては、安全な今川領内に達するまでは、休戦協定だけが身を守る手段であったはずで、その休戦協定を、未だ安全圏とはいえない刈谷で、自ら破って水野に攻撃を仕掛けたというのは、尋常なことではない。これは、ただの武勇でかたづけてよい問題ではない。いったいこれは、何を意味しているのだろうか。
刈谷で討たれたのは、あの水野十郎左衛門信近である。そして信近は、義元が一ヶ月前に自身の出陣を知らせ、協力を依頼した相手である。この二つを合わせれば、信近は今川を裏切ったという結論に達する。つまり今川に味方であると思わせておいて、最も重大な局面で敵となって攻撃を加えたのである。岡部元信の行動は、この裏切りに対する報復であり、その点で彼らは休戦協定違反だとは考えなかったのである。そうでなければ、今川の総大将がわざわざ協力を依頼した味方を、合戦が終った直後に攻撃した岡部元信の行動を、どのように説明するのであろうか。岡部の戦いぶりを見ても、信近を討ってさっさと引上げている。刈谷城をどうこうしようというのではなく、信近を討てればそれでよかったということであろう。
水野信近は今川方のように装い、背後から義元を襲い、それが今川の敗北につながっていったとするならば、義元の書状と岡部元信の行動の矛盾が、うまく説明付けられるのである。それでは、この信近の裏切りに水野信元はどのように関与していたのであろうか。それは次の点を考えるとはっきりする。
織田と水野が同盟関係にあれば、今川から見て水野も敵となる。そして敵との対決はこの場合、順次東側から発生する。織田領の最東端の桶狭間で戦いがあったのもそのためである。しかし桶狭間のもっと東に水野氏の刈谷城はあり、義元の進撃ルートからすれば小川城も最初の標的になってしかるべきである。それなのに史実では、今川の大軍はここを素通りしている。それまでの行軍となんら変らず、ただ通り過ぎたのである。これはもはや明らかで、敵の面前を通過したのではなく、味方かもしくは敵ではない勢力の脇をすり抜けたのである。このように水野信元も、信近に同調して織田との同盟関係を破棄したように装っていたのである。
『張州雑志』には、大高城の南方に、正光寺砦と氷上砦があったことが記録されている。この砦の配置をみると、鷲津砦と丸根砦を合わせて大高城を包囲するかたちになっている。鷲津・丸根の砦だけだと、大高城の南方はがら空きといった状態になる。大高城包囲ということであれば、この正光寺砦と氷上砦があったとするほうが自然なのであるが、『信長公記』にはその記載が存在しない。このことは、砦はあったがある時点から放棄されて機能していなかった、そう考えると辻褄が合うのではなかろうか。そしてこの砦には水野氏の将兵が入っており、偽装としての信長との同盟破棄によって、破却されたものと考えることができる。そもそも太田牛一は、水野氏の偽装と裏切りを書き記すつもりがなかったのあろう。その結果、桶狭間の合戦からすっぽりと水野氏の姿が、二つの砦とともに消えてしまったように思われる。
天文十八年(一五四九)に安祥城を落として、西三河から織田信秀の勢力を駆逐して以来、今川義元は十年に渡って三河の領国化に勤めてきた。今川領国の東の一大勢力北条氏と、北の強豪武田氏との間に同盟関係を締結している義元は、必然的に西へと領国を拡張させる戦略に立脚している。三河を電光石火の如く自領に組み込み、三河西南の刈谷城を守忠に供与させた。この後は、三河経営に力を注ぎつつ、さらなる西進をめざすことになる。そうなれば、刈谷に隣接する水野氏が次の標的になることは免れない。
これに対して、水野十郎左衛門信近とその兄信元が、密かに今川寄りの立場をとるなどして、その攻勢をかわそうと腐心していたのである。そうして結局のところ水野氏は、今川に屈服したように偽装したのではないか。義元のような人物は、尾張の信長と決戦するに際して、その手前にいる水野氏を信長の同盟者のまま放っておく事はないだろう。むしろ義元の考えでは、水野氏の自軍引き入れに成功することが、尾張侵攻の前提条件であったことだろう。水野十郎左衛門信近などの行動から、軍事的手段を取るよりも、政略で十分に傘下に収められると見ていたのではあるまいか。織田家と長年同盟関係を結んできた水野氏であったが、義元の攻勢に抗することにも限界がきて、ついに義元に屈服した。義元は目論見どおりと満足しただろうが、これが偽装に他ならなかったのある。
桶狭間の合戦当時、織田信長と水野信元は同盟関係にあった。これが通説であるが、桶狭間合戦において水野家の姿は見出せない。信元だけでなく、刈谷や常滑の水野一族もどうしていたのか消息不明である。この合戦の主役は今川義元と織田信長と相場は決まっているが、信長領より今川に近接している同盟者が蚊帳の外というのも奇妙な事である。
桶狭間合戦の真実は、ひょとするとこうした奇妙さを解き明かすことで立ち現れてくるのではなかろうか。水野氏が今川方であると偽装してこの合戦に臨んだとしたのであれば、あの劇的な結末にどのような影響を与えていただろうか。寡兵の信長軍の攻撃による大軍今川の敗北は、最初迂回奇襲によって説明され、ついで正面攻撃説により説明されているが、未だ釈然とした全体像を得るに至っていない。その中で水野氏が果たした役割を解き明かすことで、永禄三年に起こった大逆転劇の真相を解き明かすことができるのかもしれない。
ひとまず私は、桶狭間合戦において水野氏は今川方と偽って時を向かえ、合戦当日に義元の背後から襲いかかったと考えたい。この水野氏の行動が、桶狭間合戦にどのような影響を与えたのか。また、強大な今川に対して、なぜ偽装までして立ち向かおうとしたのであろうか。さらに、圧倒的な大軍を背後から奇襲するにしても、それで本当に勝てる自信があったのか。そして、本来奇襲の主役である信長との連携はどうなっていたのかなど、次々と疑問は生まれてくる。これらの疑問に答えるためには、もっと広範な検討が必要となるだろうが、本稿はここまでとし、その機会は別に譲ることとする。
《了》
著者foxbladeさんからのコメント――
この「水野氏と桶狭間合戦」は、先に「『桶狭間合戦始末記』と私見」としまして、[水野青鷺に]読んでいただいた文章から水野氏に関する記述を取り出し、訂正を加えて独立した一文としたものです。
私として初の試みですので、拙いものではありますが、一研究結果として投稿いたします。